2008年08月02日

【089】噺に出て来る袴(鈴木和雄)

昔は男が外に出る時は紋付羽織に袴を着けてないと一人前と認められないところがあった。その為、「妾馬」の八五郎も「御慶」の八五郎も羽織、袴を着けることによって大威張りで外出して行った。
ましてや、武士の場合は「普段の袴」で話されているように、常に袴を着けて勤めに出なければならなかったし、公の外出は勿論、私用で町中を歩くときも袴は必要なものであった。

「雛鍔」の噺に出て来る小さな若様でも城中にあっては可愛い羽織、袴を着けていなければならなかったのである。「妾馬」では八五郎は妹のお鶴の方の男子出生で、殿様に招かれてお屋敷に上がったが、門前で門番に呼び止められ、不審者と疑われて、あっちへ行けといわれてしまうが、男の姿をよく見れば、羽織、袴をつけている。

大家さんから借りて来た羽織、袴とは言え、足袋も履き、草履姿である。これで門番も見直して、屋敷に来た用向きを訪ねると、家老の三太夫を訪れてきていると言う。門番は失礼があっては大変とあわてて案内をしている。これも羽織、袴のご利益であり、これで八五郎は安心して屋敷内に入れることが出来た。

若し、八五郎がいつもの普段着のまま来ていたら。門番はいくら八五郎が妹のお鶴の方に会いに来たたと言っても、屋敷内に入れなかったであろう。 屋敷からのお呼び出しの間に立ってくれた大家がさすが町役であり、当時の常識を知る人であったから、武家の屋敷に出入りする時はどのような服装が適切であるか、弁えていたから、八五郎一家の幸せにつながることであり、八五郎が事前に目をつけていた自分の家の箪笥にあった羽織、袴を貸してくれて送り出して呉れたのであろう。

「火焔太鼓」の骨董屋の亭主も古臭い太鼓を担いで、お屋敷に上がる時は袴を着けていかねばならなかった。当時は武家と取引をしようとする商人は必ず羽織、袴を着けなければならないという定めがあったという。

「御慶」では富籤に当たった八五郎が、諸所に新年の挨拶に行くために、羽織、袴を古着屋で買い求め、正月元旦を待ってあちこちに「御慶、御慶」と言って歩く噺で、羽織、袴はお祝い時の正装なので、そんな恰好をして喜んでいたのであろうが、着慣れないものを着て騒いでいる八五郎の姿が面白い。

「普段の袴」に出て来る武士はどんな袴を着けて町中を歩いていたのであろう。 墓参の帰りに寄った古道具屋の店先で店主と目に入る品物を見ながら、話している内に煙草の火を袴の上に落としてしまい、店主が慌てるところを普段の袴だからと鷹揚なところを見せているが、これを見ていた、八五郎が安い煙草で真似をして見るが、「鵜の真似をする烏」の例えの通り失敗する噺になっている。
これも大家さんの借り物の袴だったが、当時の大家は袴の一枚や二枚は貸せる余裕があったのであろう。
羽織や袴を着けていることが武家に立ち入る一つの要件になっていたのは何故なのだろう。

日本の昔、律令制が施された頃にお上は役所に勤める官人に、麻の白布で作られた袖のある浄衣と下は今の短ズボン風の膝下まであるはき物(これを袴と言った)を着けさせた。この頃一般の庶民は貫頭衣という今の襦袢の袖のない膝ぐらいまでの衣料を着て、日常の生活や農作業を行なっていたという。

このため、庶民がしかるべき所に赴く折は、膝下が隠れるように、腰の周りに布を巻き、あたかも今のスカートのようにして、膝下を見えないようにしていたという。 
段々律令国家が整備されていくと、袴も下に長くなって行き、踝の辺りで、紐で結んでいくような形になってきたという。

更に武士階級が天下を取るようになると大紋や素襖があらわれ、廊下を引きずるような長袴が支配階級の人々の間で使われるようになったり、裃(かみしも)と言う上〈かみ〉と言う肩衣(かたぎぬ)、下(しも)は袴という上下一体の服装が出て来て質素の内にも凛々しさが偲ばれる姿となった。

しかし、上と下が同一の柄でなければならないという決まりも、下の袴の裾が絶えず足元にあるため、汚れが激しく、下の袴だけ取りかえる必要が出て来て、別々の柄や生地でもよいことになった。
更に、肩衣の下は小袖の着物を着ることになるが、袴はその小袖の丈に合わせてつくられるが、これでは股繰りが浅くなり、乗馬に適してない。それで足の入る内股側に深いマチをつけ股繰りが深くなり、馬に乗りやすくなった。これを馬乗袴と言った。

肩衣から離れて独立した従来の袴は「平袴」と言った。当初は細い襞があるだけの袴だったが元禄期になると綱吉に召し出された仕立て同心の池上弥左衛門が弥左衛門裁ちという細かい襞を両膝の中道に寄せる「寄せ襞」方式にし、袴の両脇から手を入れて、左右に拡げて坐れるようにした。

