2006年10月01日

【067】噺の風呂屋と床屋(鈴木和雄)

古典落語で聞く江戸の庶民の生活には風呂屋(湯屋)と床屋(髪結所)は欠かせない職業であったという。現在のように道がきれいに舗装されていない時代には、雨が降らなければ町中で埃が立ち,外で働いている人は勿論、家に居ても汗と埃にまみれてしまい、特に夏になると、大量の汗で臭くなり、毎日、風呂に入ったり,髪を洗わねばならない日が続いた。

その為江戸町内の各地に湯屋があり、また床屋が設けられていた。そしてこれが江戸の人々の衛生を守るばかりでなく、生活の楽しみを提供していたのである。その為、式亭三馬が「浮世風呂」「浮世床」という絵草紙を著し、世間に持て囃されたが、落語もこの様な情景を捉えて、面白、可笑しく噺としてまとめられて話されて居たのであろう。

しかし、噺の「浮世風呂」「浮世床」では、あまり湯屋や床屋の仕事の情景は話されず、社交場として、若い連中が集う湯屋の二階や、床屋の待合室での遊んでいる様子が話されているのみである。

ところが円生さんは「浮世風呂」の中で当時の湯屋の状況を丁寧に説明してくれている。
「湯に入るにはざくろ口をかがんで入り、湯船に達する。湯船の周りには2−3尺の間がありここで人々は湯に入ったり、談笑をしたりすることが出来る。師はこのざくろ口についてその名の由来を説明している。湯船のある処と体を洗う洗い場は板の間仕切りがあり、僅かに大人が立って胸のところぐらいの高さに出入り口が開けられている。

これがざくろ口で、風呂は始めは蒸気浴から始まり、そのときは中の蒸気が逃げないように出入り口が小さく開けられていたのであると言う。その後、風呂が熱湯浴になってもこのざくろ口はそのままに置かれたからだと言う。

円生さんはどうしてこの名が付けられたかを話している。昔は顔や姿を見る鏡は、今のようにガラスの裏に反射塗料を塗ったものでなく、金属の板を磨き込んだもので、時間がたつと曇ることが度々あり、その為ざくろの赤い実で磨くとよく見えるようになった。そこで湯船に至る入り口の所を人々は「かがみ入った」のでその出入り口をざくろ口と言ったと説明している。

そして、入浴の状況については、湯船のある処はざくろ口と僅かに小窓があるのみで、薄暗くお互いに顔がよく見えないので男湯は知人と話をするほかに、常磐津,新内、義太夫など,湯に浸かりながら唄うので、賑やかであった。
一方女湯の方は湯に浸かっている時は静かだったが、洗い場ではおしゃべりに花が咲き、それはそれは賑やかだったと話している。昔は風呂の湯船のある場所は男女混浴で、男は褌をつけ、女は湯文字をつけて入ったそうだ。しかし時がたつ内に全く裸になり、暗い所で男女がごそごそやっていると、風紀が乱れると言うので寛政3年に幕府は男女混浴まかりならずとして男風呂と女風呂は分けられた。

又、湯船の湯の汚れもよく見えず、不潔だったので、明治17年にはざくろ口が禁止されたと言う。(「風呂とエクスタシイ」吉田集而著)
また、これも円生さんが話しているものであるが「洗い場には男湯と女湯の境の所に双方から使えるように湯の槽と水の槽が置かれており、客はそこから桶で自分の洗い桶に汲んで使っていたが、段々、面倒くさがって洗い桶を溜まり槽に突っ込んで湯や水をかい出すので汚れて困った」といっている。

男女とも夫々の湯船で入浴するようになったが、それでも脱衣所などは「浮世風呂」の画を見れば男女の境の仕切りは半分しかなく、お互いに姿は見えたと言う。円生さんの湯屋の二階の情景の説明によると、番台の脇にある階段を上がっていくと、そこは座敷になっており、風呂からあがった男達が、夫々将棋を指したり,碁をやったり、絵草紙を見たり、談笑したりしていた。

