2003年12月01日

【034】百人一首(鈴木和雄)

百人一首は藤原定家が1235年(文暦2)頃に当時の歌仙秀歌を集めたものと言われている。そして室町初期から流布し、色々な注釈書が著された。江戸初期になると「かるた」に取り入れられ、世の中の人々に親しまれ、今でもそれは続いている。
 このように世の人々に愛された百人一首が落語に取り入れられないはずがない。しかし、そこは落語であるから真面目に歌の心は何かとか、一字一句の意味は詮索しない。
言葉の上の可笑しさを取り上げたり、わざと曲解をしたり、語呂合わせをしたりして噺にまとめあげている。
 私たちが一番知っている在原業平の「千早振る 神代もきかず 竜田川 からくれないに 水くくるとは」を題材にした「千早振る」の噺であろう。 歌の意味を娘に問われているので、これを聞きに来た男親の気持ちなど全く無視し、答える側は噺の「薬缶」に出てくる無学者論に負けずの隠居さんよろしく、一字一句自分勝手な解釈をつけ説明している。
それにしても千早や神代を花魁の名だとか、竜田川を相撲取りの四股名だとか思いもしないこじつけで解釈し話を盛り上げ、最後に千早花魁に「とは」と言う本名まで付けてやる親切心というか、なんとしても自分の思ったとおりに説明付けようとする執念に脱帽する。
 その点「崇徳院」の方は崇徳院の「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あわむとぞ思う」の歌を綺麗に噺に取り入れ、若い男女の恋心を周囲の人を巻き込んで最後に会うことが出来るという恋物語に仕立てている。周りで苦労した連中にもそれぞれの余恵が有るようになっているところがこの噺のやさしい所だろう。ここでは歌の解釈は二の次、若い二人の未来を信じて「われても末に」と期待すると、この二人を探す手伝いの男達の争いで鏡が「割れても末に」と床屋の主人が期待する語呂合わせが面白いオチになっている。
 これらの他「落語辞典」(東大落語会編)によれば「百人一首」という上方噺があるそうで「小町」と「西行」をつなげたような噺であるという。隠居と八っつあんの話で百人一首の本を見て珍問答が繰り広げられている。小野小町に関連した話で深草少将が九十九夜通って死んだという話を聞いた八っつあんが自分の親父は三十六遍便所に通ったとか、西行が旅の途中で便意を催し、用をたしたら丁度亀の甲羅の上にやってしまい、終わってから便が動いてびっくりし、西行と亀が歌を歌い合う。その西行が鼓が滝で詠んだ歌の「音に聞く 鼓が滝をうちみれば 川辺に咲きし たんぽぽの花」を定家にだしたところ神様と合作したものだからということで百人一首に入れてもらえなかった。がっかりした西行が身を投げようとして詠んだ「嘆けとて 月やは物を 思わする かこち顔なる わが涙かな」の歌が入る事ができたという噺になっている。
 もう一つ上方噺で「反古染」(ほうぐぞめ)というのがあるそうだ。船場の大家の娘が乳母や小僧などの付け人と住吉詣りに行こうとするところ、娘の着物に百人一首の歌がるたが描き染められているのを見た出入りの八百屋が、小野小町や業平、蝉丸等の歌が途中から詠み代えられているのを見て崇徳院の歌は如何と見れば、これも下の句がバレになっていると言う噺だそうだ。
 先代痴楽さんの噺の枕に、やはり百人一首の歌を描いた着物を着た娘の胸の所に「乙女の姿しばし留めん」とかお尻の辺りに「今日九重に匂いぬるかな」というのをやっていたのを聞いたことがあるが、この噺は「反古染」の枕に使われていた噺のようである。
 「落語辞典」の中に「陽成院」という噺があり、「筑波嶺の みねより落つる 男女の川 恋ぞ積もりて 淵となりぬる」の意味を金さんが横丁の先生に聞くと、先生は「京都の陽成院という寺の前で相撲があり、筑波嶺と男女の川の両力士が対戦し、筑波嶺が男女の川を投げ飛ばすと男女の川は山の外まで放り出されて、見物がわっと声をあげたのが、天皇の耳に届き、筑波嶺は扶持を賜った。つまり声が積もって扶持になった。「なりぬる」は勝った筑波嶺がこの扶持で妻娘のために小町香を買って帰ったら、女どもがべたべたと塗りたくったから「なりぬる」だという。「千早振る」の噺に似ているが「千早振る」ほどは面白くない。
 この他金馬さんの演じた「高野違い」というのがあるそうだが、百人一首を店の旦那が出入りの頭(かしら)に説明してやるが、これを聞いた頭は「高野」(こうや)をたかのと読んだり紫式部を鳶色式部と読んだりと混乱を生ずるという噺でよく判らない噺だ。
 菅原道真が詠んだ「このたびは ぬさもとりあえず手向山 紅葉の錦 神のまにまに」という歌があるがこれが「砂の上の三人」という噺になっていて、三人のおこもさんが歌好きの旦那が来たので、この歌を詠んだら、旦那に「菅原天神か」と問われ「砂の上の三人」と答える同音をオチにしたもの。
 小野小町の「花の色は 移りにけりな 徒に わが身世にふる ながめせしまに」の歌は「鶴満寺」で取り上げられている。和歌を詠まない人は寺内に入れてはいけないと言われていた寺男が、花見時に一寸鼻薬を貰ったばかりに旦那、幇間らを入れてしまい、後で住職から詠んだ歌を問われ、この歌をいうとそれは百人一首だと言われ、百文と一朱を貰ったことを白状してしまう噺。
 短歌や俳句は日本の貴重な文化だが、この短歌や俳句がある限り、歌仙と言われた人達の秀歌を集めた百人一首は昔の古今和歌集や新古今和歌集と共に日本人の教養に大きな役割を果たしている。そういう意味からもこの百人一首を読み込んだ落語はこれからも多くの落語愛好家に楽しみを与えてくれることであろう。但し、これも元の歌をよく理解した人達が聞けばの話で、もとの歌の意味が判らなければ笑うことも出来ないであろうから、私たちも益々日本文学を勉強しなければならないかも知れない。

平成15年12月
posted by ひろば at 06:26| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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