2009年09月01日

【099】小僧の生活(鈴木和雄)

江戸の落語には江戸の大店(おおだな)や中小の店で働く子供達、所謂、小僧、(上方では丁稚)の話がよく出てくる。その中には小僧が噺の主役になったり、噺を盛り上げる重要な脇役になったりして登場してくる。

「文七元結」の噺では左官の長兵衛が始めから出て来て主役となっているが、小僧の文七無しには噺は成り立たないから、準主役といえる。「悋気の独楽」は焼き餅焼きのかみさんとその亭主が噺の中で出てくるが、二人の中で動いているのが小僧の定吉で、亭主のあとをつけて、お妾さんの家に行ったり、帰って来てかみさんに報告して、旦那がどちらに泊まるかを、独楽を回して引導を渡している。

江戸落語の「四段目」、上方落語の「蔵丁稚」の小僧は全く主役を演じている。小僧の仕事である使いに出されたのが朝の内だが、帰りに芝居小屋に入りこんでしまい、午後遅く店に帰って来て、しらを切ったが、主人の計略にはまってしまい、芝居を見ていた事を白状させられてしまった。蔵に入れられて、寂しさとひもじさに耐えかねて、芝居の真似をするという立派な主役である。

小店では「火焔太鼓」の古道具屋では親類から預かった子供を小僧として雇って居るが、この子が主人の買ってきた古臭い太鼓を掃除のため、はたいたら、思わず音が出てしまい主人がおお儲けをする端緒を作ってくれた。

「人形買い」に出てくる店の小僧は客に従って、人形を背負って客の家に行く途中で、店の若旦那と女中の話を持ちかけ、小遣い銭を稼ごうとしている。
「百年目」の小僧たちも番頭に怒られながら仕事をやっているが,紙縒りを作るのにも遊び半分でなかなか完成できない。怒られれば、後ろに廻って舌を出している始末で反抗期の小僧の姿を示している。

「引越しの夢」では番頭がすこし可愛い子が女中に来たというので舞い上がってしまい、店の閉店時間さえも繰り上げており、小僧が隣の子供に早仕舞いを得意がると言う始末。
その他、噺の中で小僧の生活の姿が語られるのは江戸期から明治にかけての働く子供たちの動きを私達に示してくれているのであろう。

「江戸店(だな)犯科帳」林玲子著では主として京都に本店を持つ、近江商人の「白木屋」について書かれているのであるが、同書に依れば当時、江戸に店を持つ商人の多くは大阪、京都に本店を置き、その支店として江戸店を置いたのであり、その雇い人は殆ど、関西方面の人達で構成されていたということである。その為、小僧と言えども関西から採用し、江戸の店で教育し、手代から番頭へと出世して、店のために尽くすように仕向けられていたと言う。

小僧となり入店してくるのが、12−13歳であり、勿論、何もわからないのであるから始めは直接、店の仕事にはタッチさせない。 小僧には所謂、雑用である店内外の掃き掃除、拭き掃除,煙草盆、灰吹、火鉢の準備、来客時のお茶だし、後片付け、手代の後に付いて小さな荷物の運び、大きな荷物は男衆がやる。夜間の照明器具の掃除と準備、当時は江戸末期までは燭台の芯や油の準備、行灯、蝋燭の準備、江戸末期から明治初期はランプが入り、これの掃除と整備が大変だったという。

また店の貸し番傘、下駄、提灯の管理、店の神棚、仏壇の掃除と水,茶などの供え物の用意、江戸の道を覚えると電話や電報がない時代であったから手紙や書類の持ち運びをさせられる。 この様な場合に備えて、小僧は木綿の着物に前掛け姿で、どんな寒い日でもその前掛けの下に両手を入れて、店に坐っていなければならず、火鉢に手をかざすことは出来なかったそうである。

ある江戸の店では小僧は上に上がる事はできず、脇の下に風呂敷を挟んで土間に立っていて、用事が在る時は直ちに出かけられる様に待機させられたという。
また、奥向きの仕事で子守や、主人の子供のお稽古事の送り迎え、女将さんの用足しや水汲み(これが大変だったという、殊に冬は辛い仕事だった)がある。そして、年嵩になると子供衆(小僧達)の監督があった。

そして大切なのが金の持ち運びである。昔は金の運搬は割合気安く行なわれたようである。
「江戸府内絵本風俗往来」菊池貴一郎著に依れば売掛け金の受け取りを小僧にさせ、これを取りに行った小僧達が帰りの途中、露店や絵草紙屋を冷やかしながら歩き、九段下辺りの野原で100両―150両入った財布を地面の上に放り出して遊び呆けていたという絵が描かれている。当時の著者が生き馬の目を抜くと言われる江戸でよくこんな呑気なことが出来たものだと呆れている。

