2008年04月01日

【084】大店の手代(鈴木和雄)

古典落語に出てくる江戸時代の商人(あきんど)の店では小僧(丁稚)の話はよく出てくるが、手代を扱った話は余り無いようだ。僅かに「お節徳三郎」「刀屋」「文七元結」それに「髪結新三」に出てくる若者の噺ぐらいであろうか。

昔の大店(おおだな)では小僧が何年か勤め、元服すると若衆となり、平手代並の扱いを受けるようになる。小僧時代の「A之助」「B吉」と言うような名前から二文字の名前になり、「三」「七」のような数字を用いた名前をつけられたそうである。

「髪結新三」のお熊の相手の男は「忠七」、「お節徳三郎」の徳三郎「文七元結」の文七も若衆か平手代であることが察しられる。
手代と言うのは広義では、総支配役以下、店の実働部隊の人を全て手代と言うが、この内、役職についているものを除いた人たちを平手代と言い、一般には手代と言うのはこの人達のことを指した。

しかし、平手代になりたての当時は、小僧同様に雑用もやらせられるが、小僧時代のように手代の供ではなく、一人で店外に出掛けなければならなかった。
店の業種、規模により、夫々独特の定めがあり、手代がどのように扱われていたかは、異なるが、いずれも手代は今で言う営業社員であり、実働部隊の末端を担っていたことは間違いない。

大店の内、今の三越の前身の「越後屋」では総支配人である元締を頂点として、いろいろな種類の役員となる番頭がいて、その下に手代がいる。越後屋は京都に本店があり、大阪、江戸に夫々複数の店があり、店員の総数は683人だったと言う。そして隆盛の当時の江戸店の手代の人数が109人、小僧が57人だと言われる。(「町屋と町人の暮らし」平井聖監修より)

同書に依れば同じ地区の同業の呉服屋は手代59人、小僧29人、別の店では手代49人、小僧31人と記されているから、越後屋が如何に大店だったかがわかる。
また、「江戸店犯科帳」林玲子著による近江商人の「白木屋」では支配役を頂点として手代53人、小僧23人、総数で94人いたが、最盛期には総数190人までいたという。

越後屋では江戸の店の売り場は15所ぐらいに分かれ、その他に大名屋敷との取引をする御屋敷方とか勘定所、帳付方、会計方、調達役等があり、夫々3−5人一組で営業や会計、庶務を行なっていたという。

手代になると小僧時代は貰えなかった給金が貰えるようになる。その替り小僧時代には店から支給されていた仕着せ、足袋、小物類が無くなり、全部自費で調達しなければならなくなる。給金は勿論店によって異なるが手代になり始めは3−5両ぐらいで、後は成績により5両、7両と上がって行く。

幕府の政策により雇用契約は10年を限度とすることが決められているため、一度契約が無くなる。当時の上方の商人が出した江戸店の雇人は、小僧の採用は全て上方から行なわれていたので、一度、京都の本店に登り、しかるべき挨拶をして再契約を受けてからでないと家に帰ることが出来ない。 そして、暫く家に居て、また江戸店に戻って働くことになる。

これを初登りというが、それを通過すると給料も上がって行く。この様な登りを何回かやって15−20年経つと暖簾分けにいたる。褒美金と元手金を貰い、50才ぐらいで独立して行くことになる。しかし、店に残るものもあり、隠居とか、勝手勤とかで相談にのる仕事をやることになる。

手代はいろいろな職務を経て販売や仕入れの経験を積み、管理職的な小頭役や年寄り役につくことになる。しかし、途中で病気、家出、使い込みなどで、脱落していくものもあり、暖簾分けまでたどりつくのは同期の入店で1−2人ぐらいで、大変な苦労と忍耐が必要だった様だ。

手代の仕事は店によって異なるのは当然だが、前記の林氏の著書による「白木屋」の例により一般的な手代の仕事振りがわかるようだ。
呉服屋である白木屋は呉服を中心として、それに係わる小間物類を商売としていたが、特に呉服類の仕入れが大事で、仕入れの如何により店の左右が決定されたと言う。

このため仕入れに当たる手代は店が各地に設けた買宿を頼り、江戸から出張しそこに泊めて貰い、そこのベテランの場造と称する人と共に市場に行き、仕入れ業務を行なったそうである。そして絹物を仕入れると江戸店に送ることなく、直接、京都の本店に送り、白木屋独特の仕上げ加工を施されて、江戸店に送られてきた。

絹物以外の太物と言う木綿類は直接江戸に送っていた。
買役となった手代は各地の絹市で買い付けを行い、時には千両、二千両を動かすこともあり、結構派手な動きが多かったそうである。大酒を飲まないようにとか、勝負事に手を出さないようにとか、遊芸に溺れないようにとか店を出る時に注意を受けている。

手代が職務を替えさせられて修業をするものに田舎役というのがあった。これは地方の商人に対し、仕入れ問屋の業務を行なうもので、地方から仕入れのために店に来た顧客を接待して、注文をとることになる。客には担当の手代が決まっていて、その客が来ると店の座敷に招き入れ、お茶、煙草と出して商売にかかる。

商談がうまく行くと二階の部屋に案内し、酒席が設けられることもあり、夜の九時ごろまでには客は帰っていくのが普通だが、時には飲みすぎて動けなくなり、二階に泊まるような事も起こる。 田舎役の接する顧客は大事な客なので、江戸にいる間は手紙をだしてご機嫌伺いをしたり、時には碁、将棋に付き合ったり、酒飲みや芝居見物に行くこともあったという。しかし余り親密な付き合いは問題が生じる恐れがあると注意が出ていた。

