2002年12月01日

【022】噺の中の家庭の味(鈴木和雄)

 ご存じの「目黒のさんま」、殿様が慌ただしく野駆けに来てしまったので、お付きの家来どもは、弁当を持って来る余裕がなかった。腹を減らした殿様は、近所の農家で焼いている「さんま」の臭いに、おおいに食欲をもよおす。困った家来は、その農家に行ってジュウジュウと焼けた「さんま」を譲って貰い、殿様に供すると、腹が減った時は何でも美味しく食べられるものだ。喜んだ殿様は、何回もお代わりを要求する。お付きの者たちは、殿様に「目黒に行ってさんまを食べたこと」は、内密にするように懇願する。お城に帰って重役にこの事が判ると、切腹ものだと殿様に訴える。私はこれを聞いて「さんま」が下衆魚だから、高貴な殿様にこれを食べさせた事は、大変な誤りだったから、内密に内密にと、懇願しているのかと思っていたが、「定本江戸城大奥−永島・太田氏編」によれば、大奥では、料理の献立に入れてはいけないものとして、
魚類では、このしろ、こはだ、さんま、いわし、まぐろ、さめ、ふぐ、あいなめ、むつ、あかえい、いな、なまず、どじょう、ふな。干物類・野菜類では、ねぎ、にら、にんにく、らっきょう、つくいも、ふじまめ、さやえんどう、わかめ、あらめ、ひじき。
貝類では、かき、あさり、あかがい。鳥類では、つる、がん、かも、うさぎの他は一切用いずとある。獣類は、一切用いず。水菓子類では、なし、かき、みかんのみ食し、すいか、うり、もも、りんご、すももは唯、見るのみだった。
さらに調理方は、天麩羅、油揚、納豆は用いなかったとある。 
このように、大奥のきまりがあったから、これに反してこれらを殿様に食べさせた付け人は、切腹を命ぜられる恐れがあり、殿様に固く口止めをしたのである。

 このように、武家の上級者達は、ある程度の制約を受けながら食をとることとなったが、これも脂肪分が多いから体に毒だとか、毒素を持っている魚だから危ないとか、四肢のものは食さない信仰とか、体が冷えるから口に入れないとかの警戒心があったからであろう。
一方、当時の庶民はどんなものを食していたのだろう。落語に出てくる庶民は、今述べたような制約は何もなく、食べたいものを食べるという、大様な食生活だったようである。

 「目黒のさんま」のように、海に近いところに住む農民は、捕れたてのさんまを食べることは勿論、なんでもござんなれの食生活で、噺に出てくるものでは「うなぎ」が登場数が多い。「子別れ」でも、父親が別れた子供に再会して、鰻屋に誘ったり、「後生鰻」では、鰻屋が繁盛している。「鰻の幇間」や「素人鰻」でもお馴染みである。しかし、これらは大抵が商売屋で食する人達を描いている。

 一寸脱線、鰻の焼いたのをどうして「蒲焼」と言うのか判りますか。昔、鰻は今のように腹や背を開かないで、丸ごと串を刺して焼き、後でぶつぶつと切ったので、あたかもがま(蒲)の穂のように見えたので、始めは「がまやき」と言ったそうです。それが「蒲焼き」(かばやき)となったそうです。

 「唐茄子屋政談」では、「かぼちゃ」が出て、若旦那がそれに翻弄されている。この他、「人形買い」では、長屋から集めた金をピンハネして、二人で冷や奴で一杯飲もうとしたとか、「青菜」に出てくる「鯉のあらい」で植木屋をもてなす旦那と、これに驚く植木屋、この職人を待っている女房が、おかえりの挨拶代わりに「鰯が冷めちゃうよ」の言葉。

 「厩火事」では、髪結いの女房と亭主が、朝から鮭がいいとか、芋の煮つけがいいとか争っている。髪結いの亭主は、女房のいない昼に牛鍋又は、刺身で一杯やっている。

 「夏の医者」では、「ちしゃ」を食べ過ぎた親が食あたりをおこし、息子に心配をかけている。「小言念仏」では、朝のみそ汁に「どじょう」を入れようとして念仏を唱えながら、大声でどじょうを屋を呼び止めている。「佃祭り」では、旦那を呼び止めて命を救って貰った女が、魚か野菜の煮つけで、一杯の酒を勧めている。

