2003年08月01日

【029】うっかり旅にも出られない(鈴木和雄)

円歌さんの噺で「西行」というのに帝のもちものの染殿内侍に手を出した佐藤兵衛尉憲清−後の西行の話があるが、日本の昔は男女の間の話は割合に自由だったようだ。

平安の時代から男が想い、女が恋する感情は人間の欲望の素直な表現として詩歌にも読まれたし、また具体的に心身とも愛し合うことで昇華して来たようである。

 江戸時代にもなると武家社会では儒教の影響から窮屈な道徳観のため貞操観念があり、うるさかったが、庶民の生活にはそうゆう枠は無かったから自由奔放という訳にはいかなかったが、それでも人間を愛する感情はそう簡単には納まるものでない。そこで正式に結婚をしてまともな夫婦生活をしていれば波風はたたないが、人間の欲望の赴くところやはり他の人が好きになったり、なられたりと言う騒動が起きてくる。それが昔の間男事件であり、現代の不倫騒動であろう。

 落語で語られる間男噺でよくまくらとして話される「町内で知らぬは亭主ばかりなり」というのがあるが、与太郎が自分が聞いた噂話を当の豆腐屋の亭主にそのかみさんと畳屋の半公との間男事件として伝えてしまうというものがある。志ん生さんが間男噺をする時に「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世、間男はよせ」といっている。また間男を見つけた場合は二人を重ねて置いて四つに切ってもよいと言うことがあったそうだが、それでも間男の方から命乞いがあった場合は相手の男に五両を払えばどうやら命は助かったようだ。しかし、「熊公ただ」では間男の女房も間男をされた女の亭主といい関係になっていた時はこの五両がちゃらになってしまい、熊公はただでなにが出来たという事になる。これは女房が自分の不倫を認めたから成立する話で、女は亭主がうっかりすると何をしでかすか判らず、男は気の休まる間の無い時代だったのだろう。

であるから男は結婚しても絶えず女房が何処かの男と不倫して、よそに行ってしまうのではないかと気をもむことが盛んであり「締め込み」では泥棒が拵えた大きな風呂敷包みを見て、俺が仕事に行っている留守の間にいい男が出来、それと駆け落ちをしようとしたと邪推してしまい、かみさんと喧嘩になり、包みを拵えた泥棒に仲裁に入ってもらう始末とあいなる。しかし、ここでは本当の間男は成立してない。

「紙入れ」のおかみさんのように本当に貸本屋の若い衆と懇ろになり亭主の留守に手紙を出して男を引き入れ、事に及ぼうとした所、亭主が突然帰って来たので男を帰したあとゆっくり後始末をして亭主を迎え入れるという豪胆な女もいたが「風呂敷」の男の新さんのように中途半端に嫉妬深い亭主に疑われた男は押入れの中でじっとかみさんの処置を待たねばならないから大変だ。女の方も慣れてないから、兄さんとか言う人に応援を頼まなければならず浮気もエネルギーを要する。

 かわいそうなのが円生さん演ずる「骨違い」の棟梁の息子の源ちゃんで継母に苛められて、棟梁の弟子の家に匿われてかみさんに面倒を見て貰っていたが、その亭主が友人の変な「女と七人の子をなすとも肌を許すな」という言葉に惑わされた為、家にいる源ちゃんを間男と勘違いして殴り殺してしまうという噺だ。これは間男噺の犠牲者である。

 「包丁」では自分が不倫していて、若い女と一緒になりたいばかりに自分の女房に友人を使って間男騒動を仕掛け、かえって本当にその友人に女房をとられてしまう噺だが、女の愛情を踏みにじる行為で聞いていても男のこすっからさに嫌気がさす。

「駒長」も関西から来る損料屋の丈八を間男をしていると脅し、金をまきあげようとするこの丈八宛に女房に書かせた付け文を落とさせ、それを亭主が見つけた事にして、丈八が女房と間男をしていると脅し、苦しい年の瀬を金をせびり取りなんとかしようとする。

志ん生さんによれば江戸時代はこうゆうのが沢山あったそうで、所謂美人局(つつもたせ)の一種だそうだ。

 馬生さんの演じた「つづら」でも、女房が働く質屋の隠居に言い寄られて、亭主が借金のため佐倉に行ってくると言って出掛けた留守に隠居に酒食の世話をしている時に、佐倉に行った筈の亭主が帰って来る。あわてて女房は隠居をつづらに隠すと亭主はこれに何が入っているか判ったから隠居入りのつづらを質屋に持っていき100両を脅し取るという噺で間男で大金をせしめている。

 こうゆう風に見ると昔は他人のかみさんを狙った間男はしょっちゅう出てきて、志ん生さんも噺のまくらで「知らぬは亭主ばかり」の他「旅の留守、家にも護摩の灰がつき」とか言っているが、本当に大山参りのような長期間を要するものは間男が入りやすかったと言うことだ。殊に伊勢参りは精進心を表すため、家の前に注連縄(しめなわ)などを張り出掛けて行くので、今、この家は亭主が居ませんと広告しているみたいなもので、女房は熟れ頃、手を出さない奴はいないとあって間男が入り込んだという。だから、「二人旅」の前のほうで旅に出る男が「後に残した子供の事が心配だ」と言うと友人が「俺が面倒を見てやるという」そして更に「女房が心配だ」と言うとこれに対しても「面倒みるよ、寂しがったら俺が抱いてやるよ」と旅の男がはらはらするようなことを言っている。慰めを言っているのか、本当に旅に行ってしまったら女房も友人もどうなるものか判ったものではない。旅に出るほうは先々の宿での旅の恥はかき捨てを演じようと心浮き浮きの一方残していく女房の心配もあり心残りだったのだろう。そのくらい当時は男女間の話は逆に言えばおおらかだったのだろう。一方、先日円窓さんの演じていた「猫定」では、亭主の猫定が猫のお陰で博打場で少し幅が利くようになり、先輩の親分方の勧めで半年の旅に出るが、その留守に女房が若い男を引き込んで、いい思いをしているのを猫がじーと見ている。旅から帰った猫定を女房は男を突っ付いて亭主が邪魔だとして殺すが、猫が仇を打ち更に女房もかみ殺してしまうというがこうなると浮気も命懸けとなり恐ろしい話となる。

 「町内の若い衆」という噺も熊さんが兄貴のかみさんが言った茶室の建て増しを褒められた時の言葉「若い衆のおかげ」と言うのを自分のかみさんに伝えるとお腹に子を宿していたかみさんは友人に褒められると「これは亭主の働きでない、町の若い衆のおかげだ」と言っているが、私はこれは単に兄貴の女房の言葉を真似して言っているのだと思っていたが実はこれはかみさんが間男をして出来た子という白状になっているという。落語というものは深い読みが要るものだと感心した次第だ。

 この他、噺には「茶漬けの間男」とか「間男の松茸」とかあるそうだがあまり聞いたことがない。或いはこうゆうのは禁演落語になっているのかもしれない。





平成15年8月
posted by ひろば at 06:21| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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