2005年09月02日

【055】ご隠居さん(鈴木和雄)

落語には「隠居さん」の出てくる噺が多い。そして、この隠居はバイプレイヤーであるが、この人が登場しないと噺が成立しないこともある。
 そもそも隠居とは何か。百科事典によれば、「家督、家産を相続人に譲り、社会生活の第一線を退くこと」とある。そして、これは公家、武家の社会では、平安後期から行われるようになり、この隠居という言葉自体は室町時代からあったとされる。更に江戸時代になると、法律上も社会生活上も特定な問題として取り上げられ、江戸の武士は自発的に隠居するには70才以上、病気になったら40才以上でなければならないという条件もあったという。更に幕府の命令で強制的に隠居をさせられるということもあった。八代将軍吉宗が自分に対抗していた尾張の宗春を藩内の治世よろしからずということで隠居させられている。

 庶民の間ではこの自発的隠居は、一定の手続きは要したが、自由に行われたようである。
江戸時代は民間においても「家」という制度は確立されていたから、年令などの制限も無く、自由に隠居したければ、いつでも自分の属する地域の五人組に知らせ、家督を子息等に相続させることを披露したり、商売仲間などの周囲に認知してもらう手続きが必要であったという。 そのため自分が先代から受け継いだ名前を相続人に渡し、自分は名を改めるとか、狭義の町人(町政に参加するための金銭的および労務的負担を負うもの)としての義務を相続人が果たせるように財政的基盤を残しておく必要があった。

しかし、隠居したからといって全く安心して相続人に後を託して生活していたわけではない。 天皇家でも天皇職を譲り、上皇となっても、院政を布いたり、家康が秀忠に将軍職を譲っても大御所として厳然と武家社会に君臨したように、相続人が安定するまでは目を光らせるのは何時の時代でも同じである。 ましてや民間の大店などで、息子に店を任せたはいいが、若旦那のつもりで女郎遊びにふけったり、お茶屋遊びで金銭を湯水のごとく使って、店の金を持ち出したりして、店の当主としての自覚が無い場合は、勘当という形で息子を追放することも出来たようだ。 であるから「山崎屋」の若旦那が番頭から金をせしめる時の台詞に「私が旦那になったら」というのがあるが、実際には当主としての責任がその店ばかりでなく、地域社会にも生ずるから簡単に放蕩が出来ることではなかった。

また隠居が知らなくても店が危なくなるほどに相続人が事業に失敗したときは、雇用関係もなくなる恐れがあり、番頭や手代が親類や縁者と相談して、相続人を隠居させ、元の旦那を復活させることもあったという。
 であるから、隠居したからといって、全く道楽半分の余生を送っていたわけではなく、時には生活や商売の実権を放棄しない場合もあったという。

 当時の隠居は店の商売などで一応の成功をし、ひと財産作って、これを隠居時に生活の糧として分け、自分で保留しておき、隠退後に使っていくのであるが、「三軒長屋」の隠居の場合のように隠居時に貸店のついた長屋を買い求め、自分は妾と共にその家の真ん中に住み、両隣を貸して家賃収入を得ようとする人もあった。 一般的には隠居は家業から隠退すると今まで居た屋敷内の相続人である息子らの母屋の裏に住まいを建て、そこで趣味三昧にふけるようになるが、店が大通りに面する場合は家の裏に住まいを持つことも出来ないときもあり、店の横丁の所に家を設け、そこに住むこともあった。そこで噺に出て来る隠居さんはいつも「横丁のご隠居」と呼ばれたのであろう。

 隠居は狭義の意味の「町人」以外はなれなかったという。商売で成功し、蓄財してそれ相当の社会的貢献をしておかないと、隠居として認めてもらえない。更に現役中に所謂社会的な付き合いや素養を身に付けておかないと、隠居してから困ることになる。そのため現役中でも大店の旦那は番頭がしっかり店のことは見てくれているから、いろいろな教養を学ぶため、書道、茶の湯、漢詩、漢文、連歌、俳諧をやり、能を学び、鼓を打つことも習い、蹴鞠をやり、碁を打ち、琴、三味線、浄瑠璃、踊り等の音曲も勉強していたという。

