2009年10月01日

【100】蕎麦切り(鈴木和雄)

今、私達が「美味しい」と言っている手打ち蕎麦は、昔は武士のお手打ちと言う言葉を連想させるので「蕎麦切り」と言われたという。
落語の中で蕎麦に係わる噺で私達が一番聞きなれているのが「時蕎麦」であり「蕎麦清」であろう。この他、落語事典を見ると「蕎麦の殿様」、「よいよい蕎麦」、「ヒョットコ蕎麦」があるが、余り高座に掛けられていない。

「ヒョットコ蕎麦」については一度、蔵之助さんがNHKのお好み寄席の司会の席で一寸、演じているのを見たが、後は聴いたことがない。噺の中で出てくるのは「中村仲蔵」が柳島の妙見様に願をかけて、満願の日に近くの蕎麦屋に入って雨宿りをして居る時に雨に降り込められた浪人者の姿に発想を受けるところがある。

また、「おすわどん」の噺では先妻をいじめて亡くし、後釜に入った妾が、毎晩、「おすわどん」と言う呼び声に怯え、よく、その声の元を捜してもらったら、実は「お蕎麦うどん」と言う売り声だったと言う話がある。これらの噺は江戸後期の話であり、所謂、今の手打ち蕎麦―蕎麦切りを摂る話である。

蕎麦は始めから今の様に細くきった麺として登場したわけではないと言う。 蕎麦は元々の原産地は中央アジアで、バイカル湖付近から印度北方の山岳地帯の辺りだと言われる地味の薄い荒地で栽培されたと言う。日本へは奈良時代に中国から朝鮮半島を経て渡来しており、種をまいてから75日ほどで収穫が出来るので、備荒食料、又は救荒食品として旱魃等の飢饉に備えて作ることが、既に元正天皇の養老6年(722)に命じられている。

蕎麦は寒冷地の栽培に適しているので、始め、今の滋賀県の伊吹山の山麓に植えられ、順次、気候風土の適地を求めて、信州、信濃、甲州へと広がって行ったという。
こめ、むぎはイネ科の植物であるが、蕎麦はタデ科に属している。この為、年2回収穫が出来るから米、麦の収穫が少ない時はその不足分を補う代用食として、食べられることがあった。

江戸時代になって寒冷地での植栽が進み、生産量が増えて、都市部に流入する量も多くなったと言う。  蕎麦は渡来以来、蕎麦の粒状のまま食べたり、粥にして食べたり、蕎麦掻きにしたり、蕎麦の焼餅を作って食べていたようである。 蕎麦掻きについては豊臣秀吉が大変好んで食したと言われ、蕎麦粉を熱い湯を少々入れてかき混ぜ、粘りが出てきたところで味噌だまりや醤油を添えて食べたと言う。


私達も子供の頃、第二次大戦後の食料難の時代に、父親が何処から買ってきたか、貰ってきたのか知らないが、蕎麦粉を手に入れ、これを夜食やおやつに熱い湯でかき混ぜ、餅状になったところで醤油を少々つけて食べた記憶があるが、なんせ単調な味でお腹はいっぱいになるが、直ぐ飽きて3日ぐらい続けて食べたら、後は食べられなかったと言う経験がある。秀吉が喜んで食べたというのは余程、膳部の人達が工夫して汁の作り方を秀吉の口に合うようにしたのであろうと想像される。

蕎麦切りは資料によれば天正年間(1574−92)に作られ始めたと言う説と、江戸期のはじめ慶長19年(1614)に蕎麦切りを食べたと言う記録があるという話がある。 しかし、その頃はまだ、蕎麦粉を手で煉って延ばし棒で薄く延ばした物を切ったもので、まさしく生蕎麦であり、蕎麦の香りが美味しさを更に感じさせたが、何と言っても、粘性が少ないことから簡単に折れたり、切れたりしたことから、元禄期になり、蕎麦粉につなぎの混ぜ物をすることにより蕎麦の粘性を助けようとしていろいろなものが使われたと言う。

蕎麦に小麦粉をいろいろな割合で入れて見たり、米を煮て出来た重湯や山芋、鶏卵、豆腐、ふのり等がつなぎとして試みられたと言う事である。
当時は蕎麦汁として味噌だまりや大根おろしの絞り汁、削り鰹節が使われたが、醤油が普及するようになると味噌だまりの方はなくなったと言う。

現在は蕎麦屋さんは店で手打ちで作った蕎麦を客に提供しているものや、製麺工場で作った蕎麦を仕入れて提供しているものがあるようだが、江戸時代は神社や寺院、広小路等の人がよく集まる場所によしず張りの店で蕎麦を打ち、戸板をテーブル代わりにして、黒碗に盛った蕎麦切りに汁をかけて客に出していた。雑司が谷の鬼子母神の空き地で店を開いている図が資料に出ていた。

蕎麦切りを食べるには「もり」が上品とされ、碗に蕎麦を入れ、汁をかけて出すのは下品とされたが、後になり段々、そんなことも言っていられず、上流階級の人も「かけ」を食べるようになり、螺鈿の豪華な器が出て食べられる位、流行ったという。

