2003年09月01日

【030】相撲の噺(鈴木和雄)

昔から日本ばかりでなく世界各地に同じ人間で在りながら何を食べたのかどんな鍛え方をしているのか判らないが、一般の人よりも体が段違いに大きく、腕力の極端に強い人達がいた。

日本では古からこうゆう人達を全国各地から集めて技を競わせた相撲大会があったという。しかもこれは天皇が招集し、この相撲を観て群臣に宴を賜るという相撲節会を行なったという。万有百科事典によれば734年(天平6)をその始めとし、毎年7月に催され1174年(承安4)までの三百数十年も続けられ、宮中の重要な行事だったという。

そもそも神代の伝説にも野見宿禰と当麻蹴速の力競べの話があり、734年の相撲節会までも相撲に関する話は多かったらしい。 しかしこの節会は源平の合戦が行われると廃絶されたが、鎌倉時代になると頼朝が鎌倉八幡宮で上覧相撲を行わせたが、これとても鎌倉末期から室町時代は将軍による上覧相撲はなかった。

しかし、この間にも体力、腕力の優れた者同士による営利のための興行が行われ、職業的な相撲への変化が現れようとしていた。そしてこれらは庶民的な形態をとって行こうとしていたという。更に江戸時代になるとその職業化した相撲が盛んとなり、大名の中には優れた力士を召し抱えるようになり、いわゆる勧進相撲が推進された。元禄時代から江戸中期にかけ職業的勧進相撲が各地から江戸に集中されるようになり、有名な谷風とか小野川、雷電のような力士が輩出し、江戸相撲の最盛期を迎えることとなった。

このように相撲が盛んになり、庶民の羨望の的となった体が大きく、腕力が強い、食事は人の何倍も食べ、酒も浴びるほどに飲む力士たちの姿を見て江戸の人達は恐れと畏敬を感じながら、一方勝負の世界に生きる男たちに親しみを持って恐怖感と親近感をないまぜて力士達を迎えたのだろう。

であるから落語にも相撲に係わるものは結構あるがあまり悪い扱いはしていない。

「阿武の松」に出てくるように、一寸、親方のかみさんがけちなばかりに折角の逸材を見損なってしまった武隈親方のような場合があるが、この若造を見込んだしころやま親方もいて噺全体ではしころやまに軍配が上がっている。

噺は面白くなくてはならないから、「小能く大を制す」とか「小兵、大男を喰う」の噺も客に受ける。「佐野山」は当時全盛の谷風が体は小さいが親孝行な佐野山の為にわざわざ千秋楽に割りを作って貰い、土俵上でたたかい、負けて佐野山の母親の病気治療費を出してやる人情噺だが、谷風の現役時代には佐野山という力士は居ないそうで全くのフィクションだが客は喜ぶ。

同じような噺に「素人相撲」がある。素人相撲に大男が出てきて向かう所敵無し。皆しり込みして相手になる者がいない。所がそこへ小男が出てきて、土俵の上でちょこちょこ廻り、遂に大男を後ろからの押しが効いて勝つ。小男の商売が漬物屋だというオチ。

小男がでる噺では「鍬潟」がある。小男の鍬潟が大男の雷電を倒した話を聞いた同じような小男が相撲部屋に入門し、稽古をつけてもらって家に帰り、ひと眠りしていると女房に起こされる。目が覚めて見ると手も足も布団から出ている。大きくなったと喜んでいると女房がそれは座布団だという噺。「小粒」と言う噺とよく似ているが、こちらは相撲に関係ない噺だ。

雷電が出てきたので、ついでに金馬さんの演じた「小田原相撲」におよぶと、昔、小田原ではプロの相撲興行が出来なかった。というのも素人相撲で大岩岩五郎という滅法強い力士がいてどんな相撲も勝てないからだという。この大岩が強いだけならいいが、悪い奴で押し貸し、強請、飲み食いの踏み倒し、それに女に悪さをすると評判が悪い。これを聞いた谷風、雷電、小野川らが小田原入りして相撲をやる。始め中堅力士が出たが、投げ飛ばされると言う始末。そこで雷電が出て、土俵際で頑張り、雷電の禁じ手すれすれのかんぬきを使い、大岩を倒し、プロの面目を施すという噺だ。

「関取千両幟」又は「稲川」の演題で話されている噺があるが、大阪からきた力士稲川は江戸では勝ちつづけているが、一向に人気が出ない。そこで河岸の連中から乞食姿をしたものが贔屓のものだと言って蕎麦を持っていく。稲川は贔屓とあれば大名も乞食も区別はないといってその蕎麦を食する。河岸の連中はこれに感激して、稲川を大いに応援して人気を博するようになったという。人気稼業のつらさと苦心を笑いの内に示している。