 「茶の湯」に出てくる隠居は現役中に余程一生懸命に仕事ばかりに没頭し、金を貯めることばかりを考え働いていたのであろう。だから茶の入れ方も判らず、茶菓子もしみったれて、変なものを作って客に食べさせることになる。一方「松竹梅」の三人組に婚礼の引き出物として「高砂」の謡を教えてやる隠居はその素養があったのだろう。

前述のたいそうな教養を身に付けていたのは大店の隠居の話しだが普通でも画や詩歌は学んでいたのであろう。「一目上がり」では八っつあんに詩歌の意味を教えてやったり、「道観」では「七重八重」と描かれた掛け軸の画と詩歌を説明してやっている。
 隠居は一通りの勉強はしているから、近所の無筆の連中から頼りにされている。「提灯屋」「棒屋」ではそれぞれの店が出したチラシをめぐって喧々諤々とやっている所を通りかかり、チラシを読んでやって、大変なことになってしまう。

 このほか隠居は趣味として釣りと庭つくりがあったようで、盆栽や花作りなども挙げられている。「野ざらし」に出てくる隠居は武士上がりだが、釣りが好きで毎日、川に行っていたが、ある日、葦のかげに髑髏を見つけ、酒をかけてやり、回向をしている。そして、今、東京の大きな公園は昔の大名や大金持ちの趣味の遺産でもあるようだが、深川の清澄公園は紀伊国屋文左衛門のものであったという。 巷の隠居はそんな大げさなものはもてないとしても、それ相当な庭を造って楽しんでいたのであろう。

年をとれば後生を願うのは老人の常であるが、「後生うなぎ」では隠居がなんでもまな板の上にあるものは、助けなければならないと思い込み、「南無阿弥陀仏」とばかりになんでも川に投げ込んでいたが、ついに赤ん坊までやってしまうお粗末を演じている。

 円歌さんの演じた「紺田屋」では年老いた旦那は娘が亡くなり、店が傾きだすと番頭が金を持って逃げてしまい、仕方なく店をたたみ、隠退して江戸に旅に出ると、そこで娘がかっての許婚と店を持っていて、再会をするというのだが、これは隠居といういい身分ではないようだ。 円生さんの「江戸の夢」もかって救ってやった男が娘と一緒になり幸せに過ごしているので、隠居して江戸見物に来たが、婿殿に頼まれた浅草の大店の葉茶屋に来てみれば、実はそこの息子と知ってびっくりする。

「短命」で出入りの職人が話すある店の女主人が美人過ぎて入り婿の男たちを三人まで亡くし、どうしてだろうと尋ねられ、若夫婦の生活について話すが、遠まわしの言葉で言っているからさっぱり判ってくれないと困惑する隠居。  「弥次郎」の話す旅の話を面白がって聞いている隠居は常識外れの馬鹿馬鹿しい嘘の話をする弥次郎を咎めもせず、鷹揚に聞いている隠居の姿がほほえましい。

 談志さんが「浮世根問」のまくらで話してくれたことだが、この噺を小さんさんから教えてもらったとき、師匠がこの噺に出てくる隠居と「薬缶」に出てくる隠居の違いは、前者の隠居は物事をよく知っているが、後者は単なる知ったかぶりだと教わったといっていた。そして、この違いをわきまえて噺の上で演じ分けねばならないといわれたという。

 今私たちが噺を聞いているとき、そこまで意識して聞いている人は少ないであろう。落語はそんなところが奥深いといわれる所以かもしれない。 落語は私たちがリラックスするために聞いているものだから、まあ、その点は鷹揚に聞いて楽しんでいこうよ。

 昔は40才代で隠居というのもあったというが、落語ではないが、伊能忠敬は数え年50才で家業を隠退し、江戸に出てきて隠居生活をするが、その間、幕府の暦方の高橋至時に師事し、6年にわたり勉強して、後、北海道に渡り測量して、詳細な地図を作り、順次日本中を歩き、素晴らしい仕事をしたのはご存知のとおり。まさに隠居の道楽的好奇心が50才代の学者を誕生させたということである。

平成17年9月
posted by ひろば at 06:49| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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