2009年04月01日

【095】旅籠屋(鈴木和雄)

落語には度々旅の話がとりあげられている。 そしてその旅路で泊まる旅籠屋が舞台になっていることが多い。 私達がよく聞く噺では「宿屋の富」の馬喰町の宿、「抜け雀」の宿、左甚五郎の泊まった「竹の水仙」と「鼠」に出てくる宿、「宿屋の仇討ち」の宿、「御神酒徳利」に出てくる神奈川宿の宿、「小間物屋政談」に一寸で出てくる小田原の宿、「品川心中」の飯盛旅籠等がある。

昔の江戸には旅籠屋は馬喰町に集中されており、この旅籠屋は大部分が公事宿であって、訴訟をする者や役所に用事があるものが宿泊する宿であった。幕府は初期においては江戸に滞在する旅人の統制のため馬喰町以外の宿泊は禁止していたが、その内、郡代の役所に行くものとか、寺社の参詣に行くものが増え、近隣の町の旅籠屋の宿泊も認めざるを得なかった。

地方に行くと各藩が統制していて、城下町での外部者による宿泊は隠密行動の監視のため一泊しか認められていなかったが、江戸市中は割合緩やかだった様だ。
一般の寺社参詣人や商人は自分の国のものと馴染みの定宿となっている馬喰町の周辺の宿に入ったり、 所中、江戸に来る商人は取引先や知り合いの家を訪れて泊まることが多かったと言う。

廻国修行僧や巡礼者らは馬喰町隣町の橋本町の木賃宿、門付けを行なっていた芸人(乞胸)の人達は下谷山崎町の木賃宿に泊まったと言う。木賃宿は本来、食材を持ち込み、宿から薪炭を買って、自分で煮炊きをするというのが原則だったので、宿料は安かったが、料理はお粗末で、風呂は無く、銭湯に行かねばならなかった。

旅籠屋は街道筋でいえば、東海道の五十三次の宿場があるが、ここでは伝馬の継ぎ立てを行なう負担の代償として、市立てが認められており、問屋場が設けられ、その地方の有力者が問屋として采配し、市に来る商人の人馬輸送を扱っていたが、その問屋が商人が泊まる宿(商人宿)を営み、その内、一般の旅人や寺社参詣の人も泊めるようになったという。

この問屋は土豪の有力者だったため、町の中心部に本陣を持ち、幕府の要人や大名などが宿泊できるようにしていた。そして次第に本陣、脇本陣、飛脚宿、商人宿を含む一般の旅籠屋と広がって行き、宿場町には各地に旅籠屋が設けられた。

商人宿は越中富山の商人や江州商人のように絶えず訪れてくる人達の定宿となっているものもあるが、一般の商人や寺社参詣人でも泊まれるようになっている一方、御用宿となっているものもあり、武士も泊まれた。この場合、商人や参詣人は宿泊費は180文から
200文ぐらいだったが、武士は幕府が定めた庶民が利用する時の半額の御定賃銭で泊まれたという。
飛脚宿は飛脚人のための旅籠屋で、これも御用宿であるが、一泊300文と高く、その為風呂は何時でも沸かしてあり、何時でも入れるし、宿泊環境もよかったと言う。
一方、各藩の城下町の旅籠屋は幕府の役人や大名が泊まる宿があったが、この為に徴用される人足のため、人足宿が設けられており、藩内の人が御用のために城下に滞在する時の郷宿もあり、大体、旅籠屋の多い町の外れに設けられていた。噺に出てくる一文無しの旅人はこうゆう旅籠に泊まったのかも知れない。

大阪の場合は昔から経済都市であったから、商品や物資等の貨物が激しく動くからさまざまな人が多数集まってきて、市内で泊まる事が多かったのでいろいろな形の旅籠屋が多数営まれた。一般の旅人のための宿、伊勢参り、高野山詣り、熊野詣で、等の人のための寺社宿、道者宿、勧進宿、商人宿、飛脚宿、これらに加え、京都―大阪間の三十石船や金比羅詣りに行く人の舟の待ち合わせの船宿があった。

船宿は主として船乗りや船で物資を輸送する人を泊める宿であって、普通の人は舟に乗るまでの待合せの宿であったが、宿泊はさせなかったという。
旅籠屋はお客である旅人にサービスをすることは勤めだったが、上方の大きな旅籠屋では芝居見物に案内したり、金比羅参りの客には船着場まで見送りするついでに市内案内をすることもあったという。

旅籠屋という形が出来たのは江戸中期だという。江戸時代の始め頃までは、旅人が泊まる所は全て木賃宿が主流だったそうだ。東海道のように割合早く交通が拓かれたところでは食料の確保が得易かったが、山間地では米の取得が困難で木賃制度が維持されたという。

