2004年08月01日

【041】人体不滅の願い(鈴木和雄)

落語の作者であり、評論家である榎本滋民氏が「古典落語の力」という著書の中で川口松太郎氏の「短夜や嘘と知りつつ聞く噺」という句を紹介している。 落語を愛する人達は誰でも噺の内容が嘘だと理解しながら、その嘘の現実離れをした点を捉え、笑いを覚え、演者の話し方に引き込まれて、その世界が虚構であることを忘れて最後まで聞き入り演者の話術の妙に感心し、己の心の凝りの開放を味わったのだろうか。

 嘘の噺といえば「弥次郎」だろう。 まったくの嘘の固まりである。北海道へ行って火事の炎が水を掛けることにより凍ったり、大きな岩を脇に抱えてちぎっては投げ、ちぎっては投げ、猪に襲われて反撃すると、雄の猪が16匹の子供を連れて来たりして、全く誰が聞いても本当だと信じられる処はひとつもない。それを客は大笑いのうちに大拍手と共に楽屋に引っ込んで行く演者を送っている。

 先代金馬さんの本に「芝居も落語も嘘がなくてはいけない」と言うことが書かれている。なまじっかな真実は芝居にも落語にも迫力が出てこないという。ある歌舞伎芝居の中で川音を出すシーンがあり、始め囃し方の者が少し強めに太鼓を叩いたら、海の波の音に聞こえてしまい、これではならじと川音に似せて弱めに叩いたら、少しも場が盛り上がらず、また元の強い叩き方に変えざるを得なかったという話が出ている。嘘の音が芝居を盛り立てたのであろう。

 落語も多分にそうゆう所があるのだろう。
人間の体を扱う噺の中で本当の事だけだったら噺が広がらない。やはりそこには嘘の要素が入ってこそ噺に膨らみが出来、信じられないことでも面白く聞くことができるのだろう。
 
 江戸時代は武士の力が強く、庶民である町人や職人は彼らと対抗する事が出来ず、よく人切り包丁と称される刀で簡単に一刀両断されることがあったようだ。侍同士は彼らが殺しあうのは商売みたいなものであるから、殺しても殺されても恨みっこ無しで、幽霊話しは除いて余り噺になっていないが、武士と町人の場合は切られた町人は寸時、ある時は長い時間、生きているような情景をあらわしている噺がある。

徳川時代の江戸は参勤交代などで、しょっちゅう地方から殿様についてくる侍が多く、江戸の知識はあまり無いため、町民らにいろいろな迷惑な行為に及んでいたらしい。
各藩の江戸詰めの侍は江戸町人の気風をよく知っているから、そう問題を起こさなかったが、地方から短期に上がってくる侍は侍風を吹かす習性が直らず、何かと言っては江戸っ子風を吹かす町人とぶつかっていた。

 そんな中で生まれた噺が「首提灯」で、酔っ払いの町人に唾を吐きかけられた侍が殿様から拝領した羽織の紋にかかったと言って一刀両断してしまう。確かに侍の腕がよかったのだろう。首は少しの間、切られた体に留まり、少し経って切られた本人が気がついて首の周りを気にするようになり、半鐘の音を聞いて提灯の代わりに首を掲げて走って行くと言う奇妙な噺になっている。首を切られても生きているという発想がすごい。本当だったら首を切られたら、その場で体諸共倒れ、話はそこで終わってしまい、後は銭形の親分の登場ということになるが、落語はそうはさせない所が面白い。

 同じく酔った男が侍に毒づき、胴切りにされ、これもその場で倒れず、胴は風呂屋の番台で働き、腰から下はこんにゃく屋でこんにゃくを踏んでいる「胴斬り」の噺も壮絶である。しかも腰から下は口が無いのに風呂屋の胴に「余り茶を飲むな」と言付けをし、胴の方は「三里の灸をすえるように」と頼んでいる。全く離れてしまった体だが今でも繋がっているような感じだ。 

