2010年01月31日

【104】駕籠と乗物(鈴木和雄)

 2008年にNHKが放映した大河ドラマ「篤姫」の中で姫様が乗ったというお駕篭(貴人が乗る駕篭は乗物と言ったという)がアメリカのスミソニアン博物館から貸し出されて江戸東京博物館で展示された。篤姫さんが乗った乗物は展示場の説明では「黒塗二葉葵唐草葵牡丹紋散蒔絵女乗物」と名付けられ、大きなガラスケースの中に鎮座ましましていた。

 この展示会には他にも多くの乗物や駕篭が出品されており、昔、殿様や奥方、姫君が乗った乗物、駕篭を一覧することが出来た。女乗物では他に「梨子地葵紋散松菱梅花唐草文様蒔絵女乗物」とか「黒塗梅唐草丸に三階菱紋散蒔絵女乗物」「松竹梅椿剣酸漿(かたばみ)紋蒔絵女乗物」、等々、これ等の名前を聞いただけで乗物の外側の飾りの模様が想像されよう。

 乗物の内装も源氏物語の絵巻物の絵が画いてあるように、いろいろな美麗な絵が画いてあり、昔の貴婦人はあの狭苦しい乗物の中でも飽きなかったことであろうことが想像できるものであった。これ等の乗物本体の自重が56kgから58kgで夫々の乗る人の体重や着る物、持ち物によるであろうが、全体では80kg近くになったと言う。これを何人の陸尺(六尺とも書く、ろくしゃく)(担ぎ手)で担いだのだろうか。

 落語には女の貴人の噺はないが、男では殿様が出てくる噺では「紀州」の中で尾州の殿様が駕篭といっているが、乗物の中で、鍛冶屋の朝の仕事で刀を打つ音を聞いて幸先、吉と微笑んでいる。「竹の水仙」でも通りかかった細川公が甚五郎が作った「竹の水仙」を目ざとく見付け、買い取る事を部下に命じている。

 「火焔太鼓」でも古道具屋の小僧が掃除のために叩いた太鼓の音を乗物の中の殿様が聞きつけて、その太鼓を見たいから城中に持って来るように命じている。この他、落語に出てくる駕篭は上方噺の「住吉駕篭」「たばこの火」、江戸の噺で「蔵前駕篭」「蜘蛛駕篭」「紋三郎稲荷」「二人旅」があるが、これ等は貴人の乗った乗物と違い、簡素なもので、当時、使われていたものを揚げて見ると次のような物がある。

 展示場にあったり、図示で説明されていた乗物や駕篭は乗物、女乗物のほか、留守居駕篭、江戸医師駕篭、御忍駕篭、隠居駕篭、権門駕篭、献物駕篭、唐丸駕篭、その他、法仙寺(宝泉寺)駕篭、四つ手駕篭、(関西では四つ路駕篭と言った)、網代駕篭である。

 留守居駕篭は各藩の留守居役の武士が乗るもので、格式のある立派なもの、江戸医師駕篭も噺の「代脈」に出てくる医師が乗るのに相応しいもの、御忍駕篭は余り立派ではないが、大名が御忍びで出かける時のもの、隠居駕篭は隠居した人が乗るのに相応しい駕篭である。権門駕篭は家臣が主用を行なうときに乗るもの、献物駕篭は人が乗るものでなく、献物をする場合に、そのものを載せていくものであり、噺の「二人旅」では長薯を将軍に献上するために運送する駕篭に土下座をさせられている。唐丸駕篭は犯罪人を送るための駕篭であり、軍鶏(シャモ)を入れる籠に似た駕篭で、搬送する時は更に駕篭の上に縄を掛けて運んだと言う。

 法仙寺駕篭は四面を囲んである駕篭で、引き戸又は簾で戸口を閉めることが出来る。住吉駕篭や蜘蛛駕篭では定員1名の駕篭に駕篭掻きの知らぬ間に2人の客が乗っていて、中で騒ぎ始め、駕篭の底を抜いてしまい、客2人も駕篭の中で歩いていく噺だ。

 網代駕篭は竹を網代に編んだ物を駕篭の腰の部分に使い、黒く塗ってあるものが武士の上級者が乗り、朱く塗ってあるものは官僧が乗ったという。「蔵前駕篭」でこれから吉原に遊びに行こうという金を持っている客が乗ったのは法仙寺駕篭か町駕篭の四つ手駕篭か。

 四つ手駕篭は駕篭の四方の柱に竹を使い、床は割り竹を編んだもので、町駕篭又は辻駕篭に使われ、江戸庶民の乗り物として利用された。金馬さんの「紺屋高尾」、志ん朝さんの「幾夜餅」に出てくる吉原で年期を終えた花魁が、高尾太夫は紺屋の久蔵のもとへ、幾夜太夫は搗き米屋の清蔵のもとへ吉原から乗っていったのが、四つ手駕篭であることは両師匠が噺の中で説明している。京阪では四つ路駕篭といわれたそうな。

 山を行く旅人が乗ったのが、山駕篭であり、噺のマクラに一人旅の女が乗せられ、目的の所とは違った所に連れ込まれ恐ろしい思いをしたと言う話を聞いている。この駕篭は今でも四国の金比羅さんに行くと六百数段の階段を客を乗せて運んでくれている。

 町駕篭、辻駕篭が今の流しのタクシーだとすれば、宿駕篭は駕篭問屋で待機していて、客の要望に応じて目的地まで送っていく駕篭である。

 駕篭は江戸時代の初めは一般の人は乗る事を禁じられていた。徳川幕府は家康が武家諸法度の中で、駕篭に乗れる身分は、公家、門跡、徳川一門のもの、国持大名、60歳以上のもの、奥向き女中、陰陽師,医師、病人と決められていた。

 更にいろいろな制限が加えられ、武士でも軽輩の者や町人は利用することができなかった。しかし、寛政の頃(1624)から、駕篭の数量が増加し始め、殊に四つ手駕篭のような簡易なものが出始めると、町駕篭、辻駕篭が出て来て、法度の取り締まりも段々薄れて、ったと言う。

 この頃になると、噺のマクラで話されているような「いびき駕篭」や「紋三郎稲荷」のような武士や町人が気楽に駕篭を利用する噺が出来たのであろう。「いびき駕篭」は駕篭賃と酒代を要求する駆け引きの噺、「紋三郎稲荷」はお稲荷さんを「だし」にした噺で駕篭かきの勘違いをうまく利用している。

 駕篭賃は武士の場合は公用に限り、お定め賃銭があったので、駕篭の担ぎ手も余計な要求は出来ないが、それ以外の客とは相対で駕篭賃が決められるので駕篭かきの要求が充分に聞いてもらえないと、途中で酒代という心付けを要求されることがあったという。

 「蔵前駕篭」の噺では日本橋の駕篭問屋で宿駕篭に乗り、吉原まで行こうという客が駕篭賃として支払ったのは幕末で日本橋から吉原大門までで、800文だったという。天保年間では2朱と言う記録があるそうで、これも750文ぐらいだから大した違いはない。この噺の場合は駕篭賃のほかに、たっぷり酒代も払っているというから、結構な出費になったのだろう。

 天保年間に舟で吉原に行くとなると柳橋から山谷堀まで、屋根舟で船頭2人で400文、船頭1人だったら300文、猪牙舟で行けば148文というから舟の方が割安だったのだろう。別の記録で尾張町から白山まで行くには銭110文が駕篭賃だったという。この場合、距離がわからないが、いずれにしても、吉原行きは大分、足元を見られていたのだろう。

 昔、早駕篭を出して貰うと1里90文という記録があるそうで、江戸―京都間を4日と10時間で走ったというから、担ぐ方も乗っている客も大変な旅だったようだ。駕篭は普通は一里を一時間かけて運ぶが、少し早くて40分で行ったそうだ。

 所で昔は駕篭に乗る人はトイレの方はどうしたのだろう。一般の男の人だったら、駕篭に乗る前に一寸そこらで、用をたし、駕篭に乗っている時も担ぎ人に頼んで用をたすことが出来たろうが、女の人の場合はそうは行かない。なるべく今日は駕篭を使う必要があったら水分は摂らないように注意し、途中で必要になったら、いずれかの茶屋か店屋で借りるなどの手立てをしたようだ。

 しかし、お偉方となるとそう簡単にはいかなかったようだ。小川恭一著の「江戸城のトイレ、将軍のおまる」によると、将軍は乗物に乗る時は、前もって用をたしておき、目的地に着くまでは間にあう様にすることが普段からの嗜みになっていたという。

第九代将軍の家重は体が弱かったので、しょっちゅう小用所に行くことが多く、「小便公方」と呼ばれたと言うが、この人が江戸城を出て、芝の増上寺に行く時は、桜田門外、虎の門外、増上寺裏門際に将軍用仮設トイレを設けて置かねばならず、また上野寛永寺に行く時も神田橋内、筋違門外、上野黒門内に仮設トイレが必要であったという。この公方さんは城内における儀式中にも用を足す為、席をたったと言う。

 しかし、将軍以外の侍の幹部や大名はその日の儀式、会議のため前日から水分を摂らず、体を節制して城に登らなければならなかったというから、幹部も大名も大変だったのだろう。

 勿論、休憩はあるから、その時まで保てばいいのだが、なるべくなら行かないに越したことはない。何せ儀式などで城中に上がる時は大名や幹部連中は裃を着たり、直垂、大紋、素襖、長袴、狩衣、布衣、指貫等夫々の礼服を着ており、将軍なども衣冠束帯で儀式に臨むときは自分一人で着たり脱いだりすることは出来ない。

 こんな時にトイレに行くとしたら大変だ。しかも短時間に処置しなければならない。そこで将軍の場合は「公人朝夕人」(くにんちょうじゃくにん)と言う役目の土田家の人が(世襲)小用所に銅製の尿筒(しとづつ)を持ってきて、袴の割れ目の間から差し入れて、用を足してもらったそうである。

 しかし、この公人朝夕人が出てくるのは京都の御所に将軍が参上した時だけの御用で、江戸城内やその他のところでは御小姓や御小納戸人が竹の尿筒で用を済ませたと言う。大名や幕府の幹部の連中も夫々の使用人に筒を持参させ、トイレで儀式の服装のまま、袴の脇から差し入れてもらい、用を足したそうだ。この待機する使用人を呼びに行ったのが茶坊主だったそうである。

 将軍が乗物に乗って江戸城を出ることは滅多になく、普通の公方さんは仮設トイレを一ヶ所ぐらい設ければ済んだが、それでも、間に合わないときはいく道の沿線のいずれかの大名の屋敷により小休止をして用を足したり、大きな店が在る時も利用させてもらったりしたという。

 いずれにしても、乗物や駕篭の中で尿筒を使うことはなかったという。奥方や姫様が乗ってもちゃんといずれかの宿やしかるべき施設のあるまで乗物を進めたそうである。

噺のマクラでも話されているが、駕篭は効率の悪い道具だった。 たった一人を運ぶために最低二人の人が必要である。ましてや乗物のように豪華で,重いものとなったら宰領を入れて十人近くの担ぎ手が居ないと運ぶことが出来ない。また、乗物でなくても早駕篭になれば駕篭を引っ張る人、担ぎ手4−6人の人達が一人のために働かねばならない。

 しかも、東海道のように宿駅が在る時は宿駅の度に担ぎ手が待機している担ぎ手と交替して行くと言う多数の人のエネルギーを使うことになる。現代はこれとは逆に車でも、電車でも、一人の人が多くの人を運んでいるが、この一人のために多数の人が多くのエネルギーを出して支えていることも忘れてはならないだろう。
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2010年01月06日

【103】噺家はどうして扇子を持つのか(鈴木和雄)

 寄席や落語会に行くと、出演する噺家は必ず扇子を持って高座に出てくる。これは夏でも冬でも同じである。 しかも夏は暑いから扇ぐために持ってくるのかと思うと、出演者の人たちは殆ど、自分で扇ぐことはない。稀にひょうきんを装ってバタバタとやる人も居るが、何時までも扇子を風として送っている噺家は居ない。

 ではどうして彼らは扇子を持って出てくるのであろう。それは皆さん、ご存知の通り、扇子や手拭は噺の小道具として使うためだからである。 手拭は夏は必需品である。 今の寄席や大きな会場での落語会は空調が効いていて、そんなに汗をかくことはないが、空調設備のない施設の時は急いで高座に上がって来た時は、どうしても汗をかいてしまい、自他共に見苦しい顔になってしまっては、客の期待を裏切る事になるから、汗ぐらいは一拭きしないといけないことになる。

