2007年02月01日

【071】商いの切っ先(鈴木和雄)

「百年目」の噺の中で、謹厳実直だと思っていた番頭が花見の場で見せた酔態に店の旦那は驚くが、翌日、当の番頭を呼んでいろいろ諭すことになる。旦那自身も店の金が使われたのではないかと危惧し、其の晩に直ちに帳面を調べて、凡そそうでないことが判り、番頭が得意先の招待で酒に酔い、狂態を見せてしまったと弁明し、詫びているのでこれは許したが、「例え店の金を使ってもいいから、得意先と付き合いをする時は、商いの切っ先が鈍らないように金を使って下されや」と言っている。

また「明烏」でも家に篭って、本ばかり読んでいる息子に親旦那が心配し、将来、店を継いで商いをする時に客を接待したり、同業者と会合をする時に、何処そこの茶屋がいいとか、何処の女がいいとか知っておかないと、恥をかき、商いの切っ先が鈍ることがあってはならないと諭し、町の遊び人と吉原にお篭りに行くことを許している。

この「明烏」の息子、時次郎はこれが契機で茶屋の酒の味を覚え、花魁に嵌ってしまい、果ては店の大金を使い果たしてしまう話に発展していくのだそうだが、親の意見も薬が聞きすぎてしまったようだ。

これらの噺で見る限り「商いの切っ先」が鈍るということは商用でお客と付き合う時に、相手への配慮を充分して置かないと、こちらが不利になり、商売がやりにくいということになり兼ねないということを言っているのだろうか。であるから遊び方も普段から何処のお茶屋は料理がいいとか、女たちのサービスが行き届いているとか、芸者なども気の利いたのがいるとかを事前に知っていないといけない。

そのためには金を使って遊ぶことも覚えておかないと、いざという時に茶屋の女将さんも動かないし、女達も自由に出来ないから、そこら辺を勉強しておけと教えていたのだろう。
また金の払い方について、遊び人と行った金については裏梯子を使い、帳場に行って、密かに払っておくようにと教えている。息子が割り勘で費用を分担させようというと、そんなことをしたら、後が怖いとまで言っている。

これなども江戸時代に武家の人達と商売上、付き合うことがあったと言うが、この様なときは費用は先回りして払って置くようにという教示だったのかも知れない。
しかし、こんな会合の費用は商いの切っ先のほんの一例であり、商人は武士の本当の切り合いに負けず、商売上の切り合いの世界だったというから、少しでも相手の切っ先が我が身に当たらず、逆にこちらの鋭い切っ先が相手に当たれば商戦に生き残れることになる。

そのため所謂、豪商といわれる商家はそれぞれの「家憲」「家訓」「店則」を作り、子孫もそれを守り、長く自分の商家が続くように諭していたのだろう。
殊に江戸時代は大阪商人とか近江商人という人々からは当時豪商といわれた人たちが輩出したが、商売のやり方、商人としての生きる術、商人の倫理についてそれぞれの立場から家訓等が残されている。

「近江商人」末永国紀著に依れば「武士は敬して遠ざけよ」という通則があったが、権力に依存して利益を得ることを潔しとせず、独立独歩自己の能力のみに信をおいて商売をするという態度だったが、幕府を中心とした体制の中でこの態度を貫くことは困難だったと述べられている。

商売の大本は金である。金即ち資金がなくては商売は成り立たない。そのため豪商といわれた人達も始めは早朝から働き、昼は勿論、夜も休まず働いた。円生さんの「鼠穴」に出て来る、兄に三文の金を借りて朝、昼、晩を働いた弟の姿を思い出させるようだったのではないだろうか。

そして始末をして資金を貯めた。この始末なる言葉はいずれの家訓にも出てくるものだ。始末ということは衣食住に贅沢を慎み、節約に励むことで、これに拠って資金を増やしていったという。

そして「商人道」藤本義一著に拠れば「商人は義理人情と信用が第一であるという。武士は主君に対する忠義を重んじることが生きる道だが,商人は客からの信用を失う事は商人としての道を断たれたのも同然だという。

藤本氏は更に「商売をするにはどんな商売をしたら儲かるかという知恵が無ければならない。自分が企画したものに独創性がないと同業者に真似されて客を取られかねない。
三越の前身の三井越後屋が栄えたのも「現金取引,掛値なし」「薄利多売」をモットーとしたアイデイアが人々の共感を得たからだという。