そしてそこにはおばさんが居て、茶を用意してくれ、菓子をつまむことも出来たが菓子はいくらかの金を払う必要があった。そして、この部屋には所どころに穴が開いており、女湯が見えるようになっていたと紹介していたが、師はこの穴について「けしからん」と憤っていたが、その舌の乾かぬうちに「あたしがそんな時代に居たら、一日中穴に張り付いていたろう」といって笑いを誘っていた。

この休憩所のようなものは明治17、18年頃にはやはり風紀上の問題から廃止された。(「江戸東京物語」岡本綺堂著より) 女湯には休憩所のようなものはなかった。
湯屋は営業時間が朝8時から夜8時までやっていた。でも男湯の方は朝から客が入ってくるが、女湯の方は朝はまったく無く、このため江戸の八丁堀の風呂屋は八丁堀の与力や同心が朝の利用されていない女湯に入ったという。その為に女湯の脱衣所には刀を掛ける場所があったそうだ。男湯は二階の休憩所がそうゆう刀掛けのために設けられたものだという。

江戸は良い水が少ないばかりか、湯を沸かす薪代も高い。その上、火事を出すことはご法度であるから、大店でも内風呂は設けないし、宿屋でも風呂は無く、客は湯屋に行かなければならなかった。当時の湯銭は大人6文、子供4文であるが寛政6年以後大人10文、子供6文になった。 文化11年(1814)には江戸町内には600軒以上の湯屋があった。 汗と埃にまみれた人達のため湯屋は毎日営業をしなければならなかった。火を長時間に亘って取り扱う仕事であるから出火の怖れなしとはいえない。ために釜の前部を石積にして防火対策としたり、風の強く吹く日は休みになったと言う。

また、風呂が休みになるのではなく、働く三助が主人から「貰い湯」といって湯を沸かす実費を主人に払って湯屋を開け、その日の収入は自分が貰うこともあったそうである。また、当時、入浴客は自分の洗い桶を作り、今でいう「マイ桶」として三助に体を洗ってもらうときにそれを使うのだが、この桶を毎年、新調する人もあり、その度に三助に何がしかの祝儀を払うことも行われたと言う。

今でも風呂屋で行なわれているものに5月5日の菖蒲湯や冬至の時の柚湯があるが,更に昔は夏の土用の半ばに桃の木の葉を入れる桃葉湯もあり、当時はその度に湯銭の他に番台におひねりが置かれたそうである。

湯屋の困ることは「板の間稼ぎ」と言う湯屋専門の泥棒が居たことである。番台からよく見ているが、衣類を盗まれることはなかなかやまない。役所の方からもうるさく言われ、看視のものを置くが、忙しい時や、少し暇になると看視人が居眠りをすることもあり、その隙に盗まれると言う。

客が脱いだ衣類は自分が持ってきた風呂敷に包んでおいてあるが、看視の目が届かないと持っていかれてしまう。この風呂敷は江戸時代の初めに湯屋に行く時に家から着替えを持って行く時や、帰る時に今までの着物を包んで持ったり、さらに湯屋の板の間で着脱する時にこの風呂敷を敷いて行なったというが、春信や豊国の浮世絵で見る限りは、娘さんが湯屋に行く時に着替えの衣類を直接抱えて持っていく図はあるが、風呂敷の姿は見えない。

湯屋の二階の休憩所や床屋の店の奥の待合所となった場所は当時の情報の交換所でもあった。テレビもラジオも映画も無い時代の唯一の楽しみである情報―町の噂の交換を行なう場所は風呂屋であり、床屋だった。町の男衆はいつもここに来て近所の噂を語り合い情報を仕入れ、又与えて噂の伝播人になって行く。与太郎も絶対他の人にしゃべるなと釘を指されても、やはり話したいと言う欲望は抑えきれず、湯屋と床屋で「しゃべってはいけないよ」と念を押しつつ話をして、心のもやもやを晴らすことは大いなる楽しみであった。今でいうストレスの解消になった。そしてこの発散が明日の労働の活力になっていたのであろう。



