2006年04月01日

【061】一寸汚い話ですが(鈴木和雄)

人間は物を食べ、飲まないと生きていけない。それも人間以外の動物や植物の体や液を頂かなければならない。つまり動植物のエネルギーを貰って,我がエネルギーに変えることによって生命をつないでいるのである。しかし頂くといっても頂き放しでは、今度は人間の体が破壊してしまう。そこでエネルギーをとった後の不必要な部分、つまりかすは体の外に排出しなければ、体が保たない事となる。これが便であり、大,小と分かれる。

この人間にとって大切な、しかも厳粛な生理行為を、人は恥ずかしいことや、人に見られてはいけないこととして隠すことが当然としている。かって中国の洛陽に行ったことがあるが、そこの有名な寺院のトイレに入った時、そのトイレは外にあったのだが、入ると小用の方は日本と大して変わりはなかったが、大の方は個室に分かれてはいたが、入り口に戸がない。入っている人は一斉に通路の方を向いて、用を足している。

だからトイレに入っていくと用を足している人達が皆、今、入って来た人の顔を見ている。お互いに変な気持なのだろうか。男のトイレにしてそうである。まして女用のところはどうなのかと聞いたら、女の方は戸は腰板ぐらいな戸があるくらいで、やはり姿は見えると言っていた。ある有名な日本の女優さんが同じようなトイレに入った時、さすが恥ずかしく偶々持っていた、傘で戸口をふさいでいたと言っていた。

そのとき、中国人の通訳に聞いたら、別にトイレで用をたすことは自然の生理を行なうことで恥ずかしいことではないでしょう。だから誰も恥ずかしがらないで、堂々見ている前で用が足せるのだと言っていたが、中国人と我々との考え方の違いに驚いたことがある。

落語では割合に恥ずかしさに頓着なく、おおっぴらにおかし味をこめて噺として、皆さんの笑いを取っているが、大きいほうは余り噺となっているのは少ないようである。僅かに談志さんの「勘定板」、米朝さんの「けんげ者茶屋」で話す粟餅のこと、「粟餅の女郎買い」円生さんの「三十石船」の食らわんか船、「汲みたて」に出てくるにすぎないのではないだろうか。

噺に出てくるのは小用のほうが多いと思われる。いろいろな形でこの小、所謂小便の話がとりあげられ語られている。 あまり嫌味がなく、可愛らしく感じられるのが子供の行なう行為であろう。「真田小僧」に出てくる子供は親から小遣いをもらえないとあって、何とかして自分の言うことを聞いてもらおうとして糠みそ桶に小便をすると親を脅かして小遣いをせしめようとするが、親もさるもの、そんなことに驚かず、厳然として子供のわがままを通さない。春団次さんの「いかき屋」では路地で仕事をしている時に集まった子供達が、いかき屋をからかいながら、自分の欲しいものを呉れないので、ふいごで起こした火を小便をかけて消してしまうと言う乱暴な行為に出ているが、これに対しても噺ではやんちゃな餓鬼のいたずらと大目に見ている。また「按摩の炬燵」では按摩さんが番頭に頼まれて、酒をご馳走になり、炬燵代わりに番頭や小僧の寝ている間に入り、酒で温まった体を横たえているうちに小僧が寝小便をしてしまい,炬燵の火が消えたと逃げ出している。

寝小便といえば「馬小屋丁稚」ではしょっちゅう寝小便をしている丁稚は馬小屋の二階に寝かされ、寝ぼけて下にいる馬のいるところに落ちてくる噺もある。「筒振り丁稚」では男でも小便をした後は筒を振っているようで「三番叟」の様だと言う女のそれにかけた噺である。

寝小便は子供の専門かと思っていたら、噺では大人になっても直らないのがいる。「ろくろ首」に出てくる与太郎は嫁に来る女の欠点は何かと仲人になる人に尋ねて、寝小便ではないかというが、自分もまだやっているから大丈夫だと言っている。

