2010年01月31日

【104】駕籠と乗物(鈴木和雄)

 2008年にNHKが放映した大河ドラマ「篤姫」の中で姫様が乗ったというお駕篭(貴人が乗る駕篭は乗物と言ったという)がアメリカのスミソニアン博物館から貸し出されて江戸東京博物館で展示された。篤姫さんが乗った乗物は展示場の説明では「黒塗二葉葵唐草葵牡丹紋散蒔絵女乗物」と名付けられ、大きなガラスケースの中に鎮座ましましていた。

 この展示会には他にも多くの乗物や駕篭が出品されており、昔、殿様や奥方、姫君が乗った乗物、駕篭を一覧することが出来た。女乗物では他に「梨子地葵紋散松菱梅花唐草文様蒔絵女乗物」とか「黒塗梅唐草丸に三階菱紋散蒔絵女乗物」「松竹梅椿剣酸漿(かたばみ)紋蒔絵女乗物」、等々、これ等の名前を聞いただけで乗物の外側の飾りの模様が想像されよう。

 乗物の内装も源氏物語の絵巻物の絵が画いてあるように、いろいろな美麗な絵が画いてあり、昔の貴婦人はあの狭苦しい乗物の中でも飽きなかったことであろうことが想像できるものであった。これ等の乗物本体の自重が56kgから58kgで夫々の乗る人の体重や着る物、持ち物によるであろうが、全体では80kg近くになったと言う。これを何人の陸尺(六尺とも書く、ろくしゃく)(担ぎ手)で担いだのだろうか。

 落語には女の貴人の噺はないが、男では殿様が出てくる噺では「紀州」の中で尾州の殿様が駕篭といっているが、乗物の中で、鍛冶屋の朝の仕事で刀を打つ音を聞いて幸先、吉と微笑んでいる。「竹の水仙」でも通りかかった細川公が甚五郎が作った「竹の水仙」を目ざとく見付け、買い取る事を部下に命じている。

 「火焔太鼓」でも古道具屋の小僧が掃除のために叩いた太鼓の音を乗物の中の殿様が聞きつけて、その太鼓を見たいから城中に持って来るように命じている。この他、落語に出てくる駕篭は上方噺の「住吉駕篭」「たばこの火」、江戸の噺で「蔵前駕篭」「蜘蛛駕篭」「紋三郎稲荷」「二人旅」があるが、これ等は貴人の乗った乗物と違い、簡素なもので、当時、使われていたものを揚げて見ると次のような物がある。

 展示場にあったり、図示で説明されていた乗物や駕篭は乗物、女乗物のほか、留守居駕篭、江戸医師駕篭、御忍駕篭、隠居駕篭、権門駕篭、献物駕篭、唐丸駕篭、その他、法仙寺(宝泉寺)駕篭、四つ手駕篭、(関西では四つ路駕篭と言った)、網代駕篭である。

 留守居駕篭は各藩の留守居役の武士が乗るもので、格式のある立派なもの、江戸医師駕篭も噺の「代脈」に出てくる医師が乗るのに相応しいもの、御忍駕篭は余り立派ではないが、大名が御忍びで出かける時のもの、隠居駕篭は隠居した人が乗るのに相応しい駕篭である。権門駕篭は家臣が主用を行なうときに乗るもの、献物駕篭は人が乗るものでなく、献物をする場合に、そのものを載せていくものであり、噺の「二人旅」では長薯を将軍に献上するために運送する駕篭に土下座をさせられている。唐丸駕篭は犯罪人を送るための駕篭であり、軍鶏(シャモ)を入れる籠に似た駕篭で、搬送する時は更に駕篭の上に縄を掛けて運んだと言う。

 法仙寺駕篭は四面を囲んである駕篭で、引き戸又は簾で戸口を閉めることが出来る。住吉駕篭や蜘蛛駕篭では定員1名の駕篭に駕篭掻きの知らぬ間に2人の客が乗っていて、中で騒ぎ始め、駕篭の底を抜いてしまい、客2人も駕篭の中で歩いていく噺だ。

 網代駕篭は竹を網代に編んだ物を駕篭の腰の部分に使い、黒く塗ってあるものが武士の上級者が乗り、朱く塗ってあるものは官僧が乗ったという。「蔵前駕篭」でこれから吉原に遊びに行こうという金を持っている客が乗ったのは法仙寺駕篭か町駕篭の四つ手駕篭か。

