2002年10月20日

【019】ぶら提灯は火事の元(鈴木和雄)

 江戸時代の江戸は急激な地方からの人口の流入とそれによる安普請の粗末な住居の増加により、しょっちゅう火事が絶えなかった。円生さんの噺の中にも火の扱いにしまりがなく、ぞろっぺで、焚き火をやっても後に遊びに行く気の方がせいで「いいかげんにしておけ」ふうなやり方で、火事になる例もあったようだ。であるから江戸時代の大きな火事として「振袖火事、明暦の大火、目黒行人坂大火、勅額火事」等々多々あり、「富久」に出てくる如く、お得意の旦那の家の火事見舞いの手伝いに来て、手伝いをせずに見舞いの酒を飲んで寝込んでいる間に自分の家も類焼して仕舞うというように一晩であちこちで火災が発生しており、おちおち生活も出来なかったろうと思われる。


 類焼さえ当局のお咎めを食らうほどで、ましてや自家失火となれば重い罪になるので当時は大店でも自分の風呂は持たず「湯屋」に行かされた。それで「干物箱」の若旦那も風呂に行くと称して吉原に遊びに行く時間が取れたし、「双蝶々」に出てくる長吉も風呂に行く振りをして悪事を重ねていることが出来たのである。


 この為、幕府は防火や出火の対策として武家には「大名火消」が組織され、六万石以下の大名が火消役を命ぜられている。忠臣蔵の浅野内匠頭が火消しの活躍をしたのもこれによるものである。そして明暦の大火の後、定火消が設けられ、円生さんの「火事息子」に出てくる「臥煙」なる火消人足もこの組織の中に設けられた。円生さんはこの臥煙については「臥煙には、たちの悪い奴がいて嫌われている。どんなに寒くてもはっぴ一枚、頭は奴いちょう、はけ先はぱらっとして役半纏を着、六尺の下帯、一丈二尺の晒の腹巻を付け白足袋を履いて、そのまま火に飛び込む、刺し子を着ないという」と説明している。そして臥煙になれる条件として「江戸っ子であり、色が白く、背が高く、男振りが良く、力があるもの」と言うのがあるが、こんなので消火ができたのか疑問である。


 享保5年(1720)になると町人の町火消も組織されいろは47文字の組が出来ている。しかし、組織が出来ても火事はなかなか少なくならない。それは前述の如く火の後始末が悪いのと放火が多かったせいと言われている。それに建物の屋根がこっぱの様な木の板で葺かれていたので、火の粉が飛んできても簡単に燃えてしまい、飛び火による延焼が生じるというような、防火の為の悪条件が多かった。

 それでまず防火体制を整えなければならない。その為、火の番の夜回りを番太郎にさせてみるが、これも夜中になると酒を飲んで寝てしまうと言う体たらくであり、致し方なく町の店の者が順番で拍子木や金棒を持ち「火の用心」を連呼する「二番煎じ」の噺が登場することになるのである。


 しかし、科学的な防火対策や武家、町人に対する防火教育が行われなかったため、江戸はあいも変わらず火事が多かった。やったのはせいぜい用水桶を備えさせることや、寝る前の火の始末の確認、湯屋など火を使う商売に対する注意、「ぶら提灯」は使う時に良く湿らせろ、強風の時は外出を禁じる等である。
 また、放火に対しては鬼平犯科帳に出てくるように火付け盗賊取締方を設け、火付けに対しては厳しい処断を以ってあたったのである。


 一方、町人たちは燃えない建物を設置することを進め、享保5年に幕府がこれまで贅沢だとして禁じていた屋根の瓦葺きや土蔵を造ることや漆喰で家の周りを固める事をやり始めた。これで「火事息子」の実家が蔵の隙間を泥で塗りこめたり、「味噌蔵」を心配しいしい旦那が出掛け、いざと言うときは味噌で目塗りをしてくれと頼んだりする情景が説明される噺が出来てきたものだろう。


 「お江戸の経済事情-小沢詠美子著」によれば、防火対策として土蔵は幕府により解禁されたが、開口部とか鼠に齧られた穴や何かで出来た隙間はどうしても急場の間に合わせる為に、出入りの左官や家の奉公人を使う必要があり、「火事息子」の噺のようになってしまうが防火の蔵として早くから注目されていたものが、地下の穴蔵である。これは文楽さんや志ん生さんの「穴蔵」で説明されているもので、文楽さんは「昔、大店には蔵の前に穴蔵が掘ってあり、水が入っていて、非常の時に使う」と言っている。一方、志ん生さんは「昔、商人の大店には穴蔵があり、それは火事の時、大事な物をこの穴蔵に入れて、蓋をして逃げて行く。下に水が溜まっている」と割合具体的に用途を説明している。前述の書ではこの穴蔵が注目され始めたのは明暦の大火が切っ掛けであり、裏長屋でもこの穴蔵を造ったと言う。通常は空の状態であるが火災発生の知らせがあると家財道具、金銭を投げ込み、上から蓋をして渋紙を敷き、その上に砂を充分撒き、更に水を含ませた畳を置き、真ん中に満水の桶を置く。こうしておけば、例え火事で家が焼け落ちてえも水が溢れ出て、穴蔵は護られる仕掛けになっていたようである。
 しかし、この穴蔵の建設費は大層高く土蔵のそれより坪単価で1.2倍から1.4倍もしたとある。昔はセメントや鉄骨は無く、石材や堅い木材を使って造るが、やはり湿気は防ぎ難く、耐用期間は短いため何回も造り直す必要があったようである。しかも大店では1ヶ所だけでなく、店の奥の数ヶ所に設置されていたとの記録があるという。


 土蔵が物の保管や防火用施設として使われたばかりでなく、金蔵として使われたり、吉原では非合法な遊女の一時的な隠し場所にしたりしたこともあったようだ。人間が火事の時に逃げ込んで煙に巻かれて死んだという話もあるそうだ。


 江戸の火事も人々の生活が安定し、建物が少しづつ防火の方向に進んで行き、大火も少なくなって行ったと言う。


 落語はこのように、その当時の庶民の生活を読み取る事の出来るものである。笑いの中にも当時の人達が何とかして苦労して生活を防衛しようとしている様がよく表されていると感心する。

平成14年10月20日

posted by ひろば at 15:06| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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