2010年01月31日

【104】駕籠と乗物(鈴木和雄)

 2008年にNHKが放映した大河ドラマ「篤姫」の中で姫様が乗ったというお駕篭(貴人が乗る駕篭は乗物と言ったという)がアメリカのスミソニアン博物館から貸し出されて江戸東京博物館で展示された。篤姫さんが乗った乗物は展示場の説明では「黒塗二葉葵唐草葵牡丹紋散蒔絵女乗物」と名付けられ、大きなガラスケースの中に鎮座ましましていた。

 この展示会には他にも多くの乗物や駕篭が出品されており、昔、殿様や奥方、姫君が乗った乗物、駕篭を一覧することが出来た。女乗物では他に「梨子地葵紋散松菱梅花唐草文様蒔絵女乗物」とか「黒塗梅唐草丸に三階菱紋散蒔絵女乗物」「松竹梅椿剣酸漿(かたばみ)紋蒔絵女乗物」、等々、これ等の名前を聞いただけで乗物の外側の飾りの模様が想像されよう。

 乗物の内装も源氏物語の絵巻物の絵が画いてあるように、いろいろな美麗な絵が画いてあり、昔の貴婦人はあの狭苦しい乗物の中でも飽きなかったことであろうことが想像できるものであった。これ等の乗物本体の自重が56kgから58kgで夫々の乗る人の体重や着る物、持ち物によるであろうが、全体では80kg近くになったと言う。これを何人の陸尺(六尺とも書く、ろくしゃく)(担ぎ手)で担いだのだろうか。

 落語には女の貴人の噺はないが、男では殿様が出てくる噺では「紀州」の中で尾州の殿様が駕篭といっているが、乗物の中で、鍛冶屋の朝の仕事で刀を打つ音を聞いて幸先、吉と微笑んでいる。「竹の水仙」でも通りかかった細川公が甚五郎が作った「竹の水仙」を目ざとく見付け、買い取る事を部下に命じている。

 「火焔太鼓」でも古道具屋の小僧が掃除のために叩いた太鼓の音を乗物の中の殿様が聞きつけて、その太鼓を見たいから城中に持って来るように命じている。この他、落語に出てくる駕篭は上方噺の「住吉駕篭」「たばこの火」、江戸の噺で「蔵前駕篭」「蜘蛛駕篭」「紋三郎稲荷」「二人旅」があるが、これ等は貴人の乗った乗物と違い、簡素なもので、当時、使われていたものを揚げて見ると次のような物がある。

 展示場にあったり、図示で説明されていた乗物や駕篭は乗物、女乗物のほか、留守居駕篭、江戸医師駕篭、御忍駕篭、隠居駕篭、権門駕篭、献物駕篭、唐丸駕篭、その他、法仙寺(宝泉寺)駕篭、四つ手駕篭、(関西では四つ路駕篭と言った)、網代駕篭である。

 留守居駕篭は各藩の留守居役の武士が乗るもので、格式のある立派なもの、江戸医師駕篭も噺の「代脈」に出てくる医師が乗るのに相応しいもの、御忍駕篭は余り立派ではないが、大名が御忍びで出かける時のもの、隠居駕篭は隠居した人が乗るのに相応しい駕篭である。権門駕篭は家臣が主用を行なうときに乗るもの、献物駕篭は人が乗るものでなく、献物をする場合に、そのものを載せていくものであり、噺の「二人旅」では長薯を将軍に献上するために運送する駕篭に土下座をさせられている。唐丸駕篭は犯罪人を送るための駕篭であり、軍鶏(シャモ)を入れる籠に似た駕篭で、搬送する時は更に駕篭の上に縄を掛けて運んだと言う。

 法仙寺駕篭は四面を囲んである駕篭で、引き戸又は簾で戸口を閉めることが出来る。住吉駕篭や蜘蛛駕篭では定員1名の駕篭に駕篭掻きの知らぬ間に2人の客が乗っていて、中で騒ぎ始め、駕篭の底を抜いてしまい、客2人も駕篭の中で歩いていく噺だ。

 網代駕篭は竹を網代に編んだ物を駕篭の腰の部分に使い、黒く塗ってあるものが武士の上級者が乗り、朱く塗ってあるものは官僧が乗ったという。「蔵前駕篭」でこれから吉原に遊びに行こうという金を持っている客が乗ったのは法仙寺駕篭か町駕篭の四つ手駕篭か。

 四つ手駕篭は駕篭の四方の柱に竹を使い、床は割り竹を編んだもので、町駕篭又は辻駕篭に使われ、江戸庶民の乗り物として利用された。金馬さんの「紺屋高尾」、志ん朝さんの「幾夜餅」に出てくる吉原で年期を終えた花魁が、高尾太夫は紺屋の久蔵のもとへ、幾夜太夫は搗き米屋の清蔵のもとへ吉原から乗っていったのが、四つ手駕篭であることは両師匠が噺の中で説明している。京阪では四つ路駕篭といわれたそうな。

