2007年01月01日

【070】落語と放送禁止用語(鈴木和雄)

昨年、ラジオで相撲放送を聞いていたらゲスト解説者の某部屋の親方が、前場所、怪我のため、途中休場をした、その所属する力士のその後の治癒状況を聞かれ「まだ、びっこを曳いている様な状態だ」と説明した所、アナウンサーは直ちに「足を曳いて歩いているのですね」と状況を繰り返し、「先ほどの言葉は今後この様に言い換えてください」とアドバイスをしていたが、やはり放送用語としては不適切だったのだろう。

 先日もラジオで上方噺の「ふぐ鍋」を聞いていたら、一瞬、噺が途切れた。しかし、すぐ継続はされたが、その場面はよく聞いていたところだったから、これは放送禁止用語が使われた部分があったのだろうと思った。 また、以前談志さんが「落語のピン」というシリーズものの落語会が夜中にラジオで放送されていたことがあったが、ここでは談志さんが、意識して禁止用語を使っていたのか、実際に放送していた当時のテープを聴いてみるとピーという音が入ってその部分は聴取者にはわからないようになっていたが、これは禁止用語を言っているのだなということが判った。

例えば、談志さんは「こんな言葉は使えないのだとしたら、しじかたさんとでも言えばいいのかな」と会場の人の納得を得ようとして、笑いを誘っていたから、成る程と判った。
寄席や落語会の席ではあまり気にしない言葉が放送では使うことを禁止されていることがある。

 古典落語では当時使っていた用語がふんだんに使われているが、その当時はそのまま認められていた言葉でも時の変遷と共に、今では使いたくない、使ってはならない言葉になってきているものがある。 即ち体の部分に障害のある人で、目の見えない人、言葉が話せない人、耳の聞こえない人、手足に不自由がある人に関する噺が多々ある。

 古典落語が作られた昔は人権思想もないし、社会弱者を労わることもない時代であるから、平気で身体上の弱点をとりあげた噺や職業上の弱い立場を面白がって取り上げ笑いの材料にしたのであろうが、現代は人間お互いにその立場を尊重し合って相互扶助をしあいながら生活する時代であるから、あまり、噺と言えども、身体障害者や職業をとりあげた
噺で笑うという意識は今の世の中で通用しないというのが、噺を提供する側も、また聞く側も理解し、なるべくこの様な噺はしないということに進んできたのではないだろうか。


「落語事典」を見ると題名にそうゆう障害の名を冠した噺が多く見受けられる。例えば言葉の不自由な人(本当は真似をしていたのだが)の釣りの噺、目の見えない人の炬燵の話、
蚊帳の噺、提灯の噺、耳の聞こえない人の川渡りの噺、足の不自由な人の同じく川渡りの噺等がある。

このような噺が今寄席や落語会でどのくらい演じられているか、あるいは演じられていないのか、よく知らない。題名に障害の名が出ていなくとも内容がそうゆう人たちについて話されている「心眼」とか「景清」というような噺もある。これらの噺はTVやラジオの放送でははっきりとやっていないと言える。

こうゆう公共放送では誰もが分け隔てなく聞いたり、見たりすることができるから、障害のある人達にもこれらの噺は到達する。こうゆう場合自分の持っている部分の障害をネタにして他の人達がわらっているというのは当人にすれば全く気持ちのいい筈がない。そこでこんな噺や言葉が入った噺は止めて行こうとするのが放送禁止用語である。

「要注意放送用語」のハンドブックによれば、使ってはならない言葉、言い換えを要する言葉として身分、障害、職業、人種、民族に係わるものがあり、ことに身体障害や職業について注意をすることを述べている。

また、禁止用語にはかって我々が普通に使っていた職業上の用語について言い換えをすることにより、その職業を表現しようと努めている。例えば「女中」とか「下女、下男」のような言葉はお手伝いさん、または手伝い人というような言い換えをしているし、噺に出てくる「屑屋」という言葉も廃品回収業者となっている。「百姓」というのも農民、農夫となっているが、噺では簡単に換えることは噺の雰囲気を壊すということか「お百姓さん」という言い方になっているものもある。

「職工、女工」という言葉も工員、女子工員という形で表している。「坊主」というのも僧侶と言い換えるが「三日坊主」なんていうのはそのままなようだ。先に談志さんが無理に言い換えようとして字面で読んでいた、しじかたさんは工夫、人夫と共に土木作業員、建設作業員、建築作業員というようである。

まだいろいろあるが、落語愛好者としては「代書屋」というのも行政書士と言い換えるそうだが、噺の「代書屋」の題名はやはりそのままに残して置いた方が昔の情緒があるというものだろう。


「小僧、丁稚」なども店員と言い換えられているが、噺では「大店では昔、子供とか小僧、丁稚と呼ばれていた」と説明されている。そして、「花見小僧」とか「真田小僧」、「いらちの丁稚」、「正月丁稚」、「蔵丁稚」という昔ながらの題名が放送で紹介もされている。古くからひとつの形態になっている言葉は敢えて言い換えはしないというのが原則になっているようだが、古典落語を語るというのは何時これらの言葉が死語になってしまうか判らないという恐れもあり、難しい場面に遭遇することもあるのではないだろうか。 

平成19年1月
posted by ひろば at 07:28| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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