2005年04月02日

【050】定吉の寝床(鈴木和雄)

いずれの演者の「寝床」の噺を聞いても、最後は旦那が得意の浄瑠璃を聞かせたので番頭始め店子のものや店の使用人達が感に入って聞き入っており静かになったと思って御簾を上げて見てみたら,どいつもご馳走酒に酔って浄瑠璃なんか聞いていず、マグロが河岸についたように広間の畳の上でごろごろ寝ている様子に旦那が怒り,皆に帰れとばかりに叫んでいる。

この中で小僧の定吉だけが泣いている。旦那は大人の連中が浄瑠璃の味も判らず、酒に酔いしれている中で定吉だけが何が判ったのか泣いているのを見つけ、どの話がよかったのか聞きただすと、定吉は旦那が語っていた床の間を指し、「あそこは私の寝床で、早く終わってくれないから、なかなか寝ることが出来ず、それが悲しくて泣いているのだ」という。

「落語事典」によれば、もとは「寝床浄瑠璃」という上方噺だったそうで、噺のオチは定吉が「あたしの寝床に善兵衛さんが入って寝てしまったんです」と下げていたようだが、江戸に来て前述のようになり、文楽さん、円生さん、志ん生さん、小さんさんは床の間が寝床だと演じていたのだという。

ここで疑問が出てくる。どうして床の間が小僧の定吉の寝床になっていたのだろうか。
当時の商家は店が表通りに面してあり、商売はその店先で行う。夜になると、正面の格子戸を閉めて、出入りは脇の小さなくぐり戸からしていた。そして使用人達が寝る場所は店の横にある、なかの間(くちの間ともいう)及びその奥のおくの間で皆一緒に蒲団を敷いて寝ていたという。ここには通い番頭を除いて、番頭,手代、そして小僧(丁稚)が皆いたのであろう。

「悋気の独楽」で小僧がお妾さんから貰った独楽を持って帰って来て「旦那のお帰り」というと店の者が直ぐに鍵を開け、くぐり戸を開けてくれるのは、彼らが店の近くの部屋に寝ていたことが判る。

 本来、床の間はその家の象徴のような所であり、立派な掛け軸や香炉、生け花などが飾ってあり、その家の家族が住まう奥の居間,または客室にあるものだが、小僧の寝床がこんなところにあるはずが無い。だが商家では奥ばかりでなく、客との接点である商用の間にも、部屋の和やかさを求めて床の間を設けていた。


学習研究社刊の「日本の民家、町家編」に出ている日本各地の商家の間取りを見ると表通りに面した店を囲んで、いろいろな形の間取りがある。「寝床」の噺が生まれた上方を中心に、近畿、中部、関東の店で、しかも今残されている裕福な商家の間取りを見ると店は客が来るところであるからオープンスペースとなっていて、小さい商売はその店先だけで行われるが、すこし丁寧に商談をやらねばならない時は店のそばの部屋に通して交渉が行われたし、また、更に上客の場合はより丁寧に扱い、更に奥の部屋に招じて商売をしたようである。

そしてそんな部屋に床の間があり、昼は商売のために使うが、夜は使用人達の寝るところだった。 店の側のなかの間とおくの間は板の仕切り戸があるだけだから、何かもの日には仕切りを取り払えば大部屋として使える。「寝床」の旦那は50人から70人の客を予想していたから当然こんな部屋を用意したのであろう。

床の間は今は日本式の家屋には大体設けられている。何やら無駄なスペースのような気がせぬでもないが、この床の間の使い方は今も昔も同じようなものだが、今は下手するとお中元やお歳暮の品の置き場所になっていたり、やたら土産物を貰う家では、各地の土産の彫り物や石の塊が雑然と置かれており、土産展示室の感がなきにしもあらずである。

床の間が違い棚と共に茶室の一部であった時代は,この場所が、それの設置者の品格を表すようなものでもあった。であるから床の間が寝床として扱われることは無かった。
しかし、床の間が茶室にある如く、いつも接客のスペースにあることは変わりが無い。

しかもこの床の間は今もそうだが同じフロアーにある板敷きや畳敷きの床より一段と高くなっており、区切りの横の木(框[かまち])も普通とは違う木を使い、更に柱にいたっては何やら他とは格段に違う床柱なるものを使ってこのスペースが、普通の床とは一段と違う格式を示しているようである。

それはそうである。もっと昔はこの場所が上席の間であり、偉い人が来た時はここに坐ってもらったり、自分より上位の人を迎えた時はこの床の間を背にして座ってもらったりした格式あるところだったのである。そして、この床の間が偉い人が寝る寝床の間であったという。そのために御簾まであったのだろう。

噺の小僧の定吉が床の間を使うのはそんな偉いからでないことは明らかである。民間の町家で床の間の設置が認められるようになってからはそんな武家様式の使い方はされていない。単なる飾りである。

 江戸時代の商家には店とそれに連なる接客の部屋があり、更に食事を摂る台所,かまどがある場所、その奥に主人公達の居室である奥座敷、納戸、居間、客間があったようだ。仏壇は奥座敷にあり、ここに家の重要なものがしまえる箪笥、戸棚があり、「双蝶々」の長吉が腹が痛いと言って、奥座敷まで入り、薬を貰うと共に金を盗んでしまう話がある。

「引越しの夢」では新しく雇い入れた女中さんをめぐって夜中に夜這いに行くところで、番頭たちが釣り戸棚を担ぐ羽目になり、奥からおかみさんが出てきて怒られるシーンがあるが、これが家族と店の者の住まうところが分けられている様子を表している。

旦那が浄瑠璃をやる時は店に近いなかの間ではやりにくい。すこし奥に入ったおくの間の接客室なら床の間もあるし、外から来る店子の人達も入りやすいし、家の使用人も集まりやすい。そんな部屋の床の間で小僧の定吉は寝かされている。この家は沢山の使用人がいたとは思えないのだが、せいぜい番頭が2−3人、手代が3−4人、小僧が2−3人というところだろうから、あながち使用人が寝るところが無くて、床の間に寝かされているとは思えない。

床の間のあるおくの間は、番頭はじめ使用人の幹部の寝る所だろうから、そこに定吉が入っているのも可笑しい気がせぬでもない。いずれにしても部屋が二つもあれば、10人前後の人が寝るには余裕がある。あえて畳の無い床の間に寝る必要は無いはずなのだが、それにも関わらず定吉はそこに寝ている。何故だろう。

考えられるところは
1. やはり人がもっと居て小僧の寝る場所がなかったので床の間に追いやられている。
2. 寝相が悪く、皆に追い出されている。
3. 大切な預かりの子なので特別扱いで床の間をあてがわれている。
4. 同僚の小僧たちに苛められて床の間に逃げている。
5. 寝小便をするので畳の部屋では駄目で、板の間のある床の間に寝かされている。
  これは「丁稚部屋」の噺の中でやはり寝小便をする丁稚が馬小屋の二階で寝かされている例がある。
以上どなたか定吉が床の間に寝かされている本当の理由が判りませんか。

平成17年4月
posted by ひろば at 06:45| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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