2009年06月01日

【097】「虱茶屋」から(鈴木和雄)

円生さんが旅の噺の枕で、地方に旅回りの公演に行った時、宿に泊まった所、虱に食われたので、これを掴まえ、宿の部屋の柱の割れ目に押し入れ、上から紙で出口を塞いでおいてそのまま帰って来てしまったが、一年後また同じ宿に行って、同じ部屋に泊まることになったので、虱を柱に埋めた事を思い出し、それを探し当てて、出口を埋めていた紙を取り除いてみたら、一年前の虱が、こんな恰好で死んだようになっていたと、自分の顔で口をすぼめ、頬をやせたような形にし、目と眉毛を下げた様子が、余程その虱の風体を表していたのか、会場が大笑いの渦に巻き込まれていたのを思い出す。

この話は「虫の文化誌」小西正泰著に書かれている橘 成季の「古今著聞集」(建長6年、1254)の話で「ある田舎者が京に上り、宿で大きな虱を掴まえたので、宿の柱を削って、穴をあけ、そこへ虱を閉じ込めてしまった。翌年またその宿に泊まったので、その穴を見てみると、虱が痩せてはいるが、動いているので、取り出して、自分の腕の血を吸わせてやったが、その後が痒くなり、大きな腫れ物となり、それがもとで死んでしまった」と言う話がある。

標題に掲げた「虱茶屋」は先代の円馬さんや助六さんが演じて大きな笑いを取っていた噺であるが、身振り、手振りが可笑しく、仕方噺の典型的なものだったのであろう。
「茶目気のある旦那が乞食からガラス瓶一杯に虱を求め、これを持って茶屋に行く。そこで大勢の芸者や幇間を集め、「襟占い」と称して襟元を見る振りをして、そこへ虱を二、三匹ずつ入れていく。
宴会が始まると虱が動き出し、芸者、幇間が痒がり始まる。そしていろいろな恰好をして、体を掻き始める。

この外、虱の噺では「虱の選取り」と言うのがあるが、落語事典で見るだけで、聞いたことが無い。
「ある男の首筋に虱が這っていたので、捕ってやったら、その男が、断わりもなく俺の虱を取ったという。 親切のつもりでやってやったのだが、逆に文句をつけられたので、自分の衣についていた一匹を返すと、こんな小さいのではないと、更に、ごねる。 別のものを出してやると、これも違うという。 そこで親切な男は袂から ごそっと虱を出して「どれでもいいのを持って行け」と言う。

この様に虱は庶民にとっては最も身近な虫だった。 身近な所か我々人間の血を吸って生きている害虫なので、彼らは人間に寄生することによって、世代を継ないでいたのである。
百科事典によると、虱は人間の体毛の根元に卵を産みつけ、人の体温の下で胚子発育期間の9日間を過ごし、幼虫になり、吸血が出来るようになると8−9日を経て、成虫になると10時間以内で交尾し、2日後に産卵するというから、すごい繁殖力がある。平均一ヶ月、最長2ヶ月ぐらい生きるという。しかし、寄生体から離されると直ぐ死ぬというし、別の動物の寄生では生きられないそうである。

欧州の昔は上流階級の貴婦人でさえ、虱にたかられ、痒くても人前で虱を捕る事は無礼であるので、我慢をしたが、兎に角、痒いから掻く為に、孫の手を、いつも持っており、これを使って痒みを留めたという。 殊に今のように所中、風呂やシャワーに入ることは出来ず、また衣服も自分にピッタリしたものを着ているため、そんなに簡単に着脱が出来ないため、一旦虱に捉まると苦労していたそうである。

欧州では貴婦人が孫の手を利用していたように、日本では女の人は頭の髪に簪を指していたが、この簪も元々は髪につく、あたま虱による痒み対策に用いられたそうで、それが段々装飾品になっていったということである。

日本では江戸時代は庶民は火事を恐れて、自家用の風呂を焚くことはせず、湯屋に行かざるを得なかった。当時は今のように衣類入れやその置き場を消毒するようなことは全く無かったから、湯屋に行く人々は、風呂敷に着替えの衣類を包み、湯屋に行ってこの風呂敷を拡げ、その上で着物を脱ぎ、そのまま風呂敷を包み、床の上に置いておくという事をしていたようだ。

これが虱がたかる事を防ぐ手段だったと言う。 風呂敷と言う言葉はこれから出ていると言われる。
しかし、虱などはいくら注意しても、たかってしまい、家に持ち込むことも多かったようだ。殊に大店の様に多くの手代や小僧が住む所では皆が痒がり、店のおかみさんが下女たちを指揮して虱退治をやったと言う。

虱を見つけて一つ一つ潰していくのも、虱退治の方法だが、これでは能率が悪いと、割合早くから殺虫剤や防虫剤が考えられたようだが、それ以前や薬が無い時は熱湯をかける以外に手は無い。それに寝具などは天日に干しておくのも、隠れた虱を追い出すのに効果的だったそうだ。