17世紀中頃になると商人や富裕な農民が旅に出ることが増え、旅籠屋の利用が多くなったそうだ。またそのころになると旅人を泊まらせるだけでは収入が限られ、宿場の旅籠に課せられる伝馬役や御用宿の負担が宿場町の人々に掛かってくるので、所謂、飯盛女を置いて、夜の楽しみの場を設けるようになった。

その内、段々江戸の吉原の様な様相を呈してきたので、幕府は宿場維持のため、飯盛女を置く事を黙認するようになってしまい、享保三年(1718)に江戸周辺では品川、内藤新宿、板橋、千住の四宿の旅籠屋に一軒について飯盛女二人を認めるようになった。

しかし、吉原のように花魁と呼ばせず、あくまで飯盛女としてのみとなっているが、噺の「品川心中」にあるように筆頭女郎は板頭と呼ばせたことはご存知の通り。
天保期になると各街道で飯盛女が居る宿が増えてきて、一般の平旅籠屋の経営を圧迫してきた。
その為、平旅籠が飯盛女を借りて来て、客に世話することもあったようだ。噺の「三人旅」−別名「おしくら」又は「鶴屋善兵衛」では宿の亭主が客に対応する女が居ないため、外から用立てている話があるが、こんな状態だったのかも知れない。

飯盛旅籠が増えて落ち着いて宿泊できないようになると、寺社参詣のような大きな講の団体の人達は安心して泊まれない。この為、定宿を指定しておいて、宿泊する所を確保するようになった。これは旅人ばかりでなく、旅籠屋にとっても年に何回か来る講の団体客を確保できるので、双方にメリットがあった。

宿場町でも旅籠屋が栄えたのは五街道〈東海道、中山道,奥州道、甲州道、日光道〉であり、この内、東海道は旅人の通行が多く、繁昌したという。しかも品川は江戸を出て直ぐの宿駅でありながら、飯盛女が居る旅籠が多く、江戸の町内からこの飯盛女を目当てに来る男達が多く来て、大いに栄えた。「居残り左平次」、「品川心中」の噺がそれを示している。

その他、旅籠屋のもうけられる所は旅の障害となる峠や河川の近くが多かった。例えば、小田原の宿は箱根越えがあり、夜の明けぬうちに峠を越えようと松明を持って宿を出て行く旅人が居た。また大井川等の川越をする旅人は川の水量により、川留めがあったりして旅籠で待たねばならなかった。

関所もまた障害の一つで、関所を始めて通る旅人にとっては旅籠屋の世話があり安堵して通ることが出来たという。関所周辺の旅籠では有料で臨時の手形を出したり、関所周辺の裏道を案内して稼いだりしたという。

一般の旅籠屋は武士であれ、町人であれ誰でも泊まることが出来たが、身なりの良くない者、人相の悪い者に対しては旅籠屋の方で客を選び断ったが、宿泊は原則として相宿だった。この為一人旅の場合、旅籠賃以外に茶代(チップ)を渡さないと相宿(相部屋)となった。噺の「宿屋の仇討ち」でも武士が前夜は相宿をさせられ、落ち着いて寝られなかった事を訴え、何程かの茶代を出したのであろう一人部屋を確保できたが、今度は隣の部屋で若い連中が騒ぎ、何度も番頭を呼び出している。

しかし、相宿は同宿する旅人に用心しなければならない不安がある。「江戸の旅」今野信雄著にも昔の「旅行用心集」八隅芦巻著に記されている事柄がのせられているが、道中で道連れになった人が、如何に実直そうに見えても同宿したり、薬をすすめられても飲んではいけない(護摩の灰に気をつけるため)、酒乱、狂気の人には用心せよ、風呂に入る時は金を他人に預けてはならない、金は目の届く所に置けと言うようなことがのべられている。

昔の旅では道中いろいろな障害が発生する恐れがあり、旅をよくする人にとっては前記のように定宿は安心なものであった。江戸の馬喰町の公事宿は特定な宿と町村の関係が作られている宿なので、安心して泊まれるし、また泊められる。

各藩でもその国の領民が泊まれる宿があれば、その国の人が集まってくる宿となり、便利である。富山の売薬商人のように、所中同じ路線を旅する商人や旅なれた人は定宿を決めておけば、国の便りもそこに届けてもらえるので、連絡に便利であった。

富裕な商人の定宿については「御神酒徳利」の中で馬喰町の旅籠屋狩豆屋の番頭善六が鴻池のご支配人に連れられて神奈川宿の鴻池の定宿である新羽屋源兵衛の宿に泊まっている。ここでどんな事があったかはご存知の通り。

宿に着くと女中が足すすぎの湯を持って来てくれる。旅人が足をすすぎ、脚絆を洗っている間に荷物は部屋に運ばれる。部屋でお茶を飲んでいると亭主か番頭が宿帳改めに来る。しかし、これは風呂に入った後のこともあった。