 四つ手駕篭は駕篭の四方の柱に竹を使い、床は割り竹を編んだもので、町駕篭又は辻駕篭に使われ、江戸庶民の乗り物として利用された。金馬さんの「紺屋高尾」、志ん朝さんの「幾夜餅」に出てくる吉原で年期を終えた花魁が、高尾太夫は紺屋の久蔵のもとへ、幾夜太夫は搗き米屋の清蔵のもとへ吉原から乗っていったのが、四つ手駕篭であることは両師匠が噺の中で説明している。京阪では四つ路駕篭といわれたそうな。

 山を行く旅人が乗ったのが、山駕篭であり、噺のマクラに一人旅の女が乗せられ、目的の所とは違った所に連れ込まれ恐ろしい思いをしたと言う話を聞いている。この駕篭は今でも四国の金比羅さんに行くと六百数段の階段を客を乗せて運んでくれている。

 町駕篭、辻駕篭が今の流しのタクシーだとすれば、宿駕篭は駕篭問屋で待機していて、客の要望に応じて目的地まで送っていく駕篭である。

 駕篭は江戸時代の初めは一般の人は乗る事を禁じられていた。徳川幕府は家康が武家諸法度の中で、駕篭に乗れる身分は、公家、門跡、徳川一門のもの、国持大名、60歳以上のもの、奥向き女中、陰陽師,医師、病人と決められていた。

 更にいろいろな制限が加えられ、武士でも軽輩の者や町人は利用することができなかった。しかし、寛政の頃(1624)から、駕篭の数量が増加し始め、殊に四つ手駕篭のような簡易なものが出始めると、町駕篭、辻駕篭が出て来て、法度の取り締まりも段々薄れて、ったと言う。

 この頃になると、噺のマクラで話されているような「いびき駕篭」や「紋三郎稲荷」のような武士や町人が気楽に駕篭を利用する噺が出来たのであろう。「いびき駕篭」は駕篭賃と酒代を要求する駆け引きの噺、「紋三郎稲荷」はお稲荷さんを「だし」にした噺で駕篭かきの勘違いをうまく利用している。

 駕篭賃は武士の場合は公用に限り、お定め賃銭があったので、駕篭の担ぎ手も余計な要求は出来ないが、それ以外の客とは相対で駕篭賃が決められるので駕篭かきの要求が充分に聞いてもらえないと、途中で酒代という心付けを要求されることがあったという。

 「蔵前駕篭」の噺では日本橋の駕篭問屋で宿駕篭に乗り、吉原まで行こうという客が駕篭賃として支払ったのは幕末で日本橋から吉原大門までで、800文だったという。天保年間では2朱と言う記録があるそうで、これも750文ぐらいだから大した違いはない。この噺の場合は駕篭賃のほかに、たっぷり酒代も払っているというから、結構な出費になったのだろう。

 天保年間に舟で吉原に行くとなると柳橋から山谷堀まで、屋根舟で船頭2人で400文、船頭1人だったら300文、猪牙舟で行けば148文というから舟の方が割安だったのだろう。別の記録で尾張町から白山まで行くには銭110文が駕篭賃だったという。この場合、距離がわからないが、いずれにしても、吉原行きは大分、足元を見られていたのだろう。

 昔、早駕篭を出して貰うと1里90文という記録があるそうで、江戸―京都間を4日と10時間で走ったというから、担ぐ方も乗っている客も大変な旅だったようだ。駕篭は普通は一里を一時間かけて運ぶが、少し早くて40分で行ったそうだ。

 所で昔は駕篭に乗る人はトイレの方はどうしたのだろう。一般の男の人だったら、駕篭に乗る前に一寸そこらで、用をたし、駕篭に乗っている時も担ぎ人に頼んで用をたすことが出来たろうが、女の人の場合はそうは行かない。なるべく今日は駕篭を使う必要があったら水分は摂らないように注意し、途中で必要になったら、いずれかの茶屋か店屋で借りるなどの手立てをしたようだ。

 しかし、お偉方となるとそう簡単にはいかなかったようだ。小川恭一著の「江戸城のトイレ、将軍のおまる」によると、将軍は乗物に乗る時は、前もって用をたしておき、目的地に着くまでは間にあう様にすることが普段からの嗜みになっていたという。