しかし、これではまだ立ち居に不便なため、その後広島屋という神田三河町の仕立て屋が、「二の襞開き」と言う形を考案し、坐ると自然に扇のように袴が広がるので大いにもてはやされたが、これが現代にも採用されているという。

袴にはこの他「野袴」という裾に黒ビロードのふち取りがつけてあり、裾が細身になっているもので、駕篭に乗るのに適していたという。ご用達の商人が江戸城に入るときは縞の野袴をはいて、武士とは異なる恰好をした。
また、裁付袴(たっつけ袴)と言う今の大相撲で呼び出しがはいている腰の脇が大きく開いて膝から下が脚絆になっていて、さばきがよく、昔の大名などは普請場の視察の時などに皮製のたっつけ袴をはいて行ったそうだ。

そもそも、江戸期には元禄の頃までは、まだ、股引きはなかった。町の職人は室町時代にスペインから入ってきたカルサオというものを真似して作られたカルサン(伊賀袴)をはいて仕事をしていたという。 大工、料理人、髪結、掃除の下男等が木綿の生地で作られたものを着、山に入る木樵や狩人は皮のカルサンをつけていた。後になり武士も着るようになり、旅行や仕事の視察などにも着用するようになった。これがたっつけ袴の前身ではないかと言う。

今の時代は袴を着る時は殆どない。稀に袴をつけている姿を見るのは相撲界の行事の時であろう。
年に6回、東京の両国を中心に名古屋、大阪、福岡の本場所に見ることが出来る。初日や千秋楽の挨拶の時の幹部たちのそろっての羽織、袴姿や場所中の行事や呼び出しの素襖姿やたっつけ袴、検査役の平袴姿がテレビを通して見られる。その他、歌舞伎や日本舞踊を演ずる人達の袴姿、剣道の時の選手たちの姿、それに落語、浪曲、講談の口演で見せてくれる袴姿等、時々日本の昔の武士たちの様子を髣髴させてくれる。

しかし、素人の我々が袴を着けるのは結婚式の婿さんになった時とか、何とか勲章を貰うような時とか、極く一分であろう。今は普通は袴を着けるようなお祝いの時は、洋装が主体でモーニング服を着るのが一番の正装になっている。

でもこれは着る人の社会的価値を表わすものではない。大臣でも国会議員でも、役人でも、会社の社長でも社員でも其のモーニング姿に差はない。
昔は本来なら平等たるべき人間を生まれや育ちで区別し、士農工商と分けて、武士階級だけを優遇し、他は食から衣服まで制限を加え、其の自由な動きを抑え込もうとしていたが、段々時代が動き下層階級の人達が力を得るようになると、一定の要件を満たせばある程度の動きは認めるということで、衣服などでも羽織、袴を着けていれば出入りを認めるとか、商売を許すとかの不条理な面があった。
いまは羽織、袴を着けなければ駄目、モーニング服を着なければ入ってはならないということはない。勿論、時と場所により、礼儀のため、それ相当の衣裳をつけることは当然であろうが、あとは常識で判断すればよいのである。昔は物が人を動かすことがあって、噺は面白く出来ていたのだろう。であるから「妾馬」が生まれ、「御慶」があり、「八五郎出世」」が出来、形を得ただけで威張って歩く主人公が可愛く感じられたのであろう。

平成20年8月
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2008年08月01日

【088】羽織の噺と話(鈴木和雄)

昔は人が旅に出るに際し,防寒,防風,防雨、防塵のために道中用の衣服として、上っ張りの身丈が普通のものより短いものを着て、それが胴服と呼ばれた。この上っ張りの部分は帯をすることなく放り(ハウリ)着ることから「はおり」となり、当て字として羽織が生まれたという。

胴服は道服とも書かれているそうであるが、これは医者、僧侶、修行者が着る道服とは異なると言う。道服は後に「十徳」と呼ばれる衣服に変っていくが、羽織はその十徳が発展したものだといわれている。

この胴服は着脱が容易であったため、武家の上級者にも用いられ始め、段々華麗なものになって行き,戦時における鎧の上から着る陣羽織になったり、馬上で着る「ぶっさき羽織」という背中の縫い目が下のほうで割れており乗馬の時や刀を差しているときに鞘が障害にならないようになっていたという。

しかし、江戸初,中期は羽織はそもそもが胴服が少し上等になったもので,閑居時に室内で着る私服であるから,客に会ったり、公式の席に出る時は着ることは許されなかったそうである。
その当時の羽織は生地が羅紗、ビロード、革、紙子、鳥毛が使われ、割合、柄なども変化に富み、美しいものも作られたそうだが、中、後期になると、段々、色もくすんだものが選ばれるようになり、さらに必ず家紋をつけ、準礼装として使われるようになると、黒に集中していったと言う。

幕府の将軍が遠行をする際は御徒組頭は茶縮緬の羽織、部下の御徒侍は黒縮緬の羽織を着て供揃いをして行ったという。
そして江戸後期から末期になると、これまで武家の上級の武士達は公式には大紋を着たり,素襖(すおう)と言う大仰な服装から、小袖を着て裃と言う肩衣、袴を着けた衣裳になり、更に羽織,袴の恰好も認められるようになり、紋付の黒羽織は社会的にも昇格して行った。