 山を行く旅人が乗ったのが、山駕篭であり、噺のマクラに一人旅の女が乗せられ、目的の所とは違った所に連れ込まれ恐ろしい思いをしたと言う話を聞いている。この駕篭は今でも四国の金比羅さんに行くと六百数段の階段を客を乗せて運んでくれている。

 町駕篭、辻駕篭が今の流しのタクシーだとすれば、宿駕篭は駕篭問屋で待機していて、客の要望に応じて目的地まで送っていく駕篭である。

 駕篭は江戸時代の初めは一般の人は乗る事を禁じられていた。徳川幕府は家康が武家諸法度の中で、駕篭に乗れる身分は、公家、門跡、徳川一門のもの、国持大名、60歳以上のもの、奥向き女中、陰陽師,医師、病人と決められていた。

 更にいろいろな制限が加えられ、武士でも軽輩の者や町人は利用することができなかった。しかし、寛政の頃(1624)から、駕篭の数量が増加し始め、殊に四つ手駕篭のような簡易なものが出始めると、町駕篭、辻駕篭が出て来て、法度の取り締まりも段々薄れて、ったと言う。

 この頃になると、噺のマクラで話されているような「いびき駕篭」や「紋三郎稲荷」のような武士や町人が気楽に駕篭を利用する噺が出来たのであろう。「いびき駕篭」は駕篭賃と酒代を要求する駆け引きの噺、「紋三郎稲荷」はお稲荷さんを「だし」にした噺で駕篭かきの勘違いをうまく利用している。

 駕篭賃は武士の場合は公用に限り、お定め賃銭があったので、駕篭の担ぎ手も余計な要求は出来ないが、それ以外の客とは相対で駕篭賃が決められるので駕篭かきの要求が充分に聞いてもらえないと、途中で酒代という心付けを要求されることがあったという。

 「蔵前駕篭」の噺では日本橋の駕篭問屋で宿駕篭に乗り、吉原まで行こうという客が駕篭賃として支払ったのは幕末で日本橋から吉原大門までで、800文だったという。天保年間では2朱と言う記録があるそうで、これも750文ぐらいだから大した違いはない。この噺の場合は駕篭賃のほかに、たっぷり酒代も払っているというから、結構な出費になったのだろう。

 天保年間に舟で吉原に行くとなると柳橋から山谷堀まで、屋根舟で船頭2人で400文、船頭1人だったら300文、猪牙舟で行けば148文というから舟の方が割安だったのだろう。別の記録で尾張町から白山まで行くには銭110文が駕篭賃だったという。この場合、距離がわからないが、いずれにしても、吉原行きは大分、足元を見られていたのだろう。

 昔、早駕篭を出して貰うと1里90文という記録があるそうで、江戸―京都間を4日と10時間で走ったというから、担ぐ方も乗っている客も大変な旅だったようだ。駕篭は普通は一里を一時間かけて運ぶが、少し早くて40分で行ったそうだ。

 所で昔は駕篭に乗る人はトイレの方はどうしたのだろう。一般の男の人だったら、駕篭に乗る前に一寸そこらで、用をたし、駕篭に乗っている時も担ぎ人に頼んで用をたすことが出来たろうが、女の人の場合はそうは行かない。なるべく今日は駕篭を使う必要があったら水分は摂らないように注意し、途中で必要になったら、いずれかの茶屋か店屋で借りるなどの手立てをしたようだ。

 しかし、お偉方となるとそう簡単にはいかなかったようだ。小川恭一著の「江戸城のトイレ、将軍のおまる」によると、将軍は乗物に乗る時は、前もって用をたしておき、目的地に着くまでは間にあう様にすることが普段からの嗜みになっていたという。

第九代将軍の家重は体が弱かったので、しょっちゅう小用所に行くことが多く、「小便公方」と呼ばれたと言うが、この人が江戸城を出て、芝の増上寺に行く時は、桜田門外、虎の門外、増上寺裏門際に将軍用仮設トイレを設けて置かねばならず、また上野寛永寺に行く時も神田橋内、筋違門外、上野黒門内に仮設トイレが必要であったという。この公方さんは城内における儀式中にも用を足す為、席をたったと言う。

 しかし、将軍以外の侍の幹部や大名はその日の儀式、会議のため前日から水分を摂らず、体を節制して城に登らなければならなかったというから、幹部も大名も大変だったのだろう。

 勿論、休憩はあるから、その時まで保てばいいのだが、なるべくなら行かないに越したことはない。何せ儀式などで城中に上がる時は大名や幹部連中は裃を着たり、直垂、大紋、素襖、長袴、狩衣、布衣、指貫等夫々の礼服を着ており、将軍なども衣冠束帯で儀式に臨むときは自分一人で着たり脱いだりすることは出来ない。

 こんな時にトイレに行くとしたら大変だ。しかも短時間に処置しなければならない。そこで将軍の場合は「公人朝夕人」(くにんちょうじゃくにん)と言う役目の土田家の人が(世襲)小用所に銅製の尿筒(しとづつ)を持ってきて、袴の割れ目の間から差し入れて、用を足してもらったそうである。