湯屋と同じく人の集まる場所を提供している床屋は江戸時代の最盛期には千軒以上もあったと言われる。まず床屋になるには幕府の鑑札を必要としたが、この鑑札を得るには株を持っていなければならず、一町内に一軒ずつで808町あったから808軒を始めとしたが、その後、鑑札を無視して営業をするものも現れ、天保年間には床屋は1081軒もあったという。

床屋は自宅内で行なう「内床」、四辻の道端や橋際の小屋で営業する「出床」、自分のお得意を廻って歩く「廻り髪結」と言うのがあったという。廻り髪結は噺の「髪結新三」で話されているが、親方が弟子を連れ顧客の家を数日置きに定期的に訪問し、その家の主人や使用人達の髪を調髪していくものであり,月に5−6回行き、主人は200文、使用人は   100文の収入があった。毎日やってもらう家もあり、結構な実入りだったようだ。

「出床」である橋際に小屋を持って営業する職人には橋の番人の役目を兼ねる者もあり、橋の上の清掃、橋の上の喧嘩、心中の防止、通行人の監視等、本職以外に忙しいことがあったそうだ。噺の「浮世床」に出てくる「内床」は店の奥に客の待合所となる部屋があり、ここは湯屋の休憩所のように将棋、碁が出来,絵草紙が置かれ、談笑が行なわれていた。しかし湯屋のようにおばさんが居て、茶菓が取れるようなことは無かったようだ。まあ、お茶ぐらいは客が自分で入れて飲むことが出来たのであろうか。

当時の床屋は今の様に大きな姿見があり、回転の椅子があって、そこに座っていれば調髪も剃刀も洗髪さえもやってくれると言うようなことは無く、家の上がりがまちや庭に面した縁側に座らされて、胸元に小さな前掛けをつけ、毛受の板を持たされて髪を梳いたり、月代を剃ったり,髷を結ったりされていた。

これの髪結の料金が江戸中期で28文、文化年間になると32文になったという。「髪結新三」でも新三はいつも弟子を連れて廻っていたが、一般に床屋では小僧が先ず客の元結を切り、髪の毛を梳き,中床という若い衆が月代と顔を剃り、髪を仮元結で結い、最後に親方が仕上げるという役割分担があったそうだ。

であるから先ほどの株も親方が200文、弟子は100文を支払わねばならなかったという。しかもこの株の鑑札の条件として公役を課されていたそうだ。町の奉行所や町会所の近隣で火事があったりした場合には、役所に行って書類を運び出す仕事や、橋の清掃、牢内の囚人の髪剃りなどをやってやる事を命じられたそうだ。


また、床屋の待合所は町の話題が飛び交い、町人やそれ以外の人達の情報が話されるので犯罪人を揚げる手掛かりがつかめることがあったので、床屋の職人の中には岡っ引きの手下をやっている者もいたと言う。逆に岡っ引きのかみさんが湯屋を経営している事例もあったようである。床屋にはこれまで述べてきたように三種の業態があったが江戸期の後半になると自宅での営業に収束していったと言う。

町の若い衆は床屋でいい男になって吉原に繰り込んで遊んだり、時には町の祭でいなせな所を若い女の子に見せて、江戸っ子の気風のよさを開けかしたのかも知れない。


  参考書:
   「風俗江戸東京物語      岡本綺堂著   河出書房刊
   「お江戸の意外な生活事情」  中江克己著   PHP文庫刊
   「江戸生活図鑑」       笹内良彦著   柏書房刊
   「大江戸物知り図鑑」     花咲一男監修  主婦と生活社刊
   「風呂とエクスタシー」    吉田集而著   平凡社選書
   「大江戸暮らし」       大江戸探検隊著 PHP刊
   「都市生活史事典」      原田伴彦著   柏書房刊
   「大江戸まるわかり事典」   大石 学編   時事通信社刊


平成18年10月
posted by ひろば at 07:21| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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