2004年12月01日

【045】落語となまり(鈴木和雄)

日本も明治5年に学制が布かれてから約100年以上経つというのに、文章語の方は標準語が徹底され、日本全国通じない所は無くなったが、話し言葉では未だにお互いが通じない所がある。特に地方の高齢者が話す言葉は遠く離れた都会の人には判らないことが多い。

 若い頃、会社の上司で鹿児島県出身の人がいたが、同郷の友人と話す言葉を聴いていたら、何か喧嘩をしているような発声で、何を話しているのかさっぱり判らなかった経験がある。 また、同じ頃に仙台から仕事で来ていたおじさんが2−3人いたが、この人達が休み時間に話す言葉は内容が少しも判らなかったという思い出がある。

 こればかりでなく、高校の時に、数学の先生が佐賀県の出身者で「接線」と言うのを「シェッシェン」と言い、この言葉を聴くたびに皆でくすくす笑っていたこともあった。

噺の中で東北の人が「すし」を「シシ」と言っていると話されているが、寒い地方なので冬は口を余り開けないで話すのでこんなになったのかもしれない。他人の事は言えない。東京だって「し」と「ひ」の区別が出来ない。「白髭橋」はあなたはどうゆう風に読みますか。「シラシゲバシ」「ヒラヒゲバシ」「シラヒゲバシ」「ヒラシゲバシ」。
東京以外の人はすぐ正確に答えられる。しかし、東京の人は直ぐには正解が出来ない。

昔から江戸っ子を自称する人達は「ヒ」と「シ」が正しく言うことも出来なかったし、聞き取ることも出来なかった。ある高名な師匠も「コーシー」などと言っていた。

 この様に言葉は各地方によって、それぞれの違いがあり、文章語では一律に表されても、話す言葉には言い方と抑揚(イントネェション)の違いが出てきてしまう。

 落語を話す時、演者は大体、東京の言葉というか、江戸弁でしゃべるようになっている。 であるから小さんさんは弟子をとる時に、東京以外の者には難を示したという話があるそうだ。東京出身者が即、江戸っ子とはならないことは小三治さんが噺のまくらで語っている。同師は東京生まれだが親たち夫婦は仙台の生まれで、三代江戸に住まなければ江戸っ子と言う基準からは外れるのだが、しかし、東京生まれ東京育ちだから落語家になれたといっていた。

 小さんさんの言う通りに東京の落語家が東京出身かどうか平成6年の「落語家年鑑」で調べてみた。この当時はまだ小さん、文治、志ん朝、志ん馬、小円馬、歌奴、三木助(子)、小南、右朝、扇枝の各師匠が健在の頃で東京落語の在籍者288人、内、東京出身者127人でその割合は44%である。これを各派別に見ると、落語協会160人、内、83人、49%、落語芸術協会81人、内、30人、49%、円楽一門24人、内5人、21%、立川派14人、内9人、64%となっている。これは東京出身者のみだがこれに神奈川、埼玉、千葉の近県の人を加えれば結構な数になるのだろう。 これを見ると今の東京落語を支える人達は東京の出身者ばかりでないことが判る。

 しかし、これらの東京出身者が全て東京弁、江戸弁を話すということでもないという。
標準語は完全に出来るが、江戸弁は難しいという。遊三さんがTVの放送で話していたが、同師は円生さんに厳しく仕込まれたが、「なまりはいけない」と文句を言われたそうである。たとえば東海道五十三次は「トーカイドーゴジュウサンツギ」と読むとこれは標準語読みで、「(ト)−カイドーゴジュウサンツギ」(括弧内のトにアクセントがあるという。)で無ければならないとか、馬は「ウマ」と読むとだめで「(ン)ウマ」(ウ)にアクセントがあるという。 遊三さんも東京生まれ東京育ちで、自分はなまりなんか無いと思っていたので、師匠に言われて驚いたという。ということは標準語に近い東京弁でしゃべっていたが、落語の言葉は江戸弁になっていなかったということだろうか。

 落語家になろうとしてこのなまりで苦労する人は多かったという。米丸さんが「わが師古今亭今輔」と言う噺の中で、今輔さんが自分は群馬県の出身で、大変、くにのなまりに困って、或る時、長谷川伸先生に相談したら、先生は新派の井上正雄の例を話して、なまりなんか気にせず、落語に精進すれば、それがお前の独特の持ち味になり、世間に認められると諭され、以後励んで、真打になり、あの「おばあさん」の独特の話しぶりがもてはやされるようになったということである。

 昔は江戸の落語は江戸を中心とした江戸っ子に聞いてもらい、上方噺は大阪を中心とした関西地区で聞かれたので、それぞれの独特の話しぶりをしっかりまもる必要があった。その為、かえって、それ以外の地方からは何を話しているのか判らないと言われた。殊に大阪弁コテコテの上方噺は相当最近まで東京の人にも判らなかったという。これが米朝さん、枝雀さん、仁鶴さんたちの標準語に近づける努力により、全国的になって隆盛を見ることとなったが、上方落語にも苦労した時代があったのだという。

しかし、今でも関西の噺家が江戸っ子を真似て話す台詞は何かぎこちなくて笑ってしまう。仁鶴さんが「なまりは国の手形」の中で東京のお巡りさんの台詞をしゃべっているが、少しも締まらない巡査になってしまうし、松鶴さんの「重ね扇」で話すべらんめえ口調を真似た台詞は思わず観客が笑ってしまうほど、不自然なしゃべり方である。

生粋の関西人が話す江戸弁は何かイントネェションが違い、迫力の無いものとなっていた。落語が今のように全国的に聞かれる時代となると東京弁、江戸弁と言っていられない。言葉は標準語で何処の地方の人にも判るように話してくれているが、イントネェション、抑揚はどうしても自分の出身地の音(おん)になってしまう。それがまた郷土の人は勿論、その他の地方の人にもなんとなく郷愁を与え、面白い話術に引き込まれ拍手をしてしまうことになる。今、出ている歌之介さんの話す噺はこんな所がみんなに愛されている所かもしれない。 

 一方、大阪の人はフランス人と同じく、自分のくに、郷土の言葉を大切にするから簡単によそのくにの言葉を使おうとしない。何処へ行っても大阪弁で通そうとする。大阪の商社の人は東京へ来ても平気で大阪弁で話し、余り東京弁を使おうとしない意固地な所がある。落語でもその点は同じで、言葉こそ標準語で話しているが抑揚は全く関西のそれであり、小南さんも百生さんも小文治さんにしても皆、関西調で噺をしてきたのを思い出す。

 よくお化けの噺のまくらで、お化けの台詞である「魂魄この世に留まりて」と言うのを、江戸弁でやるから迫力が出て、怖がるが、もし、あれを地方の言葉でやったら、締りが無くて、怖さが無くなると円生さんは述べていた。 今は標準語でやる限りは地方のイントネェイションが入ったうらみ言葉でも許されるのではないだろうか。歌之介さんに一度、幽霊噺をやってもらったらどうだろうか。

 標準語に固執するあまりに感情を表さない話し方になってしまうのも味気ない。東京弁でなくてはいけないとか、江戸弁をしゃべれないと駄目だとか「なまり」の呪詛から解き放された若い噺家が自由に自分の言葉で噺を語って貰いたいものである。

平成16年12月
posted by ひろば at 06:40| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/33625647

この記事へのトラックバック