一方、民間でも着物は小袖を着て生活していたのだが、当時でも働かずに暮らせる旦那連中は着物の上に羽織を着て帯をすることなく防寒、防風、防塵のために はおっていたという。この時代は民間でもこの羽織形式の衣服は礼装と認められては居ず、客に会う時は羽織を脱いで行くのが礼儀だった。しかし、武士の礼装化と合わせて民間でも黒紋付羽織が使用されるようになり、婚礼、葬儀,おめでたい会合には羽織を着て行くことが礼儀とされるようになった。

羽織を着ることが出来るのは、生活に余裕がある金持ちのシンボルと考えられていたから、村の寄り合いなどで羽織を着ているか、いないかで村内の立場がわかる、標みたいなところがあったようだ。

そこで「金の大黒」では羽織の所有者が長屋に一人しか居ず、大家の息子が金の大黒を掘り当てた祝いの席に招かれて、一枚の羽織を廻し使いする話が演じられていたが、実際、昔、田舎では祝い事があった時に、貧乏百姓の家に羽織などがあるはずもなく、何処からか借りてきた一枚の羽織を廻して使い、祝いの挨拶に行かざるをえなかった。

「羽織の遊び」では金のない連中が若旦那に女遊びに連れて行ってくれとねだると「羽織ぐらい着ていかねばだめだ」と言われ、羽織を持っていない熊公は大家の家に借りに行くと,おかみさんに「祝儀か不祝儀でないと貸せない」と言われ、葬儀だといって近所の人を次ぎ次ぎに死なせてしまう。 これも羽織を持ってない男が、持っているふりをして色街でもてようとする話。

ところで、当今、噺家さんが高座に上がるときに羽織を着て出てくるのも、お客に対する礼儀を失わないようにという意味から最高の衣裳をつけて出てくるのであろう。寄席や落語会では下働きをしている前座さんが「開口一番」と言う形で練習のため、高座に上がり、噺を聞かせてくれる時があるが、この様なときは前座さんは羽織を着られないそうである。まだ修業中の身であるからだろう。

噺家さんは羽織を着て手に扇子、懐に手拭を持って高座に出て来て、座布団に座り、そろりそろりと話を始めるが、先ずは今日来場のお客さんへの入場の御礼とか、お世辞とか、寄席や落語会に来るまでの町の様子、昨今の社会の状況への不満,それに一、二の小噺を枕としてやっと本題の噺に入って行こうとするが、この時にやおら羽織を脱ぎ始める。そしてこの羽織を自分の後ろの床の上に目立たぬように置いておく。

先代金馬さんの随筆のなかに「寄席ではこの時に楽屋近くまで放り投げ、次の出演者が来た時に前座さんがこの羽織を引いて現在の高座の人に知らせるようになっていた」という。そのまた引き方が難しかったとも書かれていた。

ところが演者さんが本題に入っても羽織を脱がない時が時々ある。これは後の段取りを考えて意識的に脱がないのだそうだが、先代金馬さんは「逆に意識して脱がないといけない例を言っている。「三人旅」の噺では本題に入る前に脱いでおかないと、馬に乗ってしまってからではどうにもならないから」と言っている。

この他、金馬さんが羽織を脱ぐ形でうまいと褒めている噺家さんで(橋本)円馬師がおり、「夢金」の中で船頭が蓑を脱ぐ時の恰好を羽織を脱いで擬して雪を払ったようにして自分の脇においていたと記している。また街中で友達と喧嘩した時に始める際に「この野郎」と言い掛けながら羽織を脱いで行くと言うようなこともあったそうである。

「佃祭」でも娘が吾妻橋で助けてくれた旦那と共に家で亭主の帰りを待って居る時に、表から亭主が帰って来なりに浴衣を脱いで、家の中に放りこんで行くが、これを羽織を脱いでこの情景の忙しい様を表している。
本題の導入から随分長い時間がたってやっと羽織を脱ぐときがきたのである。


先日も菊之丞さんの「元犬」を見ていたら、人間になった白犬のために桂庵の旦那が自分の羽織を脱いで、新人間に着せ掛けている形を見せていたが、これは本当の羽織と噺の羽織が全く一致してよかった。

また,市馬さんの「掛け取り」でも、相撲好きな借金取りが来た時に、これを迎え撃つ八っあんが、やおら羽織を脱いで相撲取りの真似をして借金取りを追い返している。これらは羽織が効果的な小道具として使われていることになろう。

昔は芸人の羽織は黒いものと決まっていた。黒い生地に白い紋を浮き立たせることにより何んとなく厳粛なものを感じさせるものがあるが、噺を聞いていて羽織を脱ぐタイミングをどのような時につなげているかを想像するのも楽しみのひとつであろう。

平成20年8月
posted by ひろば at 08:23| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