 この点、先代の文楽師匠は手拭の代わりにハンカチを使ったと、言われるが、これにはまた別な話があり後述する。

 手拭は小道具としての利用範囲は少ない。胸元にしまっている手拭を出してきて、本を読むときの仕草にしたり、金を払うときの財布の形にしたり、煙草入れに模したりしている。今は余り踊りを高座で見せることは少なくなったが、その用な場合に、頭に巻く鉢巻にしたり、女形をやる時の手拭を姉さんかぶりにしたりと、いろいろある。

 しかし、扇子は小道具としての利用の範囲は格段に広い。一番知られているのが、「時蕎麦」に出てくる、箸として使う仕草である。 書を書くときの筆、絵を描く時の絵筆、扇子そのものを扇いて暑い盛りの表現用、煙管、「試し酒」の大盃、酒を注ぐお銚子、「たがや」に出てくる槍と陣笠、「百年目」のお面、釣竿、玄翁、金槌、大刀、小刀などがある。

 その他、「道灌」で娘が差し出す山吹の枝をのせたお盆、半鐘を叩く木槌、天秤棒、六尺棒、火箸、舟の竿と艪、杖、「蒟蒻問答」で和尚に成りすます親分が頭に被るもうす(帽子)等々いろいろなものを表現しているが、なかでも私が一番素敵な表現法だと思っているのが、「宮戸川」「六尺棒」「味噌蔵」で使われているもので、夜遅く、他所から帰ってきて自分の家の戸を叩く仕草である。

 噺家は自分の利き手で扇子を持ち、反対の手で戸を叩く仕草をして、口では「おとっあん」「おかさん」「番頭」「定吉」と戸を空けてくれる人の名を呼んでは居る。 そして、扇子を真っ直ぐにして戸を叩く仕草にあわせて床を叩くという立体的な構成で、話を進めているところが大変面白く感じている。

 どうして、噺家が扇子を持って高座に上がって来るのかについて、矢野誠一氏が「古典落語」駸駸堂刊の中で次のように解説している。「和服が誰もが着ている普段着であった時代には、手拭も扇子も日本人が必ず、懐に持っていたものであり、人前で芸をする落語家の僅かにその芸を助ける小道具が手拭と扇子であった。その為、この両者を持って高座に上がってきたのである」と述べておられる。

 なるほど、今でも結婚式の時など、和装でやる場合は、羽織、袴で必ず、扇子を持たされて記念写真に写っている。昔の人は人間のハレの日(お祭や祝い事のある日)には必ず扇子を持たされたそうである。 生まれてからのお七夜、七五三の祝いの日、元服、結婚、還暦、喜寿、米寿等の日には扇子を贈られたりしている。

 これは、昔の人の貴族志向、エリート志向が本人の意向に関係なく、親が生活の向上を願って、形だけでもと、扇子を持つ事を願ったのではないだろうか。
そもそも扇子は日本で考えられたものだと言われる。

 八世紀に日本の貴族とか僧侶、神職にある人達は仕事で必要な事項を記録するため、木簡に書き付けた。この木簡は長さ30cm,巾1.5mm―2mm,厚さ1.0―1.5mmの檜の薄い木簡で、これにノート代わりに文字を書いて報告や通知のメモとして記入していたと言われる。

 この為、数枚の木簡を持ち歩き、一端に穴をあけ、紐で留め、順次書いたり、見たりすることが出来るようになっていた。彼らは夏などの暑い時期にはそれこそ木簡を扇状に広げ、紐で縛ってある端を要として持ち、手首を中心にして上下することにより、風を送ることが出来た。丁度、私達が小学生の頃、暑くなるとノートの下敷きで扇いだように、木簡を使って暑さを凌いだのであろう。

 そして、少し経つと要と反対側の木簡の端を紐で結び、木簡の先が半円形に広がるようにすることにより、扇子としての原型が生まれたのであろう。更に時が経ると木簡に替り、薄い檜の板を結び合わせる事により、板面の上に絵を描いたり、装飾を施したりすることにより、きれいな扇面が表れ、「檜扇(ひおうぎ)」と言う型が出てきた。

 この頃には檜扇が賜り物となったり、贈り物となって扇子の価値が上がってきた。

 九世紀にになると、この扇子の骨に当たる部分が薄く細い竹や木で作られるようになり、更に内側を紙で張ることにより、より好い扇面の絵が画かれるようになった。これを紙を張った「かみはり」の扇子から「かわほり扇」と名付けられ、扇子としての風量も増したし、芸術的な絵が描かれるようになり、扇子としての価値が益々上がった。

 鎌倉時代に日本の扇子が中国に渡って行く様になったが、室町時代になると、今度は逆にこの扇子が日本に伝わってきて、唐扇と言われたが、これは日本から行った時は紙が一枚張ってあるだけだったが、唐扇は内側も外側も紙が張られていたものであって、内側は絵や装飾があったが、外側はメモ代わりに使える様になっていた。

 この頃になると、鎌倉時代まで貴族や僧侶、神職者しか使えなかった扇子が、庶民にも使用が許されるようになったという。平安時代から貴族の間では扇子は茶道や能、舞などに必要な装飾品として使われていたが、庶民にも使用が認められることにより、演劇、茶道にも巾広く用いられるようになり、益々、扇子の需要は高まった。

 茶道の世界では扇子を自分の前に置くことで、相手に敬意を表すこととか、能の世界では扇子を自分の前に置くことで自分の周りに結界を張り、本来、自分はそこに存在していない事を表すなどの使い方があったという。

 噺家もそうゆう意味では高座に上がる時は、扇子を持ち、座布団に坐った時は自分の前に扇子を置いて、客に挨拶をすることで敬意を表しているのである。 円歌師が「芸人今昔」の話の中で、昔は噺家連中は学歴や学問もなく、高座に上がって、学問のある客に対して高いところから、噺をするが、この為、扇子を自分の前に置いて演者と客の間に境を作り、失礼ながら個々の芸人が皆さん方、知識のあるお客に噺をすることを、お許しくださいと言っているのだと話していた。

 ところがこの扇子、小道具としてばかりに使うものでないようだ。昔に返って檜扇がノート代わりに使われたように扇子の扇面に噺の難しい名前や憶えにくい事柄を書き記して、カンニングをすることもあったという。あの先代の文楽師でも扇子にこそ書かなかったが、師は「富久」に出てくる芝の旦那の火事見舞いに行ったが、鎮火してから、近所から来る見舞いの人の名前を記録する時にその名前をハンカチに書いておき、扇子を筆にし、帳面に見立てたハンカチに記したあった名前を読みあげていたそうである。

 噺の中でも「初天神」「金の大黒」「羽織の遊び」等、一人前の大人が外出したり、祝いのために訪問したりする時には羽織、袴を着けなけらばならなかった。しかし、そんなに簡単に貧乏人が羽織等を持っていることも出来ず、結局は大家さんに借りたり、近所の友達が持っているものを借りたりして、外出している。

 「八五郎出世」の八五郎も大家から借りた羽織、袴を着け、白足袋、草履を履き、扇子を持って妹がいる赤井御門守の屋敷を尋ねているが、この服装で行ったから門番に認められ、入門できたが、八五郎が、いつもの恰好で行ったら簡単に門前払いを食わされたいたであろう。

 この様に、庶民と言えども、この頃には何とかして羽織、袴等を手に入れて、出かけたのである。ましてや、武士は通常は外出の時は大小を腰につけて、町中を闊歩したのであろうが、彼らにとっても大刀、小刀を持って入ることが出来なかった場所があった。 芝居小屋などはそうゆうところで、武士は鉄扇といって、扇子の骨を鉄で作り、それに紙を張ったものでこれを持ち歩いたが、これは扇ぐのは二の次、自分の身の防護用の武具でもあったようだ。

 後になると扇げない扇子を閉じたままの型の鉄扇が出来、まさしく武具となり、更に進むと、この閉じられた扇子の中味が空洞になり、個々に密書などを忍ばせておけば、矢鱈に探索されずに運ぶことが出来、一種の運搬手段にもなったようだ。 こうなると、四季に関係なく扇の形をしたものを、持ち歩くことになったようだ。

 町人はこんな物騒なものを持つことを真似た訳でなかろうが、何かの祝いや、儀式の時は羽織に扇子、手拭は当たり前になっていたのであろうか。扇子と手拭は噺家にとっては大事な小道具である。前述の矢野氏は「この小道具を巧みに使いこなす落語と言う芸の見事な表現力には舌を巻く思いであった。 普段、見慣れた道具に意味を持たせることが出来たのも、長い間の落語家の知恵と工夫に違いなく、こうゆう歴史の積み重ねが、芸に厚みを添えているのである」と述べられている。小道具を本物に擬しているものに見える時、客はその芸に感心し、思わず拍手が起こるのであろう。
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2009年12月01日

【102】宿引き(鈴木和雄)

 江戸の昔と違って、現代はマスコミや情報通信の機能が充実しているから、旅行に出る準備として前もって宿泊先の旅館やホテルについて、予め自分で新聞雑誌で調べたり、旅行代理店に行って調べたり、電話で直接問い合わせたり、インターネットで適当な宿泊先を調べて、申し込みをして出発前に先方の旅館等の所在地を確認し、留守宅にその事を伝えておき、何らかの事態があった場合に連絡できるようにしている。

 この様に出発前の時間的余裕がある場合のみならず、急な出張や遠い親戚や友人などの不幸や事故があった場合でもインターネットは勿論、携帯電話でも旅の途中の交通機関の中からも、適切な宿を探して、行き先でまごまごしないようになっている。

 この様な旅人の事前準備のせいか、この頃は温泉地や観光地のある駅での、旅館やホテルの案内人の数が以前に比して少なくなっているような気がする。昭和の中頃までは、例えば熱海の駅前では旅館等の名前を書いた、旗やペナントを持った案内人が群をなして集まっており、夫々の旅館等の名前を叫び、旅客を案内し、前もって予約してある客は、それによって案内され待っているマイクロバスに案内され、旅館等にたどりつく事が出来た。

 一方、この案内人は所謂、客引きでもあり、まだ宿泊先の決まらない旅人を掴まえ、値段を示しながら自分の宿に誘う役目もある。交渉が纏まれば、この人もマイクロに乗せ、宿に案内する事となる。しかし、これは昭和期の客引きの状況であり、それ以前の落語に出てくる江戸期の旅籠の客引きは宿引きとも言われ、旅人を自分の宿に引きとめようと大変な苦労と知恵を絞ったようである。

 噺に出てくる宿引きは左甚五郎が泊まった「鼠」の子供の客引き、「竹の水仙」の宿の亭主、「抜け雀」の養子の亭主、「宿屋の仇討ち」でしょっちゅう三人で旅をする連中を案内した客引きがある。「竹の水仙」の旅籠のかみさんに言わせると、亭主は人の見る目がない能無しの客引きだとこき下ろされていたが、甚五郎作の竹の水仙の細工物が高額で売れることが判り、改めて客人の偉大さを知ったと言う、夫婦そろってのうっつけ者だったようだ。

 客引きには一般の旅籠ばかりでなく、川や海を渡る時に船待ちをする船宿にも客引きが出てくる。船宿に着いてから船が出るまでの時間はそんなに長い時間でもないが、一休みさせ、食事を出し、酒の好きな客には其のほうのサービスをするとなると、船宿にとっては大切な収入源である。

 船宿は船頭や船に係わる人は泊めるが一般の人は泊めることが出来なかった。であるから船に乗る旅客からの収入は大切であった。そこへ行くと江戸の周辺にあった四宿と言われる品川、新宿、板橋、千住と言われる旅籠は東海道や中山道、甲州道、奥州道の出入り口にあり、旅の宿駅の第一歩であるが、この四宿を目指してくる人達は旅に関係なく、夫々は旅籠に抱えられる飯盛り女を目的として通ってくる連中が多かった。

 噺の「居残り左平次」はそんな状況を説明しているが、幕府は当時、一軒の旅籠には二人までの飯盛り女を置く事を認めていたが、女を置く方の旅籠は幕府の目をかいくぐって7人から10人近くまで置くと所が出て来て、各店で競い合うようになる。この為、客引きが強引に客を引き込むと言うような事態が発生していったという。

 この様に男の欲望を掻き立てるが如き旅籠の施策は、本街道の各宿場でも飯盛り女を置く事が盛んになり、夫々各地で激しい客引き合戦が起こった。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」に出てくるが、弥次さん喜多さんの二人が旅籠の留女の強引な客引きに遭い、襟を掴れたり、袖を掴んで離さず、遂には袖がもぎ取られて致し方なく、その宿に泊まることになったとある。