しかし、この為には先見性が無ければならない。この先見性は自分が行う商売についての「勘」を必要とするが、これもやみくもに自分で考えたことを出すのではなく、しっかりした情報を多く持つことが大切だといわれる。

昨今のように情報過多ということになるといずれの情報を取るべきかという判断にまごつくことにもなり、自分の知識と知恵がしっかりして無ければならないということになる。
自分の商売についての的確な情報を取り、これによる勘を働かせてこそ仕事の方向ずけをする知恵が生まれるのだという。
「商いの切っ先」には算用という商売の損得をはっきり決める計数上の判断力が無ければならないという。この算用は店の経営者である旦那は勿論のこと、店の奉公人もこの算用がしっかり出来ないと店全体が栄えなかったという。

店を運営するには旦那が資本を出し、番頭が営業の総括をし、実際の手足となって働く奉公人としては手代だったそうだが、この手代の能力を決めるのは藤本氏に拠れば、算盤がよく出来るか、独自で読み書きが出来るか、上下関係を弁えているか、言葉使いがしっかりしているか、新しい発案をすることがあるかということだったという。

実際に手代に人材を得た店は栄えたという。前記「商人道」に拠れば三井越後屋では暗算の達者な手代が40人もいたというし、彼らを考課する基準も仕入れ方の知恵、知識があるか、売り捌き方の工夫の巧拙、店頭での取引の敏速さ、客の接待の巧みさ、帳簿の管理整理、営業への目配り,公事のそつなき対応、賄い方への気配りが出来るかであり、かつ、上からの信頼、下からの人望の有無が昇進の際の基準になったといわれる。

そしてこの様な判断に合わない奉公人はどんどん外されていった。であるから大店では出来る奉公人は大切に扱ったという。噺の「しわいや」とか「味噌倉」に出て来るような、朝の味噌汁に自分の目が映り、これを箸で掴もうとするかの如き食事は摂らせる様な事は無かった。

江戸時代は食事は一日二食で朝は飯と汁に一菜それに漬物であり、夜は飯と汁,一菜のみという店もあり、家訓にこれを守るようにと書いてあった大店もあったようだ。
総じて大店は節約を第一に考えていたようで、始末という言葉が家訓に出て来る。

この始末とは物を大切に使えということで、けちとか吝(しわい)という意味とは違うと弁明している。始末屋は節約して財産を貯めるが、いざ社会に役立つようなことがあった場合にはどんと大金を出す。災害時の被災民に粥を出したり,橋を架けたりということをやる人達だったということである。噺の「しわいや」のような人達はそうゆう意味からは私欲をかくだけで店の発展は無かったのだろう。

「明烏」では父親が息子に吉原で遊んで人との付き合い方を勉強して来いと言っているが、
昔の大店の家訓では,遊里に通うのは財産と身体を損なうから、やってはいけないと厳しく諌めている。営業用の接待で客を上手に遊ばせるだけなら、商い上もうまく行くだろうが、自分が溺れるようになると店を潰すことになりかねない。

商家は始めのうちは「武家は敬して遠ざけよ」(近江商人の通則)だった筈だが、武家の年貢の蔵米などを預かり、蔵元として繁盛するようになる。更に両替商となり財産が蓄えられると大名の方から近づいてきて、大名貸しなどをやるようになり,何万両、何百万両を融通し、果ては特定の藩の台所まで預かり、苗字帯刀を許されるようになって抜き差しならぬ関係となり、初心は何処かに行ってしまった。

そしてこの様な大店は江戸幕府の崩壊と共に佐幕派に付いた豪商は倒産する羽目に陥った。
近江商人で三中井家という豪商は仙台藩に出入りしていたため、明治維新時には全ての財産を失い、倒産した。三井、住友のような目先の効く豪商は官軍派にも佐幕派にも、それ相当の財政的な支援をしていたので官軍派が勝利した時は潰されるどころか、益々発展して行ったのだそうだ。

これはやはり商人たちが優秀な勘と情報源をしっかり持っていて、時勢を見る目があったことで世の中の大きな流れの中で生き残れることが出来たのであろう。これなども豪商は家訓をしっかり守り、これを支えに営業を行なった賜物なのであろう。

そして更に商いの切っ先を鋭くし、常に相手を圧し、大きな争いの中で自らの知識と知恵をフルに活用し、創意工夫を重ね、果敢な決断力の基に、資金を動かし、優秀な人たちを使いこなして業務を行なったことが当時の栄光をもたらしたのであろう。

平成19年2月
posted by ひろば at 14:50| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/33671962

この記事へのトラックバック