2006年09月01日

【066】迷子探しの石標(鈴木和雄)

「火事と喧嘩は江戸の華」と言われたが、火事は江戸にとって一番の障害だった。
噺の「富久」でも話されているが、一晩に2―3回もあちこちで火の手が上がり、幇間の久さんも芝の久保町に行ったり、自分の家がある浅草に戻ったりして火事の掛け持ちをしている。

火事の発生の理由は以前から言われているように家が皆粗末な木造であること、火の始末が疎かである事、消防施設が整っていないこと、防火対策の意識と設備が無かったことが挙げられている。

しかも一旦、火事が発生すると大火になることが多く、明暦の振袖火事、元和、寛永、承応の大火事のように家が焼けるばかりでなく、死者が10万人以上になるという大災害もあった。であるから罹災者の数も相当出ており、一家で逃げるにしてもおやじさんが大きな荷物を持ち,おかみさんが赤ん坊を背負い、小さな子達の手を引いて逃げ惑うが、火に追われてあっちへ行ったり、こっちへ行ったりしている内に、親、子、兄弟姉妹が手を放したり、人にぶつかって倒れている間に家族のものが先に行ってしまったというようなことから、火事が治まったら、子供が一人残されてしまったと言うこともあった様だ。

この中には親が火事で死んでしまい、全く孤独になってしまった子も居たろうが、そうゆう子が見つかった場合は、親戚の人が預かり、その後の面倒をみると言うことになったのだろう。

一方、親や兄弟が生きている時は必死になり,居なくなった子供を捜して歩いたに違いない。
そんな噺が円窓さんの演じた「五百羅漢」にある。「五百羅漢」は本来、円生さんの演じた古典であるが、話が余りに悲惨で暗いので、円窓さんが自分で改作して高座に掛けたものだとまくらで述べている。

「本所の八百屋の棒手振りの男が、ある日、仕事の帰り道で浜町の大火で親を見失った迷子の女の子に会い、家に連れて帰ってくる。親を探してやろうといろいろ骨を折るがなかなか見つからない。ある日、子供が薬缶を口飲みしている姿を見て、躾が悪いのかと心配する。

子供を連れて親を探しながらの商売に出るが、途中、子供の手を引いてやっている内にお互いの手に温かみを感じ、心が通じた事を感じたので、女房にこの事を話すと、五百羅漢の中に、そのような事を言っている仏があると言う事を聞いて、翌日、女の子を連れて五百羅漢を祀る寺に行ってみる。そこで寺の住職に会い、女の子の事を話すと住職は「火事で女の子を見失った人が居て、今その人が庫裏の畳替えをやっているという。住職ら三人はその方に行って見ると、畳屋がいて仕事をしており、側に大きな薬缶と小さな薬缶が置いてある。女の子はその方に行き、小さな薬缶を取り上げると口飲みにし、霧吹きを始めた。そこでこの子は躾が悪いのではなく、畳屋である親の真似をしていたことが判る。ここで女の子と親が会うことが出来、親子はしっかりと抱きあった。」と言う噺になっている。

また,先代円歌さんの演じている「春の雪」でも火事で迷子になった子供のことが話されている。「江戸の大火の時に大店の孫娘が乳母に連れられて逃げるときに途中で一寸、手を離したばかりに迷子にさせてしまった。店では家中を総動員して探す一方、自身番に届けておくと、暫くして、自身番から孫娘を連れて歩いている女がいることが知らされたので、

乳母が引き取りに行くが、帰って来ての乳母の話では、女の風体が、手拭を被り、化粧をしていたと言う。店の主人は女にお礼をしたいと、八丁堀の定廻りのさん七親分に探す事を頼み、いくらでもお礼を出したいと言う。しかし女が夜鷹あることが判り、一度は躊躇するが、女を地獄から救いだしてやってくれと言うさん七親分の言葉にけちな態度で少額の金しか出そうとしない。

女が故郷の家に女の子と同じ年齢の子供を残し、江戸に卑しい仕事をしに来ていて、火事で迷子になった女の子をわが子を救うつもりで一晩中面倒を見て呉れていた女の心を理解しない店の主人のあさはかさに呆れ、さん七親分は自分で金を出して、女を解放してやり、故郷に帰してやる。」

これらはいずれも火事の時に迷子になった子供に係わる噺であるが、江戸は火事ばかりでなく、人出の多い所ではしょっちゅう迷子が出たようである。防火対策のため幕府は府内の各地に広小路なる割合広い空き地を設けたが、この様な施設が、普段は人出を呼ぶところとなり、本格的な建物は認められないが,よしず張りの仮小屋ならよしということで、建てられ、益々人が集まることとなった。

