2007年11月01日

【079】町(ちょう)役人(鈴木和雄)

落語で長屋とか一軒家とかの貸家に住む住民の話に係わる時に必ず出てくるのが大家さんである。「大家と言えば親も同然、店子と言えば子も同然」と言われたように店子の面倒をよく見る大家も居れば、所中、文句ばかり言っている大家も居る。また虎の威を借りて威張っている大家も居る。

皆夫々の立場で店子に目を光らせているのであろうが、大家がこんな形で店子の生活に入ってくるのは、大家が単なる住まいの管理人という立場だけでなく、町(ちょう)役人と言う役目が与えられていたからである。

徳川家康が秀吉によって駿府の岡崎から転封を命ぜられ、江戸に来た時に、町の自治のため、かって彼が本能寺の変の時に岡崎に戻る案内をした奈良屋市右衛門、岡崎の町を治めていた樽屋藤左衛門、越前藩からスカウトした金沢の町を治めていた喜多村弥兵衛を連れて来て江戸の町を管理する事を命じた。

そしてこの人達を「町年寄」と言う役につけ江戸城の近くの土地を与え、住まいを持たせ。そこを町年寄の役所とすると共に、江戸町内に拝領地を与えて、それを賃借することによって、町年寄の収入とする事を認めたが、その収入が年に600両近くあったという。また苗字,帯刀まで認めた。

家康が江戸に来た時は、秀吉が居て天下は豊臣家の支配下にあったので、まだ征夷大将軍になれず、幕府と言う政治形態は敷くことが出来なかったが,慶長5年に豊臣家を滅亡させ、天下を自分のものとすると、江戸城入城以来、開発して来た江戸の町の発展をさらに加速させることになった。

そして行政組織も確立させ、慶長6年には江戸の町の行政と治安の確保のため町奉行を置いて、従来からあった町年寄以下の町役人を配下において江戸の町の自治を行なわせるようになった。しかし、南、北奉行所を設け、そこで執務をするようになったのは三代家光の時の寛永8年であり、それまでは役宅で執務したという。

それまでも町人に対する町触は町年寄を役宅に呼び、指示を与えて町を治める布告をしたのであるが、奉行所が出来てからは、そこを通じて町年寄に町触が伝えられた。

町奉行の武家の配下には与力、同心が置かれたがこれらは町(まち)役人または町方(まちかた)役人と呼ばれ、民間人で構成される町(ちょう)役人とは一線が画された。
町(ちょう)役人は町役とも呼ばれたが、町年寄の下に町名主が置かれ、江戸の各町を治める、今で言う区長、町長、村長に相当するものであったという。 江戸の町も始めは200に足りない町数だったので名主も165人ぐらいしか居なかったが、その後、人の流入があったり、江戸の町そのものが広がったりして、幕末期には1678町にもなったそうである。

しかし、大きな町を受け持つ名主は一人で管理するが、小さい町では4−5町も持つこともあり、最終的には名主が263人も居たという。これらの多数の名主に一度に物事を伝えるには大変であり、そのためグループ化してその中から年番(としばん)名主を選び、町年寄は彼らに町触などを伝えることにより、一般の名主に周知された。

この名主たちは兼業を禁止され、各自の家を名主役所として、執務していた。名主たちはその町内に土地や家屋を持つ町内外の地主や家持から入用金を集めて、これを収入としていた。兼業は禁止されていたのだが、密かに高利貸しなどをやり、町奉行所に見つかり、追放されるのもいたという。

名主は始め町役である家持や地主に伝えていたが、彼らは町外に居るものが多く、暫くすると家主と称する大家に町役―町役人が任された。名主の仕事には町触、申し渡しの伝達、人別改め、火の元の取り締まり、訴訟事件の和解、家屋敷の買い受け、譲渡等があり、この外名主が付き添って奉行所に行くのは家督の願い、町の人々一同の願い、土蔵、橋、道の造成の願い, 久離勘当の件、捨て子の処理等があったという。

この様に町政に係わる事項は名主が立ち会うが、町人同志の争いごとは、家主の五人組に任かした。
大家の仕事の主なるものは名主と同じく町触の伝達、人別改の確認、火の元の取り締まり、切支丹, 博打うち, 隠売女の監視、自身番での勤めがあった。その他、捨て子、行き倒れ、店の勤め人の欠落(店に黙っていなくなってしまう)の処理があった。

この様な町役人の末端の仕事をする大家には、所謂お上からの手当てはなく、家持、地主からの管理手当てや共同便所の汚物の処理を近郊の農家に任せるが、その農家から金を取ったり、住民が出した空き樽を売ることによって収入を得ていたそうである。

