2006年11月02日

【068】明治の改暦と時刻法(鈴木和雄)

〔この11月で今年が終わり、来月は翌年の正月だとしたらどうします?〕

志之輔さんがある年の1月6日に「だくだく」の噺をしたが、その枕で「今日はいやに温かい日ですね。カレンダーを見たら今日は旧暦で前年の11月30日だと記してあった。道理で温かい訳です。日本では昔は旧暦である太陰太陽暦を使っていたが、明治5年になり、太陽暦を採用することとなり、今までの季節とズレが生じるようになってしまった。
魚などの捕獲は旧暦が必要なもので、沖縄などは未だにカレンダーに旧暦が書かれているという。何故なら魚は新暦のことは知らず、未だに月の動きに従って行動しているから、沖縄の漁師たちは旧暦を見て魚の獲れる日を決めているからだ」と話していた。

そこで、旧暦である太陰太陽暦を廃し、太陽暦を採用した経緯を求め、旧暦を基とした古典落語にどの様な影響を与えたか探ってみた。
明治新政府は明治維新がどうやら片がつくと次から次へと日本の近代化に向けた施策を実行して行った。学制の施行、徴兵令の発布、鉄道の敷設と、欧米に遅れをとるまじと忙しく新たな方向に向けて走った。

なかでも国民の生活に直接関係したものが暦と時刻の改正であろう。徳川幕府の時代はもとより明治維新の最中も、そして明治5年のほぼ終わりまで、政府は太陰太陽暦を使い、施策を実施していたが、明治5年11月9日になり、時の参議の大隈重信は突如,詔書を以って太陽暦を採用し、明治5年12月3日を明治6年1月1日とする事を布告した。

この理由として日本が行なってきた太陰太陽暦では、欧米諸国で実施している太陽暦と合わず,外交上,通商上不具合を生じ、不便なためであるということだった。

そもそも暦には、太陰暦、太陰太陽暦と、太陽暦があり、月を中心とするか、太陽を中心とするかによって分けられる。日本は昔は中国の陰陽五行思想を基とする暦を採用していたので、その当時の暦は太陰暦から始まった。

太陰暦は一ヶ月の日数を大の月30日、小の月29日とし、12ヶ月で1年とする355日で行なわれていたが、これは太陽暦と比べると11日少なく、この場合30年経つと1年の差が生じてしまうことになる。夏が正月に訪れるという不具合が出てくることになる。

この為、この差を少なくしようと天保年間に太陰太陽暦を作り、1年を平均365日とするが、やはり太陽暦との差は出来てしまい、少しずつ季節のずれが生じてしまったため、2−3年に1度、1年を13ヶ月とする閏年を設け、このズレを直そうとしたのだが、やはり不便さは解消できなかった。閏年の1年は385日もあるということになったのである。
そこで太陽暦を採用することになったが、これはエジプトで紀元前46年から使われてきた暦であり、長年に亘って何回も改正されてきた暦であるが、明治時代はローマ法王グレゴリオが定めたグレゴリオ暦が欧米諸国で使われていて、1年365日、12ヶ月、閏年を4年に一回、1日設けることにより太陽の動きと一致することになっていた。

明治新政府は欧米諸国と付き合うようになり、外国で使われている太陽暦を日本でも採用し、国民の生活の基盤とすることは急務であった。そこで参議大隈重信は前述の通り、明治5年を12月2日までとし、翌日を明治6年1月1日とすることを明治5年11月9日に発表したのである。

しかしこの時期は政府の岩倉具視、木戸孝允、大久保利光らが欧米視察団として明治4年11月に出発した後であり、留守番役の大隈が西郷らと計って発表したものであるが、視察団の人々も英国でこの件を駐在官から聞いても、さして驚かなかったという。

視察団の幹部も兼ねてから、太陰太陽暦の不便なことは知っていたし、欧米で既にこの暦で旅行している最中であったから、さして反対するものはなかったという。

徳川幕府はキリスト教の布教に対して弾圧をしていた。明治新政府も明治6年までキリスト教関係者を抑圧していたが、欧米の外交筋から邪教とする扱いをやめるようにという圧力がかかり、明治6年に正式にキリスト教を認めるようになったのであるが、新たに採用しようとするグレゴリオ暦がローマ法王の定めたものであるからと異義を唱えるものもいたが、新政府の幹部は太陰太陽暦の不便なこと、太陽暦が太陽の運行と極めて近い数値が示されることが理解されていたので、欧米諸国と暦の取り扱いを一致させるべく踏み切ったのである。

しかしながら外交上、通商上という表向きの理由を掲げて太陽暦の採用を推進させたのであるが、実際の理由は政府の財政上の問題であった。政府の役人に支払う給与が逼迫していたのである。新政府は明治4年以前は役人に支払う給与は年俸で支払っていた。このため閏年で13ヶ月がある年も年俸で定めた給与を払えばすんだのであるが、福沢諭吉のような人が12ヶ月分の給与で13ヶ月暮らせというのは政府が1ヶ月分を誤魔化しているのではないかという指摘があり、明治4年に月給制に切り替えたのである。

