2005年12月01日

【057】起請文は怖い(鈴木和雄)

「起請文」という検索項目でインターネットを開けたら、18000項目の案内があり、驚いた。今はもうこうゆう物はないが、昔は起請文が世の中に相当用いられたことが判った。落語の廓噺の中に出てくる起請文の噺は「三枚起請」で、本来は女郎が客に自分の気持ちが嘘で無い事を示すために書いて渡したものであり、始めは男女ともこれを信じて意気を通じあっていたのであろう。

しかし段々この起請文が色里における花魁や女郎の手練手管の術策のひとつとなり、起請文を貰った男達は我こそ間夫なりとばかりに,鼻の下を長くして女の下に通い、女の方は客の足の絶えない様にと何人もの男どもに起請文を書いて渡すと言う、騙し騙されの場に至ることになる。

「三枚起請」では女郎が復讐に来た男達にはっきり言っている。「この里では騙した方が偉く、騙された方が阿呆なのだ」と。起請文を一枚書くと熊野の烏が三羽死ぬという話があるとたたみかけると、女は烏を全部殺して朝寝がしたいのだとうそぶいている。下駄屋の喜六も仏壇屋の源兵衛もしゃべりの清八もたいした女に引っかかってしまったものだ。

その起請文なるものも、なんせ無学の女郎が耳学問で聞いたことを起請にしたものだから、ちょっと判りにくいものとなっているが、米朝さん、志ん朝さん、さん喬さんの噺でまとめると「一、天罰起請文のこと 私事、年(季)明け候らえば,あなた様と夫婦になり候事、実証なり  後日のため、よって件の如し」と書いて喜六に渡している。これと同じ起請文が別の男達に渡されているのが判り、廓に押しかける筋である。

一方、「佐代絹草紙」では、花魁の佐代絹が若旦那と交わした起請文を女の方は真剣に信じたが、若旦那の方は親の反対を受けて、この起請文を反古にして、家に相応しいと親に勧められた武家の美人の娘と結婚してしまう。信じていた花魁は怒り、若旦那との事をあきらめるようにと伝えに来た番頭の目の前で部屋の柱に頭をぶっつけて自害してしまう。そして幽霊となって、若旦那一家を呪い殺すという、たった一枚の起請文を違約したばかりに悲惨な噺になっているが、起請文というものは取り扱いを間違えると大変なことになってしまう。

また「写真の仇討ち」という噺があるが、これは昔は「一枚起請」という演題でやっていたという。男がある宴会で芸者と知り合い、その女と夫婦約束をし、起請を交わしたが、女に情夫があることが判り、悔しいので男と女を殺して自分も死のうとしたが、これを聞いた伯父さんが中国の例を出し、そんなに恨みがあるなら起請文を刀で突くなり、切るなりすれば、女に恨みが晴らせると教える噺だが、今は起請文の替りに写真を突けばいいとやっているそうだ。

起請文というのは本来、何か事を企てて、実行しようとする場合に他との協力を約束する必要がある時に、その約束の遵守を要請する文書であったそうである。平安時代になってからは物事をする際に相手に対し自分の言が嘘で無い事を示し、神仏に誓うことを書いた文書が起請文ということになったという。
誓約の内容を書いた前文と違背した時は、神仏の罰を蒙ることを記した神文とがある。しかも鎌倉時代になると,誓約を守ることを明確にするために熊野権現の牛王宝印の用紙を使うことが行なわれるようになり、さらに進むと血判を押したり花押を血書するものまであったという。

廓での起請文は江戸時代のものであるから、そんなに厳粛なものはなかったと思われるが、「江戸生活事典」稲垣史生著による起請文の実例として、花魁の浦里が書いたものがあるがそれには「ふとした御事より、深くも御なじみ申し、つねづね御志しの程も忘れやらず、かねがね御かたらいにも、末はみょうととなり候御約束、こなたことも其の心に少しもかわり御座なく候。たとえ親兄弟のうち何と申し候とも、この御約束決してたがえ申すまじく、若しまた外に心を通わす誓いをもどき候御事御座候はば、いかようとも思し召し次第に被成度候。殊に日の本の神々の御罰をうけ申し候。かしこ。」とある。

これに対し男の方も起請文をやり、夫々血判をしているというが、これは男女の中の話であり、そんなに命をかけたということもあるまいが、本当の起請文は一命だけでなく、一家、一族郎党の生命を左右するものまであったということである。

「日本歴史大辞典」及び「日本史大事典」などによれば、起請文はそもそも寺院関係から発生したものと言うが、鎌倉時代は「御成敗式目」を制定した時,評定衆のものに公平な裁判を行なうよう起請文に宣誓させたという。そして庄園ではそれを所領する領家に対して,庄官が業務の執行について誓いを行なわせた。

また、土地の売買や婚姻などでもこの起請文が使われたという。さらに同族の武士達はこの起請文により誓い合い、団結を固くし、大名が同盟する場合も起請文をとり交わして、お互いの信義を守ること事の証しにしたという。

源義經が兄頼朝に会うため鎌倉に入ろうとする時に腰越状なる信書を送っているが、この時も起請文をつけたという。また忠臣蔵で赤穂の四十七士が吉良邸に討ち入りをする時も起請文を書き、お互いの団結を誓ったそうである。

この武家社会に多く見られる起請文は前述したように前文と神文があるが、この内、神文はどの起請文にもほぼ同じ文が記されている。「時代考証事典」稲垣史生著によると荒木又右エ門が入門を乞い師に送った起請文には次のように記されているという。

「梵天帝釈,四大天王,八幡大菩薩、天満自在天神,惣而日本国中大小乃神祇、別而伊豆箱根三嶋愛宕山大権現、諸天狗等、氏神、神罰,明罰、親類眷属可罷蒙者也。仍起請文如件。」
江戸時代は将軍がよく替ったが各藩の大名は其の度に誓詞を出し、幕府の役人も中央、地方を問わず誓詞を提出しなければならなかった。其の形式は起請文の神文をそのまま使ったといわれる。「日本史大事典」には幕府の大老や若年寄の起請文が記されているが、前文はそれぞれの役職によって異なるが,神文は先の又右エ門のそれとほぼ同じものである。
しかし、この起請文による誓約も江戸末期には全く形式的なものとなり、段々廃れて行ったと言う。

江戸時代には武術でも学問でも芸能でも師弟間で免許を得る前に起請文を提出しなければならなかった様である。封建時代には其の人間の身分が起請文により精神的に窮屈に束縛されていた。殊に神文に違反した場合は疫病におかされるとか、死後は地獄に落ちるとかと脅かされており、恐怖を伴うものであり、落語で話されているような起請文にある約束に違反したら、熊野で烏が三羽死ぬというような安易なものではなかったようだ。

平成17年12月
posted by ひろば at 06:51| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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