2008年11月01日

【091】大山詣り(鈴木和雄)

噺の「大山詣り」は江戸の夏の風物詩だといわれている。 亡くなった円生さんも志ん朝さんもそんな時期にこの噺をかけたのではなかったか。 大山詣りは相州雨降山(うこうざん)大山寺を開基した良弁僧都の教えを護り、通常時の参詣を許さず、毎年6月27日から7月17日までの期間に限り登山を許したからだという。

しかしこの20日間のみが一般の人の山頂登山を認められたのだが、これは中腹にある山内の本堂から山頂の阿夫利神社上社までの登山道が開放されるということであり、山内の不動本堂はじめ、諸社諸坊へ参ることは通年許されており、大山詣りはその意味では何時でも参詣が出来たという。

雨降山大山寺のご本尊は不動明王で、寺の名前の通り、雨を降らしてくれる神様が祭ってある寺で、旱照りが続いた時に近燐の農民が参詣し、雨乞いの祈願をして、そのご利益を得たので、信仰が厚く、また江戸の町人である職人や鳶職、魚河岸商人の参詣も多かったと言う。

大山詣りは江戸の中期に盛んになったといわれているが、そもそもは徳川家康が関東に転封されて江戸に来た時に、それまで北条氏の保護の下に、大山で修行をしていた修験者を山から下ろし、大山寺を聖僧の地としたことにより、修験者たちは大山を下り、大山詣りの参詣人の集客と案内に専念し、生活を支えることが出来、また、大山講の発展に寄与したのだそうだ。

昔は伊勢参りでも金比羅参りでも講を組んで毎月、費用を講内で積み立て、これを講を代表して代参する資金として、順に講員が使うこととなっていた。講の構成員が多いと代参する人数も多くなる。何年に一回廻ってくる回数も少なくなるが、講といっても噺に出てくる講のように少ない人数の時は毎月の掛け金を割合大きくして、皆が毎年行かれるようにしていたのであろうか。そうでないと大山詣りの噺の暴れん坊の熊さんのように去年も今年もという訳にはいかなかっったであろう。

いずれにしても6月から7月に掛けての20日間に各地から集中して大山を目指すことになったが、これに至るまでに参詣の希望者はしておかねばならない行事があった。それは江戸っ子の場合は円生さんが噺の始めの方で話しているが、江戸の大川の両国の本所側の垢離場で七日間の清めの水垢離をして心身ともに清めをしなければならなかったことである。これは登山が夏だからこそ、そんなに苦とも思わず清めが出来たのであろう。

そして、今でも阿夫利神社の拝殿に木製の太刀が供えられているが、これは昔、源頼朝が大山が鎌倉から近い霊山であるため、太刀を納めて、武運長久を祈願した話があり、これにならって木の太刀を持って行って山に登り、納め太刀としたという

江戸期に大山詣りが盛んになった理由としては、大山が箱根の東にあり、関所を通ることがないため、往復手形を得る必要がなく、また、伊勢参りや金比羅参りの様に長期間の旅をする必要がなく、往復できたことである。 伊勢に行くだけで往復ひと月は掛かる。

そこへ行くと江戸から大山へは18里(72km)で、当時、早足の人で1日15里、普通の人で12里ぐらい歩いたというから、片道1泊すれば楽に目的地に到達できる。行きは精進した身であるから、そんなに暴れたり、遊んだりすることは出来ないが、帰りは旅の恥はかき捨てとばかりに1泊は何処かの宿で飯盛り女相手に遊ぶとか、または酒盛りで大いに盛り上がったりしている。こうなると往復4日で帰るところが5−6日、掛かることになる。

円生さんの噺でも大山詣りを真面目な修行の旅だと嫌がっていた男が、実は帰路の藤沢で遊べると聞いて、今年は俺も行くと信心2分、遊び心8分で大山詣りに参加しようと言うことになる。

噺の「大山詣り」では演者によって先達さんがイニシャチブを取って一行をまとめ、熊さんを排除しようとしたり、講の有志の人達が熊さんを説得して、暴れたときの対策を考えて先達さんに行ってくれるように頼んだりしているが、先達さんと言うのはどうゆう人なのだろうか。

大山の修験者が山を下ろされて、御師(おし)となり、大山の参詣者を勧誘して、集めたり、案内したりして、生活をお山で続けていたが、その為には前の年の冬当りにお札を持ったり、宮げを持ったりして、自分の縄張りの檀那や檀家(これを「かすみ」といった)を廻って来年もお山に参詣に来てくれるように各地の講中に勧誘に行ったという。

伊勢神宮の御師の場合は、その活動が盛んで、御師の手代が江戸に限らず日本全国を廻って宮げを手に、参宮の勧誘に歩いたという。伊勢神宮の場合は大山詣りの場合と違い、一年中参宮できるから、御師の活躍も、その比でなかったそうである。

神職の修験者を御師といい、僧侶の場合を先達と言ったそうだが、噺に出てくる先達さんは江戸に在住している人であるから、御師的な人とは異なるのであろうが、御師と連絡し合って、勧誘的な事を積極的にやっていたのかも知れない。
御師は最盛期は250所、江戸末期で109所の宿坊を大山の門前に設けていたというが、この宿坊はかって修験者が修験道場として使っていたものを宿坊に替えて講中の登山者を宿泊させていたものだった。

