2004年05月01日

【038】字は知らなくとも逞しい(鈴木和雄)

我が国では明治五年に学制が施かれて、国民が皆教育を受ける機会が設けられ、小学校が次つぎに日本各地に設置され、子弟の就学が推進されて来たが、それ以前の江戸期は一部の人達を除いて、学問を受ける機会がなく、庶民はおいてけぼりにされたのだった。

徳川幕府は政情が安定すると、中央では網吉のような学問好きな将軍がいて、学問所のようなものを設け、有能な人材を輩出してきた。また各藩においても人材教育のため藩校を設け、子弟の教育に当たった。 しかし、これらは全て武士の子弟のための学校であり一般庶民は町中にある僧侶や浪人などがやる手習所や寺子屋で学ばざるを得なっかた。

しかし、これとても裕福な家庭の子供相手の塾であり、町の下層階級の職人や中小の商人の子供及び田舎の子供たちは置き去りにされたのだった。大店の商店に丁稚として就職した子供たちは将来、手代や番頭になるための基礎教育として仕事が終わってから、手習いや算盤を学ばされるが、これも辛い仕事が終わってからの夜の勉強だから子供たちにとっては居眠り半分、勉強半分の子もいて、なかなか大変だったようだ。

それでも職人の様な人達よりも物の読み書きはできる基礎があるから、成人してからは全く無筆ということはなかったが、職人のような体をつかって仕事をする人達はこのような機会もなかったのである。 志ん朝さんが「大工調べ」の枕で言っているように当時は職人は手に職があり、それで食うことができれば充分で、なまじ字が書け、算盤ができると変人がられ、字を知っているから仕事が下手だとか、算盤ができるからあやしいと気味悪がられたのだ。

この為、当時は所謂無筆の人が沢山いてこの人達の起こす悲喜劇が噺に多々取り上げられている。
今でこそ無筆な人は殆ど居ないので、このような噺は笑いの対象となるが、当時はこんな人が多かったとは言え、やはり文字社会だから字を知らないということは不便な生活を強いられたのだろう。

「焼塩屋」に出てくる下女のように自分の家から来た手紙でさえ、何時も頼りにする人がいないと、恥を忍んで側にいる人に聞かざるをえない状況となり自然と世間を狭くする事となったのではなかろうか。字が判らないというのは町人ばかりかと思いの外、侍にも武芸ばかりしていて、学問の方をおろそかにしていた為、 「焼塩屋」の下女が差し出した手紙を読めなかった侍がいたのだ。

無筆の人達はそれでも彼らなりの生き方をしていた。周りにもそうゆう人が沢山おり、お互いに判らない所は、判らない成りに知恵を出して助け合い、必要となれば近所の少し学のある人に聞いて物事を運んでいたので疎外感はなかったのである。

「三人無筆」は葬式で弔問に来た人の帳付けを頼まれたが、頼まれた三人とも書くことが出来ず、押しつけあった末、字の書ける人にやって貰う始末、しかし段々、客が多くなってくると、間に合わず弔問客の銘々に記帳してもらう噺で、関西では「向こう付け」という噺になっている。

「手紙無筆」は八五郎が本所の伯父さんから来た手紙を兄貴といわれる人に読んで貰おうともっていくが兄貴も字が読めず、使い者の恰好や八五郎がかつて伯父さんと話した内容を頼りに推定で手紙を読もうとする噺。

「無筆の下女」は親父から来た手紙を奉公する家の奥方に読んでもらうが、内容が「自分の娘と夫婦になりたい」ということが書いてあり、奥方が不審に思っていると下女が奥方の耳を抑えて「そこは聞いてくれるな」という。

「親が無筆」は自分の子供だけには教育をつけてやろうとしているが、ある時、風邪が流行って呪いの言葉を書いて家の前に貼っておけばいいと聞いた子供が親に頼むが、親は無筆で致し方なく、夜近所の貼り紙を剥がして家の前に貼っておくと、子供が見つけてあれは貸家の貼り紙だという。別名「清書無筆」ともいう。

「無筆の犬」は手に虎の字を書いておけば、犬に吠えられないと聞いた男が、実際にやってみたが、やはり犬に吠えられてしまい、犬にこいつは無筆だという。

「無筆の女房」、幇間の女房は無筆の故に恥をかいたので近所の子供から字を教わったが、幇間が旅で家を留守にしている間に勉強が進み、小遣い帳をつけるまでになっていた。驚いて書いてある字を読むと蝋燭屋の看板にある字と絵を勘違いして書いてあり笑いの種になっている。昔は字を知らなくても判るように商人は絵を描いて何を商っているか判るようにしていたが、例えば蝋燭屋は蝋燭の絵の下に「あり」としてあったという。そこで女房は「あり 十二文」と記入したが、「あり」が蝋燭だと思っていた噺だ。

「無筆の医者」は誰でも医者になれた当時の噺。今は医者とは知職人だと皆が尊敬の対象だが昔はそうではなかったらしい。字を知らないので薬の処方箋は全て絵で描き、判じ物のようにして自分だけが判るように漢方薬を処方していたという。

「八足」という噺はよく判らない。無筆の男が雇われている旦那から自分の子供を尋ねられ「お前の子息か」といわれ「四足」といわれたと勘違いし、畜生に例えられたと怒りだす。そして更に兄弟について問われた時に「姉の八足は」と勘違いして答えるというもの。関西の噺だという。

「反物五反の裂れ」別名「山門五三桐」という噺は無筆の男が芝居小屋の看板を見ていると、そこへもう一人の無筆の男が来て、看板の狂言は何だと聞く。先の男は判らないから何だかだと言って誤魔化していたが、そばを通り掛かった男達が「山門五三桐」の芝居の噂をしているのを聞きかじり、「反物五反の裂れ」だと答えてやる。

新聞はない時代だったが「ちらし」はあり町中で貰うちらしは情報元だが、それもろくすっぽ読むことができず、「提灯屋」のように字を知らない男達が集まり、貰った新規開店のちらしを中心に何だかんだとやっているが、結論が出ず隠居に読んで貰って、提灯屋のちらしと判り、ただで提灯をせしめるという噺。

「代書屋」は新作だが無筆の男が就職の為、代書屋に行って履歴書を書いて貰う噺で毎度お馴染みだ。上方の柱米団治が昭和十三年頃の代書屋の経験に基づいて作った噺だそうである。

今はもう教育制度が普及して無筆の人はいなくなったが、明治の改革時に国の発展の為には国民が全て学問をする必要があると制度の確立に努力した先人たちの功績に改めて感謝したいものである。

平成16年5月
posted by ひろば at 06:32| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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