2002年11月27日

【021】昔のリサイクル活動(鈴木和雄)

 今の世の中、リサイクルでうるさい。水や茶を飲んでもペットボトルをどうしろ、こうしろ、ビールを飲んでも空き缶はアルミだから、リサイクル用回収のごみ箱に入れろと、飲むにしても、食うにしても、いつも後の事を考えながら、対処しなければならない。飲む、食うだけではない。リサイクルショップなるものが盛んであり、フリーマーケットもあちこちで開催され、家庭で要らなくなった

 物が店に出されたり、マーケットで安く売られたりして、出したほうは、物が片付いたのと現金を得たのとで喜び、買ったほうは、安い物が安く手に入ったと喜ぶ。或る有名タレントが、自分が手を通した衣料が売れたと言い、最後には捨て値同然で全てたたき売りし、やれやれという表情をしているのをTVで見たが、一方買い手は、有名人の物が自分の物になったと喜んでいる。まさしく世の中、もちつもたれつなのだろう。

 リサイクルとは最近の流行りの言葉で、この頃こんな流通活動が盛んになったように思えるが、昔からある社会活動のひとつのようである。

 江戸時代の中期、江戸は約100万人の人達がいて、消費も大量に行われていた。そこで「献残屋」なるものが、リサイクルに活躍していたという。当時は、大名連中が参勤交代で国元から来た時に、多数のみやげ物を献上品とか贈答品として幕府の上層部や、親しい大名同士に送りあって来たようだが、それの残り物や払い下げ物が沢山あり、これらを引き取り、そのまま販売したり、再生して贈答品としたりした業者が多数いたと言う。これが、献残屋でリサイクルに貢献したと言われる。

 また、いろいろな古物を扱う業者がいたが、古着商が最も多く「古着」は「古手」と呼ばれ、当時の人々にとって衣類は貴重なものであったので、古着と言えども大切な商品だったという。

 そこで、落語の世界でも、リサイクルは厳然として話されているのである。有名なのが「古着買い」または「古手買い」で、先代の文治さんが、おかみさんが自分の弟のため、亭主に買い物のうまい源さんを頼りにして、古着を買わせに行く噺を面白可笑しく話している。小朝さんの「紙屑屋」でも、紙屑を白紙、からす紙、線香紙と分け、蜜柑の皮さえも分け出し、紙は浅草紙と言うトイレの落とし紙にしたり、蜜柑の皮はチンピと言って、七色唐からしに入れると言って、再生産先を教えている。

 「壺買い」は、安い物欲しさに使い古した便壺を掴まされ、兄貴の家の新築祝いに持って行く噺だが、これも壺屋が新しい壺と、古い壺を売っていることが分かり、リサイクルをしていることが判る。「人形買い」も本来なら捨ててしまった1、2年前の流行遅れの人形を、値引きして売ってしまうという、本当の意味のリサイクルとは一寸離れるが、古い物を捨てないで再利用して、客に押しつけてしまう所は、リサイクルを重んじる商人精神は生きている。さらに昔は、家庭生活で使う味噌、醤油、酒類や菜漬け用の樽は、使った後は回収業者がいたようであるが、長屋の場合は、大家さんがその後始末をし、その売った金は、大家の収入になったと言う。もっとも「らくだ」のように、遺体を菜漬けの樽に入れて持って行かれた場合は、処置なしである。大家さんは、この他にも長屋の人々の人糞さえ、近郊の農家の人に物々交換で売り、米や野菜を手に入れ、日常の生活の糧にすることもあったようだ。農家は、下肥として田や畑にまいて、米や野菜を作る。これを町の人達が買って食い、また出すと言うリサイクルは、随分長い間続いたものであるが、近年は化学肥料ができて、この方面のリサイクルは無くなった。昭和20年代頃までは、田舎に行けば必ず数カ所の肥溜があった。町家から集めて来た物を一時この肥溜で蓄え、発酵させてから畑に撒く。そうでないと、植物が枯れてしまうからである。円歌さんの噺に、村の鎮守の祭りの夜に、男女ふたりがふざけながら帰る道で、男が肥溜に落ちてしまい、男を助けようとして女が手を出すが、かえって引っ張られて落ちてしまい「これで二人は、こえ人(恋人)になった」という噺がある。

 「猫の皿」のはた師も、田舎の旧家の蔵を狙って財物を安く買いたたき、自分の商売にしようとするのもリサイクルだし、「井戸の茶碗」の屑屋が、浪人から仏像を買い取り、細川家の若侍に売り、また浪人の茶碗に日の目を見させ、果ては若侍に娘を嫁合わせ、「今はくすぶっていますが磨けば益々綺麗になりますよ」と言うと、若侍は「いや、もう磨くのはこりごりだ」と言っているが、しかし、奥方にして磨けば美しい女房となり、愛が育まれ、仏像の腹から出た小判ならぬ、嫁の腹から子が生まれ、子孫の繁栄がはかれるなんて、まさしく人間の再生産で、リサイクルだとは思いませんか。

 今日でも、酒屋にビール瓶や酒瓶を持って行くと、引き取って少し安くビールや酒が買える。ビールが缶詰が多くなり、あまり瓶ビールが流行らなくなったが、その昔、ビール工場のある所に行くと、空ビール瓶が次の利用を待って、ピラミッドの形さながらにうづ高く、幾山にも積まれている光景があった。あれがリサイクルの姿だったのだろうか。

 今のリサイクルは、ペットボトルにせよアルミ缶にせよ、そのまま使うこと無く、細分化したり溶かしたり、科学の力で原形を留めることなく、全く別の物を作ろうとするもので、リサイクルにも金と設備が掛かるのが難点である。そこへ行くと、落語の時代は良かった。

平成14年11月27日
posted by ひろば at 15:18| Comment(2) | TrackBack(0) | エッセイ
この記事へのコメント
Posted by at 2010年09月09日 10:05
Posted by いまどいっき at 2010年09月21日 08:44
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