2008年08月01日

【088】羽織の噺と話(鈴木和雄)

昔は人が旅に出るに際し,防寒,防風,防雨、防塵のために道中用の衣服として、上っ張りの身丈が普通のものより短いものを着て、それが胴服と呼ばれた。この上っ張りの部分は帯をすることなく放り(ハウリ)着ることから「はおり」となり、当て字として羽織が生まれたという。

胴服は道服とも書かれているそうであるが、これは医者、僧侶、修行者が着る道服とは異なると言う。道服は後に「十徳」と呼ばれる衣服に変っていくが、羽織はその十徳が発展したものだといわれている。

この胴服は着脱が容易であったため、武家の上級者にも用いられ始め、段々華麗なものになって行き,戦時における鎧の上から着る陣羽織になったり、馬上で着る「ぶっさき羽織」という背中の縫い目が下のほうで割れており乗馬の時や刀を差しているときに鞘が障害にならないようになっていたという。

しかし、江戸初,中期は羽織はそもそもが胴服が少し上等になったもので,閑居時に室内で着る私服であるから,客に会ったり、公式の席に出る時は着ることは許されなかったそうである。
その当時の羽織は生地が羅紗、ビロード、革、紙子、鳥毛が使われ、割合、柄なども変化に富み、美しいものも作られたそうだが、中、後期になると、段々、色もくすんだものが選ばれるようになり、さらに必ず家紋をつけ、準礼装として使われるようになると、黒に集中していったと言う。

幕府の将軍が遠行をする際は御徒組頭は茶縮緬の羽織、部下の御徒侍は黒縮緬の羽織を着て供揃いをして行ったという。
そして江戸後期から末期になると、これまで武家の上級の武士達は公式には大紋を着たり,素襖(すおう)と言う大仰な服装から、小袖を着て裃と言う肩衣、袴を着けた衣裳になり、更に羽織,袴の恰好も認められるようになり、紋付の黒羽織は社会的にも昇格して行った。

一方、民間でも着物は小袖を着て生活していたのだが、当時でも働かずに暮らせる旦那連中は着物の上に羽織を着て帯をすることなく防寒、防風、防塵のために はおっていたという。この時代は民間でもこの羽織形式の衣服は礼装と認められては居ず、客に会う時は羽織を脱いで行くのが礼儀だった。しかし、武士の礼装化と合わせて民間でも黒紋付羽織が使用されるようになり、婚礼、葬儀,おめでたい会合には羽織を着て行くことが礼儀とされるようになった。

羽織を着ることが出来るのは、生活に余裕がある金持ちのシンボルと考えられていたから、村の寄り合いなどで羽織を着ているか、いないかで村内の立場がわかる、標みたいなところがあったようだ。

そこで「金の大黒」では羽織の所有者が長屋に一人しか居ず、大家の息子が金の大黒を掘り当てた祝いの席に招かれて、一枚の羽織を廻し使いする話が演じられていたが、実際、昔、田舎では祝い事があった時に、貧乏百姓の家に羽織などがあるはずもなく、何処からか借りてきた一枚の羽織を廻して使い、祝いの挨拶に行かざるをえなかった。

「羽織の遊び」では金のない連中が若旦那に女遊びに連れて行ってくれとねだると「羽織ぐらい着ていかねばだめだ」と言われ、羽織を持っていない熊公は大家の家に借りに行くと,おかみさんに「祝儀か不祝儀でないと貸せない」と言われ、葬儀だといって近所の人を次ぎ次ぎに死なせてしまう。 これも羽織を持ってない男が、持っているふりをして色街でもてようとする話。

ところで、当今、噺家さんが高座に上がるときに羽織を着て出てくるのも、お客に対する礼儀を失わないようにという意味から最高の衣裳をつけて出てくるのであろう。寄席や落語会では下働きをしている前座さんが「開口一番」と言う形で練習のため、高座に上がり、噺を聞かせてくれる時があるが、この様なときは前座さんは羽織を着られないそうである。まだ修業中の身であるからだろう。

噺家さんは羽織を着て手に扇子、懐に手拭を持って高座に出て来て、座布団に座り、そろりそろりと話を始めるが、先ずは今日来場のお客さんへの入場の御礼とか、お世辞とか、寄席や落語会に来るまでの町の様子、昨今の社会の状況への不満,それに一、二の小噺を枕としてやっと本題の噺に入って行こうとするが、この時にやおら羽織を脱ぎ始める。そしてこの羽織を自分の後ろの床の上に目立たぬように置いておく。

先代金馬さんの随筆のなかに「寄席ではこの時に楽屋近くまで放り投げ、次の出演者が来た時に前座さんがこの羽織を引いて現在の高座の人に知らせるようになっていた」という。そのまた引き方が難しかったとも書かれていた。

ところが演者さんが本題に入っても羽織を脱がない時が時々ある。これは後の段取りを考えて意識的に脱がないのだそうだが、先代金馬さんは「逆に意識して脱がないといけない例を言っている。「三人旅」の噺では本題に入る前に脱いでおかないと、馬に乗ってしまってからではどうにもならないから」と言っている。

この他、金馬さんが羽織を脱ぐ形でうまいと褒めている噺家さんで(橋本)円馬師がおり、「夢金」の中で船頭が蓑を脱ぐ時の恰好を羽織を脱いで擬して雪を払ったようにして自分の脇においていたと記している。また街中で友達と喧嘩した時に始める際に「この野郎」と言い掛けながら羽織を脱いで行くと言うようなこともあったそうである。

「佃祭」でも娘が吾妻橋で助けてくれた旦那と共に家で亭主の帰りを待って居る時に、表から亭主が帰って来なりに浴衣を脱いで、家の中に放りこんで行くが、これを羽織を脱いでこの情景の忙しい様を表している。
本題の導入から随分長い時間がたってやっと羽織を脱ぐときがきたのである。


先日も菊之丞さんの「元犬」を見ていたら、人間になった白犬のために桂庵の旦那が自分の羽織を脱いで、新人間に着せ掛けている形を見せていたが、これは本当の羽織と噺の羽織が全く一致してよかった。

また,市馬さんの「掛け取り」でも、相撲好きな借金取りが来た時に、これを迎え撃つ八っあんが、やおら羽織を脱いで相撲取りの真似をして借金取りを追い返している。これらは羽織が効果的な小道具として使われていることになろう。

昔は芸人の羽織は黒いものと決まっていた。黒い生地に白い紋を浮き立たせることにより何んとなく厳粛なものを感じさせるものがあるが、噺を聞いていて羽織を脱ぐタイミングをどのような時につなげているかを想像するのも楽しみのひとつであろう。

平成20年8月
posted by ひろば at 08:23| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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