 別の街道では錦絵でやはり襟を掴まれるところや、袖を引っ張られるところ、果ては被りものの笠さえ取り揚げられている絵もある。昔は街道の宿駅と宿駅の間には旅籠はなく、旅人はその宿駅に入るとその外れまでの何処かの旅籠に泊まらないと、その晩は泊まり損なうということになる。であるから、宿駅の中心から外れるとどんな旅籠であろうと、誘いに応じて泊まってしまうことになる。
得てして、街の外れの旅籠は小さくて汚い。しかし、これ以外に無いとすれば文句を言わず泊まらざるを得ない。

 吉原の廓や四宿の女郎屋に勤める若い者と言われる伎夫も宿引きとはいえないが客引きである事は間違えなく、店の前で遊び人を捕まえて、その人の持ち金を勘案しつつ、男の欲望を刺激しながら、店に上がるように勧めている。「居残り左平次」や「付き馬」の噺にあるように時として失敗するが、長く店に居られると言うことはやはり客引きの腕がよかったのだろうか。

 飯盛り女を入れた旅籠では夕べに提灯に灯が入った頃から夜遅くまで酒に酔った男の怒鳴り声や女の嬌声で、普通の客は落ち着いて寝ていられない。そこで飯盛り女を入れた旅籠とは一線を画した定宿が設けられる様になった。

 勿論、昔から商用の為、東西を往来する裕福な旅人は静かなところに定宿を決め、割合高い宿賃を払い、衛生的にも蚤や虱の居ない寝具で寝られるようにしていた。定宿はこれ等の旅人は上得意で下にも置かぬ客扱いで接客をしていたという。

 一方、庶民ではあるが、毎年、講を組み定期的に訪れてきて宿泊してくれる伊勢参りの講や富士参り、大山詣りの講の連中は順番にメンバーが替っても何々講と言う特定の数の人びとは、やはり落ち着いて静かな宿で泊まりたいと言う願望があり、しっかりした定宿を決めておき、いちいち客引きなどせずとも、毎年、定期的に連絡を取り合い、事が決まれば飛脚をたてて、今年の宿泊人数を連絡して余裕のある旅をしていたのだという。

 しかし、定宿だとのんびり構えては居られない、旅の途中で変な横槍の客引きが入って来て客を取られるかも判らない。そこで宿引きの担当者としては宿場の一つ手前の宿場まで手代の宿引きを送り、そこで予約してある講の人達を出迎え、そこで荷物を預かり、飛脚を使って旅籠まで送り届ける作戦に出た。

 こうすれば、予約は確保されるし、今晩の泊まりの人数も確定すると言う具合でこれが嵩じてくると、二駅手前の宿駅で出迎えて、荷物を預かると言う厚いサービスをしていた。これは宿引きの競争が激しくなっており、自分の宿駅で待っていては、他の旅籠との競争に負ける恐れがあるというあせりが遠方での宿引きをするようになったようだ。

 金森敦子氏の「伊勢参りと江戸の旅」によるとこの目的の宿駅の手前で宿引きが予約を取ることは意外な効果をもたらすこともあったようである。中山道を歩いて軽井沢の旅籠に向かっていた坊さんが二つ手前の宿駅で宿引きに予約をしておいて、その宿駅のある町並みを見物していたら、冬の日の短いことで、一つ手前の宿駅になる頃は日も完全に落ち、雪も降り始め、提灯も持たなかったのだろうか、益々激しくなる雪の降る暗い道を歩いていたら、向うから提灯を持った男が来るではないか。

 これが先ほど宿の予約を頼んだ宿引きの男で坊さんはほっとして、地獄で仏に会ったようなありがたさを感じ、桑門の身にある者にもこの様な親切を宿引きの人がしてくれたとその日の日記に記していたと言うことである。

 一方、京都の旅籠の宿引きは伊勢参りの人びとを京都の宿に勧誘するため、伊勢近くの桑名まで出て来て客引きをしていたと言う。この宿引きは旅人の予約を取るや、伊勢の土産は預かり、江戸などの旅人の家に送るため飛脚を用意し、また京都の旅籠にも別の飛脚を使って彼らの荷物を送り、彼らが身軽な恰好で京都見物が出来るようにしていた。この場合、荷物の送料は旅人の負担となるが、荷物の保管料は必要なかったそうである。

 いずれにしても宿引きは勤める旅籠のために、また泊まってくれる旅人のために一生懸命働いていたのであろうが、もう一つ、旅籠ではないが、伊勢神宮の周りにある御師(先達)の手代も御師の指導により、毎年、講の人達が伊勢参りに来てくれ、御師の邸宅に泊まってくれるように歳の暮れになると、きれいな伊勢暦を持って江戸を中心に講を訪問し、来年も伊勢参りをするように客引きをしていたのである。

 昔の宿引きはいろいろな形で旅人を援助していたのである。形は旅籠の客引きであったり、廓の伎夫だったり、伊勢の御師の手代であったりするが、いずれも、親方大事、御身大切と夫々、旅人へのサービスを行なうためにその仕事に努めていたのだろう。


 平成21年12月
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2009年11月01日

【101】噺に出てくる昔の病(鈴木和雄)

 談志さんが「へっつい幽霊」の古典落語で使われている生活用品が出てくる時に、今の若い人はその道具が今は使われてないからいちいち説明しなければならず、面倒臭いし噺が進められないから、お客は勝手に想像をしてくれないかと、言っていたが、まことに古典落語に出てくる話では、生活用具に限らず、昔、人々が苦労したいろいろな病気の名前が、今の生活状態では不可解で、僅かに高齢者の人達が判るだけになっているのではないだろうか。

 ある噺家さんの話では昔は藪医者とか、筍医者とか言われる人達は人体を三から五くらいに分け、頭が痛い時は頭痛、腹が痛い時は腹痛、足が痛い時は足痛などといい、全ての病人に葛根湯を与えるだけという乱暴な治療があったと話していたが、あながち嘘でもないだろう。

 これ程ではないとしても、昔は四百四病といわれ、今のように病状や病名を細分化できないから、割合大雑把な分類で治療に当たっていたのであろう。噺に出てくる病名としては私達が聞いてきたのは「疝気の虫」で医者の思いつきで蕎麦を食べさせているものや、眼病で治療中に犬に食べられてしまったので、犬の目を繰り抜いて人間に入れてしまった「犬の目」、「鼻欲しい」では梅毒で鼻を失った人の話、「薬缶舐め」で癪を起こして、侍の頭を舐めさせてもらった女将の話等いろいろある。

 今は疝気とはどうゆう病なのか、癪とは体の何処が痛むのかさっぱり判らない。鼻が無くなった話にしても現代はそれほどの重症になる人は殆ど居ないのでピンと来る話でない。しかし、江戸時代は吉原や品川、新宿、板橋、千住等の四宿、更に街道筋の旅籠には飯盛り女がいて、フリー・セックスの時代は旅の恥はかき捨てとばかりに楽しんでいたので、自然、悪い病を背負ってくる人々が多かったのだろう。しかも、治療薬は水銀剤しかなく、昭和の時代になって、ようやくペニシリンが発明され、やっと、根治されるようになったと言うことである。

 割合、噺に出てくるのは、昔の医者がずばり言っている「気の病」というものであろう。「崇徳院」では上野清水寺の前で会った娘に若旦那が、「紺屋高尾」では高尾太夫の姿を見た紺屋の若い衆が、また幾代太夫の錦絵を見た搗き米屋の若いのが恋の病に落ち込んでいる。

 「千両蜜柑」では若旦那が蜜柑に恋して病に伏している。どれをとっても会いたい、欲しい、食べたいと言う自分の欲望を抑えきれない精神的な病である。昔は現代のようにどんどん口に出していえない人が多く、うつ病的なものになってしまったのであろう。風邪は万病の元と言われ、注意はしていたが完全に予防できるものでなく、結構流行ったようである。一旦、風邪を引くと葛根湯を飲まされるだけで、碌な治療方法もなく、段々重症となり、遂には命を落とすことにも為りかねなかったという。

 先代の正蔵さんの自作の「双っ面」に出てくる左柳師匠が風邪を引いて、一寸寝たのがこじらせて、長い休みを取っている間に名優の小幡小平次の幽霊に教えて貰った演技をやれなかったといっている。また歌司さんの演じた「徂徠豆腐」で豆腐屋の親父がやはり風邪を引いてこじらせ半月以上も休んでしまい、浪人時代の荻生徂徠をおからで食事を支えていたのが途絶えてしまい、その間に徂徠は職を得て出世するという。いずれも風邪でダウンしている。

 最近発刊された氏家幹人氏の「江戸の病」と言う著書によると、昔の老人の死亡原因は中気が多かったと言われる。若い女性の死亡は産後のひだちが悪く、絶命する人が多かったようだ。その他、労咳とか、労瘡と言われた結核で長患いの末、亡くなる人、更に今の癌の症状でなくなる人もあったという。

 「犬の目」に出てきた患者は「そこし」であろう。「そこし」とは昭和10年発刊の古い「辞苑」で見ると「眼球内の疾病の総称。目の外見は異常なくして、視力を失ったもの、黒内障、白内障、緑内障を言う」と出ている。現代は白内障、緑内障、網膜黄斑変成症などに分けられているようだが、これ等は早期に手術をすれば視力を失うことがないといわれる。

 江戸末期にオランダから日本の長崎に来た軍医のポンペ医務官は日本では西洋に比して盲人の数が多いと記しているそうだ。これは日本の眼病に対する医術が遅れていたと言うこともあるが、日本の庶民の生活が貧しいため栄養状態が悪く、重労働が多かったのでその原因に挙げることが出来よう。

 「寝床」では店の旦那の浄瑠璃を聞かせられる羽目になった若い衆は「胃痙攣」だと言い、ばあやは「すばこ」又は「すばく」だといっている。「胃痙攣」とは辞苑に「急にさし込んで来る激しい上腹部の痛みを言う」とあるが、今は胃痙攣という病気はないそうである。原因としては、胆石、急性膵炎、などが上げられる。狭心症や心筋梗塞による上腹部の痛みが起こることがあるという。

 「すばく」又は「すばこ」は「寸白」と書き、辞苑では「婦人の下腹の痛む病」とあり現代では「白帯下」又は「腰気」(こしけ)と書き、子宮病の総称を指すという。

 「疝気」とは辞苑では「漢方で大、小腸、腰部の痛む病気」と出ている。今は疝気ですという医者は居ない、現代医学では何と言っているのだろうか。

 「癪」は辞苑では「強度の胃痙攣によって胸部と腹部に起こる激痛、婦人に多く、激しい時は人事不省になる」と出ている。これは前記の「胃痙攣」の話でお解かりでしょう。

 今は聞いたことがない、「腎虚」という病、「大名道具」という噺で出てくるが、大名が自分の持ち物に劣等感を持ち、大明神にお願いしたが、うまく行かず、怒って社を壊したら、大明神が家来の持ち物を一斉に取り上げ、困った重役共がお祈りすると全部の持ち物を返してくれたのは、いいが、いっぺんに返されたので、どれが誰のものやら判らず、殿様がその機を狙って一番大きいものを持って来てしまい、宜しく奥方らと励んだため、家来の可内(べくない)が腎虚で亡くなったという。「腎虚」とは辞苑によれば「男の体液の欠乏から起こる身体の衰弱、死亡することもある」と出ている。

 「代脈」では医者が偶には若い研修医を代診として使ってみようと患者の家に送りこんでいるが、これも病状がたいしたものでなく、精々お腹を押したらお屁らをしたくらいだから、便秘か食べすぎぐらいだったのだろうか。

 「三年目」では亭主が若い女房の病がなかなか治らないので、次から次に医者を代えているが、昔は医者を代えることにより、今まで使っていた薬を替えることが出来るので、患者に効果のある薬に当たるまで何回も医者を代えていたのだそうだ。これを転薬といって昔はよく行なわれたのだという。

 「夏の医者」では父親が好きだと言う「ちしゃ」(今のレタスだそうだ)食べさせたが、食当りでダウン。ちしゃの葉の裏には虫がいることと、食べ過ぎたことだと、医者に注意されたが、当時、どんな薬を出したかは噺の中では判らないが、大蛇に飲みこまれたときに腹の中で大黄を散布して、下され、見事、危機を逃れているが、病人に対しても同じ様な漢方薬を使ったのだろうか。

 落語に出てくる昔の病の話では以上のような噺が思いだせるに過ぎないが、これの他、当時、人々に怖れられた病にコレラがある。当時は感染すると三日ぐらいで亡くなる事があり、三日コロリと呼ばれたと言う。文政5年(1822)、安政5年(1858)、文久2年(1862)と流行し、ことに文久2年はハシカも加わり、江戸市中だけでも数十万人の人が亡くなったと記録されている。

