2008年12月01日

【092】行き倒れ人(鈴木和雄)

噺の「粗忽長屋」で八っあんが、浅草の雷門に行くと人だかりがしている。そこで人混みを分け入って、前面に出てみると、行き倒れ人が横たわっている。世話役らしきおじさんが、この死人の身元を知るべく、集まっている人達に、死人の事を知っているものはないかと、聞いているが誰も出てこない。そこへ八っあんが顔を出してきて、隣の熊公だという。

世話人はやれやれと思って死体の引取りを問うが、八っあんは本人に聞いて見なければならないと言う。世話人はこれは可笑しいと思ったが、八っあんは早速、長屋に帰って、隣の熊さんに会い、熊さんを説得して、また雷門に来るが、世話人は、これが本人だと紹介されても、全く別人だと言うことが判っているから、死体に触れてはいけないと言うが、それにも拘わらず八っあんにいわれるままに熊さんは死体を抱き上げ「抱いている死体は俺だが、抱いている俺は誰だろう」 とオチになる。

この場合、噺の主体は行き倒れ人であろう。死体は自分を語らないから、この噺は粗忽な二人の町人の口を借りて噺が盛りあがっているが、 昔からこの様な行き倒れ人はよくあった様だ。
特に江戸期になると天変地異が時々起こり、地震、旱続き、大風雨による水害、洪水、害虫発生があり、更に火事、領主による過酷な収奪などが原因で、地方から都会地に仕事と食を求めて移動してくることが多かったという。

江戸時代だけで見ても天変地異による飢饉は大きなものだけでも寛永19年(1642)江戸幕府の最初のもの、享保17年(1732)蝗害の発生、天明7年(1787)浅間山の大爆発、それに天保4−7年(1833−36)の大飢饉があり、この間の餓死者は20万―30万人に登ったそうである。

幕府としても飢饉に当たってはいろいろな救済策を講じたが、江戸市中でも大凶作による行き倒れ人が各地に発生し、この為、神田佐久間町に御救小屋を作り、市中になだれ込んできた難民たちを助け様としたが、所詮、その数が多く、更に四宿〈品川、板橋、千住、内藤新宿〉に御救小屋を設け、難民の救済を行なおうとしたが、行き倒れ人は続出したという。

また、地震では安政2年(1855)の安政の大地震がある。この時は江戸市内の被害が大きく、武家屋敷をはじめ、町家の倒壊もあり、武家と町人の死者が7千人から1万人もあり、 生き残っても住む所と食を得る所を求めて難民が溢れ、行き倒れ人も多々出たと言う。また、旱魃、山の噴火による天候の異状による凶作、大風雨による水害のため田畑の収穫が出来ないにも拘わらず、年貢を強制的に収奪する領主に抵抗して村を捨て、都会地に出てくる逃散が行なわれたが、これらの人達がなかなか食,住にありつけず、行き倒れ人になることがあった。


殊に江戸末期から明治初にかけては政治的不安もあり、農村は不況が続き、東京に貧民が流れこんできた。「粗忽長屋」の熊さん、八っあんが見間違えた行き倒れ人もこんな時期に発生して食を得ないままに倒れたのかも知れない。

行き倒れ人が見つかるとその町の町役人である五人組が立会い、事件がらみでなければ、死体片付けの専門人を呼んで片付けさせ、後は町奉行に報告することになっていた。しかし、死体を処置するには名前がわからなければならないから、行き倒れ人の関係者がいないか、身請け人がいないか、その場に集まって来た人達に問い質しをする。

また、何らかの書付を持っていて、身分が判れば役所を通じ、身元先に連絡し、その人に死体の引き受け方を頼むのであるが、逃散の場合のような時や夜逃げの時は往来手形も持っていないだろうから、身元確認が難しい。全く縁者が見付からない時は、その町で遺骨にして無縁仏として近くの寺に埋葬しなければならなかった。

