2007年12月01日

【080】大阪天満天神繁昌亭(鈴木和雄)

大阪の天満天神宮の敷地内に出来た上方落語専門の繁昌亭もこけら落し以来、一年を迎えたので、そろそろ開場当初の混雑は無くなっただろうとJRバスの夜行の予約を取り、大阪行きを楽しみにしていたら、19.10.7付けの朝日新聞の経済欄に「商店街振興策」というコラムが出てこの天満天神繁昌亭の話が出ていた。

これによるとこの繁昌亭が出来たことで、天神橋筋の商店街は見事に復活し、以前、一日の通行人が8千人だったのが、今は2万人になっているという。大阪商工会議所による経済効果の見積もりでも116億円だと記されていた。そして、繁昌亭は大阪を含む関西人のみならず、全国から観客が来て大賑わいだとも書かれている。

朝早く大阪梅田のバス・ターミナルに着いて、ホテルに行って、朝食を摂って新聞を読んだり、居眠りをして、時間を過ごし、午後0時30分から開場する繁昌亭に少しでも早く行って座って噺を聞きたいので、1時間ぐらいは待つ覚悟で、当地に行って見たら、入り口脇には数人の人が立って待っている。

それにしても、時間が早く、待ち草臥れるといけないから早目の昼食を近所の喫茶店でサンドイッチとコーヒーを摂り、あと、天神宮の境内でやっていた古本市をのぞいてみる。
それでも1時間前には立たないと、入場後に座れない恐れがあるということで、もう何十人かいる人達の間に入って大阪人のおしゃべりを聞く。

寄席の入り口は2間ぐらいの広さで明るいが、外の表面の上の壁には寄付者やスポンサー名入りの白地の提灯が4−5段に並べられて、ずらりと提灯の壁を作っている。
新聞の記事にも上方落語協会の三枝会長が天神橋筋の商店街の人達に寄付を呼びかけ、2億4千万円の応募があったという。これらの提灯はそんな人達に感謝すべく、名を記して掲げてあるのかと思っていたら、寄席の中に入って、ビックリしたのは客席の天井にもびっしりと提灯が並べられ、名前が書かれている。

これにはプロの提灯屋さんが書いたものと白地にいかにも素人が書いたものとがあり、これは一つの提灯に3−4人の名前が書いてある。この人たちは多分、個人で寄付した人の名前かなと勝手に想像して見上げる。

こんな提灯が横36列,縦24列まで見えたが、二階の客席の天井にも有り,この方は見通せないからあとどのくらいあったか判らない。いずれにせよ内外で1500張ぐらいあったのだろうか。(あとで電話で問い合わせたら、屋内1184張、外340張との事だった。)
しかし中には噺の題名を書いたのも確認できたから、全部が全部寄付者とは限らないのかも知れない。まだ,建って1年、全てが新しく瀟洒な寄席で、客席は1階153席,2階63席で明るく、上方落語に相応しい場内だった。

噺の方は最後の真打に福団治さんが出演され「子猫」を演じてくれたが、当日の出演者は総勢10人、内、似顔絵画き、曲独楽が一席づつあり、大いに楽しめた。皆さん上方弁で話をしているが、昔の寄席のように全く話している言葉が判らないというところは無い。 以前、道頓堀の角座や難波の演芸場で聞いた時は、何となくわからない言葉に戸惑った記憶があった。

今は大阪の寄席といっても、大阪人や関西人ばかりが来るところでなく、日本全国から来るようになっており、噺をする師匠方もTVやラジオで、自ら全国の聴視者に判ってもらえるように、上方弁は使っているが、なるべく標準語化して話してくれているので判り易くなっているのであろう。

