2009年07月01日

【098】江戸の花火師、鍵屋と玉屋(鈴木和雄)

初夏が訪れ、大川(隅田川)の川開きが近づく頃になると落語の「たがや」が、よく演じられるようになる。三代目金馬さんがこの「たがや」をNHKで演じた時、解説の玉置さんが「ざっと265年前の第八代将軍吉宗の享保18年(1733)に前年に起きた大飢饉とそれに続くコロリの発生で多数の遺体が大川に浮かんだが、これらの慰霊のため、川開きが行なわれ始めたという記録がある」と言っていた。

しかし、その頃はまだ、現代に見られるような大規模なものでなく、夕涼みの舟に、花火を売る舟が近づいて来て、客の注文に応じて竹竿の先につけた、節を抜いた竹の筒に火薬を入れ、それの口に火をつけて、火薬が勢い良くほとばしり出る様を喜んだに過ぎなかったといわれる。

その後、段々、花火の火薬の製造について花火職人が工夫し、競い合って大きな花火を打ち揚げるようになり、夏の夜の大空に大輪を咲かせたり、仕掛け花火も作られ、現在のようになってきた。
花火はそもそもが、火薬が種である。その火薬は7世紀の頃に中国で発見されたという。その頃、中国には錬丹術師とか錬金術師とか言われる人達が、長寿の薬や金を作りだす技術を研究していたという。

彼らはいろいろな薬草や、鉱石や土、木炭を混ぜたり、割ったり、叩いたりして、自分の目的のものを作りだそうとしていたが、ある時、当時は印度と中国でしか無いと言われていた、硝石を混ぜて処理をしている内に一瞬の光と熱が発生し、研究小屋を焼いてしまった。彼らはこのことで硝石に注目し、更に研究を進め、硝石、硫黄、木炭を混ぜて、所謂、黒色火薬を作ることに成功した。

そして、この黒色火薬が後になり、シルクロードを経て、イタリヤのローマに至り、鉄の筒の中で点火することにより、鉄球や鉛球を飛び出させる威力があることがわかり、鉄砲に発展したといわれる。
イタリヤなどでも、始めの内は、当時の上流階級の連中がいろいろな筒や、ストローのような小さい筒状の物に入れ、これに点火して遊ぶというやりかたで、花のように出る火の散る様子を楽しんだという。

この花火が日本に傳わったのは、1613年に英国人が来日し、家康に各種の珍しい物を献上した時、その中にあったのが、中国製の花火だったと言われる。 この花火は手筒花火といわれているもので、筒に詰めた火薬の先に火をつけることにより、順次、火薬が破裂して、筒口から火が外にこぼれて、明るい光の花が落ちていくというものであった様だ。  しかし、伊達政宗は24年前の天正17年に唐人から献じられた花火を楽しんだという記録もあるそうだ。


日本に火薬が伝来したのは天正12年(1543)にポルトガル人が種子島に漂着し、二挺の銃を種子島の領主が買い上げて、これと共に火薬の製法について学び、また、鉄砲の製造法も学んだといわれる。これを堺の商人が買い上げ、また、河内国の城主長男が紀州に持ち帰り、研究させたという。
わが国は丁度、戦国時代で鉄砲の需要は急速に広まり、鉄砲を多数持っているものが天下を制することになっていった。

一方、平和になってくると、三代将軍家光などは花火に大変興味を持ち、江戸城内ばかりでなく、大川や品川まで出掛けて,花火を楽しんだといわれる。 この頃になると、江戸の市中にも花火を楽しむ人々が増え、花火売りが多数現れた。しかし、何と言っても、花火は火事のもとである。幕府は慶安元年になると、花火の遊びをご法度にしたのであるが、この禁令を犯してまで、花火遊びを続ける人はあとを絶たなかったという。

今の奈良県の大和の篠原村の弥兵衛という男が、万治2年(1659)に江戸に出て来て日本橋横山町に小さな店を構えて、玩具花火を作り、売り始めた。まだ、この頃は葦の管に小さな火薬を詰めたもので、それに火をつけると火の炎が出て来て、そのあでやかな光と色に人々の人気を拍し、よく売れたという。 これが現代まで15代に亘って続いている鍵屋の始めであるといわれている。(?,15代は家が変わっている。)