「胴取り」と言う噺は「首提灯」と同じく、田舎侍に首を切られて、こちらは首が落ちてしまったが、胴だけは勝手に歩いていき、川を渡った所で倒れてしまった。首だけがぼやいていると、博打で胴を取って大儲けをした熊公が通りかかったので、首が俺も橋向こうへ胴取りに行くから金を貸してくれと頼む。

不思議な噺ではある。聞いている客はそんなことは無い、これは嘘の話だと知りつつ大笑いをし、楽しんでいる。 こんな噺はどんな精神構造で出来ているのだろう。当時威張っていた武士に対する町人らの抵抗意識だったのだろうか。「俺達は切られて体は別々になるが、心はいつまでもひとつなんだぞと言う江戸っ子の心意気を示していたのだろうか。或いは魂魄この世に留まりてという宗教観に基づく意識から切られても何時までも生きているような形で現世で動いているという話になっているのだろうか。

 「試し斬り」の噺では新刀を求めた侍が川原にいるおこもさんを刀の餌にすると言い試し斬りをするが、侍の腕が悪いのか、刀が鈍なのか、おこもさんは毎晩殴られるくらいしか感じない。 余程侍の力を馬鹿にしたか、刀のなまくらを見くびった噺である。
本来ならどんな刀であれ力まかせに切ったら、やはり頭や体は切りつけられる。それが無事であるという噺は人間の体の不思議を物語っているのかも知れない。

「犬の目」と言う噺、これも人体に係わる噺である。 今の相当進歩した医術でも目の交換は出来ない。昔は衛生状態は悪いし、栄養知識も低いから、割合若くして目が悪くなる人が多かったのだろう。薬といっても漢方薬しか無い時代であるから、そんなにおいそれとは直らない。しからば目をくり抜いて、洗ったらどうだろうということで、洗って干して置いたら、犬に食われてしまい、医者は代わりに犬の目を抜いて患者の目に入れたら目は見えたが犬の習性まで移ってしまい、大弱りというもの。 

ほかに目玉をくり抜いてもらい、新しい目を入れて貰ったが、夜は水に浸けて置くように言われたので、そうしたが、或るとき女郎屋に上がった時もコップの水に浸けて枕元において寝たら、隣の部屋の男が侵入し、喉が渇いたので、黙ってコップの水もろとも目玉も飲んでしまった。やがてこの男は便秘になってしまい、医者に行って診て貰ったら、目玉が尻の奥で睨んでいたという「義眼」。 

気持ち悪くもあり、滑稽な噺だが、この発想も目玉が体から離されても、ちゃんと機能していると考えるから、今では辻褄の合わないと思えるような噺が出来、大笑いを起こすことになるのだろう。 こんな話は勿論嘘である。だから面白い。その嘘をあたかも本当のことのように一生懸命汗を出してしゃべる演者の姿も面白い。それが落語の楽しいところなのか。

 春になると、頭の上に桜の花が咲き、そこで花見の宴が行われるという「頭山」も話のための噺だ。子供の頃、西瓜の種を飲み込んでしまうと、後で頭に西瓜の芽が出ると脅かされて、西瓜を食べる時は懸命に種をどかして食べた記憶がある。「頭山」の噺はこの大人の冗談を落語にしたものであろう。 最後に自分の頭に出来た池に自分が身投げをするという奇想天外の噺は、聞くほうの客はそんな事ある筈が無いとの思いの連続で嘘と判っていても笑いを生ずるのである。 こうゆう荒唐無稽の噺は中国か何かの話に原典があるのだろうか。どうも日本人の発想とは思えないのだが。

 上方噺で「瘤弁慶」。異物食いの男が古い土塀の土を食い、その為、背中に弁慶が現れて、いろいろこの男に背中から命令をする噺だが、昔だと体にできる腫れ物は「廱」(よう)とか「?」(ちょう)と言って命取りのものだったが、昔の人はこんな病に侵されて自分の背中に異常なものがあるとは認識しながらも空元気で笑いの種としていたのだろうか。

