2003年11月01日

【032】願人坊主(鈴木和雄)

「らくだ」の噺の終りの方で屑屋の久さんが、らくだの遺体を柩代わりの菜漬けの樽に入れ、火屋(火葬場)に持って行く時に樽を天秤棒で担いでいた相棒が足を滑らせて、遺体を樽から落としてしまい、火屋に来た道を探すために戻り、途中で見つけたのが、路上で寝ている、この願人坊主だった。これを火屋に担ぎこんで投げ入れてしまうという乱暴な話である。 この願人坊主について小三冶さんは噺のなかで「その当時火屋の通り道にはよく出ていて、願人坊主というが、坊主ではない。頭は丸めているが、寒の最中にも素っ裸で、怪しげな幟を立て何処そこの寺へ梵鐘を奇進し奉ると言って方々の家々から金を貰って歩く。冬は地べたに穴を掘り、そこで焚き火をして、暖をとり、まるまって寝ていた」と詳しく説明している。

一方「藁人形」では扇橋さんは「西念という坊さんがいた」というさらっとした表現で願人坊主とは言っていない。文朝さんは「西念という願人坊主がいた。経は出来ない。ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱えるだけで人の家の門に立ってお布施を貰うという坊主だった」と話している。 歌丸さんになるともっとはっきり言っている。「千住の河原に西念という坊主がいた。坊主とは名ばかりで、破れ衣を身にまとい、毎日浅草の観音様に看経(かんきん)の往き帰りに人の家の門に立ち、南無阿弥陀仏と唱え、商売繁盛、家内安全を祈り、お鳥目(ちょうもく)を貰い、生計を立てていた」と述べているが願人坊主とは言っていないが、この坊主の行動はまさしく願人坊主である。

正蔵さんの演じた「五月雨坊主」では噺の主人公の鉄巌のことを「願人坊主というが、乞食ではない。願人だから他人の代参にかけめぐり、釣鐘健立に歩いたり、時には風流なのは、かっぽれを踊ったりする。この坊主の身なりを見ると、頭はいが栗頭、やれた衣をまとい、縄のたすきをかけ、尻っぱしょり、下駄は履かず素足だ」と説明している。

「黄金餅」に出てくる裏長屋に住む西念坊主は門付けで貰った小銭を死に際に皆な餅にくるんで腹に入れてしまい、これを隣に住む金山寺味噌屋の金兵衛が狙う噺だが、これも願人坊主のような事をしていたのではないだろうか。

そもそも願人とは何か。日本国語大事典によれば願人とは「むかしの民事の裁判で訴えを起こす人、請願する人、及び祈願する人を指すと言い、また願人坊主については「町中で出家、三伏、行人、願人が寺社に寄進の由を申し、仏像をしつらえ、高堤灯を持ち、念仏題目を唱え家々を廻るもの」と、言っている。

また「嬉優笑覧」では「願人とは代願人の意味であって、神や仏へ願かけの代理人を務めたので願人坊主と言った」という。

一方、「江戸のアウトロー(無宿と博徒)」阿部昭著、講談社選書によれば「願人とは願人坊主または願人坊ともいわれる乞食僧(こつじき僧)である。本来は京都の鞍馬寺に属する托鉢僧であるから、身分は寺社方の人別に属すべき宗教者の集団であるが、江戸時代には全く形式化して、日頃は専ら寄進を募ることを名目に、大道で芸を売ることを生業とする芸能集団となっていた。やっていることは当時の無宿の他のグループの大道芸と変わらないが人別上は寺社奉行の管轄ということで、固有の身分となっていた」という。

江戸時代は所請人別帳から外れた無宿者が多々いたがこれらの人達は、一般人を管轄する町奉行や勘定奉行の支配下を離れた人達で本当に宿無しで河原などで生活していたわけだが、願人坊主でも談志さんや小三冶さんの噺のように路上で寝ているような連中は、無宿人と殆ど同じように町の家々に門付けするもので、区別はないように見えるが、人別帳の上では前記の書に見る如く、無宿人ではないことになっていたらしい。