この為、関東、甲信越の大きな講はどれかの御師に属していたと言う。伊勢神宮の場合は御師が参詣者が持ってきた初穂料(供物料)、神楽料、及び神馬料さえ神宮に納めることなく、独自の加持祈祷をして、全部、自分の懐にいれてしまったが、その代わり、宿泊者に十分な酒食の世話をし、帰りにはお札は始め、多数のみやげを渡して、来年もまた、講中のものが来てくれるように希望し、接待に努めたという。大山の場合もこれに劣らず対処したのであろう。

大山に講を代表して代参に行く人達は出発の当日は朝、暗い内に起きて旅に出掛けるのだが、昔の旅は必ず無事に帰って来られるという保証はない。そこで、この旅の途中で急病や事故に遭って永久の別れになるやも知れず、旅行中の無事と健やかな姿で戻る事を祈願し、出立ちの行事をやっておくことが必須であった。

旅に出る人達を親族、親類、縁者、朋友、今回の講中には居残りとなった人達が町や村はずれまで送って行き出立ちの祝宴をし、水盃を組み交わして、草鞋銭として餞別を渡したという。

これから講の一行は大山に向けて旅だって行くことになるが、江戸から大山に至る道筋は5コースほどあり、その内、一般的なものが品川から東海道を進み、戸塚宿の手前の下柏尾で東海道からはずれ、長後街道に入り、大山道に抜けて、藤沢の北を通り、今の海老名市、厚木市、伊勢原市の上糟屋から大山に至る道。下柏尾から大山まで7里(28km)あった。

しかし、このコースは一遍に歩くわけではなく、江戸から保土ヶ谷宿まで9里(36km)あるが、ここで一泊して旅の一夜を過ごしたようだ。ここでは、まだ、精進した身であるから、遊ぶことも、酒まみれになることもできず、静かな夜を過ごしたのであろう。

また、別のコースで使われたのは、現在の世田谷区の三軒茶屋を通り、二子の渡しで多摩川を渡り、溝口から厚木に抜け、大山道に出る。他の道は江戸の青山を通り、厚木街道から大山道に出るコースがあったという。
講の一行は大山の宿坊に一泊し、翌日は心浮き浮きして、精進落しをするため、円生さんの話していた藤沢宿を目指し、歩みを早めて行く。ここでは飯盛り女を相手として遊び、翌朝、東海道を進み、神奈川宿で酒を飲み、大暴れして熊さんは大失敗。
噺では帰り道に金沢八景によっているが、大山に行った旅の団体はよく江ノ島に行くことがあったそうだ。大山は男山で、本来なら女山の富士山に行くのが筋だが、富士山に行くには箱根の関所を通らねばならないので、敬遠し、同じ女の神様である江ノ島の弁天様へ参詣することが当時の旅のコースであったという。

いずれにしても藤沢でも江ノ島でも昔の旅籠の留女は強引な勧誘で旅人を掴まえ、店の奥に押し込むというから、信心心の薄い連中は、心得たとばかりに顔だけはいやいやをしながら、宿に入って行ったと言う。

出立ちの儀があれば、出迎えの儀もある。江戸の人達は品川まで迎えに出て、ここで旅の一行と会い、旅が恙無く終わり、全員無事に江戸に入ることが出来てよかったとして祝盃を挙げて、旅の話を聞いたり,往きの餞別のお礼にと分けられた土産を渡して、家に向かうことになる。

「大山詣り」の噺ではその出迎えが、熊さんの偽計に留守番のお上さん連中が引っかかり、品川に行くどころか、丸坊主にさせられて、お怪我がなくてよかったといわれてしまう始末だ。

大山は丹沢山系の東南端にあり、海抜1246mの山で、昔は相模の国の霊山といわれ、崇められており、多くの人の信仰を集めていた。
今は東京から行くとすれば、新宿から小田急の急行電車に乗って1時間ほどで伊勢原に着き、バスに乗り換えて25分、ケーブル・カーで6分で中腹に着く。

関東地区に住む人達にとっては行きやすいお山であり、今年の体育の日に行ってみたが、多くの人が参詣をしていた。 しかし、昔、落語で語られている当時のようなことは想像出来ない。阿夫利神社の下社がある中腹から上社がある山頂まではそこから歩いて90分と書かれており、下山の時は60分とあるので頂上までいくのは諦めて、下社だけ参拝して降りることにした。

帰りは ケーブル・カーに乗らず、脇にある昔の男坂の山道を歩いて降りてきたら、すごく急な傾斜で石段ではあるが岩を積んだ階段で、足は滑るし、歩幅とは違う高さの階段で、もとのケーブル・カーの出発駅近くまで戻るのに40分かかってしまった。

ケーブル・カーの駅と下社の間の参道には、昔、御師と呼ばれていた人達が、今は先導師と呼ばれ、阿夫利神社の奉賛団体となり、活動しているというが、かっての宿坊が、そのまま、宿を経営していたが、入り口に先導師の看板が下げられており、今でも存在する各地の講と連絡して参詣の案内をしているという。
山内で見た参詣人や講の人達の記念の石のプレートが石垣に付けられていたが、近年のものの中に「千葉県印旛村松虫」とか「千葉県印西町木下」の銘があり、昭和51年の日付があったが、他の千葉県や茨城県からもあり、大山に来ていた講の広がりを感じるとともに、大山を信仰する人達が多くの地方にいるのだなと感心した次第である。

平成20年11月
posted by ひろば at 08:26| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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