 しかし、この公人朝夕人が出てくるのは京都の御所に将軍が参上した時だけの御用で、江戸城内やその他のところでは御小姓や御小納戸人が竹の尿筒で用を済ませたと言う。大名や幕府の幹部の連中も夫々の使用人に筒を持参させ、トイレで儀式の服装のまま、袴の脇から差し入れてもらい、用を足したそうだ。この待機する使用人を呼びに行ったのが茶坊主だったそうである。

 将軍が乗物に乗って江戸城を出ることは滅多になく、普通の公方さんは仮設トイレを一ヶ所ぐらい設ければ済んだが、それでも、間に合わないときはいく道の沿線のいずれかの大名の屋敷により小休止をして用を足したり、大きな店が在る時も利用させてもらったりしたという。

 いずれにしても、乗物や駕篭の中で尿筒を使うことはなかったという。奥方や姫様が乗ってもちゃんといずれかの宿やしかるべき施設のあるまで乗物を進めたそうである。

噺のマクラでも話されているが、駕篭は効率の悪い道具だった。 たった一人を運ぶために最低二人の人が必要である。ましてや乗物のように豪華で,重いものとなったら宰領を入れて十人近くの担ぎ手が居ないと運ぶことが出来ない。また、乗物でなくても早駕篭になれば駕篭を引っ張る人、担ぎ手4−6人の人達が一人のために働かねばならない。

 しかも、東海道のように宿駅が在る時は宿駅の度に担ぎ手が待機している担ぎ手と交替して行くと言う多数の人のエネルギーを使うことになる。現代はこれとは逆に車でも、電車でも、一人の人が多くの人を運んでいるが、この一人のために多数の人が多くのエネルギーを出して支えていることも忘れてはならないだろう。
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2010年01月06日

【103】噺家はどうして扇子を持つのか(鈴木和雄)

 寄席や落語会に行くと、出演する噺家は必ず扇子を持って高座に出てくる。これは夏でも冬でも同じである。 しかも夏は暑いから扇ぐために持ってくるのかと思うと、出演者の人たちは殆ど、自分で扇ぐことはない。稀にひょうきんを装ってバタバタとやる人も居るが、何時までも扇子を風として送っている噺家は居ない。

 ではどうして彼らは扇子を持って出てくるのであろう。それは皆さん、ご存知の通り、扇子や手拭は噺の小道具として使うためだからである。 手拭は夏は必需品である。 今の寄席や大きな会場での落語会は空調が効いていて、そんなに汗をかくことはないが、空調設備のない施設の時は急いで高座に上がって来た時は、どうしても汗をかいてしまい、自他共に見苦しい顔になってしまっては、客の期待を裏切る事になるから、汗ぐらいは一拭きしないといけないことになる。

 この点、先代の文楽師匠は手拭の代わりにハンカチを使ったと、言われるが、これにはまた別な話があり後述する。

 手拭は小道具としての利用範囲は少ない。胸元にしまっている手拭を出してきて、本を読むときの仕草にしたり、金を払うときの財布の形にしたり、煙草入れに模したりしている。今は余り踊りを高座で見せることは少なくなったが、その用な場合に、頭に巻く鉢巻にしたり、女形をやる時の手拭を姉さんかぶりにしたりと、いろいろある。

 しかし、扇子は小道具としての利用の範囲は格段に広い。一番知られているのが、「時蕎麦」に出てくる、箸として使う仕草である。 書を書くときの筆、絵を描く時の絵筆、扇子そのものを扇いて暑い盛りの表現用、煙管、「試し酒」の大盃、酒を注ぐお銚子、「たがや」に出てくる槍と陣笠、「百年目」のお面、釣竿、玄翁、金槌、大刀、小刀などがある。

 その他、「道灌」で娘が差し出す山吹の枝をのせたお盆、半鐘を叩く木槌、天秤棒、六尺棒、火箸、舟の竿と艪、杖、「蒟蒻問答」で和尚に成りすます親分が頭に被るもうす(帽子)等々いろいろなものを表現しているが、なかでも私が一番素敵な表現法だと思っているのが、「宮戸川」「六尺棒」「味噌蔵」で使われているもので、夜遅く、他所から帰ってきて自分の家の戸を叩く仕草である。

 噺家は自分の利き手で扇子を持ち、反対の手で戸を叩く仕草をして、口では「おとっあん」「おかさん」「番頭」「定吉」と戸を空けてくれる人の名を呼んでは居る。 そして、扇子を真っ直ぐにして戸を叩く仕草にあわせて床を叩くという立体的な構成で、話を進めているところが大変面白く感じている。

 どうして、噺家が扇子を持って高座に上がって来るのかについて、矢野誠一氏が「古典落語」駸駸堂刊の中で次のように解説している。「和服が誰もが着ている普段着であった時代には、手拭も扇子も日本人が必ず、懐に持っていたものであり、人前で芸をする落語家の僅かにその芸を助ける小道具が手拭と扇子であった。その為、この両者を持って高座に上がってきたのである」と述べておられる。

