2005年01月01日

【046】笑わない落語会(鈴木和雄)

私達は寄席や落語会に何のために行くのだろうか。馬鹿馬鹿しい噺を聞いて笑うためだけに行くのだろうか。 私達は日々仕事に追われ、人と人との付き合い、交渉事に明け暮れし、必死に仕事をこなし、毎日が安泰に過ごせるように気を使って生きている。その為、精神的に追われ、相当の負担を体に感じている。肉体ばかりでなく、精神的にも疲労している。これが一般的に言われているストレスなのであろう。

時として、これが積もり積もって爆発するようになる。 しかし、人間は良く出来ているもので、これを精神的に開放しようとしたり、肉体的に癒そうとする機能が働く。普通の人は、このため、友人と酒を酌み交わし、話をしたり、時には女の子がいる所に行って発散したり、時々は旅に出て温泉に入りリラックスしたり、山に登ってみたり、広い海原を眺めたり、音楽会に行って素晴らしい音楽に耳を傾けたり、映画を見たりと、いろいろ自分を現況から転化する術を心得ている。 そして時々話芸の達者な人から面白い噺や、恐ろしい噺を聞いて神経をリラックスさせたり、緊張させたりという機会を持つこともある。

 これが寄席であり、そこで落語、漫才、講談それに浪曲を聞いたり、目に保養となる手品や曲芸を見たりする。 これは日常の生活の中で容易に出来るものである。
 友人と酒を普通に飲むくらいなら、余り害はないが、得てして人間は自分に甘いものだから大酒を飲んでしまい、体を悪くしたり、変な女の子に引っかかって大金を取られたりする。また旅行なども、そう、おいそれと行かれるものでない。音楽会や映画もいいが、自分の気に入りのものが何時もやっているとは限らない。 

そこで都会だったら気の向くときに何時でも行かれる寄席などがあるから、気分をリラックスして、ストレスを解消する機会が容易にもてる。 寄席に行けば落語の好きな人は面白い噺に思わず笑いをこらえなくなり、周りがびっくりするくらいな高い笑い声で心を発散している人もいる。 以前国立演芸場に行った時、最前列の席に座っていた中年の女の人4人が噺に連れて大声を出して笑い続け、何でこんな所で、そんなに可笑しいのかと思ったくらいの笑い方をしていたが、ほかの客もそれに釣られて笑っていたことがある。

私たちの落語会でも噺家が喋り始めると、もう笑い始めて引きもきらず、演者が「こんなに笑っていただいて、やりやすい会場です」なんて、お世辞なのか、安い客と見てとったか判らないが、噺を聞いて通ぶって苦虫を噛み潰したような人の集まりよりもいいだろう。

 才賀さんが噺のまくらで、ある時、養老施設の慰問に行ったら、大変受けて大爆笑だったが、笑っていたのは医者と看護師さんらの人で、当の慰問の相手である老人達はウンでもなくスンでもないという。 終わってから医者に聞いてみたら「あの老人達の半分は耳が遠く、半分の人達は笑う気力が無いのだ」と言ったという。成る程笑えるということは元気な証拠なのだ。 ストレスも感じないし、リラックスの必要もない人達には笑いは要らないのだろう。

またこんな話もある。権太楼さんが世界一周の船にエンタテナーとしてエジプトからギリシャまで乗船した時の事を師自身が作った「ジャンバラヤ」という噺で語っている。師によれば「同船に乗船していた人達はなんせ一周一人二千万円ぐらいかかる船旅であるから、金と時間がある人達しか乗れない。しかも平均年齢が78歳(最高年齢でない)というから、リラックスし放題で、ストレスなんか無い人達であるから、演芸会で落語を話しても、ちっとも受けない、クスッともしないという。落語家としては張り合いの無い事夥しい。

(会場に来てくださっている)皆さんのように昼間の疲れを笑いで癒そうとか、会社で受けたストレスを発散させようとか、江戸落語の粋を味わおうとか言う崇高な精神は持ち合わせていない。ただ船の旅が退屈だから、権太楼なるものが落語をやるそうだから集まって見ようという人達ばかりだから何を話しても笑わない。落語も客が笑わなければ何の為の落語会か判らない」と嘆いていた。

 かって枝雀さんが「閻魔」の中で「噺を聞いたら笑って下さい。おかしくなくても笑ってください。笑えばおかしくなるのです」と言っていたが、おかしくなくても笑えというのは難しい注文だと思っていた。 しかし、この「おかしい」は「面白い」とは違う。話の送り手の言葉が普通に考えられていうのとは少し違う時に、これは変だぞ、おかしいなと思うことがあるが、どうもその事を指しているのではなかろうか。

