2009年12月01日

【102】宿引き(鈴木和雄)

 江戸の昔と違って、現代はマスコミや情報通信の機能が充実しているから、旅行に出る準備として前もって宿泊先の旅館やホテルについて、予め自分で新聞雑誌で調べたり、旅行代理店に行って調べたり、電話で直接問い合わせたり、インターネットで適当な宿泊先を調べて、申し込みをして出発前に先方の旅館等の所在地を確認し、留守宅にその事を伝えておき、何らかの事態があった場合に連絡できるようにしている。

 この様に出発前の時間的余裕がある場合のみならず、急な出張や遠い親戚や友人などの不幸や事故があった場合でもインターネットは勿論、携帯電話でも旅の途中の交通機関の中からも、適切な宿を探して、行き先でまごまごしないようになっている。

 この様な旅人の事前準備のせいか、この頃は温泉地や観光地のある駅での、旅館やホテルの案内人の数が以前に比して少なくなっているような気がする。昭和の中頃までは、例えば熱海の駅前では旅館等の名前を書いた、旗やペナントを持った案内人が群をなして集まっており、夫々の旅館等の名前を叫び、旅客を案内し、前もって予約してある客は、それによって案内され待っているマイクロバスに案内され、旅館等にたどりつく事が出来た。

 一方、この案内人は所謂、客引きでもあり、まだ宿泊先の決まらない旅人を掴まえ、値段を示しながら自分の宿に誘う役目もある。交渉が纏まれば、この人もマイクロに乗せ、宿に案内する事となる。しかし、これは昭和期の客引きの状況であり、それ以前の落語に出てくる江戸期の旅籠の客引きは宿引きとも言われ、旅人を自分の宿に引きとめようと大変な苦労と知恵を絞ったようである。

 噺に出てくる宿引きは左甚五郎が泊まった「鼠」の子供の客引き、「竹の水仙」の宿の亭主、「抜け雀」の養子の亭主、「宿屋の仇討ち」でしょっちゅう三人で旅をする連中を案内した客引きがある。「竹の水仙」の旅籠のかみさんに言わせると、亭主は人の見る目がない能無しの客引きだとこき下ろされていたが、甚五郎作の竹の水仙の細工物が高額で売れることが判り、改めて客人の偉大さを知ったと言う、夫婦そろってのうっつけ者だったようだ。

 客引きには一般の旅籠ばかりでなく、川や海を渡る時に船待ちをする船宿にも客引きが出てくる。船宿に着いてから船が出るまでの時間はそんなに長い時間でもないが、一休みさせ、食事を出し、酒の好きな客には其のほうのサービスをするとなると、船宿にとっては大切な収入源である。

 船宿は船頭や船に係わる人は泊めるが一般の人は泊めることが出来なかった。であるから船に乗る旅客からの収入は大切であった。そこへ行くと江戸の周辺にあった四宿と言われる品川、新宿、板橋、千住と言われる旅籠は東海道や中山道、甲州道、奥州道の出入り口にあり、旅の宿駅の第一歩であるが、この四宿を目指してくる人達は旅に関係なく、夫々は旅籠に抱えられる飯盛り女を目的として通ってくる連中が多かった。

 噺の「居残り左平次」はそんな状況を説明しているが、幕府は当時、一軒の旅籠には二人までの飯盛り女を置く事を認めていたが、女を置く方の旅籠は幕府の目をかいくぐって7人から10人近くまで置くと所が出て来て、各店で競い合うようになる。この為、客引きが強引に客を引き込むと言うような事態が発生していったという。

 この様に男の欲望を掻き立てるが如き旅籠の施策は、本街道の各宿場でも飯盛り女を置く事が盛んになり、夫々各地で激しい客引き合戦が起こった。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」に出てくるが、弥次さん喜多さんの二人が旅籠の留女の強引な客引きに遭い、襟を掴れたり、袖を掴んで離さず、遂には袖がもぎ取られて致し方なく、その宿に泊まることになったとある。

 別の街道では錦絵でやはり襟を掴まれるところや、袖を引っ張られるところ、果ては被りものの笠さえ取り揚げられている絵もある。昔は街道の宿駅と宿駅の間には旅籠はなく、旅人はその宿駅に入るとその外れまでの何処かの旅籠に泊まらないと、その晩は泊まり損なうということになる。であるから、宿駅の中心から外れるとどんな旅籠であろうと、誘いに応じて泊まってしまうことになる。
得てして、街の外れの旅籠は小さくて汚い。しかし、これ以外に無いとすれば文句を言わず泊まらざるを得ない。