大家は五人組を作らねばならず、その中から代表を選び、月行事(がちぎょうじ)と称し、順番に代表して名主と接触して、町触などの連絡事項を得て、五人組に連絡し、そこからまた、一般の大家に伝わるようにした。

この様な江戸の町に置けるネットワークが出来ているから、落語に出てくる大家の話で「大工調べ」の大家は働き手の与太郎の商売道具である大工道具を家賃の滞納があるからといって持っていってしまうが、棟梁がのり込んで行き、大家の昔の哀れな姿を掘りくり返した上、少しばかり金が貯まって、大家になり,町役の端に収まっているからといって、働き手の大切な道具まで取り上げるのは許せないと奉行所に訴える。

奉行所に行って当の大家と五人組は同じ穴の狢であるから、訴えに勝つと思っていたら、奉行の思わぬ捌きに仰天する。
「小間物屋政談」では裁きの場に訴人の相生屋小四郎と元の大家と五人組がついて行き、喜ばしい裁きを受けている。

「池田大助―佐々木政談」では奉行所からの差し紙を受けての呼び出しであるから、町役人も名主以下五人組、大家共々、大助親子について行き、将来の身分を保証される嬉しい噺になっている。

大家は町の行き倒れの人の面倒も見なければならず、「粗忽長屋」に出てくる浅草雷門付近で行き倒れた人の連絡先を求めようとしていたら、粗忽な人が出て来て、友達と勘違いしてその本人まで連れて来てしまい,町役である近所の大家が説得しても判らず、本人が本人を抱き上げる始末で町役は困った、困った。

大家は町役として結婚にも首を突っ込むことが出来たそうである。結婚が将来、禍根を残すことがある恐れがあると思われる時は予防的にその結婚に反対し、逆にうまく行くと思われる時は積極的に進めると言う指導もあった様だ。

「小言幸兵衛」ではいつも住民に文句を言っているうるさ型の大家は,空きだなを借りに来た仕立て屋の家族構成に将来、不幸が起きると予想し、心中の恐れがあるからと入居を拒否するといっている。逆に「垂乳根」では将来、希望ありとして言葉が丁寧すぎる娘を長屋の一人者に娶わせている。

「不動坊」でも後家さんになった不動坊のかみさんを長屋中で真面目な稼ぎのある男に紹介し、結婚させている。これも単なる大家としてではなく、町役の勤めを果たしているものと思われる。町役にとっては人別帳の管理が重要な役目であり、切支丹のものが入りこんだり、入墨の徒人が入られると困るので、正しい結婚を勧めるのも大切なことだったのだ。


大家は一方、不正に対しては厳重な措置を取っている。白木屋の娘,お熊を誘拐して、自分の家に閉じ込めている「髪結の新三」に対しては、目こぼしで人別帳に載ってない新三を住まわせている大家の権勢をふるい、新三を糾弾することによって娘を解放させるが、その際の示談金をちゃっかり半分戴くというあくどいこともやってのけている。

名主なんかでも裁判に口を挟み、分け前を要求したり、町の入用金を誤魔化して、着用してしまったりして、追放になっている例もあったという。
そこへ行くと「芝浜」に出てくる大家は亭主が芝浜で拾ってきた財布を抱えて駆け込んできたかみさんに適切な指導をして、数年後に幸せな生活を送ることが出来たのも、町役の良識が役に立ったからであろう。

町年寄や名主は自分の家を役宅として使うことになっているが、大家はそれが出来ないため、各町にある自身番に勤め、月行事となった者を中心に、秘書的な役目をする書役を置いて事務を処理させた。この自身番には町方役人の同心などが巡察の時に、町の状況の異常の有無を尋ねていたそうで、「二番煎じ」にあるように冬の夜の同心の見回りの時には思わぬ余禄にあうこともあったようだ。


平成19年11月
posted by ひろば at 07:44| Comment(2) | TrackBack(0) | エッセイ
この記事へのコメント
はじめまして。

ちょっと立ち寄らせていただきました。
面白かったです。

ただ、、駿河の岡崎、とありますが駿河は静岡県で、、岡崎は愛知県です。三河ではないでしょうか?
Posted by 静岡県人 at 2013年12月22日 03:26
スミマセン、駿河でなくて駿府でしたね。
駿府は、駿河の国府のあった静岡市です。

家康は元々、三河武士で愛知の出身、隠居後大御所となって静岡市に住みました。
Posted by 静岡県人 at 2013年12月22日 03:33
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