文珍さんの書いた「落語の学問のすすめ」の中で文珍さんが関西大学の講師になった時、TVでアナウンサーが「関西大学非常識講師」になったと紹介していたことがあったそうだ。明らかに「非常勤」の間違えだが、文珍さんはこれをおかしく思って、そのビデオを今も持っていると書いてあったが、確かに非常勤が非常識では可笑しくなる。ここに笑いが出てくるのだと言っていた。 

私も民放のTVで女アナが上野から出る「ときわ線」と言うのを聞いたことがある。東京の人なら上野からは常磐線しか出ない事を知っているから可笑しいと思うだろう。 また、かってラジオで野球の放送だったが、別の球場のニュースを話しているときに「富山県たての球場」と言うリポートをしていて「こんな球場は何処にあるのでしょうかね」とアナさんと解説者が話していたのを聞いたことがある。後ほど判ったことだが実際は「富山県立野球場」だったので、おかしく思ったことがある。

また有名な話で「一日中山道」を歩いたと原稿を読んだ女アナがいたが、これは多分原稿が横書きで乱暴に書かれていたため、旧中山道の旧が横に長く書かれていたので1日と読んでしまったのだろう。考えるとおかしく、面白い話だが、当のアナさんは穴に入りたい気分だったろう。アナウンサーとしてのレベルの問題でもあったのだろうか。実生活でのおかしさを感じ自然に面白いと思い笑ってしまう。

落語はこのようなネタを拾って噺に纏め上げているのかも知れない。駄洒落やおちょくりや揚げ足取りなども笑いのひとつであるが、あまり真実味が無く、軽い笑いで済まされるが、実際にあった事の方が深い笑いが出るのだろう。
 落語は講談と違って「うそ」が罷り通る。「弥次郎」「鉄拐」「一つ目」「天狗の団扇」「狸や狐との交流の噺」等、普通一般の人が接し得ない異界の噺が語られる。講談では「講釈師見てきたような嘘をいい」と言われるが、噺家だって同じようだが、噺の方はそんなことは言われない。

聞く方はそんな事は百も承知の上で聞いているから、今更嘘だろうなんて言わない。 その嘘が一般常識からかけ離れていれば居るほど、可笑しいじゃないかと笑いの種になる。そして笑えば可笑しさが込み上げるということが成る程と判る気もするのである。私達が普通に考えている事との落差が大きければ大きいほど、可笑しいし、面白く感じ、笑いが起こるのである。

 そして、この笑いは体を癒すと共に脳を解放してくれる。 朝日新聞のかんたんリフレッシュの中で中京大の湯浅教授が「笑いは体内で内因性のモルヒネであるコンドルフィンが作られ、鎮痛剤として痛みを鎮めるばかりでなく、NK細胞を刺激して活性を高め、自然に抗体を作って、病気に対する抵抗力を高める効果もある。」という。しかもこの笑いは単なる笑いでなく、心から笑う事が必要だと文珍さんの本でも述べている。 

以前TVで見たが、筑波の病院の医師は本人も落語が好きだそうだが、自ら談志さんの特別弟子になり、病院に高座を設け、入院患者の人達に落語を聞かせて、笑いの効果の大きいことを実感していると言うのを聞いたことがある。

志ん駒さんは「笑いは長寿の国へのパスポート」と言っているし、円遊さんの先日の色紙には「一笑一若、一怒一老」と書いてあった。ケーシー高峰さんも「笑いは健康のバロメーターである。そして笑える人は肺がしっかりしている証拠だ」とも言っている。
確かに健康でなかったら、笑うことは出来ない。体ばかりでなく、心も健全でなければ笑いは出てこない。
 
しかし、笑いの位置は落語では難しい場合もあるようだ。ただ、げらげら笑わせたり、笑ったりしてはいけないそうだ。上品な笑いという所が無ければいけないという。
安い笑いを取ると言うことは落語の演者としては下だという。 円生さんの「寄席育ち」の芸談篇で、昔、前に上がる者が余り笑いをとってしまうと、後で演じる者は高座に上がった瞬間に何かしらけている雰囲気を感じる事があると書いてあった。 

ということは、昔、三平さんが演じていた時分は、三平さんが高座に上がった途端に大きな拍手と笑いが起こり、後は三平さんの話し振りと身振りで笑いの連続で、それこそ寄席の場内を笑いの渦に巻き込んで、お後と交替と降りて行くわけだったが、次に上がった演者はやりにくかったのではなかったと想像してしまう。


 落語は人情噺や怪談噺はそう笑う所は無い。しかし、落語だから少しは笑うところもなければならず、と言ってげらげら笑わすのは噺の雰囲気を壊すことになりかねない。
聞き手の笑いの琴線に触れる程度でよいそうだ。こうなると笑いを送る方も受ける方も難しいスチュエーションに置かれることになる。 落語とはそうゆう高尚な芸術なのだろう。


平成17年1月
posted by ひろば at 06:40| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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