 この外、天然痘があり、当時は痘瘡と言われたそうだが、将軍の息子も罹り、命を落としているという。また、今で言う結核である労咳といわれる病もあった。寄生虫による病もあり、各地の風土病もこれに加え、人々を悲しませた。 赤痢や腸チブスのような下痢と嘔吐が激しく、痢疾と言われ、急激に体力を失い、死亡するという状況だった。

 また、痞(つかえ)といい、辞苑によると「胸部に物がつかえたようで苦しい症状を示す」病。更に瘧(おこり)と言う「悪寒と発熱が間欠的に襲う病」と記されているが、現代ではどうゆう病気を指しているのか不明である。

 「湿疹」と言われる今で言う疥癬が生じることもあり、なにやら判らない漢方の塗り薬で治療されていたのだそうだ。これ等のほか「江戸病」と言われれた脚気がある。江戸の人々が上流階級の真似をして白米を食べる様になり、脚気が生じた。これに対しては、麦飯を食べさせることで病が減っていったという。

 「御神酒徳利」に出てくる番頭が三井の番頭のたっての願いにより、関西に向かう途中の神奈川宿で侍の密書と財布を盗んだ宿の下女が番頭の占いの効果を信じたため恐ろしくなり、自白に及ぶが、原因は、下女の親父さんの病に見舞いに行く時間と薬である朝鮮人参を買う金の前借も認めてくれないためであった。

 昔は病気になれば朝鮮人参というのが看病する人達の願いであった。しかし、貧富の差の激しい時代に、貧乏人はそんなに簡単に人参を求めることは出来なかった。「江戸の病」の氏家氏によれば、朝鮮人参は宝暦5年(1755)で、2匁(7、5グラム)で、金 1分と 708文で買っている。今の金に直すと 1両が10万円とすると25,000円+(1文が17円ぐらいだから)12,000円で計37,000円となる。しかし、これとて役所の処分品だったので安いという。

 (この1両10万円と言うのは数年前の換算値で、今は1両16−18両だという人がいる。この為、今は、1両はここに表示する円価の1.6−1.8倍する必要があるかも知れない。)

 しかし、いくら安くても金のない貧民層には手の届かないものだった。しかも、都会に居る人々は、何時でも望むときに薬を手に入れることが出来たが、地方の農村ではそれが出来ず、医者も居ないし薬屋もない。更に富山の売薬の行商人も金のない地域には来てくれない。こんなところでは一旦病を得ると治療に苦労するばかりでなく、収入の道も断たれ、薬も買う金もなくなり、死を待つ以外に無くなる。そんな時に都会に出ている息子や娘が居れば、金の工面をして呉れるように頼んでも、薄給のため、おいそれとは頼みに応じてくれない。

 奉公先の主人に借金を申し込んでも、よい返事がもらえず、また、見舞いの休暇も認めてくれない。こうなると、「御神酒徳利」の下女のように他人の金に手を出さざるを得なくなる。


平成21年11月
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2009年10月01日

【100】蕎麦切り(鈴木和雄)

今、私達が「美味しい」と言っている手打ち蕎麦は、昔は武士のお手打ちと言う言葉を連想させるので「蕎麦切り」と言われたという。
落語の中で蕎麦に係わる噺で私達が一番聞きなれているのが「時蕎麦」であり「蕎麦清」であろう。この他、落語事典を見ると「蕎麦の殿様」、「よいよい蕎麦」、「ヒョットコ蕎麦」があるが、余り高座に掛けられていない。

「ヒョットコ蕎麦」については一度、蔵之助さんがNHKのお好み寄席の司会の席で一寸、演じているのを見たが、後は聴いたことがない。噺の中で出てくるのは「中村仲蔵」が柳島の妙見様に願をかけて、満願の日に近くの蕎麦屋に入って雨宿りをして居る時に雨に降り込められた浪人者の姿に発想を受けるところがある。

また、「おすわどん」の噺では先妻をいじめて亡くし、後釜に入った妾が、毎晩、「おすわどん」と言う呼び声に怯え、よく、その声の元を捜してもらったら、実は「お蕎麦うどん」と言う売り声だったと言う話がある。これらの噺は江戸後期の話であり、所謂、今の手打ち蕎麦―蕎麦切りを摂る話である。

蕎麦は始めから今の様に細くきった麺として登場したわけではないと言う。 蕎麦は元々の原産地は中央アジアで、バイカル湖付近から印度北方の山岳地帯の辺りだと言われる地味の薄い荒地で栽培されたと言う。日本へは奈良時代に中国から朝鮮半島を経て渡来しており、種をまいてから75日ほどで収穫が出来るので、備荒食料、又は救荒食品として旱魃等の飢饉に備えて作ることが、既に元正天皇の養老6年(722)に命じられている。

蕎麦は寒冷地の栽培に適しているので、始め、今の滋賀県の伊吹山の山麓に植えられ、順次、気候風土の適地を求めて、信州、信濃、甲州へと広がって行ったという。
こめ、むぎはイネ科の植物であるが、蕎麦はタデ科に属している。この為、年2回収穫が出来るから米、麦の収穫が少ない時はその不足分を補う代用食として、食べられることがあった。

江戸時代になって寒冷地での植栽が進み、生産量が増えて、都市部に流入する量も多くなったと言う。  蕎麦は渡来以来、蕎麦の粒状のまま食べたり、粥にして食べたり、蕎麦掻きにしたり、蕎麦の焼餅を作って食べていたようである。 蕎麦掻きについては豊臣秀吉が大変好んで食したと言われ、蕎麦粉を熱い湯を少々入れてかき混ぜ、粘りが出てきたところで味噌だまりや醤油を添えて食べたと言う。


私達も子供の頃、第二次大戦後の食料難の時代に、父親が何処から買ってきたか、貰ってきたのか知らないが、蕎麦粉を手に入れ、これを夜食やおやつに熱い湯でかき混ぜ、餅状になったところで醤油を少々つけて食べた記憶があるが、なんせ単調な味でお腹はいっぱいになるが、直ぐ飽きて3日ぐらい続けて食べたら、後は食べられなかったと言う経験がある。秀吉が喜んで食べたというのは余程、膳部の人達が工夫して汁の作り方を秀吉の口に合うようにしたのであろうと想像される。

蕎麦切りは資料によれば天正年間(1574−92)に作られ始めたと言う説と、江戸期のはじめ慶長19年(1614)に蕎麦切りを食べたと言う記録があるという話がある。 しかし、その頃はまだ、蕎麦粉を手で煉って延ばし棒で薄く延ばした物を切ったもので、まさしく生蕎麦であり、蕎麦の香りが美味しさを更に感じさせたが、何と言っても、粘性が少ないことから簡単に折れたり、切れたりしたことから、元禄期になり、蕎麦粉につなぎの混ぜ物をすることにより蕎麦の粘性を助けようとしていろいろなものが使われたと言う。

蕎麦に小麦粉をいろいろな割合で入れて見たり、米を煮て出来た重湯や山芋、鶏卵、豆腐、ふのり等がつなぎとして試みられたと言う事である。
当時は蕎麦汁として味噌だまりや大根おろしの絞り汁、削り鰹節が使われたが、醤油が普及するようになると味噌だまりの方はなくなったと言う。

現在は蕎麦屋さんは店で手打ちで作った蕎麦を客に提供しているものや、製麺工場で作った蕎麦を仕入れて提供しているものがあるようだが、江戸時代は神社や寺院、広小路等の人がよく集まる場所によしず張りの店で蕎麦を打ち、戸板をテーブル代わりにして、黒碗に盛った蕎麦切りに汁をかけて客に出していた。雑司が谷の鬼子母神の空き地で店を開いている図が資料に出ていた。

蕎麦切りを食べるには「もり」が上品とされ、碗に蕎麦を入れ、汁をかけて出すのは下品とされたが、後になり段々、そんなことも言っていられず、上流階級の人も「かけ」を食べるようになり、螺鈿の豪華な器が出て食べられる位、流行ったという。

五代将軍の綱吉の貞享年間になると蕎麦切りを蒸して食べることも流行り、半分ほど煮た蕎麦切りを客が来てから「せいろ」にのせ、蒸し器の上で熱くして、汁と共に客に提供することも行われたと言う。

一方、うどんの方は上方で流行り、大きな店が多数あったが、一部が江戸に来て、うどんを出す傍ら、蕎麦も提供するようになって、生蕎麦の暖簾をくぐるとうどんも食べられるようになったと言う。

元禄15年の忠臣蔵の吉良邸討ち入りの時、彼らは蕎麦屋に集合して、討ち入りの時を待っているが、この時には既に大きな蕎麦屋があったと考えられる。
「蕎麦清」に出てくる噺の頃になると清さんがいつも来ている店や、中村仲蔵が立ち寄った店もしっかりした店構えになっていたのであろう。江戸の蕎麦屋も幕末のころになると3762軒もあったと言われるが、これには夜、荷物を振り分けて売り歩く蕎麦屋は含まれていないと言うから、多数の蕎麦屋があったことになろう。

「時蕎麦」に出てくる蕎麦屋はよしず張りの店ではなく、天秤で荷を振り分け、前に蕎麦屋の屋号を描いた行灯を着け、天秤の上には屋根を付け、これに風鈴などを添え、蕎麦と汁と具、それにこれ等を温める火元を運んで売り歩いた。

この、夜になると天秤を担いで街に蕎麦を売り歩く蕎麦屋は昼の内は自分で蕎麦を打ち、具などの必要なものは煮たり、揚げたりしながら夜を待ち、蕎麦を売り歩いていたのだろうか。或いは菓子屋が副業としてやっていた蕎麦打ちの蕎麦を仕入れて売っていたであろうか。

もともと麺類の製造は菓子屋の領域であり、副業として蕎麦切りを作っていたことは不思議ではないそうである。京都の古い菓子屋には未だに昔の蕎麦打ちの道具が残っており、今もって蕎麦ボ−ロ−や蕎麦饅頭、蕎麦羊羹が売られていることはその歴史を物語っているのであろう。

「時蕎麦」では「しっぽく」を注文しているが、「かけ」が盛んになると、天保の頃には
小田巻、天麩羅、あられ、花巻、しっぽく、玉子とじ等の献立が現れ、蕎麦の中に煉り込む鯛切り、海老切り、胡麻切り、茶蕎麦も変わり種として好まれたという。

献立のうち今、私達が聞いても判らないものがある。

【小田巻】・・・碗の底に蕎麦を置き、その上に具である、鶏肉、菜、蒲鉾、椎茸を載せ玉子をかけて、汁を入れて蒸したもの。
【天麩羅】・・・蕎麦のかけに海老の天麩羅を入れたものであるが、今のように大きなものでなく、小海老を揚げたものだった。
【あられ】・・・蕎麦のかけに焼き海苔を切ってのせ、その上に貝柱の煮たものを散らしたもの。
【花巻】・・・蕎麦のかけに焼き海苔を切ってのせ、薬味としておろし山葵をつけたもの。
【しっぽく】・・・関西地方では未だに蕎麦屋に行けばお目にかかれるが、東京ではメニュウにさえない。で「蕎麦の事典」新島茂編の「しっぽく」の項を見たら、安政4年(1775)の「蕎麦手引草」の中にしっぽくの具として、松茸、椎茸類、つくいも、黒くわい、麩、芹が使われていたことが記されていたと言う。しかし、幕末の頃には具として焼き玉子、蒲鉾、椎茸、くわいが使われたそうである。

寡って、NHKで「お江戸でござる」の解説をしていた杉浦日向子さんはこの幕末の具を述べていたが、一方、「落語手帳」を書かれた江国滋氏は大阪の道頓堀の中座の隣にあった今井といううどん屋で食べたしっぽくには芝海老、蒲鉾、麩、海草が具だったと述べておられる。 江国さんが会ったのは現代のしっぽくだったのであろう。
【玉子とじ】・・・蕎麦切りのかけに玉子をといたものをかけ、蒸したもの。

「時蕎麦」では竹輪や竹輪麩が出てくるが、当時の蕎麦屋が経費節減のために使った具の一部だったのであろう。

蕎麦屋には今もって藪蕎麦と更科蕎麦があるが、藪蕎麦は蕎麦の甘皮ごと挽くので黒い色が残るが、つなぎにとろろを使うので、当時は江戸っ子に好まれ、汁は少し辛めで粋な蕎麦食いには一寸、汁に蕎麦を浸しただけで食べることが流行った。一方、更科蕎麦は蕎麦の実の中心部の白い胚乳部を取り出して作るため、白い蕎麦で光沢があって淡白な風味で定評があったという。