一方、「たがや」の噺に出てきた玉屋はもともと、鍵屋の手代で在った男が独立して、両国吉川町に店を出し、玉屋市郎兵衛を名乗り、営業を始めたものといわれる。
鍵屋、玉屋の店名は両者とも守護神として、お稲荷さんを信仰していたが、玉屋は玉を持った稲荷を、鍵屋は鍵を片手に持った稲荷を祀っていたため名付けられてという。

しかし、鍵屋と玉屋が共に競合しながら営業をしていたのは、約30年で、玉屋は天保14年(1843)に火事を出してしまい、営業が出来ないことになってしまった。この火事で玉屋は全焼したのみならず、町並みの半町ほどを類焼させてしまい、重罪の失火罪に問われると共に、この日は12代将軍の家慶が日光参拝に行く前日だったことから、幕府の重要行事に支障を与えたため、玉屋は一代限りで江戸からの追放を受け、玉屋は敢え無く江戸の花火師から姿を消すことになってしまった。

その後はただ、「玉屋」「鍵屋」の呼び声が花火大会の度に聞かれるだけになってしまったのである。
この様に、花火が盛んになった理由の一つに硝石の国産が出来るようになったということが揚げられる。前記したように硝石は印度、中国からの輸入がなければ黒色火薬は作られなかったが、当時、中国では既に硝石の原石ばかりでなく自分達の手で作る事を研究して、成功していたという。



日本では鉄砲の伝来後、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に捕まえた明軍の火薬技術者から硝石の製法を聞きだし、これを国内に持ち帰って硝石の国産に励んだのだという。
昔、古い家の床下の土には硝石が含まれており、この土を舐めると始め、甘く感じるが、後になると苦く感じるのは、硝石が含まれているという証拠だといわれたという。

古い家の台所や、馬小屋付近の床下の土には多量の硝石が含まれていることが判り、これを水に溶かし、灰汁を加え、上澄みを取って煮詰めると、硝石が得られたと言う。しかしこの方法では、一回、床下から取ってしまうと50年以上も取ることが出来ない。

そこで、フランス人が考案した硝石を作る斎養場を作るならば、2−3年で出来ることが判り、干し草に下水の溜り水や風呂の水、古池の腐り水、魚の内臓や血、鳥の死んだものをつけて腐らせた水をかけて置く、更に月に一回、牛馬の糞の腐れ水を撒いておくということで硝石採取までの時間を短くすることが出来た。

一方、加賀藩では秀吉が朝鮮から連れて来た火薬製造技術者を預かり、飛騨山中の五箇山で、この硝石の製造に当たっていた。その為、藩は硝石の製造に従事した農民には年貢の米の上納の減免までして、硝石小屋の維持に努めたという。この小屋は大変な臭いを発し、悪臭に参ったが、特別な手当てまで出していたそうである。

しかし、秘密維持のために五箇山付近は、外部との接触を禁じて、加賀藩の秘密の火薬工場として利用したという。ここでの硝石製造方法は蓬を中心とする雑草や大根の葉などの植物、人糞、蚕の糞を土の上に積み重ねる方法で作ったといわれる。

この様な先人達の異常な苦労と非常な努力の研究があって火薬の基となる硝石が作られ、それによって火薬が多量に製造されて、天下が平定されて、平和な国が出来たのであるが、
花火遊びと言うのも発達し、時には火事を生じさせ、人々の生活に支障を起こすこともあったが、夏の夜の遊びに大いなる貢献をしてくれたのも確かであろう。

いま、私達が花火大会などで夜空に咲く大輪の花火が炸裂する光景を見る時、一瞬でも昔の人達の苦労を思い出すことが出来るだろうか。 


平成21年7月

参考図書:「花火の科学」 細谷政夫、文夫共著
       「花火大会に行こう」 武藤、小野共著
posted by ひろば at 08:32| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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