2007年09月01日

【077】落語は言葉のゲームだ(鈴木和雄)

事実は小説より奇なりという。しかし事実は現実と言う狭い環境に左右され,話の幅は狭いものになる。そこへ行くと噺は時空に制約を受けない無限の幅と深みがあり、現実に生活をする我々にとっては思いも知れぬ興味を感じるものである。そこに人間が想像できる嘘が入ってくる。この嘘が現実とギャップが大きい程、驚きと感激と笑がある。

当代の遊三さんがTVの口演の枕で、ある時、師匠の落語を聞いた人から手紙を貰ったが、その中で「あの噺のあの点は嘘でしょう」と書いてあったが、師匠は「落語は作り話であるからみんな嘘なのだ。しかしその嘘が、噺の効果を高めているのだ」と述べておられた。

先代の文楽さんが生前、録音した「愛宕山」をラジオで聞いたが、その噺を終えてから会の司会者と師匠のトークがあった。そこで文楽さんはいろいろ演技について話されていたが、その中で「愛宕山の噺は嘘です。落語は嘘が多いのです。しかし嘘を真実らしく、お客に本当の話として聞いて貰うには、話し手が話を本当だと自ら信じなければなりません」と述べていた。

「お客が始めから嘘の噺を聞くのだと醒めていたら噺は盛り上がらず、話す方も聞く方も気分が高揚せず、面白くもなんともありません。嘘なんだと思わせることなく演者が心をこめて、真実を物語るように話すところに落語の妙があり、お客も最後に真実だと信じて聞いてくれるのです。」と語っていた。

そして、幇間の一八が谷から上がってきた時によかったなと思い、拍手をして呉れるのでしょうとも言っていた。文楽さんは愛宕山での経験も話されていた。この噺には土器(かわらけ)投げの話が出てくるが、この土器投げを体験するために、ある時、贔屓の客と愛宕山に行った折りに自分でやってみたが、なかなか当たるものでなく、難しいものだと実感したと言っていた。しかし、これにより、今までは土器投げの感触を手探りでやって来たが、実際に投げてみて、的の大きさや距離感を頭に描きながらやることが出来るようになり、本当らしさが増してやれる様になったと述べていた。

「愛宕山」の噺は何回か聞いたが、何時もあんなことが本当に出来るのかと疑問に思っていた。文楽さんの「嘘の噺なのだ」と言う言葉を聞いて疑問が氷解した思いであった。
嘘の噺を本当らしく演じるのが噺家の演技力であり、その為の努力、修業が凝縮されたものが演じられた噺なのだと感じた。


実際、「愛宕山」の噺は本当でないことが多い。土器を投げて的に当たるか当たらないかは、その人の技量の問題であるから真偽の程は云々できないが、旦那が小判を投げてこれを拾いに行こうとする段階で茶屋の軒先にあった日除けの大きな傘を落下傘代わりにして下りようとする。茶屋の婆さんに聞けば谷は八十尋(約145m)あるという。こんな落差のある処で傘一本を頼りに無事に着くとは考えられない。

また、旦那の投げた小判を拾い集め、今度は谷を上っていく時になり、着ている着物を引き裂いて縄にない、これを崖の上にある竹に引っかけて、満月の如くに引き絞り、反動をつけて瞬間に登り着くというのだが、50−60kgの重さの男がそんなに容易に飛び上がれるものでないのだが、噺では兎に角、成功してめでたし、めでたしとなる。

客は文楽さんの演技に感心し、楽しみ大いに笑う。これはまさしく演者の演技力そのものに違いない。しかしこれは落語ばかりでない。講談も浪曲も嘘がある。「講釈師見てきたような嘘を言い」と言われているように、ストーリー全体が嘘でなくても、誇張するときには部分的に嘘が混ざってしまうことがあるのであろう。

そこへ行くと落語は始めから終わりまで本当でないことが多い。殊に動物を扱った噺ではこの様な傾向になっている。狸を扱った「狸賽」「狸の札」「権兵衛狸」「狸の寺」等々。また狐では「王子の狐」「七度狐」「狐安兵衛」等々。猫では「猫定」「猫忠」「猫の恩返し」等々。犬では「元犬」「犬の目」「大店の犬」等々。