蕎麦は世界の人々の命を救ってきた。米や小麦が少ない時や旱魃の時に豊富な蕎麦粉が米麦の補助食品として人々の口に入り、命を?いできた。今でも日本では中国やカナダの蕎麦粉を輸入して、蕎麦を楽しんで食べ、平和な日々を送っている。まさしく蕎麦様様である。

平成21年10月
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2009年09月01日

【099】小僧の生活(鈴木和雄)

江戸の落語には江戸の大店(おおだな)や中小の店で働く子供達、所謂、小僧、(上方では丁稚)の話がよく出てくる。その中には小僧が噺の主役になったり、噺を盛り上げる重要な脇役になったりして登場してくる。

「文七元結」の噺では左官の長兵衛が始めから出て来て主役となっているが、小僧の文七無しには噺は成り立たないから、準主役といえる。「悋気の独楽」は焼き餅焼きのかみさんとその亭主が噺の中で出てくるが、二人の中で動いているのが小僧の定吉で、亭主のあとをつけて、お妾さんの家に行ったり、帰って来てかみさんに報告して、旦那がどちらに泊まるかを、独楽を回して引導を渡している。

江戸落語の「四段目」、上方落語の「蔵丁稚」の小僧は全く主役を演じている。小僧の仕事である使いに出されたのが朝の内だが、帰りに芝居小屋に入りこんでしまい、午後遅く店に帰って来て、しらを切ったが、主人の計略にはまってしまい、芝居を見ていた事を白状させられてしまった。蔵に入れられて、寂しさとひもじさに耐えかねて、芝居の真似をするという立派な主役である。

小店では「火焔太鼓」の古道具屋では親類から預かった子供を小僧として雇って居るが、この子が主人の買ってきた古臭い太鼓を掃除のため、はたいたら、思わず音が出てしまい主人がおお儲けをする端緒を作ってくれた。

「人形買い」に出てくる店の小僧は客に従って、人形を背負って客の家に行く途中で、店の若旦那と女中の話を持ちかけ、小遣い銭を稼ごうとしている。
「百年目」の小僧たちも番頭に怒られながら仕事をやっているが,紙縒りを作るのにも遊び半分でなかなか完成できない。怒られれば、後ろに廻って舌を出している始末で反抗期の小僧の姿を示している。

「引越しの夢」では番頭がすこし可愛い子が女中に来たというので舞い上がってしまい、店の閉店時間さえも繰り上げており、小僧が隣の子供に早仕舞いを得意がると言う始末。
その他、噺の中で小僧の生活の姿が語られるのは江戸期から明治にかけての働く子供たちの動きを私達に示してくれているのであろう。

「江戸店(だな)犯科帳」林玲子著では主として京都に本店を持つ、近江商人の「白木屋」について書かれているのであるが、同書に依れば当時、江戸に店を持つ商人の多くは大阪、京都に本店を置き、その支店として江戸店を置いたのであり、その雇い人は殆ど、関西方面の人達で構成されていたということである。その為、小僧と言えども関西から採用し、江戸の店で教育し、手代から番頭へと出世して、店のために尽くすように仕向けられていたと言う。

小僧となり入店してくるのが、12−13歳であり、勿論、何もわからないのであるから始めは直接、店の仕事にはタッチさせない。 小僧には所謂、雑用である店内外の掃き掃除、拭き掃除,煙草盆、灰吹、火鉢の準備、来客時のお茶だし、後片付け、手代の後に付いて小さな荷物の運び、大きな荷物は男衆がやる。夜間の照明器具の掃除と準備、当時は江戸末期までは燭台の芯や油の準備、行灯、蝋燭の準備、江戸末期から明治初期はランプが入り、これの掃除と整備が大変だったという。

また店の貸し番傘、下駄、提灯の管理、店の神棚、仏壇の掃除と水,茶などの供え物の用意、江戸の道を覚えると電話や電報がない時代であったから手紙や書類の持ち運びをさせられる。 この様な場合に備えて、小僧は木綿の着物に前掛け姿で、どんな寒い日でもその前掛けの下に両手を入れて、店に坐っていなければならず、火鉢に手をかざすことは出来なかったそうである。

ある江戸の店では小僧は上に上がる事はできず、脇の下に風呂敷を挟んで土間に立っていて、用事が在る時は直ちに出かけられる様に待機させられたという。
また、奥向きの仕事で子守や、主人の子供のお稽古事の送り迎え、女将さんの用足しや水汲み(これが大変だったという、殊に冬は辛い仕事だった)がある。そして、年嵩になると子供衆(小僧達)の監督があった。

そして大切なのが金の持ち運びである。昔は金の運搬は割合気安く行なわれたようである。
「江戸府内絵本風俗往来」菊池貴一郎著に依れば売掛け金の受け取りを小僧にさせ、これを取りに行った小僧達が帰りの途中、露店や絵草紙屋を冷やかしながら歩き、九段下辺りの野原で100両―150両入った財布を地面の上に放り出して遊び呆けていたという絵が描かれている。当時の著者が生き馬の目を抜くと言われる江戸でよくこんな呑気なことが出来たものだと呆れている。

同じような話でこれは小僧ではないが、将軍家金子御用を務める家から毎日10−20人ぐらいの襤褸をまとった一群の人達が千両箱を天秤棒の前後に一個づつ担ぎ、江戸市内を運搬していたと言う絵を描いているが、そして何の事故もないのは不思議だと書いてあり、金の扱いが割りあい大様だったのだろうと思われる。

小僧達は「寝床」にあるように時々は主人の稽古事のお披露目につき合わされることもあったが、普段は夜は習字と算盤、数字の符号化したものの勉強をしなければならなかった。

手代になって行わなければならない客との取引の状況を記帳することは小僧時代はさせてはならないものとされ、絵付板(荷物に付ける目印の札)や判取帳(金銭や品物の授受の証印を受ける帳面)は扱わせてもらえなかった。帳面をつける硯箱の墨さえもすらせてもらえなかったと言う。
小僧は同じ時期に入店した者は同期であるが,ひと足先に入ったものは、既に格が上であり同年でも先輩になる。と言っても先輩でも私用に子供を使ってはならないとされ、夜具などを後片付けさせることは禁止されていた。

小僧は一回の入店に10−20人ぐらい入ってくるが、その内2年ぐらいの間に慣れない環境で病気になったり、商売に向かないと判定されて、家に送り返される子供もあり、小僧から元服して若衆になり、手代、番頭に進んで行くのであるが、手代になる前に3分の1が脱落して行ったという。台所仕事や力仕事をやる男衆は中途採用もあるが、店の中枢幹部となる雇い人は中途で入ることはなかったそうである。

現代のように携帯電話も出退勤タイマーもない時代は一旦、仕事と言って外に出てしまうと、連絡する手段はなく、割合、時間的な束縛はなかったようだ。「文七元結」の文七も顧客に請われるままに碁を打っていて、時間の過ぎるのを忘れて遊んでいて、あわてて、客宅を辞す時に、大事な受取金を忘れて行ってしまった。

「四段目」の小僧も使いの途中で好きな芝居に気を取られて、入り込んでしまい、帰る時間を忘れている。 本来なら監督者である「百年目」の番頭でも、勤務中に店を出て、客との付き合いという言い訳であるが、のんびり、芸者、幇間を伴い花見に行っている。余り時間にとらわれない大様な時代だったのであろう。

しかし時間の方は割合ルーズとしても、毎日、戴く食事の方はつましく、毎回一汁1菜の添え物とは行かず、稀に動物蛋白質の魚がつく程度でいつもは味噌汁に野菜が入ったものにご飯を戴く程度だったと言う。

食事の時間でも小僧は手代、番頭が食べた後でないと箸を付けることが出来なかった。まるで今の相撲部屋のちゃんこが上位の力士が食べた後でやっと格下の力士が取れるようなのに似ている。食事も残った範囲の中で食べなければならず、先輩の連中は料理部に自分の金で注文したものを取って食べることが出来るが、小僧は給与そのものがないから、店から与えて呉れた範囲で腹を満たさねばならなかった。

前記「犯科帳」に依ればご飯は米飯だけで、麦飯は飢饉の時に出るぐらいで、いつも白米飯であり、脚気になるものが多かったと言う。
小僧達の罹る病には脚気の他、眼病,回虫による腹痛、胃腸炎、感冒、肝炎、また栄養が悪いので腫れ物や湿疹がおきる。


今のように防虫剤などない時代であるから,蚊,蚤、虱(風呂屋でうつされる)などや外の害虫で刺されてできる腫れ物がある。  これらの病により、入店初年から病床につき、直らないままに親元に帰えさせられたり、死亡するものもあったという。

また、「双蝶々」の長吉のように、始めから手癖が悪く、悪友と共に外部で盗みを働くものがいたが、前記著書によると、店の内部の引出しから小銭を盗んで、買い食いに行ったり、家出をしたり、店の品物を盗んで売り、芝居見物の費用に当て、その小屋で鮨や、果物を豪華に摂っていた等の話もある。

手代や男衆になると、小僧にはない遊びを覚え、女郎買いや博打、遠くの料理屋での豪遊など大胆な犯罪を犯しているが、これらも店の品物や金を横領しての仕業である。
店側ではこれらの仕業が発覚した時は,家出をした時は店の小頭衆が関係筋を探して、店に戻させるが、盗みにあった時は持っていた金の範囲で弁償させ、家に帰させるが、店の雇い人から縄付きのものを出すことは信用に傷がつくという建前で、割合、穏便に解雇して損害金については余り深くは追求してはいなかったようである。

今は社内の損害でも警察に訴え、外部の力で事を解決していくが、昔は余ほどのことが無い限り、奉行所に訴えることも無く、また雇い人によって生じた損金は資本が大きい昔の経営者にとっては大した額ではなかったのか、名誉と信用の方が大切だったのか、あまり外に出したくなかったのであろう。その位、のんびりした時代だったのであろう。

平成21年9月
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2009年07月01日

【098】江戸の花火師、鍵屋と玉屋(鈴木和雄)

初夏が訪れ、大川(隅田川)の川開きが近づく頃になると落語の「たがや」が、よく演じられるようになる。三代目金馬さんがこの「たがや」をNHKで演じた時、解説の玉置さんが「ざっと265年前の第八代将軍吉宗の享保18年(1733)に前年に起きた大飢饉とそれに続くコロリの発生で多数の遺体が大川に浮かんだが、これらの慰霊のため、川開きが行なわれ始めたという記録がある」と言っていた。

しかし、その頃はまだ、現代に見られるような大規模なものでなく、夕涼みの舟に、花火を売る舟が近づいて来て、客の注文に応じて竹竿の先につけた、節を抜いた竹の筒に火薬を入れ、それの口に火をつけて、火薬が勢い良くほとばしり出る様を喜んだに過ぎなかったといわれる。

その後、段々、花火の火薬の製造について花火職人が工夫し、競い合って大きな花火を打ち揚げるようになり、夏の夜の大空に大輪を咲かせたり、仕掛け花火も作られ、現在のようになってきた。
花火はそもそもが、火薬が種である。その火薬は7世紀の頃に中国で発見されたという。その頃、中国には錬丹術師とか錬金術師とか言われる人達が、長寿の薬や金を作りだす技術を研究していたという。

彼らはいろいろな薬草や、鉱石や土、木炭を混ぜたり、割ったり、叩いたりして、自分の目的のものを作りだそうとしていたが、ある時、当時は印度と中国でしか無いと言われていた、硝石を混ぜて処理をしている内に一瞬の光と熱が発生し、研究小屋を焼いてしまった。彼らはこのことで硝石に注目し、更に研究を進め、硝石、硫黄、木炭を混ぜて、所謂、黒色火薬を作ることに成功した。

そして、この黒色火薬が後になり、シルクロードを経て、イタリヤのローマに至り、鉄の筒の中で点火することにより、鉄球や鉛球を飛び出させる威力があることがわかり、鉄砲に発展したといわれる。
イタリヤなどでも、始めの内は、当時の上流階級の連中がいろいろな筒や、ストローのような小さい筒状の物に入れ、これに点火して遊ぶというやりかたで、花のように出る火の散る様子を楽しんだという。

この花火が日本に傳わったのは、1613年に英国人が来日し、家康に各種の珍しい物を献上した時、その中にあったのが、中国製の花火だったと言われる。 この花火は手筒花火といわれているもので、筒に詰めた火薬の先に火をつけることにより、順次、火薬が破裂して、筒口から火が外にこぼれて、明るい光の花が落ちていくというものであった様だ。  しかし、伊達政宗は24年前の天正17年に唐人から献じられた花火を楽しんだという記録もあるそうだ。


