2005年06月02日

【052】師匠と先生(鈴木和雄)

円生さんが噺のまくらで「私達は真打に成りたての時は早く師匠と呼ばれたいと思っていると、時に「師匠」と呼ばれることがある。しかし後がいけない「下駄を取ってくれ」といわれるのがオチである」と話していた。 講談をやる講釈師は先生と呼ばれる。落語家は師匠と言われるのが普通だが、稀に先生と呼ばれることがあるが、これには学校の先生や医者の先生のように尊敬の意味が入っていないといっている。先生はまず生まれる、先に生まれたなどと自虐的な言い方をしている人もある。これは講釈師に対する当てつけのような気もする。

 講釈師にしても明治以前は師匠だったという。講談をやる師匠連中を先生と呼ぶようになったのは明治政府が明治5年に神官や僧侶と共に講釈師も教導官に任命し、各地で忠君愛国、忠孝の精神の高揚を図り、修身、今の道徳を各地に普及するため、これに関する講談を行わせ、政府の意に沿うように民衆を教化しようとしたためで、各地に赴いた講釈師がその地で学校の先生と同様に先生と呼ばれた為に講釈師の上位者に対する呼び方が先生に定着したのであるといわれる。

 一方落語家、噺家に対する世間の目は「世間のあらで飯を食い」というような批判的なものもあり、尊敬する所か長唄や清元、浄瑠璃、踊りの師匠と同列に見ていた節がある。 であるから、講釈師達は噺家が落し噺もせず長講の噺を数日も掛けてやるのは我々のお株をとるようなものだと文句をいうと、噺家は講釈師が堅苦しく話をやっていては、オチが取れないので、始めのうちに落し話をして何がなんだか判らなくなっていると文句を言っていると昔の新聞が報じているという。(「おもしろ講談ばなし」藤田洋著)

 そもそも、講談はその発生を殿様の御前で武士が「軍書、軍学講義、軍談言上」を行い、更に将門記や平家物語、太平記などを朗読解説したものが、後に段々浪人の大道芸となり、やがて庶民向けの演芸として定着したものだという。(同上書)

落語の方は武将の側近で話相手をした御伽衆が居るが、これらの人達が話した笑い話を集めたものや、「醒睡笑」という安楽庵策伝が御前で話したものを集めたものがあったが、何れも茶人がいて、秀吉や京都所司代の板倉重宗に仕えていたという。これらの噺が庶民に提供されるようになったのは17世紀で京都で辻咄が毎日行われるようになり、大衆に人気を得るようになった。江戸でも安永、天明年間に盛んになり文人、通人の間で咄の会が開かれ、寛政3年(1791)には庶民相手の寄席が開かれるようになった。
 当時の講談が政府のお先棒を担いだ芸風であるとすれば、落語は反骨精神の旺盛なところが身上であるから、町人の味方を意として噺を進めていったのであろう。
先日のNHKの志ん生さんの「唐茄子や政談」の解説をしていた玉置宏さんが話していたが、昔は講談と落語の話の交流が自由に行われていて、講談ネタである話が落語でも演じられていたという。 

勿論講談の堅苦しい軍記ものや任侠ものは笑いを入れる余地が無く、落語になじまないので、噺として演じられることは無かったようだが、逆に落語の人情噺のようなものや政談ものは講談でも演じられたという。円朝が創作した人情噺は落とし噺の域を超えて話芸的文学だといわれているそうで、何日も掛けて長篇ものが演じられたというが、一方講談は武談物がもてはやされ、人情噺のようなネタは人情話といわれ、講談では端物として取り扱われていたようである。

 そして、演者も交流があり、玉置さんによれば、志ん生さんも大正14年4月から9月の間、三代目小金井芦州の弟子で芦風を名乗り、寄席に出ていたし、先代金馬さんも講談から落語に転じたのだそうである。

 古くは乾坤坊良斉という人は世話講談を創作した才能豊かな人であったが、初代可楽の門に入り、講談から落語に転じたそうである。そしてこの人の創った「お富与三郎」とか「小猿七之助」は初代志ん生の得意の演目だったという。円生さんの演じた「紫壇楼古木」の噺の中で「古木」は若い頃、講釈師であり、落語に転じたのだと説明している。昔はそうゆう人がたくさん居たのだろうか。

 円朝が20歳以降に創作した「名人長二」とか「牡丹灯篭」「真景累ヶ淵」の長篇物は講談にも演じられ、逆に二代目松林伯円の「遠山政談」が落語で噺となり、また、三代目笑福亭松鶴の「佐々木政談」が講談で演じられることもあったという。噺の「三方一両損」や「鹿政談」も講談で取り上げられているという。談志さんのやった「五貫裁き」は一柳斉貞丈さんのネタだとご本人が説明している。落語では「一文惜しみ」という演題になっている。

また、かっての本牧亭の楽屋帖のコピーで見たが、一柳斉貞一さんが「浜野矩随」を演じているのを見ると、今でも落語と講談の交流は行われていることがわかる。
 「大岡政談」は天明の頃から講談の好読物になっていたが、明治29年に帝国文庫で活字本となり、16篇の話が収められているというが、このうち「白子屋お熊」、「傾城瀬川」はそれぞれ前者が「城木屋」、「髪結新三」となり、後者は「雪の瀬川」「松葉屋瀬川」という演題で落語に登場し、円生さんの得意の噺だったが、今は歌丸さんが立派に演じている。
 この他、浪曲との演目との交流で広沢菊春さんと三木助さんがやった「竹の水仙」、「ねずみ」は浪曲の節をつけても面白く仕上げて演じてくれたので楽しかった。

 また、忠臣蔵の噺は「淀五郎」「中村仲蔵」「天河屋義平」「赤埴源蔵」があったが、実際に討ち入りがあってから間もなく芝居が演じられたが、しばらくしてこれを追うようにして講談や落語、浪曲が作られ、競演したのであろう。

 しかし、なんと言っても歌舞伎と落語の関係は粋な仲と太田博さんがその著書の中で述べているが、この本を読むとその意味が良く判り、落語通は芝居通でもなければならないのかと思い知らされるような気がしてきた。

平成17年6月
posted by ひろば at 06:46| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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