茶代を前もって出すこともある。ことに一人部屋を欲しい時は前に払う。そうすると出されるお茶も菓子も違うし、蒲団も一枚多いと言われた。また、客扱いがよく、料理が格別で蒲団も良かったし、茶菓子も上等なこともあった時は旅籠代に加えて茶代をおいてくるということもあった様だ。

旅籠屋の規模は大体が3間、間口以上で、4−5間、間口の旅籠屋が多かったと言う。しかし、飯盛旅籠は平旅籠屋よりも間口が大きく、品川ではいずれも飯盛旅籠の方が大きな構えをしていたという。

旅籠屋は座敷の畳数と部屋の数で宿泊客の収容数がきまってくる。川崎の宿では20畳の宿から160畳の宿があって、平均70畳だった。中山道の山間地の旅籠屋は20畳から60畳まであり、平均は36畳で大体が規模が小さい宿だったという。

これらに比べると大阪、京都の大きな宿は部屋数102室、1室を4畳半とし、二人泊まれるとすると、200人以上が泊まれた。旅籠は二階建てが多かった。一階が家族の生活のための部屋、二階が客の宿泊室だった。

幕府は役人や大名のため、五街道の宿場町の人馬賃銭と木賃銭を定め、五街道以外は各藩
が定めた。旅籠屋は民間のため、公定金額はないが、一応夫々の身分によって、料金が定められた。「江戸の宿」深井甚三著によれば次のようである。

天保十三年の中山道の旅籠賃
武士上:180文中:156文下:132文
百姓、町人下:132文中:132文下:132文
商人2匁5分(250文〉〜3匁(300文)
品川宿の料金200文  
(安政以前)
東海道の上旅籠200文中山道148文
京都の通常の旅籠200文〜250文上旅籠3匁5分(350文)
大阪の下旅籠200文上旅籠3匁5分(350文)
客が望めば銀5匁〈500文〉金2朱(銀7−8匁)もあった
 

旅籠の食事は大体が一汁三菜であまり美味しいものではなかったという。但し茶代をあらかじめ置いた客に対しては別の采をつけたそうである。特に大きな旅籠屋を除いて料理人は置いていず、旅籠の女将さんと下女たちが料理したものだった。

食事の摂りかたは馬喰町の公事宿では宿泊者全員が台所で食事を摂っていたようであるが、一般の旅籠屋では客の居る部屋で女中さんの給仕で食事をしていたという。

風呂は江戸市内では火事の対策のため各家で風呂を焚くことは無かった。この為、町民は皆、銭湯に行かねばならなかったが、旅籠の客も同様な処置を受けざるを得なかったようだ。しかし、主要街道の旅籠屋は御用宿を兼ねている所も多く、元禄頃には風呂を設けており、風呂に入れることが売りの一つだったと言う。

ただ、風呂がたてられても、宿屋は薪代の節約と手間を惜しむため、一度沸かしたら、そのままで、追い炊きをすることはなかったので、大勢が入るとぬるい湯となり、皮膚病をうつされる恐れがあった。この為、七つ時(16時)頃までには宿に入らないといい風呂に入れないと言われ早くに宿に着いたのだそうだ。

しかし、文化文政以降になると、女中さんが入浴中の客にぬるければ沸かすと声をかけるようになりサービスが改善されたという。
もう一つ当時の旅籠屋で衛生面で問題なのは虱、のみが居たことである。充分な消毒薬品や殺虫剤がない時代は一旦客に持ち込まれると彼らは繁殖力が強く、なかなか退治が難しかった。零細な旅籠屋は頻繁な掃除や蒲団の天日干しは大変な作業だった。
この点、本陣とか上等な宿はこの心配が無かった。上宿を選ぶのは防犯ばかりでなく、虱のみのような害虫から身を守り、ゆっくり寝られると言うことでもあった。
旅籠屋は経費節減のため、夜具として蒲団の上下は提供したが、敷布は無く、浴衣も無かった。この為、旅人は寝巻は自分で持参する必要があった。

旅人へのサービスとして江戸では芝居見物や市内見物の案内があり、京都では御所の見物やご宝物の拝見の案内があったことは知られるが、その他のサービスとして身軽に旅をしたい人のために前の宿場で荷物を預かり、客の確保を確実にしたり、帰国する客に対しては国元に荷物を送る飛脚屋を紹介したりした。

旅は何といっても日常とは違う異界の地を行くことになる。常に用心をして、緊張感一杯の生活を送らねばならない。そんな時に安らげる旅籠屋に入り、心暖まる美人の女将のもてなしを受けるとほっとして異界に居る事を忘れる。昔から宿の経営は女将に左右されるといわれる。まして江戸時代は旅人の殆どが男性であるから、客が来るかどうかは女将の腕に頼るところが多かったに違いない。そしてその伝統はいまも続いているのであろう。


平成21年4月

posted by ひろば at 08:29| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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