日本に火薬が伝来したのは天正12年(1543)にポルトガル人が種子島に漂着し、二挺の銃を種子島の領主が買い上げて、これと共に火薬の製法について学び、また、鉄砲の製造法も学んだといわれる。これを堺の商人が買い上げ、また、河内国の城主長男が紀州に持ち帰り、研究させたという。
わが国は丁度、戦国時代で鉄砲の需要は急速に広まり、鉄砲を多数持っているものが天下を制することになっていった。

一方、平和になってくると、三代将軍家光などは花火に大変興味を持ち、江戸城内ばかりでなく、大川や品川まで出掛けて,花火を楽しんだといわれる。 この頃になると、江戸の市中にも花火を楽しむ人々が増え、花火売りが多数現れた。しかし、何と言っても、花火は火事のもとである。幕府は慶安元年になると、花火の遊びをご法度にしたのであるが、この禁令を犯してまで、花火遊びを続ける人はあとを絶たなかったという。

今の奈良県の大和の篠原村の弥兵衛という男が、万治2年(1659)に江戸に出て来て日本橋横山町に小さな店を構えて、玩具花火を作り、売り始めた。まだ、この頃は葦の管に小さな火薬を詰めたもので、それに火をつけると火の炎が出て来て、そのあでやかな光と色に人々の人気を拍し、よく売れたという。 これが現代まで15代に亘って続いている鍵屋の始めであるといわれている。(?,15代は家が変わっている。)

一方、「たがや」の噺に出てきた玉屋はもともと、鍵屋の手代で在った男が独立して、両国吉川町に店を出し、玉屋市郎兵衛を名乗り、営業を始めたものといわれる。
鍵屋、玉屋の店名は両者とも守護神として、お稲荷さんを信仰していたが、玉屋は玉を持った稲荷を、鍵屋は鍵を片手に持った稲荷を祀っていたため名付けられてという。

しかし、鍵屋と玉屋が共に競合しながら営業をしていたのは、約30年で、玉屋は天保14年(1843)に火事を出してしまい、営業が出来ないことになってしまった。この火事で玉屋は全焼したのみならず、町並みの半町ほどを類焼させてしまい、重罪の失火罪に問われると共に、この日は12代将軍の家慶が日光参拝に行く前日だったことから、幕府の重要行事に支障を与えたため、玉屋は一代限りで江戸からの追放を受け、玉屋は敢え無く江戸の花火師から姿を消すことになってしまった。

その後はただ、「玉屋」「鍵屋」の呼び声が花火大会の度に聞かれるだけになってしまったのである。
この様に、花火が盛んになった理由の一つに硝石の国産が出来るようになったということが揚げられる。前記したように硝石は印度、中国からの輸入がなければ黒色火薬は作られなかったが、当時、中国では既に硝石の原石ばかりでなく自分達の手で作る事を研究して、成功していたという。



日本では鉄砲の伝来後、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に捕まえた明軍の火薬技術者から硝石の製法を聞きだし、これを国内に持ち帰って硝石の国産に励んだのだという。
昔、古い家の床下の土には硝石が含まれており、この土を舐めると始め、甘く感じるが、後になると苦く感じるのは、硝石が含まれているという証拠だといわれたという。

古い家の台所や、馬小屋付近の床下の土には多量の硝石が含まれていることが判り、これを水に溶かし、灰汁を加え、上澄みを取って煮詰めると、硝石が得られたと言う。しかしこの方法では、一回、床下から取ってしまうと50年以上も取ることが出来ない。

そこで、フランス人が考案した硝石を作る斎養場を作るならば、2−3年で出来ることが判り、干し草に下水の溜り水や風呂の水、古池の腐り水、魚の内臓や血、鳥の死んだものをつけて腐らせた水をかけて置く、更に月に一回、牛馬の糞の腐れ水を撒いておくということで硝石採取までの時間を短くすることが出来た。

一方、加賀藩では秀吉が朝鮮から連れて来た火薬製造技術者を預かり、飛騨山中の五箇山で、この硝石の製造に当たっていた。その為、藩は硝石の製造に従事した農民には年貢の米の上納の減免までして、硝石小屋の維持に努めたという。この小屋は大変な臭いを発し、悪臭に参ったが、特別な手当てまで出していたそうである。

しかし、秘密維持のために五箇山付近は、外部との接触を禁じて、加賀藩の秘密の火薬工場として利用したという。ここでの硝石製造方法は蓬を中心とする雑草や大根の葉などの植物、人糞、蚕の糞を土の上に積み重ねる方法で作ったといわれる。

この様な先人達の異常な苦労と非常な努力の研究があって火薬の基となる硝石が作られ、それによって火薬が多量に製造されて、天下が平定されて、平和な国が出来たのであるが、
花火遊びと言うのも発達し、時には火事を生じさせ、人々の生活に支障を起こすこともあったが、夏の夜の遊びに大いなる貢献をしてくれたのも確かであろう。

いま、私達が花火大会などで夜空に咲く大輪の花火が炸裂する光景を見る時、一瞬でも昔の人達の苦労を思い出すことが出来るだろうか。 


平成21年7月

参考図書:「花火の科学」 細谷政夫、文夫共著
       「花火大会に行こう」 武藤、小野共著
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2009年06月01日

【097】「虱茶屋」から(鈴木和雄)

円生さんが旅の噺の枕で、地方に旅回りの公演に行った時、宿に泊まった所、虱に食われたので、これを掴まえ、宿の部屋の柱の割れ目に押し入れ、上から紙で出口を塞いでおいてそのまま帰って来てしまったが、一年後また同じ宿に行って、同じ部屋に泊まることになったので、虱を柱に埋めた事を思い出し、それを探し当てて、出口を埋めていた紙を取り除いてみたら、一年前の虱が、こんな恰好で死んだようになっていたと、自分の顔で口をすぼめ、頬をやせたような形にし、目と眉毛を下げた様子が、余程その虱の風体を表していたのか、会場が大笑いの渦に巻き込まれていたのを思い出す。

この話は「虫の文化誌」小西正泰著に書かれている橘 成季の「古今著聞集」(建長6年、1254)の話で「ある田舎者が京に上り、宿で大きな虱を掴まえたので、宿の柱を削って、穴をあけ、そこへ虱を閉じ込めてしまった。翌年またその宿に泊まったので、その穴を見てみると、虱が痩せてはいるが、動いているので、取り出して、自分の腕の血を吸わせてやったが、その後が痒くなり、大きな腫れ物となり、それがもとで死んでしまった」と言う話がある。

標題に掲げた「虱茶屋」は先代の円馬さんや助六さんが演じて大きな笑いを取っていた噺であるが、身振り、手振りが可笑しく、仕方噺の典型的なものだったのであろう。
「茶目気のある旦那が乞食からガラス瓶一杯に虱を求め、これを持って茶屋に行く。そこで大勢の芸者や幇間を集め、「襟占い」と称して襟元を見る振りをして、そこへ虱を二、三匹ずつ入れていく。
宴会が始まると虱が動き出し、芸者、幇間が痒がり始まる。そしていろいろな恰好をして、体を掻き始める。

この外、虱の噺では「虱の選取り」と言うのがあるが、落語事典で見るだけで、聞いたことが無い。
「ある男の首筋に虱が這っていたので、捕ってやったら、その男が、断わりもなく俺の虱を取ったという。 親切のつもりでやってやったのだが、逆に文句をつけられたので、自分の衣についていた一匹を返すと、こんな小さいのではないと、更に、ごねる。 別のものを出してやると、これも違うという。 そこで親切な男は袂から ごそっと虱を出して「どれでもいいのを持って行け」と言う。

この様に虱は庶民にとっては最も身近な虫だった。 身近な所か我々人間の血を吸って生きている害虫なので、彼らは人間に寄生することによって、世代を継ないでいたのである。
百科事典によると、虱は人間の体毛の根元に卵を産みつけ、人の体温の下で胚子発育期間の9日間を過ごし、幼虫になり、吸血が出来るようになると8−9日を経て、成虫になると10時間以内で交尾し、2日後に産卵するというから、すごい繁殖力がある。平均一ヶ月、最長2ヶ月ぐらい生きるという。しかし、寄生体から離されると直ぐ死ぬというし、別の動物の寄生では生きられないそうである。

欧州の昔は上流階級の貴婦人でさえ、虱にたかられ、痒くても人前で虱を捕る事は無礼であるので、我慢をしたが、兎に角、痒いから掻く為に、孫の手を、いつも持っており、これを使って痒みを留めたという。 殊に今のように所中、風呂やシャワーに入ることは出来ず、また衣服も自分にピッタリしたものを着ているため、そんなに簡単に着脱が出来ないため、一旦虱に捉まると苦労していたそうである。

欧州では貴婦人が孫の手を利用していたように、日本では女の人は頭の髪に簪を指していたが、この簪も元々は髪につく、あたま虱による痒み対策に用いられたそうで、それが段々装飾品になっていったということである。

日本では江戸時代は庶民は火事を恐れて、自家用の風呂を焚くことはせず、湯屋に行かざるを得なかった。当時は今のように衣類入れやその置き場を消毒するようなことは全く無かったから、湯屋に行く人々は、風呂敷に着替えの衣類を包み、湯屋に行ってこの風呂敷を拡げ、その上で着物を脱ぎ、そのまま風呂敷を包み、床の上に置いておくという事をしていたようだ。

これが虱がたかる事を防ぐ手段だったと言う。 風呂敷と言う言葉はこれから出ていると言われる。
しかし、虱などはいくら注意しても、たかってしまい、家に持ち込むことも多かったようだ。殊に大店の様に多くの手代や小僧が住む所では皆が痒がり、店のおかみさんが下女たちを指揮して虱退治をやったと言う。

虱を見つけて一つ一つ潰していくのも、虱退治の方法だが、これでは能率が悪いと、割合早くから殺虫剤や防虫剤が考えられたようだが、それ以前や薬が無い時は熱湯をかける以外に手は無い。それに寝具などは天日に干しておくのも、隠れた虱を追い出すのに効果的だったそうだ。

前記の「虫の文化誌」によると、防、殺虫剤の類は割合早くから中国などで使われており、二世紀頃に編まれた書物によると、既に水銀や雄黄(天然硫化砒素)で虱の駆除をしたという。また別の本では水銀、銀朱(硫化第二水銀)、ビヤクブ、ショウブその他を使っていたという。

日本では江戸時代にはアタマ虱には大風子の油を髪に塗ったり、銀朱を櫛に塗って髪を梳くことをやっていたそうである。その他、今は我々には判らない薬草や植物(ももの葉)を使っていたそうだ。
虱には頭の髪の毛にたかるアタマ虱、衣服について身体の血を吸うコロモ虱、これはアタマ虱から派生したものだそうだ。 上記2種とは異なる種類で属する科も違うケ虱がいる。

ケ虱は亭主の浮気の証拠になり、よからぬところで遊んできたことが判るので、夫婦喧嘩の元となり亭主にとっては戦々恐々の害虫だったようだ。 TV などで時々見るアフリカの原住民が頭に泥を塗っている姿はアタマ虱を防ぐもので、日本でも昔は油を塗ることがあったそうだが、それが現代のポマードやヘアークリームに発達し、今は香料などを入れ、おしゃれな化粧品として使われているのだという。
この虱は人間にたかって、血を吸い痒みを覚えさせるだけなら、まだ、ましだが恐ろしいのは、伝染病である発疹チブスを媒介することである。この病気は法定伝染病でコロモ虱が媒介するリケッチヤが病原体だそうだ。この病気は戦争があったり、飢饉、不潔な生活があると急に増え、人々に害を与えるものだという。

戦争中に発生すると戦争の勝敗に大いに影響したようである。ナポレオンがロシヤに侵攻した時に、最後は冬将軍にやられてフランス軍は敗退したと聞いていたが、本当はこの虱軍に攻められて軍勢が半分以下になり、退却することとなったのだという。敵襲を恐れたのと、寒さのためお互いに身体を寄せ合って寝ていたので虱の繁殖と伝染を早めたのだという。他の戦争でも発生した塹壕病なども虱のせいだという。

第二次大戦の末期のアウシビッツでも虱の発生があり、多くの人がガス室に行かされる前に虱のために亡くなっていたそうだ。それを考えると今でも内戦やイラク戦争で他所の国に避難している人々がテント生活をしているところでは虱にやられているのではないかと危惧するものである。