同じような話でこれは小僧ではないが、将軍家金子御用を務める家から毎日10−20人ぐらいの襤褸をまとった一群の人達が千両箱を天秤棒の前後に一個づつ担ぎ、江戸市内を運搬していたと言う絵を描いているが、そして何の事故もないのは不思議だと書いてあり、金の扱いが割りあい大様だったのだろうと思われる。

小僧達は「寝床」にあるように時々は主人の稽古事のお披露目につき合わされることもあったが、普段は夜は習字と算盤、数字の符号化したものの勉強をしなければならなかった。

手代になって行わなければならない客との取引の状況を記帳することは小僧時代はさせてはならないものとされ、絵付板(荷物に付ける目印の札)や判取帳(金銭や品物の授受の証印を受ける帳面)は扱わせてもらえなかった。帳面をつける硯箱の墨さえもすらせてもらえなかったと言う。
小僧は同じ時期に入店した者は同期であるが,ひと足先に入ったものは、既に格が上であり同年でも先輩になる。と言っても先輩でも私用に子供を使ってはならないとされ、夜具などを後片付けさせることは禁止されていた。

小僧は一回の入店に10−20人ぐらい入ってくるが、その内2年ぐらいの間に慣れない環境で病気になったり、商売に向かないと判定されて、家に送り返される子供もあり、小僧から元服して若衆になり、手代、番頭に進んで行くのであるが、手代になる前に3分の1が脱落して行ったという。台所仕事や力仕事をやる男衆は中途採用もあるが、店の中枢幹部となる雇い人は中途で入ることはなかったそうである。

現代のように携帯電話も出退勤タイマーもない時代は一旦、仕事と言って外に出てしまうと、連絡する手段はなく、割合、時間的な束縛はなかったようだ。「文七元結」の文七も顧客に請われるままに碁を打っていて、時間の過ぎるのを忘れて遊んでいて、あわてて、客宅を辞す時に、大事な受取金を忘れて行ってしまった。

「四段目」の小僧も使いの途中で好きな芝居に気を取られて、入り込んでしまい、帰る時間を忘れている。 本来なら監督者である「百年目」の番頭でも、勤務中に店を出て、客との付き合いという言い訳であるが、のんびり、芸者、幇間を伴い花見に行っている。余り時間にとらわれない大様な時代だったのであろう。

しかし時間の方は割合ルーズとしても、毎日、戴く食事の方はつましく、毎回一汁1菜の添え物とは行かず、稀に動物蛋白質の魚がつく程度でいつもは味噌汁に野菜が入ったものにご飯を戴く程度だったと言う。

食事の時間でも小僧は手代、番頭が食べた後でないと箸を付けることが出来なかった。まるで今の相撲部屋のちゃんこが上位の力士が食べた後でやっと格下の力士が取れるようなのに似ている。食事も残った範囲の中で食べなければならず、先輩の連中は料理部に自分の金で注文したものを取って食べることが出来るが、小僧は給与そのものがないから、店から与えて呉れた範囲で腹を満たさねばならなかった。

前記「犯科帳」に依ればご飯は米飯だけで、麦飯は飢饉の時に出るぐらいで、いつも白米飯であり、脚気になるものが多かったと言う。
小僧達の罹る病には脚気の他、眼病,回虫による腹痛、胃腸炎、感冒、肝炎、また栄養が悪いので腫れ物や湿疹がおきる。


今のように防虫剤などない時代であるから,蚊,蚤、虱(風呂屋でうつされる)などや外の害虫で刺されてできる腫れ物がある。  これらの病により、入店初年から病床につき、直らないままに親元に帰えさせられたり、死亡するものもあったという。

また、「双蝶々」の長吉のように、始めから手癖が悪く、悪友と共に外部で盗みを働くものがいたが、前記著書によると、店の内部の引出しから小銭を盗んで、買い食いに行ったり、家出をしたり、店の品物を盗んで売り、芝居見物の費用に当て、その小屋で鮨や、果物を豪華に摂っていた等の話もある。

手代や男衆になると、小僧にはない遊びを覚え、女郎買いや博打、遠くの料理屋での豪遊など大胆な犯罪を犯しているが、これらも店の品物や金を横領しての仕業である。
店側ではこれらの仕業が発覚した時は,家出をした時は店の小頭衆が関係筋を探して、店に戻させるが、盗みにあった時は持っていた金の範囲で弁償させ、家に帰させるが、店の雇い人から縄付きのものを出すことは信用に傷がつくという建前で、割合、穏便に解雇して損害金については余り深くは追求してはいなかったようである。

今は社内の損害でも警察に訴え、外部の力で事を解決していくが、昔は余ほどのことが無い限り、奉行所に訴えることも無く、また雇い人によって生じた損金は資本が大きい昔の経営者にとっては大した額ではなかったのか、名誉と信用の方が大切だったのか、あまり外に出したくなかったのであろう。その位、のんびりした時代だったのであろう。

平成21年9月
posted by ひろば at 08:33| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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