 吉原の廓や四宿の女郎屋に勤める若い者と言われる伎夫も宿引きとはいえないが客引きである事は間違えなく、店の前で遊び人を捕まえて、その人の持ち金を勘案しつつ、男の欲望を刺激しながら、店に上がるように勧めている。「居残り左平次」や「付き馬」の噺にあるように時として失敗するが、長く店に居られると言うことはやはり客引きの腕がよかったのだろうか。

 飯盛り女を入れた旅籠では夕べに提灯に灯が入った頃から夜遅くまで酒に酔った男の怒鳴り声や女の嬌声で、普通の客は落ち着いて寝ていられない。そこで飯盛り女を入れた旅籠とは一線を画した定宿が設けられる様になった。

 勿論、昔から商用の為、東西を往来する裕福な旅人は静かなところに定宿を決め、割合高い宿賃を払い、衛生的にも蚤や虱の居ない寝具で寝られるようにしていた。定宿はこれ等の旅人は上得意で下にも置かぬ客扱いで接客をしていたという。

 一方、庶民ではあるが、毎年、講を組み定期的に訪れてきて宿泊してくれる伊勢参りの講や富士参り、大山詣りの講の連中は順番にメンバーが替っても何々講と言う特定の数の人びとは、やはり落ち着いて静かな宿で泊まりたいと言う願望があり、しっかりした定宿を決めておき、いちいち客引きなどせずとも、毎年、定期的に連絡を取り合い、事が決まれば飛脚をたてて、今年の宿泊人数を連絡して余裕のある旅をしていたのだという。

 しかし、定宿だとのんびり構えては居られない、旅の途中で変な横槍の客引きが入って来て客を取られるかも判らない。そこで宿引きの担当者としては宿場の一つ手前の宿場まで手代の宿引きを送り、そこで予約してある講の人達を出迎え、そこで荷物を預かり、飛脚を使って旅籠まで送り届ける作戦に出た。

 こうすれば、予約は確保されるし、今晩の泊まりの人数も確定すると言う具合でこれが嵩じてくると、二駅手前の宿駅で出迎えて、荷物を預かると言う厚いサービスをしていた。これは宿引きの競争が激しくなっており、自分の宿駅で待っていては、他の旅籠との競争に負ける恐れがあるというあせりが遠方での宿引きをするようになったようだ。

 金森敦子氏の「伊勢参りと江戸の旅」によるとこの目的の宿駅の手前で宿引きが予約を取ることは意外な効果をもたらすこともあったようである。中山道を歩いて軽井沢の旅籠に向かっていた坊さんが二つ手前の宿駅で宿引きに予約をしておいて、その宿駅のある町並みを見物していたら、冬の日の短いことで、一つ手前の宿駅になる頃は日も完全に落ち、雪も降り始め、提灯も持たなかったのだろうか、益々激しくなる雪の降る暗い道を歩いていたら、向うから提灯を持った男が来るではないか。

 これが先ほど宿の予約を頼んだ宿引きの男で坊さんはほっとして、地獄で仏に会ったようなありがたさを感じ、桑門の身にある者にもこの様な親切を宿引きの人がしてくれたとその日の日記に記していたと言うことである。

 一方、京都の旅籠の宿引きは伊勢参りの人びとを京都の宿に勧誘するため、伊勢近くの桑名まで出て来て客引きをしていたと言う。この宿引きは旅人の予約を取るや、伊勢の土産は預かり、江戸などの旅人の家に送るため飛脚を用意し、また京都の旅籠にも別の飛脚を使って彼らの荷物を送り、彼らが身軽な恰好で京都見物が出来るようにしていた。この場合、荷物の送料は旅人の負担となるが、荷物の保管料は必要なかったそうである。

 いずれにしても宿引きは勤める旅籠のために、また泊まってくれる旅人のために一生懸命働いていたのであろうが、もう一つ、旅籠ではないが、伊勢神宮の周りにある御師(先達)の手代も御師の指導により、毎年、講の人達が伊勢参りに来てくれ、御師の邸宅に泊まってくれるように歳の暮れになると、きれいな伊勢暦を持って江戸を中心に講を訪問し、来年も伊勢参りをするように客引きをしていたのである。

 昔の宿引きはいろいろな形で旅人を援助していたのである。形は旅籠の客引きであったり、廓の伎夫だったり、伊勢の御師の手代であったりするが、いずれも、親方大事、御身大切と夫々、旅人へのサービスを行なうためにその仕事に努めていたのだろう。


 平成21年12月
posted by ひろば at 19:20| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ
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