2006年12月01日

【069】噺の隅田川の橋(鈴木和雄)

上方噺「三十石」の枕に話される「京名所」と言う小噺で二人連れの旅人が、京都には橋(ハシ)があるが、大阪には(ハシ)がないと言うと,相方が不思議に思って大阪には天満橋や心斎橋があるではないかというと、それは(ハシ)ではなく,(バシ)だと言う。
京都の橋は三条の大橋,四条の大橋だと言っている。

この言い方だと江戸には(ハシ)と(バシ)が混在することになる。
現在、東京には多数の大きな橋が川がある処、あちこちに見られるが、古典落語に出てくる江戸では大きな橋と言えば隅田川に架かる橋ぐらいなものだった。

当時から在る有名な橋と言えば千住大橋(文禄2年〔1594〕)架橋、両国橋(万治2年〔1659〕)、永代橋(元禄元年〔1688〕)、新大橋(元禄6年〔1693〕)、吾妻橋(安永3年〔1774〕)であるが、現在ではこれらに加えて,白髭橋、言問橋、駒形橋,厩橋、蔵前橋、清洲橋、佃大橋があるが、全て明治以降大正、昭和にかけて架けられたもので、最も新しいものでは昭和60年に作られた桜橋と言う歩道専用の橋もある。

噺に出てくるのは勿論、江戸期に建設されたものに限られるのであるが、当時の橋に係わる噺は数話あるに過ぎない。
徳川家康は江戸に入って以来、江戸城の防備のため,橋を架けることには積極的でなく、一番初めに作られたのが、江戸の北方対策のために必要な千住大橋である。

当時、奥州に行くには皆、この橋を通ったのであろうが、松尾芭蕉も奥の細道の旅をする始めは深川から舟に乗り隅田川を上って、千住大橋で降りて、あと陸路を歩いたと言う。
噺の「荒川の桜」では柳橋から舟で来た旦那、棟梁らが千住大橋で舟を降り、荒川の堤で遊んで帰る時に棟梁が土産にしようとして桜の木を一本引き抜いて舟に持ち込んだが、川の水が急に波立って渦が出来、舟が止まってしまった。棟梁が桜の木で渦にさすと引き込まれて、水が真っ赤になってしまったと言う。

「長芋」では西新井大師にお参りに行った二人連れが千住の先で行列に遇い、「下に、下に」と言われ、あわてて頭を下げるが、将軍献上の長芋と教えられ,憤慨する。その他、枕噺で江戸市中だったら大名の行列に遇っても、道の脇に立ち、行列の通り過ぎるのを待てば済んだが、千住大橋を渡れば、路傍に跪いて、お辞儀をしなければならないのは業腹だと文句を言っているのもある。


しかし、幕府は明暦の大火の際に橋がないために、対岸に逃げることが出来ず、多数の死者が出たことから、防災時の避難のため、橋を架ける事を決め、以後、順次、隅田川に橋が架けられ、更に橋の両岸に火除けのための広小路が設けられるようになった。

そのひとつが両国橋であり、「たがや」は最も有名な噺である。大川(隅田川)の川開きの日に仕事帰りにこの橋を渡ろうとして大変なことになってしまった。
「おせつ徳三郎」「刀屋」「花見小僧」とある一連の噺で徳三郎が店を馘首になり,おせつが後を追って両国橋で遇い、木場の橋まで行ってそこで飛び込むが下に筏があって、お材木で助かった。

「故郷へ錦」勘当された若旦那が、出入りの長五郎に勧められ焙烙(ほうろく)を売ることになったが、少しも売れない。一芝居打つことになり両国橋の上でテンカンを起こしてしまい、長五郎が焙烙を川に投げ込むと病が直ったように装う。これを見ていた人々が焙烙を買い求めてくれた。

「荷投げ」いかけ屋が夏の盛りに両国橋で一休みしていた時、貧乏人の母子に遇い、金を恵んでやった。その時、橋の下を田舎の金持ちが船の中で陽気に騒ぎながら通るのを見て、金さえあれば贅沢が出来ると、自分のこれまでの生き方を変えようと、持っていた荷を橋の上から投げ込んでしまった。

