2009年02月01日

【094】お師匠さん(鈴木和雄)

古典落語で語られていた江戸時代から明治にかけては教育や芸能に係わる噺が割合多く作られているが、その中でこの分野の先生としての存在である「お師匠さん」は噺の中で陰に陽に出て来ている。

「寝床」の中で旦那がこれから長屋の連中に義太夫を語って聞かせようとしている時に、店の者に今朝一寸辛いものを食べてしまったので、少し調子を落として糸を弾いてくれるように師匠に伝えて欲しいと言伝を頼んでいるし、また長屋の連中が誰も来ないので、怒って、師匠をお帰し申せと言ったり、機嫌が直ってあらためてやる事になり、急いで師匠を迎えに行けとも言って、師匠がんな形でバタバタさせられているか、目の前には姿は現れないが噺を聞いている私たちがわかるような語りをしてくれている。

また「百川」では百兵衛さんが町の若い衆に言いつけられて常磐津の師匠を迎えに行くこととなるが,似たような名前の人が同じ町内に居た為、「か」と言う字が付く有名な人と言うことで、師匠の歌女文字を呼びに行ったのに、鴨池玄林という外科の医者の所に行ってしまい、町の連中に怒られている。これなども私達聞く方にとっては常磐津の師匠の姿は見えないが、噺を面白くする舞台には欠かせない人物となっている。

噺の中で師匠と呼ばれている人達は手習所(これは上方の呼び方は寺子屋と言ったそうだ)、稽古屋、それにプロの芸を教える人である。このプロの師匠では「愛宕山」の一八が師匠で重蔵が弟子、「つるつる」では一八が弟子で居候をする所が師匠の家である。あらゆる職業に師匠は居るが、ここでは手習所と稽古屋の師匠に限って述べることとしたい。

手習所には武士のためのものと町人のためのものがあった。武士の手習所は師匠が武士で通う子供達も武家の子に限られていた。一方、町人の手習所は町の中にあり師匠は町人がやっていたり、浪人がやっていたりした。

手習所で教えるのは読み書き算盤と言われているが、「風俗江戸東京物語」岡本綺堂著に拠れば「いろは」から始まり、数字の「一二三」「手紙文」「日本六十余州の国名」「江戸東西南北の町名」「紀行文」「庭訓往来」「東海道往来」「商売往来」を順次読み書きさせ、これだけで3−4年かかったと言う。(往来とはいろいろなことと言う意味だそうだ)。
武士の場合は算盤は希望者のみで別途時間を作り教えたという。

一般に手習所の入学時期は7−8歳の春に弟子入りする。しかし厳密に決められて居た訳でなく、何時でもよかったという。
この場合子供は机、筆、硯, 草紙を持ち込み、師匠に入学金である束脩として2朱を納める。また月謝は200文であるが、金のあるものはそれ以上納め、ないものは無いなりに出しても良かったという。武士の師匠は収入が目的ではなく、半ば出世が目的のボランティア的なところがあったのだという。

町の手習所は師匠が町人であったり、浪人であったりで、この人達はその生活の糧のためにやっている人達で、入学時に束脩を得たり、月謝を貰ったりすることは武士のそれと変らないが、噺に出てくるのはこの人達が多い。

「本膳」で近所の人達に本膳の所作を宴席の現場で教える浪人の師匠、「茶の湯」で隠居に招かれてその儀礼を知らないので恥をかくのが嫌だと、手習所の引越しをしようと子供達に机等を持たせて帰そうとする師匠、「井戸の茶碗」の噺で昼は素読の師匠、夜は売卜をやっている浪人の千代田卜斎先生、「鼻欲しい」で病気のため鼻を失ってしまった師匠、人前に出られないのを妻に勧められて旅に出たが、途中、馬子に和歌でからかわれて鼻欲しいと悔しがる人等がいる。

手習所では師匠は男ばかりだったが、稽古屋では男の師匠は少なく4分ほど、あとは女の師匠で6分を占めていたという。稽古屋の大きさは大体、間口が2間ほどの半分が出窓で半分が格子戸の入り口があり、そこを入って障子戸をあけると6−8畳の部屋がある。

その稽古屋で教えられるものは、夫々浄瑠璃の義太夫、長唄、清元、常磐津、一中節,河東節、新内、端唄、小唄、それに三味線、琴、尺八等があったと言う。この内、一中節や河東節は余程好きな人でない限りやらなかったそうであるが、「お若伊之助」のお若は特に望んでこれを習っている。

一般に昔は商人の娘などは礼儀見習いのために武家務めを望むものがあり、この場合に何か音曲が出来れば、就職に有利だったと言うこともあり、稽古屋は流行ったという。
これらの稽古屋の師匠のうち男の師匠は稽古指南だけで暮らしを立てるものは少なく、大体が芝居小屋や寄席の勤めをしており、夜、内職に弟子をとっていたのであるが、女師匠は弟子をとってその月謝で生活を立てていたものが多かったという。

そのため師匠が教える弟子の数は多い場合は50−60人おり、少ない場合でも12−13人ぐらいはいたそうだ。月謝はこれも綺堂氏の調べに拠れば、明治始期の話かと思われるが,1ヶ月50銭程、月さらいを月に1回開いてこの費用は別途徴収するので20−30銭、合計70−80銭が弟子一人から得られる収入だったという。