 なるほど、今でも結婚式の時など、和装でやる場合は、羽織、袴で必ず、扇子を持たされて記念写真に写っている。昔の人は人間のハレの日(お祭や祝い事のある日)には必ず扇子を持たされたそうである。 生まれてからのお七夜、七五三の祝いの日、元服、結婚、還暦、喜寿、米寿等の日には扇子を贈られたりしている。

 これは、昔の人の貴族志向、エリート志向が本人の意向に関係なく、親が生活の向上を願って、形だけでもと、扇子を持つ事を願ったのではないだろうか。
そもそも扇子は日本で考えられたものだと言われる。

 八世紀に日本の貴族とか僧侶、神職にある人達は仕事で必要な事項を記録するため、木簡に書き付けた。この木簡は長さ30cm,巾1.5mm―2mm,厚さ1.0―1.5mmの檜の薄い木簡で、これにノート代わりに文字を書いて報告や通知のメモとして記入していたと言われる。

 この為、数枚の木簡を持ち歩き、一端に穴をあけ、紐で留め、順次書いたり、見たりすることが出来るようになっていた。彼らは夏などの暑い時期にはそれこそ木簡を扇状に広げ、紐で縛ってある端を要として持ち、手首を中心にして上下することにより、風を送ることが出来た。丁度、私達が小学生の頃、暑くなるとノートの下敷きで扇いだように、木簡を使って暑さを凌いだのであろう。

 そして、少し経つと要と反対側の木簡の端を紐で結び、木簡の先が半円形に広がるようにすることにより、扇子としての原型が生まれたのであろう。更に時が経ると木簡に替り、薄い檜の板を結び合わせる事により、板面の上に絵を描いたり、装飾を施したりすることにより、きれいな扇面が表れ、「檜扇(ひおうぎ)」と言う型が出てきた。

 この頃には檜扇が賜り物となったり、贈り物となって扇子の価値が上がってきた。

 九世紀にになると、この扇子の骨に当たる部分が薄く細い竹や木で作られるようになり、更に内側を紙で張ることにより、より好い扇面の絵が画かれるようになった。これを紙を張った「かみはり」の扇子から「かわほり扇」と名付けられ、扇子としての風量も増したし、芸術的な絵が描かれるようになり、扇子としての価値が益々上がった。

 鎌倉時代に日本の扇子が中国に渡って行く様になったが、室町時代になると、今度は逆にこの扇子が日本に伝わってきて、唐扇と言われたが、これは日本から行った時は紙が一枚張ってあるだけだったが、唐扇は内側も外側も紙が張られていたものであって、内側は絵や装飾があったが、外側はメモ代わりに使える様になっていた。

 この頃になると、鎌倉時代まで貴族や僧侶、神職者しか使えなかった扇子が、庶民にも使用が許されるようになったという。平安時代から貴族の間では扇子は茶道や能、舞などに必要な装飾品として使われていたが、庶民にも使用が認められることにより、演劇、茶道にも巾広く用いられるようになり、益々、扇子の需要は高まった。

 茶道の世界では扇子を自分の前に置くことで、相手に敬意を表すこととか、能の世界では扇子を自分の前に置くことで自分の周りに結界を張り、本来、自分はそこに存在していない事を表すなどの使い方があったという。

 噺家もそうゆう意味では高座に上がる時は、扇子を持ち、座布団に坐った時は自分の前に扇子を置いて、客に挨拶をすることで敬意を表しているのである。 円歌師が「芸人今昔」の話の中で、昔は噺家連中は学歴や学問もなく、高座に上がって、学問のある客に対して高いところから、噺をするが、この為、扇子を自分の前に置いて演者と客の間に境を作り、失礼ながら個々の芸人が皆さん方、知識のあるお客に噺をすることを、お許しくださいと言っているのだと話していた。

 ところがこの扇子、小道具としてばかりに使うものでないようだ。昔に返って檜扇がノート代わりに使われたように扇子の扇面に噺の難しい名前や憶えにくい事柄を書き記して、カンニングをすることもあったという。あの先代の文楽師でも扇子にこそ書かなかったが、師は「富久」に出てくる芝の旦那の火事見舞いに行ったが、鎮火してから、近所から来る見舞いの人の名前を記録する時にその名前をハンカチに書いておき、扇子を筆にし、帳面に見立てたハンカチに記したあった名前を読みあげていたそうである。

 噺の中でも「初天神」「金の大黒」「羽織の遊び」等、一人前の大人が外出したり、祝いのために訪問したりする時には羽織、袴を着けなけらばならなかった。しかし、そんなに簡単に貧乏人が羽織等を持っていることも出来ず、結局は大家さんに借りたり、近所の友達が持っているものを借りたりして、外出している。

 「八五郎出世」の八五郎も大家から借りた羽織、袴を着け、白足袋、草履を履き、扇子を持って妹がいる赤井御門守の屋敷を尋ねているが、この服装で行ったから門番に認められ、入門できたが、八五郎が、いつもの恰好で行ったら簡単に門前払いを食わされたいたであろう。

