2007年05月01日

【074】落語村の住人の稼ぎ(鈴木和雄)

古典落語に登場する人物は殆ど江戸の庶民である。職人、大家、旦那,番頭、小僧、下男、下女等いろいろな人物が登場してくる。これらの所謂、落語村に住む人々の生活はどのくらいのものだったのだろう。それを推し量るのは彼らが得ていた収入であろう。

具体的には噺の中に出て来て,如何ほど稼いでいるか、話しているものがある。「花筏」では提灯張りの男が、一日一分の稼ぎだといっているし、「紺屋高尾」では紺屋の職人の手間賃が年3両だと言っている。この場合は師匠によって少し違いがあり、円生さんと談志さんでは違う。

一番判りやすいのが両国の江戸東京博物館の展示にある大工一家の収入と生活費であろう。それによると文政年間の夫婦と子供一人の収入と支出は次のようである。作業日数は年、294日で、収入が1貫587匁6分、支出が1貫514匁である。

支出の内訳は米代354匁、店賃120匁、油、塩、醤油,炭などの消耗品700匁、被服120匁,慶弔費100匁、道具、家具120匁となっている。これらは銀貨で示されているから金貨に直すと1両が60匁であるから収入は26両ばかりになるという。

また、稼ぎ人ではないが、店の売り上げの話であるが「おかめ団子」の噺では、ある風の強い日に、客の来店が少なく、それでも13貫文の売り上げがあったが、普通の日はこれの3倍の売り上げがあると店の主人が言っているから、39貫文の売り上げだろうか。金貨では6両2分ぐらいになるという。

江戸時代全体で見ると金の価値は後半になるとさがっており、はじめ金貨1両が銀貨50匁、銅貨(銭)4000文だったのが、1両が60匁、6000文となっているので、一概にお金の話が出て来ても、何時の時代でも同じだとして比較はできないが、目安にはなろうと言うことで記している。

例えば、下女を雇うにしても始めは、年1両だったが、後半になると年3両になることもあり、お金の値打ちが下がってくると、それだけ賃金も高くなることを教えてくれている。
「大工調べ」では棟梁が与太郎の稼ぎを奉行に問われ、普通の大工は日に3匁だが、与太郎は腕がいいので日に10両はとると答えている。

この為、家賃を滞らせた担保に20日間も大工道具を大家が質権もないのに手元に置いたのだから200匁(金貨で3両1分)を支払うように奉行は大家に命じている。しかし、奉行はさすがに多いと感じたのであろう、1両2分のかたに200匁は「ちと腕がいいな」というと棟梁は「大工は棟梁、仕上げをごろうじろ」という。確かにこれは吹っ掛けすぎでいい腕でも4両余りがいい所であるという。しかし後の世になると普通でも4両2分ぐらいとるようになったという。

当時の職人で一番稼ぎのいいのは大工だったようで、嘉永、安政の頃の比較だが、大工が3匁5分から4匁取る時に、瓦葺屋は4匁、左官、石工は4人で金1分、桶屋、畳屋は6人で金1分、とび職人は7人で金1分だったという。(金1分=15匁)

権助とか清蔵の名前でいろいろな噺に出てくる下男の人達は年季奉公で働いていたが、この人達の稼ぎも安政期で年に2両ー5両の幅があるが、月に6日間だけ働く契約もあり、この場合は1日1匁で年に72匁というのもあったそうだ。また台所や家の掃除に働く下女については半年1両であり、この場合は夏冬に着物を支給されて、其の仕着金が夏は1分2朱、冬は綿入れが要るので2分2朱出されたという。

「大工調べ」でも大家は悪役になっているが、職人らが住む処は大体長屋であり、これを取り締まる大家は結構稼いでいる。管理する長屋の数にもよるが、年に30両から200両もとる人がいたそうだ。長屋といっても落語に出てくるのは貧乏長屋で三日月長屋とか戸無し長屋とか住民が自虐をこめて言っているが、一方、大店の番頭や結構稼ぐ棟梁が居る長屋でいくつもの棟を管理する大家もいて、管理費だけでなく、いろいろな収入があったようである。例えば100両クラスの年収の大家で家持の給金が20両、新借家人の保証金2−3両,し尿を取らせるので百姓からとる金,空き樽を売る代金が50両以上という具合である。

こんな大家が居る一方、大店の番頭も割合いい稼ぎの人も居て、年に10−20両ぐらい支給されているものも居るし、手代でも2−5両を稼ぐが、小僧の時代は1両は支給されるが、全て預かりとなって、手元には金がもらえないということだった。

こうゆう店の若い連中が発散させに行くところが廓であるが、これとても稼ぎの少ないものはそうおいそれと、廓に行くわけにはいかない。何しろ花魁と言う太夫と遊ぶには82匁という金が要るし、その下の格子だって60匁、またその下の散茶でも30匁の金がかかる。そればかりか、花魁と会うには心づけやおばさんにチップ、まだまだその他で10−20両の金が要る。「紺屋高尾」で円生さんは10両かかる、紺屋の職人は1年3両の稼ぎだから3年我慢しろと言っており、談志さんは15両かかるからこれも3年我慢しろと言っている。この職人は年5両稼ぐ人だったのだろうか。安政期の町方奉公人の稼ぎが2両2分から5両2分という記録があるから、あながちそんなに外れたものであるまい。

いずれにしても廓に行くには相当の金がなければ花魁に合うことは出来ないというわけで自分の欲望を抑えて廓に行かなければいいじゃないかというかも知れないが、そこは人間の煩悩の及ばぬところで廓に行けば金がかかるから、もっと手近かで女と遊びたいばかりに妾を置くことになる。噺ではこんなけちな旦那が居たが、これとても妾一人置けば月に3両から5−6両かかったそうだ。そして黒板塀に見越しの松のある家を借りてやれば,月に10両以上かかることになる。