 「しじみ売り」では、子供の売り子が、朝の汁用にしじみを売っている。「権助魚」では、旦那とりんきの強いかみさんの間に入って、捕れたての魚だと言って、色々な魚を見せている。「鮑熨斗」では、かみさんにいわれた男が、魚屋に行ってお頭つきの魚を紹介されるが、結局あわびを持っていくようになる。

 「ふぐ鍋」では、玄人が調理したふぐ鍋でも、譲り合ってなかなか食べず、毒味役と思って食べさせた乞食が、逆に用心深かったという噺もある。「らくだ」の馬さんは、大丈夫だとばかりに、素人料理をして見事に当たって、命を落としている。
一般に庶民は、当たれば一巻の終わりだと判っていても、進んで食べる勇敢な奴もいて、全く何でも食べるのが、江戸っ子だったのだろうか。

 一般の家庭では、どんなものを食べていたのだろうか。「日本食物史−樋口清之」によれば、例として上級町人の注が付いているが、ある商家の食事として「いか塩焼き、油揚げ、生姜焼き、なす、かぼちゃの煮物、それにみそ汁、飯」とある。しかし、商家でも、奉公人に対しては一汁二菜ぐらいで、朝はみそ汁、昼はひじきに油揚げ、夜に香の物が付く程度で、肴が出るのは、月に三日ぐらいしかなかったと言われる。

 一方農民は、米は年貢として上納しなければならなかったので、一部の人は米を雑炊で食べることがあっても、殆どは粟、稗、麦などを炊き、更に菜、蕪、干葉などを穀物の顔を見えない程度に入れて食していたと言う。

 しかし、町方の人達は、何でも食べるというので、その食品の種類は「本朝食鑑」に出ているが、これによると、食べられるものはなんでもいいとばかりに記されているが、今私達が見て「へえ、こんな物まで」という感がないでは無い。例えば、鳥類では「かわせみ」「みそさざい」「つばめ」、獣類では「むじな」あしか」「おっとせい」などがある。

 一般庶民としては、普通何を摂っていたのかは、町で物売りをする人達の扱う商品で、ある程度は判るのではないかと「江戸の生業事典」―渡辺信一郎著を見た。それによると、食事に係わる物売りを羅列してみると、次のようなものがあった。

 青物売り  あさり売り  鰺売り  鮎売り  栗売り  いか売り  芋売り  鰯売り  うどん屋  鰻屋(蒲焼屋)  かぼちゃ屋  蒲鉾屋  梅干し売り  瓜売り  枝豆売り  鰹売り  鰹節売り   かれい売り(蒸しかれい)  乾物屋  茸売り  金時売り  鯨売り  このしろ売り  こはだ売り  ごぼう売り  米屋  こんにゃく売り  昆布屋  肴売り  酒屋  砂糖屋  鯖売り  塩売り  蜆売り  自然薯売り  生姜売り  白魚売り  白玉売り  白酒売り 新茶売り  西瓜売り  鮨売り  すばしり売り(いなの一歩前の魚) 酢屋  蕎麦売り  蕎麦屋  (干)大根売り  玉子売り  玉子屋  賃餅屋  茶漬け屋  天麩羅屋  冬瓜売り  豆腐売り  とうもろこし屋  どじょう売り  飛び魚売り  とめ粕売り  菜売り  なずな売り  茄子売り  納豆売り  七味唐辛子売り  煮売家  煮染屋(肉や野菜を醤油で煮る)  蓮売り  はぜ売り  初茸売り  ひしお(みそ)売り  ひしこ(かたくちいわし)売り  麩屋  ふぐ売り  鮒売り  鮪売り  水売り  茗荷売り  むきみ売り  餅(餅菓子)屋  八百屋  焼き芋屋  わらび売り
等と各種あり、長屋のおかみさんは魚屋や八百屋に行くよりも、棒手振りで売りに来る商人の持っている物を買い、調理していたのだろうか。夕食に「塩鮭の切り身、芋の煮ころがし、香の物、みそ汁、飯」の一汁二菜、三菜ぐらいで済ませていたのだろうか。

 今でこそ私たちは、DHAとか蛋白質だとか食物繊維とかを気に掛けて食事をしているが、噺の当時も、彼らなりに栄養に気を配って料理されていたのだろう。

平成14年12月
posted by ひろば at 06:14| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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