 この様に、庶民と言えども、この頃には何とかして羽織、袴等を手に入れて、出かけたのである。ましてや、武士は通常は外出の時は大小を腰につけて、町中を闊歩したのであろうが、彼らにとっても大刀、小刀を持って入ることが出来なかった場所があった。 芝居小屋などはそうゆうところで、武士は鉄扇といって、扇子の骨を鉄で作り、それに紙を張ったものでこれを持ち歩いたが、これは扇ぐのは二の次、自分の身の防護用の武具でもあったようだ。

 後になると扇げない扇子を閉じたままの型の鉄扇が出来、まさしく武具となり、更に進むと、この閉じられた扇子の中味が空洞になり、個々に密書などを忍ばせておけば、矢鱈に探索されずに運ぶことが出来、一種の運搬手段にもなったようだ。 こうなると、四季に関係なく扇の形をしたものを、持ち歩くことになったようだ。

 町人はこんな物騒なものを持つことを真似た訳でなかろうが、何かの祝いや、儀式の時は羽織に扇子、手拭は当たり前になっていたのであろうか。扇子と手拭は噺家にとっては大事な小道具である。前述の矢野氏は「この小道具を巧みに使いこなす落語と言う芸の見事な表現力には舌を巻く思いであった。 普段、見慣れた道具に意味を持たせることが出来たのも、長い間の落語家の知恵と工夫に違いなく、こうゆう歴史の積み重ねが、芸に厚みを添えているのである」と述べられている。小道具を本物に擬しているものに見える時、客はその芸に感心し、思わず拍手が起こるのであろう。
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2009年12月01日

【102】宿引き(鈴木和雄)

 江戸の昔と違って、現代はマスコミや情報通信の機能が充実しているから、旅行に出る準備として前もって宿泊先の旅館やホテルについて、予め自分で新聞雑誌で調べたり、旅行代理店に行って調べたり、電話で直接問い合わせたり、インターネットで適当な宿泊先を調べて、申し込みをして出発前に先方の旅館等の所在地を確認し、留守宅にその事を伝えておき、何らかの事態があった場合に連絡できるようにしている。

 この様に出発前の時間的余裕がある場合のみならず、急な出張や遠い親戚や友人などの不幸や事故があった場合でもインターネットは勿論、携帯電話でも旅の途中の交通機関の中からも、適切な宿を探して、行き先でまごまごしないようになっている。

 この様な旅人の事前準備のせいか、この頃は温泉地や観光地のある駅での、旅館やホテルの案内人の数が以前に比して少なくなっているような気がする。昭和の中頃までは、例えば熱海の駅前では旅館等の名前を書いた、旗やペナントを持った案内人が群をなして集まっており、夫々の旅館等の名前を叫び、旅客を案内し、前もって予約してある客は、それによって案内され待っているマイクロバスに案内され、旅館等にたどりつく事が出来た。

 一方、この案内人は所謂、客引きでもあり、まだ宿泊先の決まらない旅人を掴まえ、値段を示しながら自分の宿に誘う役目もある。交渉が纏まれば、この人もマイクロに乗せ、宿に案内する事となる。しかし、これは昭和期の客引きの状況であり、それ以前の落語に出てくる江戸期の旅籠の客引きは宿引きとも言われ、旅人を自分の宿に引きとめようと大変な苦労と知恵を絞ったようである。

 噺に出てくる宿引きは左甚五郎が泊まった「鼠」の子供の客引き、「竹の水仙」の宿の亭主、「抜け雀」の養子の亭主、「宿屋の仇討ち」でしょっちゅう三人で旅をする連中を案内した客引きがある。「竹の水仙」の旅籠のかみさんに言わせると、亭主は人の見る目がない能無しの客引きだとこき下ろされていたが、甚五郎作の竹の水仙の細工物が高額で売れることが判り、改めて客人の偉大さを知ったと言う、夫婦そろってのうっつけ者だったようだ。

 客引きには一般の旅籠ばかりでなく、川や海を渡る時に船待ちをする船宿にも客引きが出てくる。船宿に着いてから船が出るまでの時間はそんなに長い時間でもないが、一休みさせ、食事を出し、酒の好きな客には其のほうのサービスをするとなると、船宿にとっては大切な収入源である。

 船宿は船頭や船に係わる人は泊めるが一般の人は泊めることが出来なかった。であるから船に乗る旅客からの収入は大切であった。そこへ行くと江戸の周辺にあった四宿と言われる品川、新宿、板橋、千住と言われる旅籠は東海道や中山道、甲州道、奥州道の出入り口にあり、旅の宿駅の第一歩であるが、この四宿を目指してくる人達は旅に関係なく、夫々は旅籠に抱えられる飯盛り女を目的として通ってくる連中が多かった。

 噺の「居残り左平次」はそんな状況を説明しているが、幕府は当時、一軒の旅籠には二人までの飯盛り女を置く事を認めていたが、女を置く方の旅籠は幕府の目をかいくぐって7人から10人近くまで置くと所が出て来て、各店で競い合うようになる。この為、客引きが強引に客を引き込むと言うような事態が発生していったという。