しかも、これらの顧客は遠い地方から来ているため,勘定を取ることが大変で、盆、暮の時に掛取りの旅に出なければならなかった。顧客訪問の時は土産を持っていかねばならず、
一人では不可能なので男衆を伴い行き、帰りは金を受け取って、持ち帰るか、飛脚に頼んで江戸に帰って来た。

しかし、時季により大雨に遭い、川留めに遭ったり、通過する町が水害にあって道路が通れなかったりして,帰京する日程が守れなかったりした。そうゆう時は店全体が帳締めを待ち、手代が帰ってくるのを待つが、どうしても締め切り日を過ぎる事もあり、出張者が帰りついた日に締め、無事な帰りを祝したと言う

店の表で商売をする場合は客を丁重にもてなし、すこしの買い物でも客を逃すことの無いように、茶、煙草で接待し、なるべく現金売りするように努めた。既に越後屋では「現金掛売りなし」の商売を進めていたが、掛売りは掛け金を取りそこなうことがあり、現金売りはその点、資金の回収が早く、客の買値に何とか対処できることだった。

商売上、金額の話をしなければならないが、客の前で内部同士のものが数字を言うことははばかれるので、店内部の符牒で話し合い、客に判らない様にした。この符牒は内部の経理にも使われ、決算書の合計額などはこの符牒で示されていたと言う。

現金取引が店の表売りでは盛んに行なわれていくが、大口の取引やお得意の客にはやはり売掛けが行なわれている。 その為、売掛帳が作られ、客にも通帳を渡し、絶えず店の通帳と照合し、確認を取って、合判を取るという作業も行なわれたという。



売掛金は年に二回、盆、暮に大規模に行なわれたが、その他3月、5月、9月、10月と計6回に亘って行い、収入金の確保を図っていた。その為、毎年、正月になると売掛帳を新しくして、客に渡すと共に確認をして、売掛代金の納入を促す事をやらざるを得なかったそうだ。

噺の「薮入り」は江戸の子供が江戸の普通の店に奉公し、薮入りの日に家に帰ってくる話であるが、先代の金馬さんの噺では入店3年過ぎてやっと帰ることが許されて帰宅したことになっているが、上方の本店から江戸店に送られてきている子供達は入店9年しないと上方の親元に帰れなかった。

この初登りでは、先ず京都の本店に顔を出して、幹部に挨拶をして、そこで今後の契約を決めて貰ってからでないと親元に帰れない。再契約を得てから暫く親元で寛ぎ、また江戸に下り、江戸の店に勤めることになる。

江戸店からの報告で,体が弱そうだとか、商売に向かない、勤務成績が悪い情報があれば、再契約は無くなる。この様にして段々将来の管理職になるものを選別し、さらに次の登りの時にはさらに上の幹部になるための選択がおこなわれた。

しかし、これまでになるには知恵と辛抱と健康が必要で、途中で病等の障害を得て、挫折してしまう者も多かったと言う。
武家の大名屋敷に出入りする手代は屋敷の売掛けが段々多くなり、しかも、なかなか支払ってくれないとなると、客と店の間でノイローゼになり、家出をしてしまう者もあった。

更に悪いことには、支払いを求めて、屋敷の関係者にいろいろな進物を持っていって、何とか好転を図ろうとしているが、この費用は店の金を使い込んでのもので相当額にのぼり、結局解雇されると言うことになってしまった。

店の食事は台所方の男衆がつくるのだが、今のように栄養知識はないから、飯は白米ばかり食べさせられて、脚気になったり、回虫の虫が出ても駆除や予防の方法がわからず、大事に至って死亡する例もあったそうだ。

客との付き合いで酒を飲む機会も多く、また本人も好きで大酒を飲んでしまい、胃腸を壊すこともあり、中堅幹部の人でも死ぬと言うこともあったようだ。風邪になってもたいしたことはないと思っていると、急に高熱を発し、肺炎になって死亡する手代や幹部がいたという。

また、一寸、蚊に食われたり、害虫に刺されたりして腫れたり、皮膚に腫れ物や湿疹ができても、今のように「何とかマイシン」のような薬は無い時代だから、段々重症となり回復の見込みが無いからといって家に帰させられる者もいた。

身体は健康だが精神の方が曲がっていると大店では勤められない。噺の「双蝶々」の長吉のように始めから盗み癖があると大店では採用してくれないが、大店の手代でも店にある高価な呉服の反物や小間物を扱っているとつい店の物も自分のものも区別がつかなくなって手を出してしまうのであろうか。

反物や小間物を店外に持ち出して現金化したり、禁止されている吉原等の花街に足を踏み入れて、花魁と仲良くなり、店の品物や金を入れあげたりして、店に損害をあたえている。店の方では店から縄付き人を出すことは店の信用に傷が付くと心配して内部だけで処理している。

その他、仕事を放棄して富士山に登りたいからと家出したり、上司からの叱責を受けたり、同輩や先輩の苛めに遭い、職場がいやになり、家出するという手代もあり、何時の時代も変らぬ職場の悩みで若い人達は将来に希望を抱いた夢を壊されて去って行かざるを得なかったのであろう。

平成20年4月
posted by ひろば at 08:20| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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