我々の世代の人が経験しているのは、日本の敗戦で急激に広がった虱の害は風呂に行っても、満員電車に乗っても移ることがあり、当時の占領軍であるアメリカから持ち込まれたDDTが学校や集会所で,頭や襟首に撒かれて体中、真っ白になっていた姿を思い出す。

このDDTの威力は効果適面で、このため虱は殆どなくなったが、今はこのDDTは長期に残留するという害の方面が強調され、全く使われなくなっている。しかし、この薬は一時はノーベル賞を得るくらい人類に貢献してくれたのであるが。

虱は昔は直接しらみとは言わず、隠語と言うか、別の形の言葉で優しく表現していた。それが、「観音様」とか、「ホワイト・チイチ」とかいう言い方であったようで、観音様は虱全体の姿が白く、白衣観音に似ているように思った人が名づけたのであろうか、またホワイト・チイチは白い体色の虫ということで呼ばれたのであろう。

ところで虱の体が白いというのは我々日本人だけらしく、虱も寄生する人の肌の色によって変っているのだそうだ。黒人に寄生する虱は黒色、印度のヒンズー人には暗黒色、中国人や日本人には黄褐色、アメリカ・インデアンにはオリーブ色、ヨーロッパ人には白色だそうだ。 これは彼らが寄生して吸う血によって体色が変っている事を示すものなのだろうか。

欧州の昔の場面を示す映画など見ていると男の人がかつらを被っているのを見ることがあるが、これなども虱対策の一環だったそうである。あまりに髪の毛に虱がつくので、頭を丸坊主にしてしまい、かつらを被っていた。しかし、このかつらが人毛で作られていたため、これにも虱がつき、頻繁に洗ったり、整髪をしなければならず、一苦労だったという。

いくら血を分けた虫と言えども痒みが生活の大きな障害になり、落ち着いて仕事や寛ぎが出来ない。その為、昔の人は苦労して防虫、殺虫といろいろな事を考えていたのであろう。
噺の「虱茶屋」にあるように虱を遊びの道具として使ったと言うことは今では不衛生、不健康の極みであり、考えられないことである。噺が作られた頃は、虱が発疹チブスの病原体を媒介するなんていうことは知らなかったから笑い噺のネタとしてとりいれられたのであろう。


平成21年6月
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2009年05月01日

【096】犬は友達(鈴木和雄)

街を歩いていると犬を連れた人達によく会うこの頃である。愛玩動物として犬、猫等々、色々人が飼って楽しんでいるのを目にするが、なかでも一番人間に愛され、役に立っているのが犬であろう。昔から狩猟用、牧羊用、更に橇や車を引っ張る牽引用や運搬用として人間の手助けをしてくれている。更に最近では番犬、警察犬、軍用犬、盲導犬,介助犬、麻薬探索犬として飼われており、犬の活躍する場所は各所にある。そして今、最も多いのが愛玩用として室内で飼っている小型の犬で人の目に付く存在である。

猫に比べ犬の方が人間の役にたつ分野は大きい。猫だって昔は人間の大切な穀物を食い荒らす鼠対策に大いに役立ち、殊にペスト病が流行った中世期に猫を大量に移入し、鼠を駆逐することによりペスト病をなくしたという実績があるくらいだから人間にとって有難い益動物ではあるが、昨今は鼠もそんなにいず、猫の活躍する場もなくなったのでもっぱら愛玩用として各家庭で飼っているのに過ぎなくなっているようである。

そこへ行くと犬は大昔から人間の狩猟時の手足となり、穴居生活をしている時でも一緒に住んでいたという記録があるそうである。犬のそもそもの祖先は狼だと言われている。
大昔は狼が人間を食い、人間が狼を食べていたが、段々人間が石斧や槍等の武器を持つようになり、狼が人間に近づかなくなり、逆に人間が従順な種類の狼や子供の狼を捉えて、餌を与え、育てて、身内に引き込み、他の狼や動物から人間を守るために役立てようとしたのが、段々、犬型化していったと言うことである。

そのような進化過程から人間と犬の関係は他の動物と比べて、親密度が強く、早くから愛玩だけでなく、働く動物として人間が深く関心を持ってきたものだろう。
猫の場合も割合古くから人間に愛されてきたが、一方、猫の愛嬌の無さが災いし、逆に化け物としてとらえられたり、事件を起こす元凶として遠ざけられたりしたことがあり、噺の方では好き嫌いが半ばしているようである。

そこへ行くと犬の方は擬人化どころでなく、人間そのものになってしまう「元犬」の様な噺があり、人間になっても犬の性格は失わないところが笑いを生じさせてる。
噺には犬という演題をつけないでも、噺の端々で話題として一寸出てくる犬もある。

「粗忽長屋」で赤犬を「あかー出て行け」と叫んでいるのを「かかあー出て行け」と聞いて、また夫婦喧嘩が始まったと心配する隣人が居るし、「不精床」では以前、親方が切ってしまった客の耳に味をしめた野良犬が、今日も客が入っているのを見て、またご馳走にありつけると店に入ってくる人懐こい犬もいる。「品川心中」では女郎との心中に失敗した貸本屋の金ちゃんが、品川の海を上がって親分のところに行く時に,髪は乱れ、着物も破れ姿となり、町を歩いていると町内の犬に吠えられ、町内送りをされており、夜の寂しさと金ちゃんの哀れさが伝わってくる場面を表している。

上方噺の「鹿政談」では豆腐屋の親爺さんがきらずを食べている鹿を犬と間違えて殺してしまい、お白州で奉行に犬と思って薪木を投げてしまったと正直に白状し、奉行の方も無理に犬だと周囲の者に納得させて切らずに帰している。

「胴乱の幸助」では喧嘩とあれば何でも仲裁に入ることを道楽としているが、人間ばかりか、犬の喧嘩にまで仲裁をする気で餌を与えて、騒ぎを収めている。そして犬そのものではないが、話の一つとして「青菜」ではかみさんがいつも「鰯がさめちゃうよ」と亭主を呼んでいるが、亭主の方は家の恥をさらすと文句を言って「鰯ばかりではあきる」と言うと、かみさんが鰯には滋養があり、カルシュウムが沢山あり、「犬を見てごらん,風邪ひとつひかないよ」と反論して、犬の元気の源を語っている。

「骨違い」でも嫉妬深い大工の熊五郎が、かみさんが棟梁の息子を慰めているのを聞いて、間男と勘違いして、息子を薪で打ち殺してしまい、弟分の家の床下に埋めた貰うが、後刻、訴えられ、お白州に出ることになるが、弟分が息子の死骸と犬の死骸を取り替えてくれて居たので、助かったと言う噺だが、ここにも犬が変な形で出て来ている。

「元犬」と同じような人間変身の噺であるが「犬の字」では犬殺しに捕まえられそうになった時に、店の主人に助けた貰った白犬が恩返しをしようと神様に祈り、人間になって真面目に勤めたところ、主人が嫁を取ってやろうとするが、しかし、元が犬だから正体が出ると嫁の親に済まないからと断っていたが、ある晩、男に酒を飲ませ、寝入った姿を見ると、大の字になり寝込んでおり、枕を肩の処に置き、犬の字になっていた。

犬は昔から医学的にも役にだって欲しいという願望があったのか、「犬の目」では眼病に罹っていた患者に医者が手遅れとばかりに目を繰り抜いて、洗って干しておいた所、犬が来て食べてしまった。困った先生はその犬の目を繰り抜いて男にはめ込むとよく見えるようになったが,夜目が効くようになると共に、小便時に片足を上げてするようになった。

「犬の足」の噺で、物知りが、昔は、犬は足が3本しかなかった。しかし3本では不便なので神様に4本にして欲しいと頼むと、神様は不憫に思い,五徳の足が4本あるが3本でも宜しかろうといい、1本を犬に与えてくれたと言う。その証拠には犬は小便をする時、1本は神様から貰ったものだからといって片足を上げてやっているという「薬缶」に似た無学者、論に負けずの噺。
「大店の犬」では店の前に捨てられていた3匹の子犬のうち鴻池の岩崎家に貰われて行った犬は大きくなり、仲間にも勢力があり、親分株になっていたが、ある日よその犬が苛められているのを助けてやり、身の上話を聞くと弟犬である事が判る。話の最中に家人が「こいこい」と呼ぶので行ってみると餌がもらえた。また「こいこい」と言うので行って見たら坊ちゃんが小便をさせられる処だった。小便つながりの三席。

「犬の無筆」犬が字を知らないのは当たり前だが、犬に吠えられたら虎という字を手に書いて握れば吠えられないと聞いた男が、早速やってみたが、やはり吠えられてしまった。男はこの犬は無筆だと言う。

犬を可愛がるのもいいが、けじめはちゃんとつけないと笑いものになる。「天王寺詣り」別名「犬の引導鐘」では大阪天王寺で彼岸の日に無縁仏の供養のため、引導鐘をつけると聞いた男が、寺に行き、死んだ犬の供養をしたいと申し込むと戒名を問われ、「犬の黒」と言ったはいいが、ついでに親の戒名も唱えてくれと言う人間の尊厳を無視したとんでもない噺だ。今でも人間の墓より、犬の墓の方が立派と言う話もあるそうだ。

犬が口を利くのは擬人化の一歩であるが「いつ受ける」では博打ですってんてんになり家に帰り、かみさんの懐を当てにしたが銭はないといわれ、着ているものを出させ、これをぶち殺す〈質に入れる〉と言うと、いつ受けると言われ、仕方なく親にも子供にも聞いて見るが、これもいつ受けると言うのみ。腹立ち紛れに表に飛び出すと、寝ていた犬の尾を踏んでしまう。犬がなき騒ぐと「畜生ぶち殺す」と言うと犬までもがいつ受けると言う。

「いろはかるた」にも「犬も歩けば棒にあたる」と言う言葉がある。言語学者の金田一秀穂先生によれば「何でもやってみるが良い、そうすれば幸運にあたることがある」と言う良い意味がある言葉だそうである。犬という語を借りて何か人間に幸せをもたらすと言うことを表しているそうである。

犬の持つ嗅覚は人間の100万倍以上だと言う。聴覚も猫には劣るが、人間の7倍だと言う。人間はこの感覚を活用して狩猟時に使ったり、警察が捜査の際に犯人の追跡に使ったり、麻薬探知犬は空港などで活躍して、大いに人間の役に立ってくれている。また他の動物と違い、知能が発達していることが人間に幸せをもたらして呉れており、盲人が外出のときに助けて呉れたり、身体の不自由な人のため介助をしてくれたりしている。また、番犬として夜間や家人の居ない留守時に不審者の侵入の警戒をしてくれている。

飼い主が外出から帰って来ると、歓迎の態度を全身で表してくれ、益々可愛くなり、思わず頬ずりしてしまう人もいる。老人介護施設ではこの頃、老人たちの心を癒してくれる「癒し犬」として導入しているところもあるようで、犬の働きが益々喜ばれている。
犬が噺の上で単なる笑いを起こす存在だけでなく,みんなに可愛がられるペットとしてその活動分野を拡げていくのであろう。

平成21年5月
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2009年04月01日

【095】旅籠屋(鈴木和雄)

落語には度々旅の話がとりあげられている。 そしてその旅路で泊まる旅籠屋が舞台になっていることが多い。 私達がよく聞く噺では「宿屋の富」の馬喰町の宿、「抜け雀」の宿、左甚五郎の泊まった「竹の水仙」と「鼠」に出てくる宿、「宿屋の仇討ち」の宿、「御神酒徳利」に出てくる神奈川宿の宿、「小間物屋政談」に一寸で出てくる小田原の宿、「品川心中」の飯盛旅籠等がある。

昔の江戸には旅籠屋は馬喰町に集中されており、この旅籠屋は大部分が公事宿であって、訴訟をする者や役所に用事があるものが宿泊する宿であった。幕府は初期においては江戸に滞在する旅人の統制のため馬喰町以外の宿泊は禁止していたが、その内、郡代の役所に行くものとか、寺社の参詣に行くものが増え、近隣の町の旅籠屋の宿泊も認めざるを得なかった。

地方に行くと各藩が統制していて、城下町での外部者による宿泊は隠密行動の監視のため一泊しか認められていなかったが、江戸市中は割合緩やかだった様だ。
一般の寺社参詣人や商人は自分の国のものと馴染みの定宿となっている馬喰町の周辺の宿に入ったり、 所中、江戸に来る商人は取引先や知り合いの家を訪れて泊まることが多かったと言う。

廻国修行僧や巡礼者らは馬喰町隣町の橋本町の木賃宿、門付けを行なっていた芸人(乞胸)の人達は下谷山崎町の木賃宿に泊まったと言う。木賃宿は本来、食材を持ち込み、宿から薪炭を買って、自分で煮炊きをするというのが原則だったので、宿料は安かったが、料理はお粗末で、風呂は無く、銭湯に行かねばならなかった。