 この様に男の欲望を掻き立てるが如き旅籠の施策は、本街道の各宿場でも飯盛り女を置く事が盛んになり、夫々各地で激しい客引き合戦が起こった。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」に出てくるが、弥次さん喜多さんの二人が旅籠の留女の強引な客引きに遭い、襟を掴れたり、袖を掴んで離さず、遂には袖がもぎ取られて致し方なく、その宿に泊まることになったとある。

 別の街道では錦絵でやはり襟を掴まれるところや、袖を引っ張られるところ、果ては被りものの笠さえ取り揚げられている絵もある。昔は街道の宿駅と宿駅の間には旅籠はなく、旅人はその宿駅に入るとその外れまでの何処かの旅籠に泊まらないと、その晩は泊まり損なうということになる。であるから、宿駅の中心から外れるとどんな旅籠であろうと、誘いに応じて泊まってしまうことになる。
得てして、街の外れの旅籠は小さくて汚い。しかし、これ以外に無いとすれば文句を言わず泊まらざるを得ない。

 吉原の廓や四宿の女郎屋に勤める若い者と言われる伎夫も宿引きとはいえないが客引きである事は間違えなく、店の前で遊び人を捕まえて、その人の持ち金を勘案しつつ、男の欲望を刺激しながら、店に上がるように勧めている。「居残り左平次」や「付き馬」の噺にあるように時として失敗するが、長く店に居られると言うことはやはり客引きの腕がよかったのだろうか。

 飯盛り女を入れた旅籠では夕べに提灯に灯が入った頃から夜遅くまで酒に酔った男の怒鳴り声や女の嬌声で、普通の客は落ち着いて寝ていられない。そこで飯盛り女を入れた旅籠とは一線を画した定宿が設けられる様になった。

 勿論、昔から商用の為、東西を往来する裕福な旅人は静かなところに定宿を決め、割合高い宿賃を払い、衛生的にも蚤や虱の居ない寝具で寝られるようにしていた。定宿はこれ等の旅人は上得意で下にも置かぬ客扱いで接客をしていたという。

 一方、庶民ではあるが、毎年、講を組み定期的に訪れてきて宿泊してくれる伊勢参りの講や富士参り、大山詣りの講の連中は順番にメンバーが替っても何々講と言う特定の数の人びとは、やはり落ち着いて静かな宿で泊まりたいと言う願望があり、しっかりした定宿を決めておき、いちいち客引きなどせずとも、毎年、定期的に連絡を取り合い、事が決まれば飛脚をたてて、今年の宿泊人数を連絡して余裕のある旅をしていたのだという。

 しかし、定宿だとのんびり構えては居られない、旅の途中で変な横槍の客引きが入って来て客を取られるかも判らない。そこで宿引きの担当者としては宿場の一つ手前の宿場まで手代の宿引きを送り、そこで予約してある講の人達を出迎え、そこで荷物を預かり、飛脚を使って旅籠まで送り届ける作戦に出た。

 こうすれば、予約は確保されるし、今晩の泊まりの人数も確定すると言う具合でこれが嵩じてくると、二駅手前の宿駅で出迎えて、荷物を預かると言う厚いサービスをしていた。これは宿引きの競争が激しくなっており、自分の宿駅で待っていては、他の旅籠との競争に負ける恐れがあるというあせりが遠方での宿引きをするようになったようだ。

 金森敦子氏の「伊勢参りと江戸の旅」によるとこの目的の宿駅の手前で宿引きが予約を取ることは意外な効果をもたらすこともあったようである。中山道を歩いて軽井沢の旅籠に向かっていた坊さんが二つ手前の宿駅で宿引きに予約をしておいて、その宿駅のある町並みを見物していたら、冬の日の短いことで、一つ手前の宿駅になる頃は日も完全に落ち、雪も降り始め、提灯も持たなかったのだろうか、益々激しくなる雪の降る暗い道を歩いていたら、向うから提灯を持った男が来るではないか。

 これが先ほど宿の予約を頼んだ宿引きの男で坊さんはほっとして、地獄で仏に会ったようなありがたさを感じ、桑門の身にある者にもこの様な親切を宿引きの人がしてくれたとその日の日記に記していたと言うことである。

 一方、京都の旅籠の宿引きは伊勢参りの人びとを京都の宿に勧誘するため、伊勢近くの桑名まで出て来て客引きをしていたと言う。この宿引きは旅人の予約を取るや、伊勢の土産は預かり、江戸などの旅人の家に送るため飛脚を用意し、また京都の旅籠にも別の飛脚を使って彼らの荷物を送り、彼らが身軽な恰好で京都見物が出来るようにしていた。この場合、荷物の送料は旅人の負担となるが、荷物の保管料は必要なかったそうである。