人間の関係するものでも「頭山」「一眼国」「首提灯」「瘤弁慶」「天神山」「天狗裁き」「疝気の虫」「胴斬り」まだまだ沢山ある。先日,TVの放送で歌武蔵さんがこの「胴斬り」を演じていたが、噺が噺だけに師匠が「皆さん、ついて来てくれていますか」と問いかけて、次の小話を話した。 最近、学校寄席をやることが多くなったが、ある時、地方の小学校で、「犬の目」をやった時、終わって校長室に招かれて、校長さん等の幹部から労いの言葉をかけられた。

その内「昔は先ほどの『犬の目』のようなことが実際にあったのですか」と言われ、驚くと共に「知的遊びに載れない頭の固い、しゃれの通じない人達だなと思った」と語っていた。落語は言葉の遊びと言う知的ゲームなのだともいっている。
幽霊やお化けを扱った噺は本当は嘘なのだが、昔はこれを信じ、気味悪がったものである。だから噺がなりたったのであろう。
昔はお化け屋敷の見世物小屋は怖いものとして、子供達に嫌われて、あまり入りたがらなかったが、今は子供達のほうが進んでいて、あれは人間が変装したり,着ぐるみを来たり,機械がやっているものと納得していて、積極的に入場する子もいると言う。

こうなるとお化けや幽霊の噺はやりにくいが、以前は信じる人がいたので「へっつい幽霊」「野ざらし」「反魂香」「ろくろ首」「悋気の火の玉」「牡丹灯篭」等々嘘と判っていて熱心に聴いていたのであろう。演者も正蔵さんのように舞台装置まで設えて、本人までも乗り移ったような調子で真剣に語っていたのである。

嘘の話は自分に関係がなく、また、その嘘で被害にあうことの無い限り聞いていて面白い。まして遠い過去の話であったり、自分から遠い所でおこなわれた話は「そんな馬鹿な」と言うだけで足りるから、面白いと感じるだけで済む。しかし、これが直接我が身に降りかかる嘘であったら、これは必死になって、本当のことかどうか確かめて真実を追究して、嘘によって生ずるであろう被害を排除しなければならない。

今、世間で多くの人達が遭っている「振り込め詐欺」のような被害の大きな嘘は断固排除されなければならない。 その点、落語はどんな嘘でも我が身に傷はつかない。こんな嘘の入った噺や嘘と思われる要素の多い噺は 笑いの対象となる。噺を聞く人達は少しぐらい嘘が混じっていても、単なる噺の誇張の範囲を脱していなければ大いに笑って済ましてしまう。

嘘のある噺を演者が熱を込めて真剣にやればやる程、嘘と本当の境がなくなり、その噺を信じて聞く方も真剣に聞くようになり,演者の口演に思わず拍手をし、熱演を称賛して益々応援することとなる。先代文楽さんが自分の師匠から「先ず、自分が噺の中の動きは本当のことなのだと信じろ」と言われたと話していたが、なるほど演者自身が真実と信じなくて噺は成立しない。「自分が話すことは嘘であると思ったら、まともに力を入れてしゃべることは出来ないであろう」とも言っている。

小三治さんが自著「落語家論」の中で小さん師匠から言われた言葉を紹介しているが「噺の中の人物に成り切れ」と言う言葉は「噺の真贋に関係なく、噺をやっている内に演者の姿がいつの間にか消えて、登場人物が見えてくる人の芸を聞くと、判りきっている噺でもつい、引き込まれて笑って仕舞い、感動するものだ」とも言っている。そしてさらに「まともにやって面白い。それが芸というものだ」とも教えられたと述べている。

落語は大人の童話だとも言われる。子供向けの童話やお伽話の「桃太郎」や「金太郎」「猿かに合戦」等の話は子供に情緒と正義の心を植え付けると言う教育的な思想があってつくられたものであろうが、落語も同じような意味で、人生に何らかの示唆を噺を聞く人に感じてもらおうとしてあえて嘘と判っていながら人間を題材にしたり、動物を使ったりして訴えようとしたのではあるまいか。

志ん生さんも言っているそうだ。「落語と言うものは人をお伽の世界に誘いこんでくれる手段である。面白くやろうと思ってはならない」と。であるからこそ演者たちは嘘と知りつつ汗水たらして熱演し、聞く人の心に何かを訴えようとして噺を聞かして呉れているのであろう。

平成19年9月
posted by ひろば at 07:42| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/33626522

この記事へのトラックバック