また「稽古屋」の噺に出てくる入門時の挨拶料的な「膝付き」〈上方の言い方か〉を要したと言うことも語られている。

所が女の師匠となると,教わる方も芸事は二の次、師匠が独身で見目形がよく、小奇麗なら尚更、少し年増でも仇っぽい容姿をしていたら、愛嬌があるとか、如才が無いとか言って、「我こそは」と野心を抱いて集まり、師匠の家をクラブと勘違いして毎晩入り浸たる連中も出てくる。「猫の忠信」でも炬燵の中で師匠の手に触れることに喜びを感じたり、便所に行くのに付いて行って、手洗いの後に手に水を掛けたり、手拭を渡すような些細なサービスに我先と希望する男達もいる。

であるから「汲み立て」で出てくるように小唄の師匠を町の若い衆と建具屋の半次が張り合い、師匠が半次と大川に涼みに行くと若い衆が追いかけていって騒ぎたて汲み立てを掛けられかねない始末となる。

一方、お堅い師匠も居て「派手彦」の坂東お彦は男嫌いで通っていたが、ある時ふとしたことから女嫌いの近くの酒屋の番頭に惚れられ夫婦になるのもある。「稽古屋」では色気の出し方を憶えようと甚兵衛さんから膝付きを借りて稽古屋に入門したはいいが、踊りを習う女の子の芋を食べてしまったり、習いの順番を待つ男達の嘲笑を買いながら調子外れの歌を唄い師匠に呆れられたりして、結局は習いをする目的を問われて「色は指南の外」と断られている。

また別の噺では唄を習うより三味線を習った方が師匠と1対1になるし、膝付き合わせて教えてもらえると、師匠の前に座ったが、やっているうちに師匠の膝頭が崩れ、中が見えそうになると、頭を低くして息を吹きかけ、もっと見えるようにとやっていると師匠に三味線のばちで頭を叩かれると言う不埒な弟子が出てくる。

「浮かれ三番」では娘に踊りを習わせている両親が裏の常磐津の師匠が三番叟の稽古の三味線を弾き始めたので、これに浮かれて調子を取り出す。これで家に居たものは出入りの職人も合わせて調子を取り出した。

「風の神」では風の神の弟子が義太夫の師匠の家に行き、そこの亭主の鼻の穴に入って風邪を引いたようにさせる。師匠は義太夫を語れば直ると言って三味線で「やなぎ」を弾き始める。「風に柳は逆らえぬ」

江戸時代の道徳教育では神,仏、儒を総合して易しく説明し、通俗な喩えで人に説く心学という学問があったが、その先生というか、師匠というか、噺の「天災」に出てくる紅羅坊名丸と言う長谷川町の新道に住む人や、「中沢道二」の噺の心学者の師匠は中々説得力があり、人々がよくその話を聞きに来てくれるが、中沢先生はある時、上方から江戸に出てきて講演会をやることになったが、聴衆の中に心学と田楽を間違えてきたものが居て、途中で食い物が出ないといって帰ってしまう者が居たという。

これらの他、ご存知の「欠伸指南」は有名で、ほかに「釣り指南」「道楽指南」「喧嘩指南」と言うのもあるそうだが、余り聞かれないし「落語事典」に出てないものもある。
しかし「磯の鮑」では本当はそんな事を教える師匠は居ないのに、いたずら好きな連中に担がれて与太郎が「女郎買いの師匠」だと言う人の所に行かされるが、指名された人は驚いて適当な事を言って帰す事になる。

師匠は普通、家を稽古所として弟子の来るのを待って教えるのであるが、教わる方が資産家や大店の旦那や家人となると、稽古所に通うことなく、自宅に呼んで出稽古をして貰う「寝床」の旦那のようなのもいる。このような場合は師匠にとって有り難い弟子であり、月謝も高いし、食事付きということもあり、いろいろな機会に特別な手当てもあり、この上ないお客である。

適当に褒めながら稽古をしていけば、腕そのものはそんなに揚がらなくても、まあ本職になるわけではあるまいし、発表会でそれなりの成果があればいいのだから、お世辞と芸の厳しさをない交ぜにして教えておく。そうして置く方が自分の収入の道を閉ざすことになることもあるまいしと、そこはそれ相応にあしらうのが人間の知恵と言うものだろうというのがあったのだろう。

しかし、前述の「お若伊之助」で一中節を薬屋の娘お若に教えたのも出稽古でやってもらったのだが、一中節以外のものまで教えてしまったのでお若は大変なことになってしまう。
稽古事の師匠という商売は人に教えるばかりが能でない。時には「百川」の歌女文字師匠のように町の衆に呼ばれて、三味線を弾き、端唄、小唄を唄って宴会に華を添えることも世過ごしの技である。

昔は偉い役人や軍人等が自宅で宴席を開く時にはその家の女たちでは三味線などの扱いが不便であり、さりとて芸者を呼ぶことははばかれるときには、近所の師匠を招いて一席やって貰うと言うような事があり、師匠のほうも、こうゆう場合に備えて端唄や都々逸などぐらいは心得ていたと言う。

またこうゆう事もあろうと正式に家元から認められた師匠の外に、少しばかり三味線が弾けたり,歌が唄える人は素人師匠を名乗ってこの様な宴会の出番の機会を狙らっていたという。
今は手習所の方は学制がしっかり布かれているから、教育の方は学校に任せるとして、教養、趣味として、また、将来、身のたつように準備のためピアノ、バイオリン、バレー、三味線、琴を習う人達がおり、また昔と同じく茶道,華道を習う人達も沢山いる。
皆夫々目的を持って将来に備えて勉学している姿は頼もしいものである。

平成21年2月
posted by ひろば at 08:29| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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