2006年06月01日

【063】搗き米屋(鈴木和雄)

当節、私達が住んでいる市内にも精米スタンドがあちこちに設けられ、車で乗り着けた人が大きな米袋にはいった米を持ち込んで精米をしていく人達の姿を目にする。こうゆう人達は自分で玄米を作っているか、何処かで玄米を買ってきて、自分の好みに米を搗いておこうとする人達であろう。

この頃は食物による健康志向が強く、玄米そのものや、それに近い米を炊いたご飯を食べる必要からこんな現象が起きているのであろうが、昔も米を搗く、即ち精米と言うことが盛んであった様だ。そのため落語にもそれを仕事とする人たちを扱った「搗屋幸兵衛」とか「搗屋無限」と言う噺が残されているのであろう。

江戸時代の昔は何処の地でも、米は玄米が食べられていたと言う。それに麦や稗、黍等の今で言う雑穀が入れられて食べていたようだ。今は健康のためと称して五穀米とか十穀米とか言うのを米に入れて食べるのが流行っているが、その昔は収入が少ないから雑穀を入れた飯や雑穀そのものが主食だったところもあったようだ。

処で、地方でこんなまずい飯を食べていたにも拘わらず、江戸の人達は玄米など食べず、米を搗いて白米を食べていたという。「江戸美味草紙」杉浦日向子著に依れば、これは武家の頭領である将軍家では米を精米し、白い飯を食べていたので、その下の武士もこれに倣う。武士階級が白米を摂れば庶民もこれに倣って米を搗いで白い飯を食膳にのせるという具合になっていたのであろう。

しかし、米を搗くといっても、そう簡単に自分の家では搗けない。男衆や下男がいる家では日を決めて、幾日分かを搗きだめしておくことが出来るが、そんなことの出来ない女ばかりの所帯や、男が居ても米を搗く力や暇のない家では、米搗きを専門とする人達に頼む以外は手がない。

何時の時代も同じだが、都会は地方の人達の憧れの場所である。ことに江戸時代の江戸は男と女の比率に大きな差が生じるくらいに田舎から男達が職を求めて江戸に出てきて、一旗揚げようとやって来た人達が多かった。しかし何の技もない人達がそんなに簡単に職にありつくことは不可能で、やはり野良仕事や山仕事で活かした力仕事が一番手っ取り早い職業である。そこで目を付けたのが搗き米屋であったのだろう。

噺にあるように搗き米屋として店を構えている人もいるし、「江戸の生業事典」渡辺信一郎著に出てくる大道搗き米屋という人もいる。これは屈強な男が杵を担ぎ、臼を往来で転がして歩き、出入りの家を回ったり、呼び込まれたりしながら、その家の内庭や玄関先、家の前の道端に臼を置いて米を搗いたという。

また前記「江戸美味草紙」にあるような体ひとつで各戸を回り、その家の臼と杵を使って米搗きをする人も居たようだ。そして米の搗き方もその家の注文で7分搗きとか8分搗きとかもあり、結構商売になったようである。こうゆう人達が仕事をした後は、庭や家の前の路上に臼の形のあとが十五夜の月のように残り、その周りに糠が落ちていたという情景を表す「十五夜のように搗屋は置き土産」の句がある。

搗き米屋というのは元々重労働であるから、よく食べる。食事は頼んだほうが出すものと決まっていたようであるが食事の量が大変で、しかも動物性蛋白質のものを入れてやらないといけないとあって、よく秋刀魚をおかずに出したそうである。「仰向いて搗き屋 秋刀魚をふつり食い」とか「甘塩のへび(秋刀魚のこと)を搗き屋へ二匹つけ」などの句もあるそうだ。

こんな沢山食べる搗き屋の噺が「搗屋の幽霊」である。搗き屋の店に勤める久蔵が大の飯食らい、あまりの大食漢のため、胃をこわし、医者に食事を制限するように言われるが、我慢が出来ず、台所へ行って飯櫃から飯を盗み食べるようになったが、主人が飯櫃に鍵をかけるようになってそれも出来なくなった.その内、病が嵩じて死んでしまう。しかし、死んでも幽霊になり、台所で飯を食べているので、主人が久蔵の幽霊をつかまえて「お前は死んだのだろう」と問い詰めると「死なぬ者」だと答えた.信濃者というオチだそうで、当時信州者は大食漢の代名詞だったそうである。

「搗き屋幸兵衛」では、大家の隣の家作に搗き米屋が居て、その家で米を搗いていた、大家の女房が亡くなったあと、その妹が後妻に来てくれたが、搗き米屋の米を搗く振動で、仏壇の位牌が,いつも後ろ向きになってしまい、先妻が恨んでいるのではないかと,後妻も気に病んで死んでしまった。大家はこの搗き屋を追い出してしまったが、今度入居を希望してきたのが同じく搗き米屋ということを聞いて、大家は恨み言を言って入居を拒否している。

「幾代餅」に出てくる花魁の幾代太夫を恋する清蔵も日本橋馬喰町の搗き米屋の使用人であり、店の親方がしっかり働いて金をためて、幾代に会いに行けと勇気づけ、最後に足りないところは上乗せして会いに行かせている。

「搗き屋無限」でも信濃屋という搗き米屋で働く徳兵衛が小稲という遊女の錦絵に恋わずらいをして、親方の臍繰りを一時黙って借りて,幇間の世話で小稲に会いに行くが、段々深みに嵌っていくという噺だが、この噺で搗き米屋は余得として搗き米の二割を得ることが出来ると語られている。

江戸の人達は搗き米屋の苦労のお陰で白い飯を食べることが出来たが、いいことは続かないもので、白い飯ばかり食べていた性か、脚気に冒されるようになったという。これは米の胚芽に含まれるビタミンB1が搗き米の結果、みな無くなってしまったので、ビタミンB1欠乏になってしまったからである。

当時は病の原因がわからず、江戸を出て旅に行くと、何処の旅籠でも玄米や雑穀を入れたものを食べさせられるから自然に病が治ってしまったため、江戸でしか、起こらない病といわれ「江戸病」などといわれたという。

今はこんなことはない。皆、何処の家でも白米を食べることが当たり前になっているが、その代わり副食物として肉、魚、野菜と30数種の食品を一日に食べるように勧められているし、摂っている。若しそれでも足りない場合はビタミン剤やサプリメントもあり、皆さんが夫々に健康に気をつけて生活している。

搗き米屋と言う商売も江戸時代の末期には廃れたという。武士が給金を米で貰うことがなくなったことと、精米技術が発達して大量に処理することが出来るようになった故だろうか


平成18年6月
posted by ひろば at 07:11| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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