第九代将軍の家重は体が弱かったので、しょっちゅう小用所に行くことが多く、「小便公方」と呼ばれたと言うが、この人が江戸城を出て、芝の増上寺に行く時は、桜田門外、虎の門外、増上寺裏門際に将軍用仮設トイレを設けて置かねばならず、また上野寛永寺に行く時も神田橋内、筋違門外、上野黒門内に仮設トイレが必要であったという。この公方さんは城内における儀式中にも用を足す為、席をたったと言う。

 しかし、将軍以外の侍の幹部や大名はその日の儀式、会議のため前日から水分を摂らず、体を節制して城に登らなければならなかったというから、幹部も大名も大変だったのだろう。

 勿論、休憩はあるから、その時まで保てばいいのだが、なるべくなら行かないに越したことはない。何せ儀式などで城中に上がる時は大名や幹部連中は裃を着たり、直垂、大紋、素襖、長袴、狩衣、布衣、指貫等夫々の礼服を着ており、将軍なども衣冠束帯で儀式に臨むときは自分一人で着たり脱いだりすることは出来ない。

 こんな時にトイレに行くとしたら大変だ。しかも短時間に処置しなければならない。そこで将軍の場合は「公人朝夕人」(くにんちょうじゃくにん)と言う役目の土田家の人が(世襲)小用所に銅製の尿筒(しとづつ)を持ってきて、袴の割れ目の間から差し入れて、用を足してもらったそうである。

 しかし、この公人朝夕人が出てくるのは京都の御所に将軍が参上した時だけの御用で、江戸城内やその他のところでは御小姓や御小納戸人が竹の尿筒で用を済ませたと言う。大名や幕府の幹部の連中も夫々の使用人に筒を持参させ、トイレで儀式の服装のまま、袴の脇から差し入れてもらい、用を足したそうだ。この待機する使用人を呼びに行ったのが茶坊主だったそうである。

 将軍が乗物に乗って江戸城を出ることは滅多になく、普通の公方さんは仮設トイレを一ヶ所ぐらい設ければ済んだが、それでも、間に合わないときはいく道の沿線のいずれかの大名の屋敷により小休止をして用を足したり、大きな店が在る時も利用させてもらったりしたという。

 いずれにしても、乗物や駕篭の中で尿筒を使うことはなかったという。奥方や姫様が乗ってもちゃんといずれかの宿やしかるべき施設のあるまで乗物を進めたそうである。

噺のマクラでも話されているが、駕篭は効率の悪い道具だった。 たった一人を運ぶために最低二人の人が必要である。ましてや乗物のように豪華で,重いものとなったら宰領を入れて十人近くの担ぎ手が居ないと運ぶことが出来ない。また、乗物でなくても早駕篭になれば駕篭を引っ張る人、担ぎ手4−6人の人達が一人のために働かねばならない。

 しかも、東海道のように宿駅が在る時は宿駅の度に担ぎ手が待機している担ぎ手と交替して行くと言う多数の人のエネルギーを使うことになる。現代はこれとは逆に車でも、電車でも、一人の人が多くの人を運んでいるが、この一人のために多数の人が多くのエネルギーを出して支えていることも忘れてはならないだろう。
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2010年01月06日

【103】噺家はどうして扇子を持つのか(鈴木和雄)

 寄席や落語会に行くと、出演する噺家は必ず扇子を持って高座に出てくる。これは夏でも冬でも同じである。 しかも夏は暑いから扇ぐために持ってくるのかと思うと、出演者の人たちは殆ど、自分で扇ぐことはない。稀にひょうきんを装ってバタバタとやる人も居るが、何時までも扇子を風として送っている噺家は居ない。

 ではどうして彼らは扇子を持って出てくるのであろう。それは皆さん、ご存知の通り、扇子や手拭は噺の小道具として使うためだからである。 手拭は夏は必需品である。 今の寄席や大きな会場での落語会は空調が効いていて、そんなに汗をかくことはないが、空調設備のない施設の時は急いで高座に上がって来た時は、どうしても汗をかいてしまい、自他共に見苦しい顔になってしまっては、客の期待を裏切る事になるから、汗ぐらいは一拭きしないといけないことになる。

