2008年02月01日

【082】美味しい塩を求めて(鈴木和雄)

塩は人間が生きて行くためには欠かすことの出来ない必需品である。であるから探検家が未開発地域の原住民を訪れる時は塩を持参していく。彼らにとって重要な品であり、友好を開始するための土産物となるためだという。

塩は私達日本人にとっては米と共に毎日の生活に重要な位置を占めているが、落語では余り取り上げられておらず、僅かに「焼き塩」の一話しかない。そういえば生活に必要な水も「水屋の富」ぐらいしかないが、余りにも生活に密着しているものだから笑いの種としては不向きなのかも知れない。

この塩、古典落語が生まれるずうっと以前から作られ、口にされてきたものであるが、世界中で見ると岩塩と海水から取れる塩しかないが、日本では岩塩は殆ど取れないから、海水から取れる塩を利用するしかなかった。

幸い、日本は海に囲まれているから海に面した地域は海水から塩を作って生活していた。
古くは土鍋や釜に海水を入れ、これを煮詰めることにより、少量の塩を得たのであろうが、その後、海藻に海水を何度もかけ、海藻に塩の結晶が沢山付いたところで海水に溶かし、この水を煮詰めることで割合、効率的に塩を取ることが出来た。

さらに時代が下がってくると、揚浜方式で、浜辺に塩田を作り、砂を敷きならして、ここに海水を汲んで来て、これを砂に撒き散らして、天日にさらして、砂の粒に塩の結晶が出来た時に砂をかき集め,容器に入れて海水を入れると、かん水という状態になり、このかん水を煮詰める(煎ごうと言った)と、もっと大量の塩を作ることが出来た。

しかし、これは浜子という人達が天秤棒に海水を入れた大きな樽を前後に担ぎ運ぶというきつい作業が必要で、大変な仕事であったという。
その後、江戸時代の元禄期から赤穂藩が推進したといわれる入浜方式が行なわれるようになり、海の干満の差を利用して、浜から離れた海中に堤を作り、水門を設けて、満潮の時は水門を開けて海水が塩田に入るようにし,干潮になると水門を閉めて塩田に海水が残るようにすると、残った海水が天日に曝されて砂に結晶が残る。

この砂をかき集めて器に入れ海水をかけてかん水を作る工程は揚浜方式と同じだが、海水を運んだり、撒いたりする作業は無くなったが、炎天下で以前より広くなった塩田の砂をかき集める仕事はやはり大変だったという。

これにかん水を煮詰める所謂、煎ごうの作業は四六時中、釜の火を焚き、塩が出来上がるまで続けなければならなかったので大変な作業であったようだ。 この様に海水を煎ごうする釜を塩釜というが、この塩釜をお祭してあるのが、 塩釜神社で現在でも日本には  113社の神社があるという。昔は製塩の完成と作業の無事を祈念して建てられたものであろうが、今はこの神社は海上交通と作業の安全、大漁の祈願とお礼のためにお参りしているそうである。

大昔のように自家用に個々の家で釜を焚き、塩を作っているうちは燃料もそう目立って使われるわけではなかったが、江戸時代に各藩が自給のために大量の塩を作らねばならなくなると、各藩主は必要の量の塩を得るために藩主の山の木さえも提供せざるを得なくなり、山が見る見るうちに裸になり、砂漠化するということになった。

海に接している各藩はいろいろな方式で塩を自給すべく努力していたが、塩田そのものが地震による津波や台風による高潮、大雨によって壊されたり、流されたりしてしまい、安定した経営が維持できなくなった。その為、製塩費が高くつき、塩の値段に跳ね返ってくる。

殊に外洋に接する地域は千葉の九十九里のように荒波の多いところは塩田の維持も大変であったが、一方江戸湾の奥にある行徳の塩浜は内海であり,遠浅の海岸で波も穏やかであったため古くから塩田が設けられていた。

関東に転封となった徳川家康はよく東金方面に鷹狩りに行ったが、この時、行徳の塩田に目をつけ、この地域の長に賜金を出して行徳の塩田を改良維持するように指示し、軍用の塩として使用するようにした。この為、わざわざ小名木川を開削し、行徳の塩浜から江戸城に搬入できるようにした。

