2009年01月01日

【093】棟梁(鈴木和雄)

落語には街のいろいろな職業の人が登場してくる。魚屋、八百屋、豆腐屋、大家、質屋,床屋、大工,左官等が上げられようが、これらの内、割合、世間から一目置かれていたのが、大工の棟梁であろう。
 
「続・時代考証事典」稲垣史生著に依れば、その昔、律令体制になった時に、新羅、百済の良工が来て建築を伝えた以後、飛騨の国の木工が番匠といわれ、毎年都に徴用され、「木工寮」で働かされ、昔の建築物を造ったと言われる。この木工の匠のうち、頭(かしら)に当たる大匠を「都料匠」と言ったが、その後、この「トウリョウ」が棟梁と呼ばれる基になったそうである。

律令制度がなくなると大きな工事もなくなり、食べていくことが出来なくなって,街で働くことになり、荘園などで半農半工の生活を余儀なくされた。 更に武士団が夫々に割拠して、大名の形を取るようになると、城下町に大工職人をはじめ、左官や各種の職人を集めて、御用職人のようにして彼らの技能を重用し、免税の特典まで与えて、城下に留めさせた。

徳川幕府が出来ると土木建築の仕事は普請奉行が差配し、その下に各種の職種の工事の責任者が居る。大工(だいこう)頭の下に建物の造営と修理に当たる大棟梁と、専ら小工事の請負をする大工(だいこう)棟梁が居た。前者は数百人の大工を何時でも使うことが出来、後者は50人の大工を雇って仕事をしたという。

しかし、これらは御用大工と言われる人達で、落語に出てくる大工は町大工といわれる人達である。
噺の中では棟梁と呼ばれているが、一般的には親方と呼ばれていたそうだ。
現代の棟梁は施主から家を建てて欲しいと依頼があると、まず、どの様な形の家で、間取りがどのようにするか施主と相談し、概略図を画いて協議する。

材料、施行方法を図って積算し、大体の費用を施主に報告する。 これで了解が得られれば、建築設計事務所に詳細設計を依頼し、強度、耐震度を計算する。 更に町村の役場に書類を提出、建築確認の申請を行い、 設計図に基いて建築資材の準備をする。

そして、建築のための基礎工事の職人、左官、電気工事、上下水道、ガス、建具屋、ペンキ屋等の完成までに要する各種の業者に工事工程を説明しておかねばならない。 いざ、工事が始まり、基礎が出来たら、大型重機を動員して、資材により骨組みを組み立てて、棟上式となる。



以上は現代の建築基準法が定められた以後の棟梁の仕事であるが、基準法制定以前の昔の棟梁は施主の意向を受けて、自分で建築の設計を行い、工事費用の積算を行い、棟上式以後は現場の指揮、監督をして、完成までの全責任を持たなければならなかった。

棟上式で日本建築の最も象徴的な部材が棟と梁であり、親方自身が自分で墨付けしたものを上げ、工事の無事と速やかな完成を祈った式の長になったので、棟梁と呼ばれたとも言われている。

この棟梁には一人前の大工、見習いの徒弟が数人いた。棟梁は長い経験があって、客や先輩、同輩の大工からその技能が秀でていると認められ、品行方正で、信用が置ける人であることが求められていたという。

こうゆう条件があるから人の上にたって指導監督することが認められるわけで、「三井の大黒」の噺の中で左甚五郎が江戸にいる間、居候をしていた橘町の政五郎親方は噺にもあるように弟子をまとめ、作業を進めると共に、甚五郎を慕っており、息子を託すほどになって居る。

棟梁と弟子である徒弟の見習い人とは契約書でその関係を結ぶが、時には親分、子分のような盃を交わすことにより、契りを結ぶようなこともあったという。大工の徒弟見習いは大体10才から14−15才の子供の内から入門し、約十年間を見習い期間として大工の仕事を学ばなければならなかった。親方は技術の教育、指導ばかりでなく、一般的な教育にも力を尽くしたという。

丁度、小僧、丁稚が商人の大店に入ると読み書き算盤を習わされたのと同じであろう。
殊に計算は将来、一人前の大工となった時に、設計をしたり、積算をしたりと言うときに必須なものであり、力を入れたのであろう。

一方、徒弟見習いとして入門した子供達は仕事ばかりでなく、仕事場から帰って来たら
風呂を焚き、夕食がすめば、夜業をすることもある。「三井の大黒」で小遣い銭稼ぎに塵取り、踏み台を作っており、甚五郎もこれをやってはどうかと棟梁に奨められている。