 この点、先代の文楽師匠は手拭の代わりにハンカチを使ったと、言われるが、これにはまた別な話があり後述する。

 手拭は小道具としての利用範囲は少ない。胸元にしまっている手拭を出してきて、本を読むときの仕草にしたり、金を払うときの財布の形にしたり、煙草入れに模したりしている。今は余り踊りを高座で見せることは少なくなったが、その用な場合に、頭に巻く鉢巻にしたり、女形をやる時の手拭を姉さんかぶりにしたりと、いろいろある。

 しかし、扇子は小道具としての利用の範囲は格段に広い。一番知られているのが、「時蕎麦」に出てくる、箸として使う仕草である。 書を書くときの筆、絵を描く時の絵筆、扇子そのものを扇いて暑い盛りの表現用、煙管、「試し酒」の大盃、酒を注ぐお銚子、「たがや」に出てくる槍と陣笠、「百年目」のお面、釣竿、玄翁、金槌、大刀、小刀などがある。

 その他、「道灌」で娘が差し出す山吹の枝をのせたお盆、半鐘を叩く木槌、天秤棒、六尺棒、火箸、舟の竿と艪、杖、「蒟蒻問答」で和尚に成りすます親分が頭に被るもうす(帽子)等々いろいろなものを表現しているが、なかでも私が一番素敵な表現法だと思っているのが、「宮戸川」「六尺棒」「味噌蔵」で使われているもので、夜遅く、他所から帰ってきて自分の家の戸を叩く仕草である。

 噺家は自分の利き手で扇子を持ち、反対の手で戸を叩く仕草をして、口では「おとっあん」「おかさん」「番頭」「定吉」と戸を空けてくれる人の名を呼んでは居る。 そして、扇子を真っ直ぐにして戸を叩く仕草にあわせて床を叩くという立体的な構成で、話を進めているところが大変面白く感じている。

 どうして、噺家が扇子を持って高座に上がって来るのかについて、矢野誠一氏が「古典落語」駸駸堂刊の中で次のように解説している。「和服が誰もが着ている普段着であった時代には、手拭も扇子も日本人が必ず、懐に持っていたものであり、人前で芸をする落語家の僅かにその芸を助ける小道具が手拭と扇子であった。その為、この両者を持って高座に上がってきたのである」と述べておられる。

 なるほど、今でも結婚式の時など、和装でやる場合は、羽織、袴で必ず、扇子を持たされて記念写真に写っている。昔の人は人間のハレの日(お祭や祝い事のある日)には必ず扇子を持たされたそうである。 生まれてからのお七夜、七五三の祝いの日、元服、結婚、還暦、喜寿、米寿等の日には扇子を贈られたりしている。

 これは、昔の人の貴族志向、エリート志向が本人の意向に関係なく、親が生活の向上を願って、形だけでもと、扇子を持つ事を願ったのではないだろうか。
そもそも扇子は日本で考えられたものだと言われる。

 八世紀に日本の貴族とか僧侶、神職にある人達は仕事で必要な事項を記録するため、木簡に書き付けた。この木簡は長さ30cm,巾1.5mm―2mm,厚さ1.0―1.5mmの檜の薄い木簡で、これにノート代わりに文字を書いて報告や通知のメモとして記入していたと言われる。

 この為、数枚の木簡を持ち歩き、一端に穴をあけ、紐で留め、順次書いたり、見たりすることが出来るようになっていた。彼らは夏などの暑い時期にはそれこそ木簡を扇状に広げ、紐で縛ってある端を要として持ち、手首を中心にして上下することにより、風を送ることが出来た。丁度、私達が小学生の頃、暑くなるとノートの下敷きで扇いだように、木簡を使って暑さを凌いだのであろう。

 そして、少し経つと要と反対側の木簡の端を紐で結び、木簡の先が半円形に広がるようにすることにより、扇子としての原型が生まれたのであろう。更に時が経ると木簡に替り、薄い檜の板を結び合わせる事により、板面の上に絵を描いたり、装飾を施したりすることにより、きれいな扇面が表れ、「檜扇(ひおうぎ)」と言う型が出てきた。

 この頃には檜扇が賜り物となったり、贈り物となって扇子の価値が上がってきた。

 九世紀にになると、この扇子の骨に当たる部分が薄く細い竹や木で作られるようになり、更に内側を紙で張ることにより、より好い扇面の絵が画かれるようになった。これを紙を張った「かみはり」の扇子から「かわほり扇」と名付けられ、扇子としての風量も増したし、芸術的な絵が描かれるようになり、扇子としての価値が益々上がった。