 いずれにしても宿引きは勤める旅籠のために、また泊まってくれる旅人のために一生懸命働いていたのであろうが、もう一つ、旅籠ではないが、伊勢神宮の周りにある御師(先達)の手代も御師の指導により、毎年、講の人達が伊勢参りに来てくれ、御師の邸宅に泊まってくれるように歳の暮れになると、きれいな伊勢暦を持って江戸を中心に講を訪問し、来年も伊勢参りをするように客引きをしていたのである。

 昔の宿引きはいろいろな形で旅人を援助していたのである。形は旅籠の客引きであったり、廓の伎夫だったり、伊勢の御師の手代であったりするが、いずれも、親方大事、御身大切と夫々、旅人へのサービスを行なうためにその仕事に努めていたのだろう。


 平成21年12月
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2009年11月01日

【101】噺に出てくる昔の病(鈴木和雄)

 談志さんが「へっつい幽霊」の古典落語で使われている生活用品が出てくる時に、今の若い人はその道具が今は使われてないからいちいち説明しなければならず、面倒臭いし噺が進められないから、お客は勝手に想像をしてくれないかと、言っていたが、まことに古典落語に出てくる話では、生活用具に限らず、昔、人々が苦労したいろいろな病気の名前が、今の生活状態では不可解で、僅かに高齢者の人達が判るだけになっているのではないだろうか。

 ある噺家さんの話では昔は藪医者とか、筍医者とか言われる人達は人体を三から五くらいに分け、頭が痛い時は頭痛、腹が痛い時は腹痛、足が痛い時は足痛などといい、全ての病人に葛根湯を与えるだけという乱暴な治療があったと話していたが、あながち嘘でもないだろう。

 これ程ではないとしても、昔は四百四病といわれ、今のように病状や病名を細分化できないから、割合大雑把な分類で治療に当たっていたのであろう。噺に出てくる病名としては私達が聞いてきたのは「疝気の虫」で医者の思いつきで蕎麦を食べさせているものや、眼病で治療中に犬に食べられてしまったので、犬の目を繰り抜いて人間に入れてしまった「犬の目」、「鼻欲しい」では梅毒で鼻を失った人の話、「薬缶舐め」で癪を起こして、侍の頭を舐めさせてもらった女将の話等いろいろある。

 今は疝気とはどうゆう病なのか、癪とは体の何処が痛むのかさっぱり判らない。鼻が無くなった話にしても現代はそれほどの重症になる人は殆ど居ないのでピンと来る話でない。しかし、江戸時代は吉原や品川、新宿、板橋、千住等の四宿、更に街道筋の旅籠には飯盛り女がいて、フリー・セックスの時代は旅の恥はかき捨てとばかりに楽しんでいたので、自然、悪い病を背負ってくる人々が多かったのだろう。しかも、治療薬は水銀剤しかなく、昭和の時代になって、ようやくペニシリンが発明され、やっと、根治されるようになったと言うことである。

 割合、噺に出てくるのは、昔の医者がずばり言っている「気の病」というものであろう。「崇徳院」では上野清水寺の前で会った娘に若旦那が、「紺屋高尾」では高尾太夫の姿を見た紺屋の若い衆が、また幾代太夫の錦絵を見た搗き米屋の若いのが恋の病に落ち込んでいる。

 「千両蜜柑」では若旦那が蜜柑に恋して病に伏している。どれをとっても会いたい、欲しい、食べたいと言う自分の欲望を抑えきれない精神的な病である。昔は現代のようにどんどん口に出していえない人が多く、うつ病的なものになってしまったのであろう。風邪は万病の元と言われ、注意はしていたが完全に予防できるものでなく、結構流行ったようである。一旦、風邪を引くと葛根湯を飲まされるだけで、碌な治療方法もなく、段々重症となり、遂には命を落とすことにも為りかねなかったという。

 先代の正蔵さんの自作の「双っ面」に出てくる左柳師匠が風邪を引いて、一寸寝たのがこじらせて、長い休みを取っている間に名優の小幡小平次の幽霊に教えて貰った演技をやれなかったといっている。また歌司さんの演じた「徂徠豆腐」で豆腐屋の親父がやはり風邪を引いてこじらせ半月以上も休んでしまい、浪人時代の荻生徂徠をおからで食事を支えていたのが途絶えてしまい、その間に徂徠は職を得て出世するという。いずれも風邪でダウンしている。

 最近発刊された氏家幹人氏の「江戸の病」と言う著書によると、昔の老人の死亡原因は中気が多かったと言われる。若い女性の死亡は産後のひだちが悪く、絶命する人が多かったようだ。その他、労咳とか、労瘡と言われた結核で長患いの末、亡くなる人、更に今の癌の症状でなくなる人もあったという。

 「犬の目」に出てきた患者は「そこし」であろう。「そこし」とは昭和10年発刊の古い「辞苑」で見ると「眼球内の疾病の総称。目の外見は異常なくして、視力を失ったもの、黒内障、白内障、緑内障を言う」と出ている。現代は白内障、緑内障、網膜黄斑変成症などに分けられているようだが、これ等は早期に手術をすれば視力を失うことがないといわれる。