町で物を売り歩く商人が噺にはよく出てくるが「芝浜」のように自営の魚屋のような人は物を売った稼ぎがそのまま収入となり、次の日の仕入れの金といくらかの蓄えの金を取って置けば、後は自分の自由になる金だろうが、雇われている棒手振りの場合は月400−500文しかならなかったという。「しじみ売り」の小僧のような場合は朝のうちに約120文の売り上げがあったというが全部自分の手元に残ったということではあるまい。

水を売り歩く水屋も一荷4文―5文で売ったと言うが、一日にどのくらい売れたのであろう。文化期の水不足の時は1荷100文から120文になったという。
「井戸の茶碗」に出てくる茶碗を屑屋に渡した浪人は、昼は素読を教え、夜は売卦をしていたというが、当時の寺子屋の子供一人当たりの謝金が月200文で30人も居れば200文X30人で6000文となり1両になったが、子供がそんなに居ないと収入は心細くなる。

また、夜の売卦の方は1回12文だというからこれも侘しい収入である。この12文というのは門付けに来た芸人に払ったり、「厄払い」に払う金額と同じだという。
「お化け長屋」に出てくる長唄の女師匠に払う月謝は手習いの師匠の3−4倍で2朱(750文)と言う記録があるそうだ。

噺には幇間が出てくる場面が多数あるが、この幇間の収入はどのくらいだったのだろう。お客即ち旦那が居なければ収入は全くなくなる。「富久」の幇間は旦那を失敗してみすぼらしい暮らしを強いられているが、他方「愛宕山」の幇間はあと一歩で30両の金を一挙に稼げるところで失敗しているが、稼ぎが不安定なところが、益々男を卑屈にさせているのかも知れない。

彼らは男芸者といわれているが、そもそも江戸では芸者といえば女芸者を指し、関西では男芸者をいい、女は芸子と言ったそうである。男芸者が要るようになったのは花魁が始めは社交的な遊びの敵方であったが、段々、性のみの敵方になっていったために遊芸人の存在が必要になったのだといわれている。そこでお客のご機嫌取りをやり,酒席を盛り上げる役目をになうようになったそうだ。そこで女芸者の稼ぎを参考にすると彼女らは日に1分2朱稼いだというが、線香が時間の単位で1本で2朱12匁(宝暦期)で天保期になると線香1本が金1分になったという。これ比し、幇間は揚屋では線香1本が16匁、茶屋に行くと14匁で、1日に何本ぐらい稼げたのだろうか。

また武士の方は三ピンといって町人が馬鹿にするが、年に3両一人扶持の武士が多かったようでなかなか苦しい生活だったようだ。一人扶持とは米5合/日]365日で1石8斗になるそうである。
一方、上の方の武士は大岡政談でよく出る大岡越前守は別格の侍で親から引き継いだ時に既に1,920石の家禄を得ていたが、その後段々偉くなるに連れ、町奉行や地方御用係を兼務し、3920石、さらに寺社奉行に昇進し,役料と合わせて1万石を得ている。

しかし、これは上の人の話で下っ端は与力で200石,見廻りの同心で30俵2人扶持、さらに下の中間は年3−4両、江戸雇いの足軽は3両2人扶持という。武家雇いの下男、下女は町方と大差なく下男2両2分、下女1両1分ということで「井戸の茶碗」の茶碗を貰った若侍の下男もこのくらいを得ていたのだろう。

「時そば」の噺で蕎麦の値段が16文と話されているが、実際には12−16文の幅があったようだ。そばはよく夜鷹そばと言われたというが、実際に夜鷹を買うと24文したと言う。そこで小さんさんは噺の中で「客二つ(48文)潰して夜鷹三つ食い(48文)」と話している。

寄席は江戸の町内に沢山あったようだが、文化文政の頃は盛んに行なわれ、木戸銭は32文であったが天保期になると48文に値上がりしたそうだ。
円生さんの噺のまくらで「日に千両,鼻の上下、へその下」ということを話しているが、1日に芝居、市場,廓で動いた金を表徴したものだという。当時の役者がどのくらいの収入を得ていたかは興味のある所であるが、

資料によれば元禄までは坂田藤十郎が500両、生島新五郎が250両、正徳2年で芳沢あやめが1000両、2代目団十郎が1210両と言う記録があるそうだ。これが千両役者といわれる所以だろう。歌舞伎の木戸銭が升席で25匁で、土間札で上が132文、下が100文だったそうだ。



私達は1両が1円と言う感覚が抜けないが、その時々の相場に直して考えればそんなに当時の人達が格段にかけ離れていたようには思えない。大工一家の収入でも約26両だから1両を今の金に換算すれば10万円ぐらいだから、260万円ぐらいになるだろう。物価を考えればそんなに低い収入ではあるまい。そば16文も約266円ぐらいになり、安くもなし、高くもなしと言うところだろうか。江戸の人々はしょっちゅう発生した火事や洪水に右往左往したが、なんと言っても戦争がない太平の世の中で少ない収入ながらも、節約しながら、生きるすべを尽くして生活していたのであろう。

◆以下の資料を参考にした。
「江戸っ子知ってるつもり」  中村整史朗著
「江戸生活事典」  稲垣史生著
「大江戸おもしろ事典」 稲垣史生著
「時代考証事典」 稲垣史生著
「大江戸番付づくし」 石川英輔著
「町屋と町人の暮らし」 平井 聖監修
「近世賃金物価史史料」 小柳津信郎著
「商人の時代」 島 武夫著
「江戸時代考証総覧」 新人物往来社編

平成19年5月
posted by ひろば at 07:32| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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