 「大名道具」という噺はシモの噺で、ある大名の男の一物が小さいと嘆いた奥方が、ある日家来共のものを集めさせ、一番立派なものを持ってきてしまい、殿様に付けて毎晩励んでいたところ、元の持ち主が腎盂になってしまうという噺だが、男の物が取り外しが出来るという発想が面白い。男は昔からその大小に悩んでいて、出来れば大きいのと取替えたいと願っていたのであろう。そうすれば奥方に馬鹿にされないし、自分も楽しめると思っていたのだろう。あんなものが自由に取り外しがきくのなら、昔といわず、今でも流行るであろう。そうは行かない現世なので、噺の上だけでも楽しもうということであんな噺が出来ているのだろうか。

 「ろくろ首」というのも一寸間違えるとお化けの世界の話だが、与太郎の見た、ろくろ首は自分の嫁さんのそれであるから面白く聞かされる。ろくろ首が女に限られるというのも不思議だ。 円生さんの「見世物小屋」の噺の中にろくろ首の見世物は首になる女と座って三味線を弾く女とは違い、首担当の女は後ろで梯子を登って首を長く見せているのだとネタばらしをしている。

「ろくろ首」に出ている嫁さんの首は本物だから与太郎が驚くのも無理が無い。首が伸びたらという発想は何処から来たのだろう。他人の家を塀越に覗くときとか、人の輪を後ろから覗く時とか首が伸びたらという願望があって、それが噺の上で遂げられたのだろうか。伸びるはずが無い首の噺を真実しやかにやる落語というものは不思議な世界なのであろう。

「首売り」と言う噺がある。職に困って首を売って金を稼ごうと、風呂敷包みを持って「首を売ろう」と屋敷町を流すと、買い入れ希望者が出てきて、庭で男の首を切り落とすと、首は落ちず、張り子の首がころんと転がる。本物の首は看板と言って逃げる噺であるが、首を買った人も聞いている客も騙されている。本物の首を切られたら命もないし、元も子もなくなるという事を弁えたうえの噺で、本当の首で無いところが楽しませてくれる。

 噺の上で不思議なことと聞いている私達であるが、今はコンピューターにより制御された機器が人間の腕の代わりになって自動車工場では溶接作業をしていたり、防犯カメラが人間の目の代わりで町の中の様子や建物の周りの状況を映し出し、しかもそれを記録するというような素晴らしい仕事をしてくれている。これなんかは「首提灯」のようなものではないだろうか。

胴の上の部分にあたるものが自動販売機で駅や建物の入り口で切符を売ったり、改札をしているし、米を搗いたり、餅をつくコンピューター制御の機械もある。昔の人がこうあったらいいなという発想が今はいろいろな形で実現されているのではないだろうか。人の頭脳と資本金で造った遊園地も「頭山」の発想が発展したのかも知れない。

 「首提灯」にあるように自分の体から頭部を外しても、体が外部の状況を認識できるような機器は出来ないだろうか。例えば目の不自由な人がデジタルカメラのようなもので外部を見るとコンピューターがそれを分析し、カメラから脳の視神経に接続した配線を通じて外景の形や遠近の距離とか色を脳が認識できるようになる日も来るのではないだろうか。

もしそれが出来れば「首提灯」は現代の発明を随分前に先取りしたという事になろう。そう思うと落語はなんと広大な奥深い、しかも人間の幸せに結びついたものかと考えていたら、平成16年5月12日付けの朝日新聞に「CCDカメラつきの眼鏡をかけ、目の奥に埋め込んだ大規模集積回路(LSIチップ)で光を電気信号に変えて「見る」−こんな人工視覚の開発に大阪大学などが取り組んでいる」という記事が出ていて、これが本当に実現されたら日本の研究技術陣はなんと素晴らしい人達なんだろうと感心し、拍手を送るものである。

平成16年8月
posted by ひろば at 06:36| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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