2006年08月01日

【065】井戸替え(鈴木和雄)

先代文楽さんのお得意の噺の一つに「つるつる」がある。師匠の家で暮らす幇間が同じくその家で暮らす芸者に惚れて、ある日、自分の気持ちをその芸者に明かすと、彼女は「あなたは酒を飲むとぐずぐずになってしまい、だらしなくなるから、この点を改めれば一緒になってもいい」と言われ、今夜、夜中に会える時間を決められる。

嬉しくて贔屓の旦那の席でこの事を一寸洩らしたばかりに、旦那に酒を飲まされてしまい、逃げるようにして家に帰るが、酒のために寝込んでしまい、彼女との約束の時間はとうに過ぎ去ってしまう。チンチンと時計が鳴ったので慌てて、かねて計画していた手段で綱を伝わって降りて見たら、そこは家族がそろって朝食の最中の所だった。師匠に怒られ、言い訳に「井戸替えの夢を見ていました」と応える。

今、この「井戸替え」の意味がわかり情景を想像できる人はどのくらい居るのだろうか。
私達の落語会でも大正から昭和前期の生まれの人が多いから実際に井戸替えを見たり,或いは経験者から話を聞いている人たちも居ると思われるが、なかなか「井戸替えの夢」というオチを笑いに続けられる若い人はいないのではないだろうか。

徳川家康が移封されて、江戸に来た時、当地は湿地帯が多く、水が飲料に適さなかった。その為、井の頭池や赤坂溜池の水を引くことにより、飲料水を賄っていたが、人口の増加と共に対処仕切れなくなり、家光の頃に神田川の上流を整備して神田川上水を設け,更にその後十年経って家綱の時に玉川上水を作った。

これにより、江戸の市民は飲料水を確保することが出来たが、当時の幕府は先ず水の確保が重要な施策だった。そして市内に入ってからは木樋を伝わって、一定の地域毎に作られた水道桶(井戸)に水が貯められ、そこから人々は水を汲み、自分の家の溜置きの為の甕や桶に移して飲用に使っていた。

この水道桶が井戸といわれるもので、背丈の3分の2程度が地中に埋められ、3分の1が地上にあり、井戸水の水面は地面すれすれに来ていたという。人々はここに集まり水を汲んだり、話をしたりしたという。江戸っ子はよく「水道の水で産湯を使った」と啖呵をきっているが、この水が水道桶から汲んだ水ということのようだ。
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両国の江戸東京博物館の「水道桶」を撮ったものです。本物かレプリカか判りません。
これによると丸い桶(写真左)と四角い桶(写真右)があったようです。
丸い桶の右にあるのが木導管です。丸い桶の四角い穴の上までが地中に埋められていたようです。


この飲料用の井戸は年に1回7月7日に井戸替え、または井戸浚いといって、その区域で井戸の世話になっている人々が集まり、臨時のつるべを設け、井戸の水をかい出し、井戸職人が内部に入り、井戸の内側の側壁を洗い、また井戸の底に溜まった泥をかき出して行く。この時の光景は職人が褌一つになり、井戸の入り口に渡した材木にかけた綱を頼りに下に降りて行く。そして降りながら側壁を洗う姿が「つるつる」で幇間が朝食の席に上から降りてきた姿と似ていたので、言訳に「井戸替えの夢を見ていた」と言ったのであろう。

井戸替えの時は女の中には楽しみにしている者があったという。当時、井戸の水汲みに来ていて、髪の飾り物を下を向いた時に落とすことがあった。井戸替えの時にこれらの落し物を拾い上げ、持ち主に返してやるということもあり、おかみさんや娘達は年に1回のこの日を待ち望んだという。

中江克己著「お江戸の素朴な大疑問」によれば、この江戸市中の水道桶(井戸)は上水を溜めた物であるから、時には玉川上水系の井戸には多摩川の鮎が流れこんできた事もあったと言う。
井戸をきれいに掃除が終わると井戸神様に酒と塩を供え、井戸職人を始め、作業に手を貸した人々に祝い酒を振舞い、仕事の完了祝いと慰労をかねてささやかな宴が行なわれた。