また、「浮世床」で夢の中で女に惚れられた男が、女の家で用をたしたくなり、トイレにいこうとするが、女が離さないので、仕方なく二階の窓から隣の家の壁に向かってやり、そこで壁に富士山を画いているが、兄貴分に起こされて,気がついたら、女に惚れられたのは夢で、小便の方は本物だったと言うお粗末。

昔は長屋を差配する大家は戸外の共同便所のし尿の処理は近くの農家の人に任せて、其の代わり金を受け取っていたようだが、不浄なものを金で売り買いするのはならぬと言う幕府のお触れが出て、以後は農家は自分の生産物で大家に払っていたと言うが、野菜やその他の品物で結構大家の見入りもよかったようである。

「小便替物」では用をたしたくなった京侍が難波の橋の上からやったら、丁度その下を通りかかった百姓の舟にあたってしまった。怒った百姓が積んでいた大根を侍めがけて投げつけると、侍は「大阪の人は正直だ。小便を遣わしたら、大根を呉れたと喜んだ」と言う。

同じ演題の噺だが、こちらは野菜の替りにもみじを持って来たら、し尿の量が少なく、文句を言ったら、牡丹を持ってくれば、しし(〔獅子〕−小便)をたんと出したのにと言う花札を知らないと通じない噺もある。

旅に出た時の小用にかかわる噺も多い。「弥次郎」では北海道に旅に来た弥次郎が小便をしたら、途端に凍ってしまい、一条の棒になってしまい、金槌でポキン、ポキンとやらなければならなかったが、誤って自分の一物を叩いてしまい、目をまわしたと嘘をついている。
円生さんの「三十石船」でも夜中に用をたす女が船頭に見咎められ、舟にかかると船玉様に怒られると言って、もっと尻を突き出せといっているが、暗い船べりで用をたす姿をじっと見ている船頭になにやらエッチを感じませんか。

舟で用をたす話としては志ん朝さんの「船徳」のまくらで「猪牙(舟)で小便、千両」と言っているが、そのくらい遊ばないと舟の上からは容易に用が足せないという意味だと説明してる。

同じ舟の旅でも「矢橋舟」では酒を飲むのに燗をするものがなく、偶々、新しいしびんを持っていた人がいて、それを利用して客の皆で飲んでいたが、その内、酔いがまわり、乗り合わせた病人が使っていたしびんにまで間違って手を出したため、大騒ぎになると言う噺.

数年前に健康雑誌で自分の尿を飲むということが、よく書かれていたが、あれも一時の話であった様だが、最近ある医者が患者に尿を飲むように勧めて,医師法違反で警察にお灸をすえられたという記事を新聞で見たが、昔は小便を飲ませる事は容易に考えられていたのだろうか。

「禁酒番屋」でも酒の代わりに水カステラだとか油を持っていくが、最後に遺恨果たしに小便を持っていき、番屋の侍に飲ませている。「相撲風景」でも熱狂した見物の男が酔ってほかの人がした小便を入れた一升壜を間違えて飲みそうになり、そばの人が慌てて止めに入ると言う場面がある。

酒を飲むと酔っ払いはどうしても小用がしたくなる。「居酒屋」では金もないのに小僧の声に誘われて入って来てさんざっぱら飲んでいた男は、やっと友人が迎えに来てくれていやいや帰る気にはなったが、道端でやれ小便がしたいから裾をまくれとか、体を支えろとか甘ったれる姿が面白い。

小便を占いにする噺もある。「運の餅」では歳の暮れに隣の家で搗いた餅が飛んできて家の外の木に引っかかった夢を見て、夢判断をしてもらうと、ぼろ儲けがあるから、何かを盗まれないようにしろと言われ、家中をきれいに掃除して疲れて居眠りをしていたら、何かがさがさと言う音がしたので、問い詰めると小便買いだった。

一方、「中風小便」は昔、大丸屋の先祖が女房の小用の音で占いをして成功をしたと言う話を聞いた男、家に帰り、自分の女房の音で判断しようと無理やり済ませたばかりだと言う女房にトイレに行かせて聞いていると,チュープーで中風になるらしいと言う。