そして、朝は飯を炊いたり、掃除をしたりして、仕事場に行く。棟梁の方も弟子たちに衣食住を保証してやり、夏、冬の着る物を与え、盆暮には一定の給金を与えている。
年期が明けると、大工職人となり棟梁から営業鑑札が与えられて独立することになるが、
渡り職人として、旅に出て、更に修業する者や、そのまま親方の所で雇われて働くか、他の親方の所に行って、手間取り大工として働くかの道があった。
噺の「大工調べ」では棟梁が大きな仕事をすることになって、愚かではあるが、腕のいい与太郎を働かせてやろうとして、声を掛けたが、与太郎は家賃を滞納したばかりに大家に道具箱を差し押さえられて、棟梁に「おもちゃ箱」を預けることが出来ない。

そこで棟梁は与太郎の滞納分の1両2分8百のうち、持ち金の1両2分を渡し、足りない分は後ほど持ってくるからといって、道具箱を返してくれるように大家に頼めと渡してやるが、親の心、子知らずで、うまく大家に真意の程が伝わらず、最後に御奉行様まで動員する始末になる。

こうやって見ると棟梁はいつも少し位の金は絶えず持ち歩いていることが判る。当時の大工の賃金は手間賃と飯米の二本立てで貰うことになっており、文政期で手間が4匁2分、飯米が1升5合分の1匁2分,計5匁4分だったそうだ。

こう見ると「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」と言う言葉があるが、貧乏人は兎も角、大工職人は僅かではあるが、収入は多く、ましてや棟梁ともなると、結構な身入りがあった様だ。そうでなければ、多くの徒弟を養い、一人前の大工を自分の所に置いておくことは出来なかったであろう。棟梁は裏長屋に住む手間取り大工とは違い、新道や横丁の長屋に住むことが出来たのである。

「三枚起請」に出てくる棟梁はかって品川の女郎の所に通って、起請文を交わす程の余裕があった。ところが今は唐物屋のいのさんも経師屋のせいさんも同じ女と起請文を貰って喜んでいる。女にも嘘をつかれたと同時にこんな若い衆が起請を持っていることが癪にさわる。棟梁の沽券にかかわる事をした女に怒りがおこる。

「子別れ」の大工の熊五郎も妻子と別れる以前は飲んだくれで、酒と女にだらしなく、金の有無に関係なく吉原に行ったりして、とうとう女房に愛想づかしをされて、一人身になり、年季明けの女郎と暮らしたはいいが、そのだらし無さにあきれ、我が身の愚かさを感じ、やっと目覚めて、大工の仕事に精進した。

元々、腕のいい男だったので出入りの客や先輩に認められて棟梁といわれるようになったが、この熊五郎も更に真面目に働いたため、ある程度、余裕ができ、分かれた子供にも50銭もの小遣いを渡せるようになったし、妻子との復縁も可能になった。

「寝床」で店の旦那の義太夫を聞くのが嫌さに成田さんへ揉め事の相談に行くという理由で欠席しようとしたら、大家である旦那の逆鱗に触れて、借家を追い出される恐れがあり、やめたが、この棟梁も何かの揉め事があれば、さっさと成田ぐらいならいける余裕があるのだろう。
「鮑のし」の与太郎が尾頭付きの魚ならぬ鮑を持って大家の息子の婚礼のお祝いに行ったら、縁起が悪いと言って追い返された事を聞いた棟梁が祝儀袋の「熨斗」の根本の理屈を与太郎に教えてやり、再度、大家の所に行かせている。棟梁はなかなかの知恵者である。

「火事と喧嘩は江戸の華」といわれているが、火事そのものが華の筈が無い。火事に対する火消しのため活躍する鳶の人達の姿や、火事の後の大工の活躍がその対象であろう。
「荻生徂徠」の噺に出てくる棟梁は、徂徠がまだ不遇の時に世話をした豆腐屋が、大火で焼け落ちて嘆いている時に、徂徠に頼まれて、急造ながら、大火後一月以内に豆腐屋の店を建ってやるという仕事をやっている。

江戸の商人ですばしこい人は棟梁に頼み、大火の後、三日ぐらいで焼け跡を片付け、急ごしらえの店を開けて商売をしていたという。これらは全て棟梁の采配で鳶職人、左官、部下の大工を動員して建築をしたのであろう。

現代は住宅を大量にしかも短期間に建てる為に、プレハブ建築が行なわれているが、一定の設計を基に前もって材料をプレカットして置いて、注文があれば、直ぐ使えるようになっている。 所中、火事があった江戸時代には、或いは棟梁の判断で何軒分かの標準設計の住宅の材料を備えてあり、火事があれば直ぐ対応できるようになっていたのではないだろうか。

紀伊国屋文左衛門のような蜜柑よりも火事の後の材木で大もうけをしていた商人もいたのであるから、考えられない事ではあるまい。


平成21年1月
posted by ひろば at 08:28| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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