前記の「虫の文化誌」によると、防、殺虫剤の類は割合早くから中国などで使われており、二世紀頃に編まれた書物によると、既に水銀や雄黄(天然硫化砒素)で虱の駆除をしたという。また別の本では水銀、銀朱(硫化第二水銀)、ビヤクブ、ショウブその他を使っていたという。

日本では江戸時代にはアタマ虱には大風子の油を髪に塗ったり、銀朱を櫛に塗って髪を梳くことをやっていたそうである。その他、今は我々には判らない薬草や植物(ももの葉)を使っていたそうだ。
虱には頭の髪の毛にたかるアタマ虱、衣服について身体の血を吸うコロモ虱、これはアタマ虱から派生したものだそうだ。 上記2種とは異なる種類で属する科も違うケ虱がいる。

ケ虱は亭主の浮気の証拠になり、よからぬところで遊んできたことが判るので、夫婦喧嘩の元となり亭主にとっては戦々恐々の害虫だったようだ。 TV などで時々見るアフリカの原住民が頭に泥を塗っている姿はアタマ虱を防ぐもので、日本でも昔は油を塗ることがあったそうだが、それが現代のポマードやヘアークリームに発達し、今は香料などを入れ、おしゃれな化粧品として使われているのだという。
この虱は人間にたかって、血を吸い痒みを覚えさせるだけなら、まだ、ましだが恐ろしいのは、伝染病である発疹チブスを媒介することである。この病気は法定伝染病でコロモ虱が媒介するリケッチヤが病原体だそうだ。この病気は戦争があったり、飢饉、不潔な生活があると急に増え、人々に害を与えるものだという。

戦争中に発生すると戦争の勝敗に大いに影響したようである。ナポレオンがロシヤに侵攻した時に、最後は冬将軍にやられてフランス軍は敗退したと聞いていたが、本当はこの虱軍に攻められて軍勢が半分以下になり、退却することとなったのだという。敵襲を恐れたのと、寒さのためお互いに身体を寄せ合って寝ていたので虱の繁殖と伝染を早めたのだという。他の戦争でも発生した塹壕病なども虱のせいだという。

第二次大戦の末期のアウシビッツでも虱の発生があり、多くの人がガス室に行かされる前に虱のために亡くなっていたそうだ。それを考えると今でも内戦やイラク戦争で他所の国に避難している人々がテント生活をしているところでは虱にやられているのではないかと危惧するものである。

我々の世代の人が経験しているのは、日本の敗戦で急激に広がった虱の害は風呂に行っても、満員電車に乗っても移ることがあり、当時の占領軍であるアメリカから持ち込まれたDDTが学校や集会所で,頭や襟首に撒かれて体中、真っ白になっていた姿を思い出す。

このDDTの威力は効果適面で、このため虱は殆どなくなったが、今はこのDDTは長期に残留するという害の方面が強調され、全く使われなくなっている。しかし、この薬は一時はノーベル賞を得るくらい人類に貢献してくれたのであるが。

虱は昔は直接しらみとは言わず、隠語と言うか、別の形の言葉で優しく表現していた。それが、「観音様」とか、「ホワイト・チイチ」とかいう言い方であったようで、観音様は虱全体の姿が白く、白衣観音に似ているように思った人が名づけたのであろうか、またホワイト・チイチは白い体色の虫ということで呼ばれたのであろう。

ところで虱の体が白いというのは我々日本人だけらしく、虱も寄生する人の肌の色によって変っているのだそうだ。黒人に寄生する虱は黒色、印度のヒンズー人には暗黒色、中国人や日本人には黄褐色、アメリカ・インデアンにはオリーブ色、ヨーロッパ人には白色だそうだ。 これは彼らが寄生して吸う血によって体色が変っている事を示すものなのだろうか。

欧州の昔の場面を示す映画など見ていると男の人がかつらを被っているのを見ることがあるが、これなども虱対策の一環だったそうである。あまりに髪の毛に虱がつくので、頭を丸坊主にしてしまい、かつらを被っていた。しかし、このかつらが人毛で作られていたため、これにも虱がつき、頻繁に洗ったり、整髪をしなければならず、一苦労だったという。

いくら血を分けた虫と言えども痒みが生活の大きな障害になり、落ち着いて仕事や寛ぎが出来ない。その為、昔の人は苦労して防虫、殺虫といろいろな事を考えていたのであろう。
噺の「虱茶屋」にあるように虱を遊びの道具として使ったと言うことは今では不衛生、不健康の極みであり、考えられないことである。噺が作られた頃は、虱が発疹チブスの病原体を媒介するなんていうことは知らなかったから笑い噺のネタとしてとりいれられたのであろう。


平成21年6月
posted by ひろば at 08:31| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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