相撲は勝負ものであるからいつも勝ち負けがはっきりしている。しかし、贔屓の力士が所中出ると負けでは応援していても張りがない。そこで贔屓筋が関取に結果を聞くと今日は相手が勝ったり、翌日はこちらが負けたりと全く歯がゆい思いの関取だ。どうしてそう弱いのだと聞いたら元は大安売り屋だという「大安売り」の噺。道理で負けるわけだ。

この噺にはもうひとつあり、いつも負けてばかりいるので子供を相手にしたら、やっと勝ってくれたが、最後にはやっぱり子供にも負けてしまったという素人力士の噺もある。

此の反対の噺が「大丸相撲」で村相撲に商人風な男が飛び入りで参加してきて、どんどん勝ち抜いていく。客があいつは誰だと言っていると大丸呉服屋の手代だという。「道理で負けん」というオチ。当時の現金掛け値無しの商法をもじった噺だ。

将軍が上覧相撲したと言うことを記したが、豊臣秀吉の前でやった「御前相撲」は九州小倉領の相撲の強い男が三十四人抜きの相撲をやり、負けた相手のものに曽呂利新左衛門が狂歌をよんでやった噺。

相撲はやはり応援の人がいないと張りがない。「相撲の蚊帳」は相撲にこった旦那が贔屓力士が負けて悔しがると妾がうっぷん晴らしに私とやろうと言うので、蚊帳のなかで布団を土俵に見立ててやるが、妾が負けて蚊帳と共に台所に転げ落ちる。旦那の周りで蚊がブンブンというと旦那が、俺が勝ったので蚊が唸ってくれたと自慢する。

雷門助六さんがよくやった「相撲風景」、相撲見物の客が贔屓力士の応援のために興奮して隣の人の胸ぐらを締め上げたり、鉢巻きをした禿頭の上に煙草の火を入れてしまったりの大騒ぎ、「こり相撲」の別名がある。

本当の大関は病で巡業に出られず、T V も写真もない時代で体型さえ似てればいいだろうと駆り出された堤灯屋の男。興行先の地元は有名な大関「花筏」が来るのだと思ってその土地の強豪力士に期待するが、結局は念仏の唱えあいで贋花筏が勝つ噺。

実際の関取の話でなく、百人一首の解釈のためでっち挙げられた大関龍田川、千早花魁や神代花魁に振られて実家に帰り豆腐屋をやっていたが、千早花魁に再会した時の女の実名は「とわ」だったという「千早振る」。

関取の体は昔は異常に大きかったらしい。ある旦那が贔屓の関取を連れて吉原にいく。酒宴が済んで床入りの時になり、花魁が関取の腹に乗ってその高さに驚く。臍の穴をいじって穴蔵と勘違いする。関取がくすぐったがって女を下に払うと花魁は関取の下腹の方に落ちていく。ぶつかったのが関取のあれと思った花魁が大男の割りに小さいと言うと関取はそれは毛だという「大男の毛」。

「半分垢」は巡業から帰った力士が家で休んでいると町内の者達が訪ねて来た。女房が大げさに力士の体の大きさを自慢するので、関取が謙虚でいるように話すと、女房は今度はいかにも小さいようにいい、近所の者が力士の体を見て、大きいというと半分は垢だという。

この他「盲の相撲」があるがこの頃は余り演じられないので割愛。

相撲に限らずスポーツ競技では応援者は競技者に闘争心の仮託をする。だから強い者に味方するのである。そして応援するものが勝つと自分が勝ったように満足する。

集団でやるスポーツでもそうだが殊に個人対個人でやる相撲のような競技は、闘う人の心理的なものもあるし、その日にとった食事とか、天候とか個人的な事情で左右され競技にいろいろな影響を与えるのだろう。そして相手が在ることでもあり、相手の状況も計算に入れて置かねばならない。このように考えると相撲とは一見力競べだけのようだが心理戦でもあり情報戦でもあるのだ。だからこそ小さくとも大きな男を倒すことが出来るのだ。横綱がいつも勝つとは限らない所に相撲の面白みがあり、これをまた落語に取り入れて噺として演ずるにも話術ばかりでなく、心理面をどう分析して話してくれるかによって、笑いの対象として客も熱心に耳を傾けることとなるのだろう。

平成15年9月
posted by ひろば at 06:22| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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