2005年06月01日

【051】噺の古着屋(鈴木和雄)

前もってお断りして置くが、今でも古着を扱っている店は各地にあるがここで述べる古着屋は噺に出てくる江戸時代の古着屋であり、その点、誤解の無いようにお願いいたしたい。

江戸時代の元禄期は紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門のように材木商で大儲けをしたり、大阪の淀屋橋にその名を留める,蔵米の取り扱いや回漕業で富を得た淀屋のように大富豪が輩出したが、庶民はそれらに比べてつつましい生活に明け暮れしなければならなかった。

 衣食住とひと口に言うが食もたいしたものは食べられなかったし、住も長屋暮らしをせざるを得なかった。そして衣服は事のほか富豪達とそれこそ雲泥の違いの衣服を着けなければならなかったのである。富豪の奥さん達は絹物で、光輝くような煌びやかな衣裳をまとい、幕府の節約令に抗して、人身を拘束されたり、家を取り潰されることもあったが、一方庶民の方は当時の繊維製品は手織りのものであるため、衣服は貴重品であった。

 この為、新品の着物を求めることは、庶民には殆ど不可能で、着物と言えば古着が当り前であり古着屋が大いに繁盛したのである。古着屋が江戸の町のあちこちにでき、殊に日本橋の富沢町を始め、各地に古着市ができたほどであったという。「江戸名所図会」の中に神田川沿いの柳原でたくさんの古着屋が軒を並べ商売をしている絵がある。

 噺にも自分の弟のため古着を買うことを亭主に頼み、亭主だけでは値段の交渉に心もと無いので、友人を頼み、交渉は彼に任せて古着屋に行かせる「古着屋」(上方噺では古手屋というそうな)というのがある。

この古着屋がどうゆう仕入れの仕方で古着を集めたかは噺では触れられていないが、古着屋に直接持って来たものを買ったり、古着買いと称する各戸を回って不用になった着物を買い集める人の手を経てきたり、質屋の流れ物を仕入れていたようである。

幕府が享保八年に八品商売人として定めたものに「質屋、古着屋、古着買い、古道具屋,小道具屋,唐物商、古鉄屋,古鉄買い」がある。この八品商というのは当時窃盗が多く、盗品を売りに来て、現金に換えようとする輩が多く、この商売人に組合を作らせ、盗品を買い入れたかどうかの吟味を帳簿を調べることにより行い、盗品の検挙率を上げることを目的としていたという。
当時この八品商売人だけで一万人を越える数があり、もぐりの連中を入れると相当な人数になっていたようである。古着に関わる「古着屋・仲買、古着仕立て屋・仲買、古着買い・仲買」だけでも2790人で、それに質屋が2731人おり、5400人あまりの商人が関係していたようである。(「江戸の悪文化」のうち山本志乃著「泥坊の虚構と実像」より)

当初は幕府の取り締まりも厳しく行われていた盗品のチェックも数十年も経つと段々緩やかになって行き、組合の力も衰えてしまい盗品が売買されることも多くなってしまった。殊に店を持たず、路上で竹竿を四角に組んでそれに着物や小間物を吊るして売る竹馬古着屋などという行商が出てくると、着物を襟や裡(うら)などに分解して部品売りをするようになると、盗品と確認することも出来なくなったようだ。

いずれにしてもマネーロンダリングならぬ盗品ロンダリングのシステムがあり、古着屋の店頭で売られているものが、全て正式の売買で仕入れられたものとは言えなくなって来た様だ。江戸から馬の背に乗せて地方に古着を売りに行くようなこともあり、規模は大きくなっていったのであろう。

昔、泥坊の漫画といえば口の周りに真っ黒な髭を生やし、頬被りをして、背に唐草模様の風呂敷に包んだ大きな荷物を背負っているのが、泥坊の象徴だったような思い出があるが、この大きな荷物はどなたも判るように盗んだ品物が入れてあったのである。

「締め込み」の泥坊は空き巣に入り、そこの家人の衣類を盗み、包みにして、逃げようとするところに、旦那が帰宅して致し方なく台所の床下に隠れている。また「碁泥」も入った家で,主人公達が碁に夢中になっている間に、そこの衣類を荷物にまとめ、背中に負ったまま、碁を打つ音に誘われて、碁打の部屋に入り観戦している。泥坊も主人公達も暢気な時代だったのである。

「湯屋番」で若旦那が番台であれこれ妄想にふけっていると板の間稼ぎが客の脱いだ着物を持っていってしまう話があるが、江戸時代は火事の発生と火元と見なされる恐れがあることから、自分の家で風呂を持つことは殆どなく,皆風呂屋に行ったが、この風呂屋の脱衣所が板の間稼ぎのいい働き場所で、ここからいい品物が出てきて、殊に女物に金目のものがあったという。

「紺田屋」の娘が団子を喉に詰まらせ一時呼吸が出来なくなり死んだと思われ、親等が商売物の着物や反物を棺に入れて土葬にしたが、娘と兼ねてから恋仲だった手代の男がこの埋めてあるものを盗み出そうとして、墓を掘ったところ、娘が息を吹き返し、品物を持って二人で江戸に出て、これらの品物を元手に商売をして成功する噺だが、彼らも現金を得るために質屋とか古着屋を利用したのであろう。

「長襦袢」は吉原の花魁紫とこれに惚れた亭主を恨んで死んだ織物屋の女房が織った反物で作った長襦袢が、これに手を通す人に不幸をもたらす噺だが、古着屋の店を経て、あちこちに行ったものであろう。

 古着屋が泥坊とのかかわりが濃厚の理由として前記の山本氏は「徳川家康が江戸は当時泥坊が多くて困り、これを抑えるため、すりの大物のかしらを捕まえ、本来なら死罪にすべきところを、これを利用するため、蛇の道は蛇の例えのとおり、このすりに江戸に泥坊が入ってくるのを抑えるように命じ、これの代償として泥坊が望む古着の取り扱いを許したという。

「樟脳玉」では女房に死なれた男がおためごかしで死んだ女房の着物をお寺に納めるといって持ち出した悪い連中が着物を売り、山分けしている。
「算段の平兵衛」や「何時受ける」「文七元結」は亭主がかみさんの着物を質屋に入れ博打に使ってしまい、女房に泣きの涙をみさせている。みな古着屋に行ってしまったのだろう。

「蔵丁稚」の噺にあるように質屋は昔は暗いイメージが付きまとったが、今はブランド品の入質もあり、TVなどで紹介されるくらい明るいものとなっている。金に困って質屋に行く人もあろうが、遊ぶ金欲しさに行くというのもあるようで、昔とはすっかり変化を遂げているのだろうか。

 この様に昔と限らず第二次大戦直後までは物を大切に使う気風が各戸にあり、子供の着物や洋服はお下がりが当たり前の時代があったのだが、今は小さくなったり、古くなったりすると、新しい品物を求めて、古い物は見向きのされない時代になってしまったのだが、これも時代の移り変わりの故か、それとも世の中が豊かに成ったせいなのだろうか。

平成17年6月
posted by ひろば at 06:45| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/33625706

この記事へのトラックバック