お陰で上方の落語を満喫出来て楽しい思いをさせて貰ったが、一方、東京の寄席と違う雰囲気があることに気がついた。
東京の寄席では高座で噺家が座る座布団は主として紫色で、出演者が替る度に、前座の弟子が出てきて次の人のためにひっくり返していき、最後の真打までそれが続くが、大阪の場合は始めから3分の2ぐらいは同じ紫色の座蒲団だが、終わりの方の真打が出るようになると、白い色の座布団に変わることに気づいた。それに白い布地がいやに光っている生地で、絹布か何かのように見えたのだが、兎に角、立派な座布団に思えた。

上方落語では膝隠しと見台が前座を除いて、殆どの噺家に使われていることはご存知のとおり。出演者の交替時に和服に赤い前掛けをつけたお茶娘さんが膝隠しと見台を抱えてきて、座布団を反すと共に置いていく。 そして、もう一つ面白く思ったのは、張子かプラスチックか火鉢とそれに一体的についている薬缶があり、それを座布団の傍に置いてゆく。

この火鉢と薬缶はお茶娘さんが軽々と抱えてきたので、多分本物ではないと思った次第。
この火鉢等はどうも飾り道具のようで、噺家さんはタバコを吸うシーンでは、扇子をキセルに模して、火鉢に首を伸ばし、タバコに火をつける仕草をしていた。この飾り道具が噺の中で活きている様に思えた。東京だったら精々、お湯が入った蓋つきの茶碗を置いていく所だろう。

まだ、道頓堀の角座で演芸をやっていた頃、一度訪れたことがあるが、この劇場は客席が広く,沢山の客が入っていて何かを食べながら見たり聞いたりしていて、ザワザワしており、おまけに子供達が出演者が演じている最中でも関係なく通路を走り回っており、落ち着いて見聞きする雰囲気ではなかった。演じる方も漫才が主体であり、最後に吉本喜劇が演じられ、噺家が出るのは、2−3人で、漫才に比べて、笑いを取るのが少ないような気がしたものだった。

今回、繁昌亭で隣の席に座っておられた大阪の人らしい御年寄りの御夫婦に繁昌亭の評判を聞いてみたら「本当に落語専門の寄席が出来てよかった。この一年の間に2度ほど来ているが、この静かな雰囲気が良く、落ち着いて噺が聞けるし、周りの人達も本当に落語が好きな人が集まっているという感じで、以前の大きな劇場のお笑いの場より落語を楽しめる。」といっていた。

天満天神繁昌亭が地域社会の活性化に大きな貢献をしていることを新聞がとり揚げていることは、現地で商店街を歩くとよく判る。町の通りの両側に赤地に白で「天満天神繁昌亭」と書いたのぼりを掲げ、天神宮の入り口まで立てて、直ぐわかるように案内している。
繁昌亭はその途中にあるのだから賑やかな事この上ない、自然と人が集まるようになっている。

今まで数回、大阪には行っているが,通天閣には行ったことがないので、今回はいい機会と思って,翌日、恵比須町の通天閣に行ってみた。この町は古い町で、昔はこの通天閣から大阪が見下ろせるとあり、大いに栄えたのであるが、今はもう古い町の印象は拭うべくもなく、近くの新世界市場という商店街も、午前中だったせいかシャッターを下ろす店が多く、淋しい街の感じがした。

それに比べると天神橋筋の町は活気があり、そこに建てた繁昌亭の入り口には三枝師匠の繁昌亭設置の所以がこう述べられている。「前略、桂文治が坐摩神社で常打ちの小屋を作り、以後1900年代に隆盛を見たが、戦争で定席を失った。1957年に上方落語協会が結成され、常打ちの寄席を設置しようとしたが、このたび悲願をかなえて、明治から昭和にかけて、天満八軒と呼ばれたこの天満天神の地に61年振りに復活させることが出来た。」と記されていた。

この繁昌亭は大阪梅田という繁華街から1キロという近さと、交通機関が便利なところであり、客が来るには容易な場所であり、今まで大阪にはなかった落語専門の演芸場であったところが大阪の人々に歓迎されたのであろう。



平成19年12月
posted by ひろば at 08:16| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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