しかしこうなると金のない政府にとっては13月ある閏年は苦しい。そこで政府は太陽暦を採用すれば1ヶ月分助かる。幸い明治6年は閏年で6月が二回ある、更に明治5年12月に明治6年の1月を持ってくれば2ヶ月分助かるということが大隈たちの頭に響いたのであろう。そこで政府は極く内密に事を運び、しかも明治6年の旧暦のカレンダーがすり終わる 10月まで何処にも洩らすことなく、11月9日になって改暦する事を発表したのである。
このため、暦を作る業者は倒産するものが多く出て、政府はこの救済策を講じなければならなかった。

今だったらきっとマスコミの連中がかぎつけるし、政府機関の誰かがしゃべってしまうに違いないが、当時のマスコミはそんなに発達していなかったし、政府部内も極く限られた人しか知らなかったので秘密が護れたのであろう。しかし、12月の2日分の給与さえ支払わないという太政官令まで出して、働く者の生活などは知らん顔をして、世の中が通った時代だったのだろう。

この改暦は国民全体は驚いた。急に12月が2日でなくなり翌日はもう正月元旦だという。給料取りであった役人や大店の使用人達は本来なら貰える12月の給与が急になくなってしまった。しかし新年の1月分の給料はあと1月待てば貰えるが、12月の2日間の給与はもらえない。来年の閏月の6月の1月分もなくなってしまった。皆不満であった様だ。

殊に農家のように播種から収穫まで旧暦に従って働いていた人達は困った。それで新暦を天朝暦、旧暦を徳川暦と分け、使い分けをしていたと言う。漁業に従事する人達にとっては海の潮の満ち干きは生活に直接関連する情報である。その干満は月と太陽の引力によって海面に高低が生じる自然現象であるから月の位置が示される太陰暦は漁獲量に直接関係してくる。であるから今でも漁業関係者にとっては大切な情報なのだそうだ。

噺の「掛取り」で毎年大晦日にその年の売り掛け金を取りに歩く商家の人達は暮が急になくなりどうしたか。彼らはこの時は旧暦を使い明治5年の大晦日を明治6年1月29日として集金に歩いたのだそうだ。商人はその後暫くは商売上の盆暮れの勘定のほうは旧暦でやっていたという。

噺の「尻餅」は本当に餅をつくわけで無し,かみさんの尻で音だけ出すのであるから何時正月が来ようと関係ないが、当時の一般の家庭では急に早まった暮の餅つきに大慌てでいつもの年のように大量にはつくことが出来ず、ある家では元旦に使う分だけしかやらなかったとか、致し方なく、街の餅屋に元旦の分だけ頼んだという話もあったという。

「薮入り」は店に勤める小僧たちにとって楽しみな休みの日である。12月になるとあと1月半我慢すれば家に帰れると暮の忙しい時を働くのだろうが、明治5年の暮はなくなり、急に正月になり、あと半月で薮入りの日になる。小僧達はどうやってその日を迎えたのであろう。
上方噺の「辻占茶屋」で染丸さんが長唄の吉原雀の台詞を引いて「女郎の誠と玉子の四角、あれば晦日に月が出る」と話しているが、月の出の月日が決まっていた旧暦と違い、新暦では日がずれて、晦日でも月が出ることが生じたので新暦は大衆に大いに冷やかされたという。〔東京日日新聞〕この様に当初は皆が不満だったのである。

春の花見も桜の木は季節を感じて咲く花であるから暦には関係なく、その時季にならないと咲いてくれない。このため人間の方が新暦に振り廻されて「長屋の花見」も「花見の仇討ち」もまごまごしている間にあの年は過ぎて行ったのかも知れない。

暦の改正と時を同じくして時刻法の改正も行なわれた。これは落語ファンにとっては「時そば」「時うどん」で大切な時刻の表し方が全く異なってしまったということである。
明治5年の改暦と同じ日に従来の1日を干支を基として12分割していたものを、昼12時間、夜12時間の当間隔で現在の時刻に定められた。

江戸時代に続けられた分割法では明け六つから始まり、正午の九つ、暮の六つ、夜中の九つとその間を3分割していたが、実際には1刻の間が長いので半刻を置き,八つ半、七つ半と半刻もあったので、24分割されていたのだが、1刻の間が夏と冬では昼と夜の長さが違うため、夏至は1刻が2.6時間にもなり、冬至は逆に1.8時間と短い時があった。

このため現在のように1時間を全く同じ間隔に60分とした。この新しい時刻法の施行にともない東京の天文局の昼の太陽の南中時にドンを鳴らす事により正午を知らせたという。
更に昔は明け六つ、暮れ六つも太陽の明るさによって違っていたが、今は太陽の日の出、日の入りに関係なく定められており、1日が24時間となって、国民は何処に居ても同じ時刻を共有することになったのである


参考資料:「日本の暦」 岡田芳朗著、「明治改暦」 岡田芳朗著、 「暦」広瀬秀雄著
     「大小暦を読み解く」 矢野憲一著、

平成18年11月
posted by ひろば at 07:23| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/33626275

この記事へのトラックバック