そして正蔵さんの噺にでているごとく一応大道芸をやる坊主であり、人の集まるところではかっぽれなどを踊って銭を集めていたのだろう。小三冶さんの言うように頭は丸めているが、坊主ではない、正蔵さんのいうように乞食ではないというのも、まさしくその通りだ。乞食は無宿だが願人坊主は形の上では無宿ではないのだそうだ。

「藁人形」にみるように貧乏長屋だが、ちゃんと住むところがあり、日々貰い集めた小銭を蓄えている。その点「らくだ」に出てくる願人坊主は余程程度の低い者なのかも知れない。先の「江戸のアウトロー」によれば願人坊主が経営する木賃宿(ぐれ宿)もあったそうである。そこには定住する場を持たない日用稼ぎの人達のその日、その日の宿泊施設となっていたという。願人坊主は自らも街頭に立って大道芸をして、日も送りながらも自宅を木賃宿として無宿人に寝床を提供していた。そして、無宿の人達でもある程度の金が懐に残れば家を借りて定住したいと思っている人達もいたが店請(借家の保証人)となる人がいなければ、それは叶わないが、江戸はそうゆう所はよくしたもので、木賃宿のようなところでも、一寸手を廻せば店請をやってくれたという。願人坊主の木賃宿もそんなことにも手を出していたようである。

願人坊主は始め地方の僧侶が田舎の寺の経営が成り立たず、無住の寺として廃寺同様にして都会に出てきて、願人として食にありつくようなことをしたのだろうが、そのうち経も読めないような連中まで、ただ南無阿弥陀仏と唱え、町の家々の門々を廻れば、いくらかのお鳥目が貰えるとあって、執拗に門付けをして人々に嫌われる羽目になったようである。「五月雨坊主」の鉄巌は以前、罪を犯し三宅島流罪となったが、真面目に勤めた後、江戸に帰って来て、自分を捕まえた捕方の世話で願人坊主の群れに入れて貰い、毎日門付けをして金銭を得ていたと正蔵さんが語っている。そして、かねて門付けをして顔なじみになっているいばらき屋の娘のお駒の失踪事件で、お駒を発見し、連れ帰ると、いばらき屋がお礼を差し出すが、これは受け取らないという律儀な坊主である。彼もお経は読めず、南無阿弥陀仏と唱えるだけである。

願人坊主の着るものといえば、正蔵さんや歌丸さんが言う如く、破れ衣に縄のたすき掛けと言っている。この恰好をとらえて上方噺の「悟り坊主」では、この坊主が町中を通るのを見た家の女房が、汚いなりをしていると言うと、そこの亭主が弘法大師がやはり汚い恰好で全国を歩いて人の心を見定めようとした例をとり、あの坊主もえらい人かも知れないというと、これを聞いた願人坊主が「悟られたか」という。亭主の方はこの言葉を聞いて「あの坊主はもうその気になっている」というと坊主もまた「また、悟られた」という噺で随分古い噺だそうだ。

願人坊主と言えば、悪い印象が強く、碌くすっぽなものも着ず、時として素裸のことも多く、酒ばかり飲んだ、だらしのない生活態度で、昼間は町の家々を門付けをして、嫌がられるのも構わず、しつっこく念仏を唱え、金を呉れるまで立ち去らないという乞食顔負けの執念で金を集めて、町の嫌われ者として見ていたが、木賃宿などをやり、自分達より下層の無宿者に宿などを貸していたとは思いも付かなかった。

昔は土農工商の階級があり人々はそれに縛られて身動き出来なかったが、それよりまだ下の層の人達もいて、日々貧乏に苦しみながらも生きていたのだと思うと噺を聞いていても辛いおもいを感じてしまうのである。

平成15年11月
posted by ひろば at 06:24| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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