2003年04月01日

【026】二十四孝(鈴木和雄)

 古典落語には親孝行をして褒められた噺とか孝行をしろと諌められている噺が出て来る。先代金馬さんの「孝行糖」は前者の例でご褒美に頂いた青差し五貫文を元手に愚かな与太郎に孝行糖を売らせて生活の糧とさせてあげようという人達の発案でそのコマ−シャル・ソングまで作ってやっている。「チャンチキチンスケテンテン(中略)昔、昔、唐(もろこし)の二十四孝のその中で老莱子と言える人、親を大事にしようとて、こしらえあげた孝行糖」と歌わせている。

 この老莱子と言う人、親を大事にしていたが自分が七十歳になってからも親が赤子の真似をしてやると喜ぶので何時もそれをやっていたと言う変な親孝行の話だ。噺の「二十四孝」では折角買って後で食べようと楽しみにしていた鰺を隣の猫に食べられてしまい八っつあんは女房や母親に悪態をついて、大家さんにその了見ちがいをこんこんと論される。

 大家さんは中国の二十四孝の例を引いて孝行をしなければならないと論す。先代金馬さんは「母親が雷を怖がっていたので死後も墓の側で雷の鳴るときは慰めていたという王褒の話をあげている。小さんさんは冬の最中に鯉を食べたがる母親のため、氷の上にはいつくばり鯉をとり食べさせた王祥の話と、寒中に荀を食べたがる母親のため雪中の竹林に入り筍を探して食べさせる孟宗の話をあげている。また、志ん朝さんはこの王褒と王祥のほか、夏になっても蚊帳を買うことが出来ないので父親のため自分の体に酒を吹きつけて蚊が親の方に行かないようにした呉猛の話、また家が貧しいので親を養うことができないので、わが子を山に埋めようとして穴を掘っていたら、黄金のかまを掘り当てたと言う郭巨の話をしている。

 昔からこの六人以外に、二十四孝とは言えあまり他の人の話はしなかったようだ。そこである男が大家さんに「二十四孝というが六人ぐらいしかいないではないか、後の十八人はどうなったのか」と尋ねると、大家さんは他の孝子の話を知らなかったのだろう「二十四孝は六人で二十四孝と言うのだ」と押しとうしたと言う話がある。しかし、二十四孝は二十四人の孝子の話である。後の人達の話はどうなったのか。

 「広辞林」を見るとこれらの人名が出ている。即ち虞舜(ぐしゅん)、漢の文帝、曽参(そうしん)、閔損(びんそん)、仲由、董永(とうえい)、炎子(えんし)、江革、陸績、唐夫人、呉猛、王祥、郭巨、楊香、朱寿昌、庚黔婁(ゆけんろう)、老莱子、蔡順、黄香、姜詩(きょうじ)、王褒(おうほう)、丁蘭、孟宗、黄庭堅とある。

 一方、日本漢文学大辞典によれば「二十四孝は古い中国における幼童のための教訓書であって、昔から孝子として世に聞こえた人を二十四人選んで記したもので、出典により二十四人が異なることがあると言う。この書は元初の郭居敬又は郭居業の作といわれているよいう。しかし、敦煌から発見された資料から晩唐以前のものともいわれている」と言う。いずれにしても大体は一致しているが、取り上げ方で二、三の異なる名があるようだ。

 因みに千葉県内には十八箇所の社寺に部分的ではあるが、彫り物があるそうだが、広辞林とは少し異なる。この二十四人の名前と何をやったのか知りたくて図書館を探したがなかなか見つからずその図書館を通じ国会図書館まで資料を求めていた所、「灯台もと暗し」というか、最近の「地域新聞」に八千代松陰中の藤本涼輔君が八千代市萱田にある飯綱神社の玉垣にその二十四孝の物語が彫り物にされているという報告が出ていた。

 それで早速その報告書が備えられている市の郷土博物館に行き読ませてもらった。そして飯綱神社に行き玉垣を見る。しかし、彫り物そのものは何の説明も無いから、だれの話か判らず、それで境内にある文化伝承館に行って、館長さんが書かれた説明書を読ませて貰い、やっと彫り物ひとつひとつの意味が判った。

 この玉垣の彫り物は広辞苑の名前とは少し違う人物が入っているようである。噺に出てくる人以外のものは次のようである。

田真・田広・田慶の三兄弟は親の遺産の庭の大木をめぐり、木の心を知る。
亡母の像を粗末にしたので、あとで改心し、像を大切にした丁蘭。
親の眼病に効くという鹿の乳を取るため鹿の群れに近かずいた所、狩人に撃たれた炎子。
山中に薪を取りに入り留守中の母の異変に気付いて急遽帰宅する曽参。
幼時に母と別れたが五十年後に妻子を捨てて血で経を書いて母を探す朱寿昌。
父親の葬儀の費用のため自分の身を売り、それを払いに行く途中で天女に会う董永。
飢饉の時、母の為に桑の実を拾っていて強盗にあったが、孝行を感じられ米等を貰う蔡順父親の病状を知るため便をなめた庚黔婁。
母親の大小便を診て健康状態を知る黄山谷。
六才の時、人から蜜柑を貰い、母の好物だと言って持ち帰る陸績。
母の病気のため三年間帯を解かず、湯薬をのませた漢の文帝。
母を失ったが、父を始め家内のものを慈しんだ閔子騫。
兄弟で強盗に母が殺されるところを身代わりになり、強盗から孝義を感じられ、米を与えられた張孝・張礼。
毎日母のため水と魚をとりに行ったが、ある時、家の側で湧き水があり水も魚も楽に母に与えることができた姜詩。
山中で虎に襲われた父を助けるため自分の身を与えた楊香。
姑が歳をとり歯が無くなり物が食べられなくなったので自分の乳を与えた唐夫人。
親への孝行を感じた象が田を耕し、鳥が田の草刈りをしてくれた大舜。
父親に夏は扇ぎ、冬は自分の体で温めた黄香 (以上文化伝承館の説明を参照)

 戦前から戦中派の世代のものは親に孝養を尽くすのは子として当然なすべきものとして学校で修身の時間に随分教えられたが、今はそんな事はないようだ。しかし、子が老いた親の面倒をみてやるのは昔も今もそんなに変わらないのではないか。これは日本の伝統であろう。しかし、今や日本では下手すると親が金をくれないと子供が親を殴り殺したり病身や老身の親の生活の面倒を見ない奴もいると言う体たらくになっているが、これは全体の極一部の話であって、大抵の家族では子が親の生活の面倒を見ている。これが孝行孝行と言われなくとも当然の道として皆認識しているのである。今は、ある程度の年金も出るようになり、そうべったりと子供に依りかからなくとも生活出来る親もいる当世となっては親も子も得てして孝行なんてあるのか、ないのか意識しなくたっているのではないだろうか。

 中国の昔は老人に対する国家の施策もないし、社会的施設としての養老施設もないから年老いて働く事の出来なくなった親はどうしても子供に頼らざるをえない。しかし。子供の方は時としてそんな事は忘れたり、また、なんとか面倒なことはしたくないと逃げてしまうこともあったのだろうか。それで孝行という思想を一般に普及して老後の親の面倒を見るのは子供の責任、義務と位置づける必要があったのだろう。それで「二十四孝」という模範の型を子供たちに植えつけるために教導書で教えたのだろう。


 噺の中で聞いても一寸特異で少し大げさな事例をあげて、こんなに苦労してまで孝行をするのだと言うことを示していたのだろう。

平成15年4月

posted by ひろば at 06:18| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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