 鎌倉時代に日本の扇子が中国に渡って行く様になったが、室町時代になると、今度は逆にこの扇子が日本に伝わってきて、唐扇と言われたが、これは日本から行った時は紙が一枚張ってあるだけだったが、唐扇は内側も外側も紙が張られていたものであって、内側は絵や装飾があったが、外側はメモ代わりに使える様になっていた。

 この頃になると、鎌倉時代まで貴族や僧侶、神職者しか使えなかった扇子が、庶民にも使用が許されるようになったという。平安時代から貴族の間では扇子は茶道や能、舞などに必要な装飾品として使われていたが、庶民にも使用が認められることにより、演劇、茶道にも巾広く用いられるようになり、益々、扇子の需要は高まった。

 茶道の世界では扇子を自分の前に置くことで、相手に敬意を表すこととか、能の世界では扇子を自分の前に置くことで自分の周りに結界を張り、本来、自分はそこに存在していない事を表すなどの使い方があったという。

 噺家もそうゆう意味では高座に上がる時は、扇子を持ち、座布団に坐った時は自分の前に扇子を置いて、客に挨拶をすることで敬意を表しているのである。 円歌師が「芸人今昔」の話の中で、昔は噺家連中は学歴や学問もなく、高座に上がって、学問のある客に対して高いところから、噺をするが、この為、扇子を自分の前に置いて演者と客の間に境を作り、失礼ながら個々の芸人が皆さん方、知識のあるお客に噺をすることを、お許しくださいと言っているのだと話していた。

 ところがこの扇子、小道具としてばかりに使うものでないようだ。昔に返って檜扇がノート代わりに使われたように扇子の扇面に噺の難しい名前や憶えにくい事柄を書き記して、カンニングをすることもあったという。あの先代の文楽師でも扇子にこそ書かなかったが、師は「富久」に出てくる芝の旦那の火事見舞いに行ったが、鎮火してから、近所から来る見舞いの人の名前を記録する時にその名前をハンカチに書いておき、扇子を筆にし、帳面に見立てたハンカチに記したあった名前を読みあげていたそうである。

 噺の中でも「初天神」「金の大黒」「羽織の遊び」等、一人前の大人が外出したり、祝いのために訪問したりする時には羽織、袴を着けなけらばならなかった。しかし、そんなに簡単に貧乏人が羽織等を持っていることも出来ず、結局は大家さんに借りたり、近所の友達が持っているものを借りたりして、外出している。

 「八五郎出世」の八五郎も大家から借りた羽織、袴を着け、白足袋、草履を履き、扇子を持って妹がいる赤井御門守の屋敷を尋ねているが、この服装で行ったから門番に認められ、入門できたが、八五郎が、いつもの恰好で行ったら簡単に門前払いを食わされたいたであろう。

 この様に、庶民と言えども、この頃には何とかして羽織、袴等を手に入れて、出かけたのである。ましてや、武士は通常は外出の時は大小を腰につけて、町中を闊歩したのであろうが、彼らにとっても大刀、小刀を持って入ることが出来なかった場所があった。 芝居小屋などはそうゆうところで、武士は鉄扇といって、扇子の骨を鉄で作り、それに紙を張ったものでこれを持ち歩いたが、これは扇ぐのは二の次、自分の身の防護用の武具でもあったようだ。

 後になると扇げない扇子を閉じたままの型の鉄扇が出来、まさしく武具となり、更に進むと、この閉じられた扇子の中味が空洞になり、個々に密書などを忍ばせておけば、矢鱈に探索されずに運ぶことが出来、一種の運搬手段にもなったようだ。 こうなると、四季に関係なく扇の形をしたものを、持ち歩くことになったようだ。

 町人はこんな物騒なものを持つことを真似た訳でなかろうが、何かの祝いや、儀式の時は羽織に扇子、手拭は当たり前になっていたのであろうか。扇子と手拭は噺家にとっては大事な小道具である。前述の矢野氏は「この小道具を巧みに使いこなす落語と言う芸の見事な表現力には舌を巻く思いであった。 普段、見慣れた道具に意味を持たせることが出来たのも、長い間の落語家の知恵と工夫に違いなく、こうゆう歴史の積み重ねが、芸に厚みを添えているのである」と述べられている。小道具を本物に擬しているものに見える時、客はその芸に感心し、思わず拍手が起こるのであろう。
posted by ひろば at 06:43| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