行き倒れ人ではないが、噺の「武助と太助」や「佃祭」のように、事故で死人が出た時は奉行所の町方役人の同心らが持ち物等を調べ、身元先を探し、速やかに探して遺体の引き取り方を命じているが、行き倒れ人の場合は身元が判らないことが多かったと言う。

昔は住んでいる所から他国へ商用や寺社への参詣に出るときは名主や家主等の町役人又は寺社の僧侶に往来手形を書いて貰い、これを持って行けば関所を通ることが出来たり、何か疑われるような事件があった時は身分を保証してくれる書類となった。この往来手形には「行き暮れて困った際は宿を世話して欲しい。若し行き倒れた時はそちらの作法で処理していただいて結構。当方まで連絡には及ばない」と書いてあるのもあったそうだ。

一般にはこんな冷たいことはなく、難儀の場合の連絡先を書いてあるが、時により、こんなのもあったのだろうか。(「大江戸を歩く」浅草日並記研究会編) この編者は旅行者に対する手形としては本当に亡くなった時に自分の手元にある宗門人別帳の氏名が削除されずに残ってしまうのではないかと心配している。

実際、江戸の下町では色街で遊び過ぎて花柳病に罹ってしまい、相当進行してしまった男を四国八十八ヶ所巡りに送るため、長屋に住んでいる人達から寄付を募り、旅費を整えてやり、手形をつけて、何処で倒れようと連絡には及ばないと書いて送りだしたと言うが、随分冷たい厄介者払いのようなものだと思っていたが、この資料を見ると当時は結構あったものかと思う。

行き倒れ人は何処でもお構い無しに倒れてしまう。同一行政区域内で倒れれば、そこの町役人である名主や家主が面倒を見るものと定められているが、所謂,境界をまたいで倒れた時はどうするか。
これに対し幕府は割合明確に対応すべき者を定めている。即ち往きに境界で倒れたときは行き倒れ人の頭部が入っていた区域を管轄するものが処理し、還りの時は行き倒れ人の足が入っていた区域のものが処理するということになっていたという。

行き倒れ人の多くは死去の状態で発見されるのが多いが、時には病の状態で行きずりの人に発見される場合がある。 こうゆう時は一時的に発見者が介抱することになるが、長く病につくようになると「溜」と言う行き倒れ人の病人や病気の囚人、無宿者の病人を預かった療養所が浅草と品川にあり、そこへ送られて治るのを待って、旅を続けるか、死亡するかの道を辿ることになったと言う。

行き倒れ人は路上で発見されるばかりでない。旅の途中で旅籠屋に泊めてもらい、そこで体の具合が悪くなり、急変して死亡することもある。噺の「小間物屋政談」に出てくる江戸の背負いの小間物屋である小四郎が箱根の山中で助けた山賊に身ぐるみ剥がされた小間物商の大店の若狭屋甚兵衛は小田原の宿で山中での冷えとストレスのため急死している。

この場合、旅籠屋の主人が遺体から書付を見つけて、小四郎の家に連絡しているが、これは小四郎が若狭屋の帰りの旅費として金を貸してやり、その返金を受けるために自分の住所と名前を書いたものを渡したので、それが若狭屋が唯一持っていた書類だったので、誤って連絡先になってしまったからである。

こうゆう場合、死者の処理は旅籠の責任となり、遺体を処理することから、町内の寺で葬式をし、遺骨を寺に埋葬するか、身元先に渡すかしている。そしてこの費用を身元先に請求しているが、この処理代には死体取り扱いの人雇い代、葬式費用、畳、夜具が不浄になったとして取替え代も含まれていたという。

この様にいろいろな費用が掛かるから旅に出るときの往来手形に、前記のような「当方にご連絡に及ばず」の文言が入れられたのかもしれない。噺の大店の小間物屋だったから遺族が対処できたのかも知れないが、貧乏人では到底払いきれなかったであろう。

噺の「不動坊」も旅先で亡くなっているが、やはり、こんな費用が掛かり、大家さんは後家さんとなったおさきさんに同情して、早く再婚させる事を考えていたのかもしれない。

平成20年12月
posted by ひろば at 08:27| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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