「両国八景」では両国橋のたもとに広小路が設けられ、仮設の芝居小屋や見世物小屋、食べ物屋、居酒屋が設けられ、盛んに賑わった様子が話されている。

安永3年に架けられた吾妻橋では噺に登場する場面が多い。しかし身投げに係わるものが多いのは残念だ。私達がよく知っているのは「文七元結」で店の小僧が集金に行った帰りに金を掏られたと勘違いして吾妻橋から飛び込もうとして、通りかかった博打好きの大工に助けられる噺。

「佃祭」では身投げをしようとしている娘を助けた旦那が数年後に佃祭の帰りに娘に助けられる。まさに「情は他人のためならず」だった。
「星野屋」ではおかみさんを亡くした旦那が妾を本妻に直そうとして、その心底を確かめようとして心中に誘うのがこの橋。「お七」八百屋お七が鈴が森で火炙りの刑で処刑されたが,吉三がこれを聞いて吾妻橋から身を投げる。



「唐茄子屋政談」は勘当された若旦那が頼りとした花魁にも金の切れ目は縁の切れ目とばかりに見捨てられ、食う道もなくなり、吾妻橋から飛び込もうとして叔父さんに引き止められ、南瓜売りをする事となる。

「染色」道楽が過ぎた染物屋の若旦那、廃嫡されそうで、吾妻橋から飛び込むが、釣り人に助けられる。 染物屋だけに色で苦労をするといわれる。「試し斬り」新しい刀を買った侍、試し斬りがしたくて吾妻橋の上で寝ている乞食を菰の上から斬る。これを聞いて朋友もやったが、刀がなまくらで切れてなかった。

「長襦袢」女房の織った反物を売り歩いていた織物屋の男、吉原の花魁に惚れてしまった。女房は花魁を恨みながら舌を噛み切って死んでしまった。この時、反物に血が付いてしまい、この反物を染め替えて長襦袢にして、古着屋に売るが、これを着た人が吾妻橋から飛び込んでしまう。長襦袢はこの後も残り,不幸を次々に起こしていく。
「成田小僧」塗り物屋の若旦那が芸者の小千代に惚れるが、暫くして別の芸者と家出をしてしまう。小千代は悲観して吾妻橋から身を投げる。

両国橋を下ると永代橋がある。元禄元年にかけられた橋であるが、洪水によってよく橋が流失し、その維持に幕府は腐心したが、橋の補修が不完全だったため、文化4年(1807)に落橋事件が起きた。近くにある富岡八幡の祭礼の日であり,橋止めになっていたが、終わった時に群集が橋に押し寄せて、渡ろうとした為に橋が崩れ落ち、千人もの人が死んだ。噺はこれをネタにしたのか「武兵衛と太兵衛」では祭りの好きな武兵衛がこの事件に巻き込まれて死んだから遺体を引き取りに来いとお上から知らせがあった。

実は武兵衛が祭りの最中に掏りに財布を取られ、その掏りが死んでその財布に武兵衛の名前があったので間違えられたのであった。
元禄6年に新大橋が建設されたが、当時、両国橋が大橋と言われていたので、此方は新大橋といわれたと言う。この橋に係わる噺はない。

徳川時代に建設された橋はこれくらいで、あとは依然として「渡し」で川をわたらなければならなかった。しかし橋がなければ、交通も経済も滞り、人の往来も物資の動きも緩慢である。その為、段々肥大化していく江戸から東京への首都機能は妨げられるばかりであった。