塩の確保は各藩の施策の上で重要な事項であったが、なんと言っても、その藩の所在するところによっても製塩量が異なってくる。瀬戸内の海に面する播磨、赤穂,等の各藩は早くから入浜方式による製塩を行なっていたし、海も穏やかで、一年内で作業が出来る日数も多く、各藩の領民の需要を満たし、外部に売りに出すほどの余裕のある塩を産出することが出来た。この為、塩の値段も安く、他藩の半値以下で売りに出すことが出来た。

この為、播磨、備前、備中、備後,安芸、周防、長門、伊予、讃岐、阿波で作られる塩は十州塩として海のない藩はもとより、自給が出来る藩にも移出が出来、日本中で十州塩が使われたという。甲斐の武田信玄の国は海のない所であるが、ここは行徳の塩を移入していた。
しかし後北条氏と今川氏に妨害されて行徳塩を求めることが出来なくなった時、「敵に塩を送る」の話がある越後の上杉氏に塩を送ってもらい助かったという話がある。元禄期になると行徳塩も太刀打ちできないほどの安い塩が十州塩として移入されている。

行徳塩は家康のお声がかりで確保されたものであり、軍用第一の方針もあって、幕府はその保護に努めたが、元禄が過ぎてからは細々と作業を続け、明治期まで続いたと言う。今はもう塩浜という地名として残るのみで,かっての塩田の上には大きな建物が建つのみとなっている。

江戸時代は日本は68ヶ国あったがこの内、塩を自給できたのは、上総、能登、加賀、越前、佐渡、陸奥、丹後で、それに加え移出が出来る余裕があったのが十州塩を産する播磨、備前、備中、備後、安芸、周防、長門、伊予。讃岐、阿波であとの51州は十州塩を移入していたという。

塩の移入を受ける各藩は塩を運んでくる廻漕船を受け入れる港を持ち、そこから馬、牛に背負わせて所謂、塩の道といわれる街道や山道を運ぶか、河川が通じている所は船に載せて運んだという。この塩の道が逆に港に米を運ぶ道にもなったそうだ。

塩田で働く浜人は揚浜方式で製塩を行なっているところは大変な重労働であり、海水を桶に入れて天秤棒で担いで、塩田のたまりに入れていく。これを柄杓で砂上に撒いていくという厳しい力仕事があり、飯を食うにも一食4−5合食べたという。当時、町中の人は一日二回の摂取だったが、彼らは一日三回とり、一日一升二合から一升五合の飯を食べたと言う。

天日の下で働くためには塩分を摂ることも大切で、浜人に限らず昔の人は平均一日、今の量で30グラム摂ったそうであるが、塩田で働く人は50グラムも摂る人がいたという。
今、厚生労働省は一日6グラムの塩の摂取を奨励しているが、なかなかこの基準を守れず12−15グラムを摂ってしまっているそうである。

昔の労働者に高血圧が多かったり、脳血管の障害による中気や中風の病に泣く人が多かったのもうなずける気がする。
現代は昔のように塩田を使った塩を生産している所は稀になり、実験的か、観光的な赤穂の塩田のような施設を見るのみになってしまっている。



かっての日本専売公社が昭和40年代に始めた方式は塩田を使わないイオン交換膜方式により、純度の高い塩化ナトリウムを抽出して、塩を作ることになり、かって海のミネラルがバランスよく含まれていた塩から化学製品の塩となったしまった。

こうなると塩と言っても、ただ、からいというだけで何の養分もなく、人々はやはり昔の塩の味を求めて、地方で作る天然塩を恋しく思い、やれ赤穂の塩だ、伯方の塩だ、沖縄のものだと天然のものを買い求めている。

「落語商売往来」矢野誠一氏の著書の中に小三治さんが海の塩に飽き足らず、日本のみならず、世界中の自然塩を求めていたそうであるが、岩塩が最も自然塩としては美味しいものだと判り、探し求めていた。その内、中でもバリ島の岩塩が捜し求めていた味だということで、かの地に行って、村人に岩塩の原塩を売ってくれるように交渉すると、村人は快く承諾してくれたが、気の毒そうな顔をしていったそうだ。村人は「その塩は我々は食べない。家畜の餌にしか使わない」と言われたそうだ。 何千キロの遠路を旅してやっと見つけたのが、家畜の餌だったのか。

平成20年2月
posted by ひろば at 08:18| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/33643950

この記事へのトラックバック