旅籠屋は街道筋でいえば、東海道の五十三次の宿場があるが、ここでは伝馬の継ぎ立てを行なう負担の代償として、市立てが認められており、問屋場が設けられ、その地方の有力者が問屋として采配し、市に来る商人の人馬輸送を扱っていたが、その問屋が商人が泊まる宿(商人宿)を営み、その内、一般の旅人や寺社参詣の人も泊めるようになったという。

この問屋は土豪の有力者だったため、町の中心部に本陣を持ち、幕府の要人や大名などが宿泊できるようにしていた。そして次第に本陣、脇本陣、飛脚宿、商人宿を含む一般の旅籠屋と広がって行き、宿場町には各地に旅籠屋が設けられた。

商人宿は越中富山の商人や江州商人のように絶えず訪れてくる人達の定宿となっているものもあるが、一般の商人や寺社参詣人でも泊まれるようになっている一方、御用宿となっているものもあり、武士も泊まれた。この場合、商人や参詣人は宿泊費は180文から
200文ぐらいだったが、武士は幕府が定めた庶民が利用する時の半額の御定賃銭で泊まれたという。
飛脚宿は飛脚人のための旅籠屋で、これも御用宿であるが、一泊300文と高く、その為風呂は何時でも沸かしてあり、何時でも入れるし、宿泊環境もよかったと言う。
一方、各藩の城下町の旅籠屋は幕府の役人や大名が泊まる宿があったが、この為に徴用される人足のため、人足宿が設けられており、藩内の人が御用のために城下に滞在する時の郷宿もあり、大体、旅籠屋の多い町の外れに設けられていた。噺に出てくる一文無しの旅人はこうゆう旅籠に泊まったのかも知れない。

大阪の場合は昔から経済都市であったから、商品や物資等の貨物が激しく動くからさまざまな人が多数集まってきて、市内で泊まる事が多かったのでいろいろな形の旅籠屋が多数営まれた。一般の旅人のための宿、伊勢参り、高野山詣り、熊野詣で、等の人のための寺社宿、道者宿、勧進宿、商人宿、飛脚宿、これらに加え、京都―大阪間の三十石船や金比羅詣りに行く人の舟の待ち合わせの船宿があった。

船宿は主として船乗りや船で物資を輸送する人を泊める宿であって、普通の人は舟に乗るまでの待合せの宿であったが、宿泊はさせなかったという。
旅籠屋はお客である旅人にサービスをすることは勤めだったが、上方の大きな旅籠屋では芝居見物に案内したり、金比羅参りの客には船着場まで見送りするついでに市内案内をすることもあったという。

旅籠屋という形が出来たのは江戸中期だという。江戸時代の始め頃までは、旅人が泊まる所は全て木賃宿が主流だったそうだ。東海道のように割合早く交通が拓かれたところでは食料の確保が得易かったが、山間地では米の取得が困難で木賃制度が維持されたという。

17世紀中頃になると商人や富裕な農民が旅に出ることが増え、旅籠屋の利用が多くなったそうだ。またそのころになると旅人を泊まらせるだけでは収入が限られ、宿場の旅籠に課せられる伝馬役や御用宿の負担が宿場町の人々に掛かってくるので、所謂、飯盛女を置いて、夜の楽しみの場を設けるようになった。

その内、段々江戸の吉原の様な様相を呈してきたので、幕府は宿場維持のため、飯盛女を置く事を黙認するようになってしまい、享保三年(1718)に江戸周辺では品川、内藤新宿、板橋、千住の四宿の旅籠屋に一軒について飯盛女二人を認めるようになった。

しかし、吉原のように花魁と呼ばせず、あくまで飯盛女としてのみとなっているが、噺の「品川心中」にあるように筆頭女郎は板頭と呼ばせたことはご存知の通り。
天保期になると各街道で飯盛女が居る宿が増えてきて、一般の平旅籠屋の経営を圧迫してきた。
その為、平旅籠が飯盛女を借りて来て、客に世話することもあったようだ。噺の「三人旅」−別名「おしくら」又は「鶴屋善兵衛」では宿の亭主が客に対応する女が居ないため、外から用立てている話があるが、こんな状態だったのかも知れない。

飯盛旅籠が増えて落ち着いて宿泊できないようになると、寺社参詣のような大きな講の団体の人達は安心して泊まれない。この為、定宿を指定しておいて、宿泊する所を確保するようになった。これは旅人ばかりでなく、旅籠屋にとっても年に何回か来る講の団体客を確保できるので、双方にメリットがあった。

宿場町でも旅籠屋が栄えたのは五街道〈東海道、中山道,奥州道、甲州道、日光道〉であり、この内、東海道は旅人の通行が多く、繁昌したという。しかも品川は江戸を出て直ぐの宿駅でありながら、飯盛女が居る旅籠が多く、江戸の町内からこの飯盛女を目当てに来る男達が多く来て、大いに栄えた。「居残り左平次」、「品川心中」の噺がそれを示している。

その他、旅籠屋のもうけられる所は旅の障害となる峠や河川の近くが多かった。例えば、小田原の宿は箱根越えがあり、夜の明けぬうちに峠を越えようと松明を持って宿を出て行く旅人が居た。また大井川等の川越をする旅人は川の水量により、川留めがあったりして旅籠で待たねばならなかった。

関所もまた障害の一つで、関所を始めて通る旅人にとっては旅籠屋の世話があり安堵して通ることが出来たという。関所周辺の旅籠では有料で臨時の手形を出したり、関所周辺の裏道を案内して稼いだりしたという。

一般の旅籠屋は武士であれ、町人であれ誰でも泊まることが出来たが、身なりの良くない者、人相の悪い者に対しては旅籠屋の方で客を選び断ったが、宿泊は原則として相宿だった。この為一人旅の場合、旅籠賃以外に茶代(チップ)を渡さないと相宿(相部屋)となった。噺の「宿屋の仇討ち」でも武士が前夜は相宿をさせられ、落ち着いて寝られなかった事を訴え、何程かの茶代を出したのであろう一人部屋を確保できたが、今度は隣の部屋で若い連中が騒ぎ、何度も番頭を呼び出している。

しかし、相宿は同宿する旅人に用心しなければならない不安がある。「江戸の旅」今野信雄著にも昔の「旅行用心集」八隅芦巻著に記されている事柄がのせられているが、道中で道連れになった人が、如何に実直そうに見えても同宿したり、薬をすすめられても飲んではいけない(護摩の灰に気をつけるため)、酒乱、狂気の人には用心せよ、風呂に入る時は金を他人に預けてはならない、金は目の届く所に置けと言うようなことがのべられている。

昔の旅では道中いろいろな障害が発生する恐れがあり、旅をよくする人にとっては前記のように定宿は安心なものであった。江戸の馬喰町の公事宿は特定な宿と町村の関係が作られている宿なので、安心して泊まれるし、また泊められる。

各藩でもその国の領民が泊まれる宿があれば、その国の人が集まってくる宿となり、便利である。富山の売薬商人のように、所中同じ路線を旅する商人や旅なれた人は定宿を決めておけば、国の便りもそこに届けてもらえるので、連絡に便利であった。

富裕な商人の定宿については「御神酒徳利」の中で馬喰町の旅籠屋狩豆屋の番頭善六が鴻池のご支配人に連れられて神奈川宿の鴻池の定宿である新羽屋源兵衛の宿に泊まっている。ここでどんな事があったかはご存知の通り。

宿に着くと女中が足すすぎの湯を持って来てくれる。旅人が足をすすぎ、脚絆を洗っている間に荷物は部屋に運ばれる。部屋でお茶を飲んでいると亭主か番頭が宿帳改めに来る。しかし、これは風呂に入った後のこともあった。

茶代を前もって出すこともある。ことに一人部屋を欲しい時は前に払う。そうすると出されるお茶も菓子も違うし、蒲団も一枚多いと言われた。また、客扱いがよく、料理が格別で蒲団も良かったし、茶菓子も上等なこともあった時は旅籠代に加えて茶代をおいてくるということもあった様だ。

旅籠屋の規模は大体が3間、間口以上で、4−5間、間口の旅籠屋が多かったと言う。しかし、飯盛旅籠は平旅籠屋よりも間口が大きく、品川ではいずれも飯盛旅籠の方が大きな構えをしていたという。

旅籠屋は座敷の畳数と部屋の数で宿泊客の収容数がきまってくる。川崎の宿では20畳の宿から160畳の宿があって、平均70畳だった。中山道の山間地の旅籠屋は20畳から60畳まであり、平均は36畳で大体が規模が小さい宿だったという。

これらに比べると大阪、京都の大きな宿は部屋数102室、1室を4畳半とし、二人泊まれるとすると、200人以上が泊まれた。旅籠は二階建てが多かった。一階が家族の生活のための部屋、二階が客の宿泊室だった。

幕府は役人や大名のため、五街道の宿場町の人馬賃銭と木賃銭を定め、五街道以外は各藩
が定めた。旅籠屋は民間のため、公定金額はないが、一応夫々の身分によって、料金が定められた。「江戸の宿」深井甚三著によれば次のようである。

天保十三年の中山道の旅籠賃
武士上:180文中:156文下:132文
百姓、町人下:132文中:132文下:132文
商人2匁5分(250文〉〜3匁(300文)
品川宿の料金200文  
(安政以前)
東海道の上旅籠200文中山道148文
京都の通常の旅籠200文〜250文上旅籠3匁5分(350文)
大阪の下旅籠200文上旅籠3匁5分(350文)
客が望めば銀5匁〈500文〉金2朱(銀7−8匁)もあった
 

旅籠の食事は大体が一汁三菜であまり美味しいものではなかったという。但し茶代をあらかじめ置いた客に対しては別の采をつけたそうである。特に大きな旅籠屋を除いて料理人は置いていず、旅籠の女将さんと下女たちが料理したものだった。

食事の摂りかたは馬喰町の公事宿では宿泊者全員が台所で食事を摂っていたようであるが、一般の旅籠屋では客の居る部屋で女中さんの給仕で食事をしていたという。

風呂は江戸市内では火事の対策のため各家で風呂を焚くことは無かった。この為、町民は皆、銭湯に行かねばならなかったが、旅籠の客も同様な処置を受けざるを得なかったようだ。しかし、主要街道の旅籠屋は御用宿を兼ねている所も多く、元禄頃には風呂を設けており、風呂に入れることが売りの一つだったと言う。

ただ、風呂がたてられても、宿屋は薪代の節約と手間を惜しむため、一度沸かしたら、そのままで、追い炊きをすることはなかったので、大勢が入るとぬるい湯となり、皮膚病をうつされる恐れがあった。この為、七つ時(16時)頃までには宿に入らないといい風呂に入れないと言われ早くに宿に着いたのだそうだ。

しかし、文化文政以降になると、女中さんが入浴中の客にぬるければ沸かすと声をかけるようになりサービスが改善されたという。
もう一つ当時の旅籠屋で衛生面で問題なのは虱、のみが居たことである。充分な消毒薬品や殺虫剤がない時代は一旦客に持ち込まれると彼らは繁殖力が強く、なかなか退治が難しかった。零細な旅籠屋は頻繁な掃除や蒲団の天日干しは大変な作業だった。
この点、本陣とか上等な宿はこの心配が無かった。上宿を選ぶのは防犯ばかりでなく、虱のみのような害虫から身を守り、ゆっくり寝られると言うことでもあった。
旅籠屋は経費節減のため、夜具として蒲団の上下は提供したが、敷布は無く、浴衣も無かった。この為、旅人は寝巻は自分で持参する必要があった。

旅人へのサービスとして江戸では芝居見物や市内見物の案内があり、京都では御所の見物やご宝物の拝見の案内があったことは知られるが、その他のサービスとして身軽に旅をしたい人のために前の宿場で荷物を預かり、客の確保を確実にしたり、帰国する客に対しては国元に荷物を送る飛脚屋を紹介したりした。

旅は何といっても日常とは違う異界の地を行くことになる。常に用心をして、緊張感一杯の生活を送らねばならない。そんな時に安らげる旅籠屋に入り、心暖まる美人の女将のもてなしを受けるとほっとして異界に居る事を忘れる。昔から宿の経営は女将に左右されるといわれる。まして江戸時代は旅人の殆どが男性であるから、客が来るかどうかは女将の腕に頼るところが多かったに違いない。そしてその伝統はいまも続いているのであろう。


平成21年4月

posted by ひろば at 08:29| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