その為に明治になり主として今まで渡し舟で連絡していた場所に順次本格的な橋が設けられるようになって行った。そもそも永代橋も「深川の大渡し」があった所であり、千住大橋はその下流の近くに「橋場の渡し」があった。両国橋も舟渡しがあったと記されているが、名前は判らない。吾妻橋には「竹町の渡し」があった。
「竹屋の渡し」「山宿の渡し」があったところが言問橋。(昭和3年完成)
「御厩の渡し」があったのが厩橋。(明治7年完成) 幕府の御厩が本所方にあった。この為、武士と近隣のものは無料で渡舟できた。噺の「岸柳島」に出てくる渡しといわれる。
「橋場の渡し」 白髭橋(昭和6年完成)の上流、千住大橋との間。
「駒形の渡し」 駒形橋(昭和2年完成) 関東大震災の復興計画で建設された。
「富士見の渡し」 蔵前橋(昭和2年完成)  同上
「中洲の渡し」 清洲橋(昭和2年完成)  同上
「佃の渡し」 佃大橋(昭和39年完成)
「勝鬨の渡し」 勝鬨橋(昭和15年完成)
となっている。

これらは明治以降に建設されたため、古典落語に出てくる橋はないが、しかし渡し場としては所々に出て来ている。「仙台高尾」の噺では、高尾大夫が仙台の殿様伊達綱宗に「君は今、駒形あたりホトトギス」という手紙を送っているが、船で帰る綱宗公の所在を推定して駒形の渡し辺りを通っているかといっている。後になり、噺では高尾を身請けして、屋敷で高尾が言う事を聞かないので手打ちにしたことになっているが、隅田川の解説書では身請けをしようとしたが、拒まれたので舟の中で切り捨て、その亡骸が隅田川に流れこんでいる日本橋川の河口に上がったので、そこに埋められ、今も高尾稲荷として祭られている。

「船徳」に出てくる未熟の船頭の徳さんが神田川の河口の柳橋から、客を乗せ隅田川を漕いでいるときに「竹屋のおじさん」と声をかけているが、これは言問橋の少し北にあった竹屋の渡しの守番に声をかけているので、いつも見習いで舟を漕いでいた徳さんが、一人で客を乗せ、漕いでいたので「大丈夫かい」と心配していたのであろう。

またこの言問橋と桜橋の間の浅草側を今戸と言うが、これが「今戸の狐」や「今戸焼」の噺に出てくる所で、この近所の土が焼き物に適したので、人形等の焼き物が生まれたそうだ。

蔵前橋のある処は幕府の米蔵があった所で、当時は富士見の渡しがあるだけだった。蔵前と言う地名にまつわる噺は「蔵前駕篭」があり、また蔵前の八幡様に三七、二十一日、裸足参りをした白犬が人間になる「元犬」ぐらいか。



今では立派な佃大橋が出来て便利になったが、昔は「佃の渡し」が唯一の交通手段だった。吾妻橋で助けられた娘が佃に嫁に来て、あの時の旦那に恩を返すことが出来た「佃祭」。
この他、隅田川の近隣に係わる噺は、殊に花見の時季に多く、「花見酒」「花見小僧」「お初徳兵衛」「百年目」等あり、またまた隅田川を舟で通って行った吉原に係わる噺となると多々あることは皆さんご存知の通り。

隅田川の橋は橋の展覧会だと言われている。構造は近年になり鉄材そのものが使われたり、鉄骨作りになったりしているが、ここを通る人、直ぐ傍で見る人、遠望する人と夫々の思いがあるだろうが、何かしら郷愁を覚えさせ、人の心に訴えるものがあるような気がする。

江戸時代に作られた橋は勿論もうないが、木製であったため,度々洪水で流されたり、人が渡り過ぎて壊されたりしたが、その橋の上で、我が身を思い、思案に暮れた人、事件に巻き込まれた人、他人に情けをかけた人、その立場立場で思いは異なるのだろうが、橋が此岸と向う岸を結んだように人と人を結ぶ縁(よすが)となったこともある。噺はそんな機微を捉えて小道具のひとつとして橋を扱っているが、私達もこれらの橋を見たり、通るときにはそんな人情のあった所である事を思い出すと噺も生きてくるであろう。


平成18年12月
posted by ひろば at 07:24| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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