この広小路が人寄せ場となって何かにつけて人々が集まり、子連れの親なども多数集まり、子供を忘れて浮かれて飲んだり、遊んだりしていたようで、ここに迷子が沢山出たと言う。
現在でも東京ディズニィイ・ランドや上野動物園、海水浴場、一寸したお祭場では必ず迷子のための保護所を作り、専門的にこれに従事する人を配置している。
そして迷子が出てきたらマイク等で呼びかけをして早期に子供を親に会えるように努力している。昔はこの様なシステムは無く、親と子でお互いに探してはいるが頼るべき方策はなく早期に発見できることはなかったという。
前述の「春の雪」では迷子について自身番に届け、探す事を町火消しに頼むこともあったようであるが、藤田覚著「大江戸世相夜話」に拠れば京都町奉行所の例として寛政12年10月に京都三条中町で5歳ぐらいの男の子が夜の9時頃彷徨っているのを見つけ、これを保護したが、名前も住所も判らず、疱瘡の痕とか片目が悪いとかの情報を町触れで町奉行所が出し、心当りが在るものは連絡するようにといっていたという。

これは京都の話であるが、江戸でも町奉行所が何らかの措置はとっていたのであろう。その一つが迷子探しの石標であろう。江戸の人達は人情の厚い人が多いから、迷子と判れば先ず我が家に連れて来て飯を食わせ、親を探す手段を考え、自身番に届けたり、その子が住んで居たであろう辺りを子供を連れて探しに行ったり、親が見つかるまではひもじい思いをしないように、また淋しい思いをしないようにして、あちこちと子供の情報を求めて探していたようである。

何と言っても火事の場合や人ごみの中での迷子は数が多いので、奉行所でも対応が出来かねることが多かったのか、迷子探しの石標を広小路のような人が多く集まるところに建てて行方を求めていた。中江克己著「お江戸の素朴な大疑問」に拠れば安政4年に現在の八重洲1丁目の辺りの家主達が当時の常盤橋の南にあった一石橋の南側に「まよい子のしるべ」なる石標を建てて、探す側と探される側の情報の一助にした。この石標の右側には「しらす方」、左側に「たずぬる方」と彫ってあり、迷子の特徴や似顔絵、連絡先を書いてここに貼って置くようにしたようである。この石標は今も常盤橋公園内に現存しており、東京都の旧跡になっているという。また江戸東京博物館にも同じような石標が展示されている。

徳川末期の江戸は悪がはびこり、犯罪が多発していた。泥棒、強盗、辻斬り、押し込み、殺人、かどわかし等、悪の種類は限りなく、殊に子供を標的とする犯罪も多く、誘拐、かどわかし、が多数あり、子供を売買する組織などもあり、越後獅子の踊りのような旅回りの連中に入れられ、子供をこき使う様が見聞きされている。

このため、当時の親としては子供の保護に一生懸命だった。ふとした時に親が目を離した隙に子供が居なくなったり、大災害時に子供を見失ったりすると、悪い連中に連れて行かれて、大変な目にあっているではないかと親は気もそぞろで、寝る目も寝ずに探し歩き、その親の苦労は大変なものだったようだ。
今の様な通信手段のない時代は遠くに連れ去られていかれた場合はその後の親子の接触の機会はなく、そのまま不運のうちに人生を終わるか判らず、親は迷子となったわが子の行方をいろいろな手段を使って求めたのであろう。こんな時に迷子探しの石標は大いに役にたったのであろう。一石橋の東京都の案内には他に浅草の浅草寺境内や湯島天神の境内に同じようなものがあったと記してある。
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◆一石橋「迷子標」
1857年(安政4年)に建設されたものであり、現在も一石橋(いっこくばし)付近に保存されている。正面から左のほうには「たつぬる方」と彫りこまれており、迷子の親達によってその子の名前・年齢などを書きつけた札が貼られた。右のほうには「しらする方」とあり、迷子を預かる町からの情報が貼られた。「迷子標(まいごしるべ)」が造られた背景には、迷子が発見された町にその扶養が義務付けられていたため、そのための負担が町の財政を圧迫していたからである。頻繁に見いだされた迷子とそれ故に建てられた「迷子標」は、江戸の都市としての一側面を示している。(江戸東京博物館展示資料より)・・・写真は一石橋に実在する迷子標


平成18年9月

posted by ひろば at 07:20| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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