橘の円都さんの演じた「猫の忠信」で浄瑠璃の女師匠が用をたしに行く時、弟子が競ってついていこうとするが、次郎はんがいいと指名され、付いていくが、後で次郎はんは別嬪のししの音はチンチロリンだと言う。「有馬小便」では有馬温泉で男が二階の客のために小便が出そうになるとさお竹の節を抜いて用をたせるようにと売り歩いていたが、女の人から頼まれて、しまったじょうごを持ってくればよかったのにという。

女郎買いの話では小柳枝さんの話で、もてなかった男が朝になって「女郎の小便が長いこと」と弁解していると言っている。このもてない男達がいろいろな悪さをしているが、中に腹いせに薬缶を股の間に入れて持ち去ろうとするが、階段で首から吊るした紐をたくし上げなかったため、薬缶が階段の端にぶつかり,中の湯がこぼれ出し、女に階段でおしっこをしては駄目だと怒られたと言う。

また「突き落とし」では女と遊んだ若い連中が金がないからと付き馬の男を外に誘い出し、おはぐろ溝で小便に付き合わせ、油断をした隙に背中を押して溝に突き落とし、その隙に逃げてしまうというあくどい噺である。

年寄り夫婦が茶屋をやっているが、本業の茶屋の方は流行らないが、しょっちゅう雪隠を借りに来る客は多い。そこで一計を案じ、雪隠だけを有料で貸すことを思いつき、大成功。しかし、周りに同じような施設が出来、そこで爺さんがまた一考する「開帳の雪隠」。

「犬の目」では医者がくりぬいた目が犬に食われてしまったので、その犬の目を患者につけてやると、目はよくなり夜目も効くようになったが、用をたすときに必ず片足を上げてやるようになった。

「錦の袈裟」では実際に用をたす話はないが袈裟についている象牙の輪が小用の時に使うものだと女郎屋の連中が勝手に思い込み、与太郎は大もてだった。
「雑俳」でも談志さんが口調爽やかに詠んでいる。「初雪や小便すれば黄色くポツポツ穴があき 氷レモンによく似たり」とか「リンリンと淋病病みは痛かろう 小便するたび チョビリ チョビリン」と。

噺では小便をおもしろ可笑しく取り扱っているが、これは人間の大切な生理作用をわかりやすく話そうとした結果ではないだろうか。そもそも人間は一日に平均して7−8回ぐらいの用をたさないといけないと言う。余り多いと折角摂った栄養分が体外に出されてしまう恐れがあり、また逆に少ないと体内の毒が排出されず、体に害を及ばすことになると言う。

夜中に何回もトイレに起きることになると前立腺肥大やガンという怖れもあり、早く医師に見てもらうことが必要である。一般に私達はトイレに行って小便の色や泡立ちに気を付けてあまり黄色かったり、赤みを帯びていたりすると何かあるのではないかと心配するものであるが、これは素人の出来る最も簡単な方法であろう。最近はトイレも何処の家でも洋式になって,目視しやすくなっている。血液の検査は医者にお任せするしかないが、尿の方は素人でも出来ることは有り難い。

昔から糖尿病と言う病があるが、サイレント・キラーと言われ、贅沢な食事をしたり、摂取量が多かったり、食べた量に見合った運動をしてないとこの病気になると言われている。
何時の間にかこの病気となり、トイレが何となく甘い匂いがしたり、外でした小便に蟻がたかったりするようになり、やっと病がわかることがあったそうだが、こうなるともう相当進行しており、本人の相当な努力と、周りの人が当人に対する食事摂取の監視が厳しくないと回復が不可能になると言うこわい病気だそうだ。

噺の中にはこうゆう事については警告めいたものはなく、只、小便の現象だけについて話しているだけだが、笑いのうちに自ら自分の体を守るための方策をとるようにと人々にそれとなく語っているのかも知れない。 

平成18年4月
posted by ひろば at 07:09| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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