2005年07月01日

【053】江戸の水と水屋(鈴木和雄)

昔、旅に出る時、見送る人々が旅人に「水が変るから気をつけな」と忠告をした。人は生まれた土地や慣れ親しんだ処以外の生水を飲むと、腹を下したり、腹痛に苦しむことが多かった。慣れた処の水は体に免疫が出来ているから、少しぐらいの生水を飲んでも大丈夫だが、知らない土地の生水は水質や成分が変り、雑菌等もいて体に害を与えるので健全な旅をすることが出来なくなってしまうから、そう言ったのであろう。

現に今でも日本以外の国の土地に行った時、そこの水道の水であっても、生水は飲めない。
一度,パリーできれいな水と思われた水道の水をコップにとって一晩、テーブルの上に置いておいたところ、翌朝見たらコップの底に何やら白い沈殿物があり、驚いたことがある。やはり水道の水といえども生水は飲めないのだなと実感した。これはヨーロッパの各国で経験したし、中国でも韓国でもツアーのガイドが生水は飲んでもいけないと何度も警告していた。

で、こうなるとペットボトルに入っている水を買って飲むことになるが、今や外国でも何処にもコンビニやスーパーがあり,容易に買って飲めるが、あるアジアの国ではペットボトルに入っていても本当に浄水されたかどうか判らない物もあり、そこら辺の路上で売っているものは駄目だとガイドが教えてくれ、少し高めだったがやはりちゃんとした店で買ったことがあった。

先日、韓国に行ったが、ここでも勿論水道の水は飲めず、ホテルに備え付けの大きなボトルから自分の持っていったボトルに移し替えて利用が出来、町で買う必要がなく、有難かたかった。中国では春の乾期には一日に何本もペットボトルの水を飲む必要があり、そうしないと喉がやられると、ガイドもボトルを抱えて案内する始末だったことを覚えている。

しかし有難いことに日本では何処へ行っても水道の水は生水で飲むことが出来る。先日東京都水道局が行なったイベントで都の水道局の浄水場で採水した水をペットボトルに入れて参加者に試飲して貰ったところ、店で売っている水と大差がなく、人によっては水道水の方がうまいと評価した人もあったそうである。

水道局も大部努力をした結果であろうが、その昔の東京、即ち江戸では、これは想像できなかったことであろう。徳川家康が秀吉によって移封することになった時、江戸の下町辺りは葦の生い茂る湿地帯であり、何処を掘っても水は出るが、その水は飲用に適するものでなく、先ず、江戸城及びその城下の飲料水の確保のために神田川の水から分けられた小石川水道を造ったという。

一方、土地については、隅田川は幕府が治水事業をやるまでは利根川の水が流れ込んでいて雨期になると江戸の下町はしょっちゅう水害にあわねばならなかった。このため「仙台高尾」に出てくる伊達の殿様のように幕府の命によって各藩の費用により利根川を銚子方面に流し、江戸は荒川の水や(寛永6年、〔1629〕家光の時)江戸川の水(承応3年〔1654〕家綱の時)を新しいルートを作り流し、隅田川を落ち着かせている。

幕府は江戸の下町の人口が増えるに従い、更に水の確保のため井の頭等を水源とする神田上水を完成させる(1629)。しかし水道といっても最初は清水の流れる溝のようなものだったが、市内に入ると木製の配水管により市中の水道枡〔井戸〕まで導水したのだったが、この枡〔井戸〕の数がこの上水系だけで市内に3600以上あり住民はこの枡からつるべで水を汲み,飲用に使ったということである。

その後、江戸は益々発展し、神田上水では需要が賄い切れなくなり、玉川上水が開かれた。
これは多摩川の羽村から江戸まで引く水路で全長43kmの長さに及び、山の手から下町まで水道のよって給水されたということである。

江戸でも山の手の方は武蔵野台地のすその方では比較的きれいな水が出て、飲用に使うことが出来る井戸があったということであるが、下町の方では住民は共同で、井戸を掘っても飲むことは出来ず、せいぜい洗濯や洗い物、行水ぐらいしか使うことが出来ず、飲み水は水屋が運んでくる水を当てにするしかなかった。大きな家では毎日、下僕を水汲みのため前述の水道枡に通わせ、飲み水を得ることが出来たが、人手のない家では水屋のご厄介にならざるを得なかった。

噺の「水屋の富」に出てくる水屋という商売は需要があるため、利は薄いが確実に売れるのでいいが、逆に住民の必要を考えれば一日も休むことが出来ず、仕事がきついため、なり手が余りいず、富籤に当たったからといって簡単に交替してもらえる人もなく、大金を抱えて、苦労の毎日であった。

この水屋は早朝に起き、水採り場(水道枡、水道舟、又は近くの飲み水が出る井戸)へ行って樽2杯に水を汲み天秤棒で担いで、市内のお得意を回って水を売って歩いたということである。この水屋の稼ぎは普通は運ぶ距離によって違ったらしいが、1荷4−6文であるが、文化14年5月には旱が続き、水がなくなり,1荷100文―120文になったこともあったそうである。

この水屋は飲料水を売る商売だが、同じ水売りでも「冷や水売り」というのがいて、1杯1−4文で砂糖や白玉団子が入った冷めたい水を売る商売もあったということである。
江戸の民家では水屋の売りに来る飲料水を貯めて置く甕は大体1軒に二つはあったという。ひとつは飲み水用、他は洗い物用に備えられ、噺の「壺算」では1荷の甕か、2荷の甕かで話がされている。また「水甕」では金がない男達が近所の店で便壺の甕を掴まされ、兄貴のところへ引越し祝いだと持っていっているが、あれも飲み水を入れたのが間違いで、洗い物用にとしておけばよかったのだが。

このような水屋はどのくらいまで続いたのだろうか。江戸の下町も幕府の治水事業が盛んに行なわれ、市内の掘割などが良く整備され、乾燥地が多くなり、更に江戸末期になると井戸掘りの技術も段々進歩し、従来よりも深い地下水をくみ上げることが出来るようになり、きれいな水を得ることができたので、水屋の商売は徐々に減ってきたということであるが、処によっては、明治になっても水屋を必要とした所もあったという。

噺の「つるつる」では、オチで「井戸替えの夢を見ていた」というのがあり、「かつぎや」で元旦に橙をおとしだまと言って井戸に落とさせる話があるが、この井戸は多分、飲用に使える井戸だったのではないか。

明治以降になり本格的な浄水施設が設けられ、水道施設が東京市内に張り巡らされるようになり、水の供給も安定していったのであるが、現代になり、やれ環境汚染だとか、水質問題とかで、山の水とか、谷間の水とか言って飲み水を買って飲むという状態が起きてこようとは全く歴史は繰り返すというものか。

平成17年7月
posted by ひろば at 06:47| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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