五代将軍の綱吉の貞享年間になると蕎麦切りを蒸して食べることも流行り、半分ほど煮た蕎麦切りを客が来てから「せいろ」にのせ、蒸し器の上で熱くして、汁と共に客に提供することも行われたと言う。

一方、うどんの方は上方で流行り、大きな店が多数あったが、一部が江戸に来て、うどんを出す傍ら、蕎麦も提供するようになって、生蕎麦の暖簾をくぐるとうどんも食べられるようになったと言う。

元禄15年の忠臣蔵の吉良邸討ち入りの時、彼らは蕎麦屋に集合して、討ち入りの時を待っているが、この時には既に大きな蕎麦屋があったと考えられる。
「蕎麦清」に出てくる噺の頃になると清さんがいつも来ている店や、中村仲蔵が立ち寄った店もしっかりした店構えになっていたのであろう。江戸の蕎麦屋も幕末のころになると3762軒もあったと言われるが、これには夜、荷物を振り分けて売り歩く蕎麦屋は含まれていないと言うから、多数の蕎麦屋があったことになろう。

「時蕎麦」に出てくる蕎麦屋はよしず張りの店ではなく、天秤で荷を振り分け、前に蕎麦屋の屋号を描いた行灯を着け、天秤の上には屋根を付け、これに風鈴などを添え、蕎麦と汁と具、それにこれ等を温める火元を運んで売り歩いた。

この、夜になると天秤を担いで街に蕎麦を売り歩く蕎麦屋は昼の内は自分で蕎麦を打ち、具などの必要なものは煮たり、揚げたりしながら夜を待ち、蕎麦を売り歩いていたのだろうか。或いは菓子屋が副業としてやっていた蕎麦打ちの蕎麦を仕入れて売っていたであろうか。

もともと麺類の製造は菓子屋の領域であり、副業として蕎麦切りを作っていたことは不思議ではないそうである。京都の古い菓子屋には未だに昔の蕎麦打ちの道具が残っており、今もって蕎麦ボ−ロ−や蕎麦饅頭、蕎麦羊羹が売られていることはその歴史を物語っているのであろう。

「時蕎麦」では「しっぽく」を注文しているが、「かけ」が盛んになると、天保の頃には
小田巻、天麩羅、あられ、花巻、しっぽく、玉子とじ等の献立が現れ、蕎麦の中に煉り込む鯛切り、海老切り、胡麻切り、茶蕎麦も変わり種として好まれたという。

献立のうち今、私達が聞いても判らないものがある。

【小田巻】・・・碗の底に蕎麦を置き、その上に具である、鶏肉、菜、蒲鉾、椎茸を載せ玉子をかけて、汁を入れて蒸したもの。
【天麩羅】・・・蕎麦のかけに海老の天麩羅を入れたものであるが、今のように大きなものでなく、小海老を揚げたものだった。
【あられ】・・・蕎麦のかけに焼き海苔を切ってのせ、その上に貝柱の煮たものを散らしたもの。
【花巻】・・・蕎麦のかけに焼き海苔を切ってのせ、薬味としておろし山葵をつけたもの。
【しっぽく】・・・関西地方では未だに蕎麦屋に行けばお目にかかれるが、東京ではメニュウにさえない。で「蕎麦の事典」新島茂編の「しっぽく」の項を見たら、安政4年(1775)の「蕎麦手引草」の中にしっぽくの具として、松茸、椎茸類、つくいも、黒くわい、麩、芹が使われていたことが記されていたと言う。しかし、幕末の頃には具として焼き玉子、蒲鉾、椎茸、くわいが使われたそうである。

寡って、NHKで「お江戸でござる」の解説をしていた杉浦日向子さんはこの幕末の具を述べていたが、一方、「落語手帳」を書かれた江国滋氏は大阪の道頓堀の中座の隣にあった今井といううどん屋で食べたしっぽくには芝海老、蒲鉾、麩、海草が具だったと述べておられる。 江国さんが会ったのは現代のしっぽくだったのであろう。
【玉子とじ】・・・蕎麦切りのかけに玉子をといたものをかけ、蒸したもの。

「時蕎麦」では竹輪や竹輪麩が出てくるが、当時の蕎麦屋が経費節減のために使った具の一部だったのであろう。

蕎麦屋には今もって藪蕎麦と更科蕎麦があるが、藪蕎麦は蕎麦の甘皮ごと挽くので黒い色が残るが、つなぎにとろろを使うので、当時は江戸っ子に好まれ、汁は少し辛めで粋な蕎麦食いには一寸、汁に蕎麦を浸しただけで食べることが流行った。一方、更科蕎麦は蕎麦の実の中心部の白い胚乳部を取り出して作るため、白い蕎麦で光沢があって淡白な風味で定評があったという。

蕎麦は世界の人々の命を救ってきた。米や小麦が少ない時や旱魃の時に豊富な蕎麦粉が米麦の補助食品として人々の口に入り、命を?いできた。今でも日本では中国やカナダの蕎麦粉を輸入して、蕎麦を楽しんで食べ、平和な日々を送っている。まさしく蕎麦様様である。

平成21年10月
posted by ひろば at 08:34| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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