これらの話は江戸時代の井戸替えの作業の一端を物語っているが、明治になってもまだ東京は上水道の普及は東京全域にわたることはなく、相変わらず井戸水に依存することが多かったという。しかし、井戸替えの作業は江戸時代のそれとは聊か異なることとなった。

江戸時代には神田上水、玉川上水以降にも上水は設けられたが、経費がかかるため、維持困難ということで、神田、玉川の両上水を除いて廃止されていった。またその頃には掘り抜き井戸のさく井技術が発達し、従来よりも深い地中に掘り抜き管を通すことが出来るようになり、いい水が得られ,水道桶(井戸)は減少していった。

明治になり更に技術が進歩すると共に鉄管なども使われるようになり、新しい井戸水が飛躍的に庶民の飲料水として使われることとなった。しかし、まだ現代の井戸で使用されているような揚水ポンプではなく、相変わらずのつるべを使ったり、水桶で直接くみ出す方式だったので、井戸替えは行なわれていたようで、尾崎一雄氏の随筆「美しい墓地からの眺め」の中で「井戸替えをしなければ」という一文でその模様を述べている。

「明治の頃の井戸替えの風景をよく覚えている。水瓶、樽、風呂桶その他に十分な汲み置きをしてから、井戸水をザアザアと流す。やがて滑車を使って、大きな桶と共に、一人が井戸の底に降りる。その人は小桶で桶に水を満たすと「おう」と声をかけて来る。井戸の底から聞こえるその懸け声は特殊な響きを持っていて、そうゆう声を出す人は、一寸偉いように思われる。そのかけ声によって二人の大人が滑車にかかった綱を引っ張るのだ。

私ども子供も綱の端に取りついだ。
大桶は何度も上下して、やがて大きなフナが二、三匹出てくる。待ち構えていた私達子供は用意の盥にそれを移す。(略)続いて底に落ちた赤土や石、又は不注意で落とした器物が上がって来る。そして最後に地底の子供の目には勇者とうつる近所の小父さんが桶に入って上がって来て、それで井戸替えは終わる。」と情景を述べておられる。

今でこそ上水道の管は何処にも張り巡らされ、どの家も蛇口を廻せば充分に水が使用出来る状態になっているが、昭和の初期から第二次大戦の始まるまでは東京でも辺の地域では、まだ水道が充分に普及しておらず、一本の井戸を共同で利用する家が多かった。また、水道が家に入って来ても飲み水は水道で、飲料以外の水は井戸水でという家も多かった。

そこで今も使われている井戸のように充分に深いところの地下水を汲み揚げる方式で、しかも電動ポンプを使って揚水するわけでないため、昭和初期の当時の井戸はつるべを使ったり,手押しポンプでやっていたため、井戸の口が大きく開けてあり、昔と同じように埃が入ったり、汚い水が入る恐れがあり、殊に洪水などが起こると、井戸にまともに汚水が入ってしまい、井戸の清掃をする必要があった。しかし昔のように井戸職人が中に入ってやっている光景はなかった。ただ、水を皆でかい出して、きれいな水が揚がってくるのを待った。

また、当時は水を濾過する設備が井戸の側に備えられていて、井戸で汲んだ水を必ずその濾過装置を通さなければならなかった。装置と言っても今のように立派なものでなく、一斗樽の中の一番下にこぶし大の石ころを敷き、その上にゴルフ球よりやや小さい石を入れ、あと棕櫚の木の皮を一杯に敷いて木炭をいれ、また棕櫚の皮を敷き、あと洗い揚げた砂を樽の口10cm近くまで入れ、最後に小石を少し敷くという原始的な濾過装置である。

これで井戸水を濾過してからわが家に持って帰り使用したわけだが、この装置は直ぐに砂が汚れと水垢で詰まってしまい、水の濾過がうまく出来なくなる。そこで井戸替えは年に一度だが、濾過装置の樽の中のものの清掃は毎月やらねばならず、冬は皆が手を真っ赤にして作業をしていた。

今はもうこんな風景はない。夫々の家で蛇口をひねれば衛生的な水が豊富に出て来て何時でも飲むことができるし、かつ安価である。世界中でこんなに水が頼もしく見える国はない。「井戸替え」の噺の世界は遠くになってしまって、逆に水の有難みを忘れてしまいそうになるのである。

平成18年8月

posted by ひろば at 07:16| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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