 江戸末期にオランダから日本の長崎に来た軍医のポンペ医務官は日本では西洋に比して盲人の数が多いと記しているそうだ。これは日本の眼病に対する医術が遅れていたと言うこともあるが、日本の庶民の生活が貧しいため栄養状態が悪く、重労働が多かったのでその原因に挙げることが出来よう。

 「寝床」では店の旦那の浄瑠璃を聞かせられる羽目になった若い衆は「胃痙攣」だと言い、ばあやは「すばこ」又は「すばく」だといっている。「胃痙攣」とは辞苑に「急にさし込んで来る激しい上腹部の痛みを言う」とあるが、今は胃痙攣という病気はないそうである。原因としては、胆石、急性膵炎、などが上げられる。狭心症や心筋梗塞による上腹部の痛みが起こることがあるという。

 「すばく」又は「すばこ」は「寸白」と書き、辞苑では「婦人の下腹の痛む病」とあり現代では「白帯下」又は「腰気」(こしけ)と書き、子宮病の総称を指すという。

 「疝気」とは辞苑では「漢方で大、小腸、腰部の痛む病気」と出ている。今は疝気ですという医者は居ない、現代医学では何と言っているのだろうか。

 「癪」は辞苑では「強度の胃痙攣によって胸部と腹部に起こる激痛、婦人に多く、激しい時は人事不省になる」と出ている。これは前記の「胃痙攣」の話でお解かりでしょう。

 今は聞いたことがない、「腎虚」という病、「大名道具」という噺で出てくるが、大名が自分の持ち物に劣等感を持ち、大明神にお願いしたが、うまく行かず、怒って社を壊したら、大明神が家来の持ち物を一斉に取り上げ、困った重役共がお祈りすると全部の持ち物を返してくれたのは、いいが、いっぺんに返されたので、どれが誰のものやら判らず、殿様がその機を狙って一番大きいものを持って来てしまい、宜しく奥方らと励んだため、家来の可内(べくない)が腎虚で亡くなったという。「腎虚」とは辞苑によれば「男の体液の欠乏から起こる身体の衰弱、死亡することもある」と出ている。

 「代脈」では医者が偶には若い研修医を代診として使ってみようと患者の家に送りこんでいるが、これも病状がたいしたものでなく、精々お腹を押したらお屁らをしたくらいだから、便秘か食べすぎぐらいだったのだろうか。

 「三年目」では亭主が若い女房の病がなかなか治らないので、次から次に医者を代えているが、昔は医者を代えることにより、今まで使っていた薬を替えることが出来るので、患者に効果のある薬に当たるまで何回も医者を代えていたのだそうだ。これを転薬といって昔はよく行なわれたのだという。

 「夏の医者」では父親が好きだと言う「ちしゃ」(今のレタスだそうだ)食べさせたが、食当りでダウン。ちしゃの葉の裏には虫がいることと、食べ過ぎたことだと、医者に注意されたが、当時、どんな薬を出したかは噺の中では判らないが、大蛇に飲みこまれたときに腹の中で大黄を散布して、下され、見事、危機を逃れているが、病人に対しても同じ様な漢方薬を使ったのだろうか。

 落語に出てくる昔の病の話では以上のような噺が思いだせるに過ぎないが、これの他、当時、人々に怖れられた病にコレラがある。当時は感染すると三日ぐらいで亡くなる事があり、三日コロリと呼ばれたと言う。文政5年(1822)、安政5年(1858)、文久2年(1862)と流行し、ことに文久2年はハシカも加わり、江戸市中だけでも数十万人の人が亡くなったと記録されている。

 この外、天然痘があり、当時は痘瘡と言われたそうだが、将軍の息子も罹り、命を落としているという。また、今で言う結核である労咳といわれる病もあった。寄生虫による病もあり、各地の風土病もこれに加え、人々を悲しませた。 赤痢や腸チブスのような下痢と嘔吐が激しく、痢疾と言われ、急激に体力を失い、死亡するという状況だった。

 また、痞(つかえ)といい、辞苑によると「胸部に物がつかえたようで苦しい症状を示す」病。更に瘧(おこり)と言う「悪寒と発熱が間欠的に襲う病」と記されているが、現代ではどうゆう病気を指しているのか不明である。

 「湿疹」と言われる今で言う疥癬が生じることもあり、なにやら判らない漢方の塗り薬で治療されていたのだそうだ。これ等のほか「江戸病」と言われれた脚気がある。江戸の人々が上流階級の真似をして白米を食べる様になり、脚気が生じた。これに対しては、麦飯を食べさせることで病が減っていったという。

 「御神酒徳利」に出てくる番頭が三井の番頭のたっての願いにより、関西に向かう途中の神奈川宿で侍の密書と財布を盗んだ宿の下女が番頭の占いの効果を信じたため恐ろしくなり、自白に及ぶが、原因は、下女の親父さんの病に見舞いに行く時間と薬である朝鮮人参を買う金の前借も認めてくれないためであった。

 昔は病気になれば朝鮮人参というのが看病する人達の願いであった。しかし、貧富の差の激しい時代に、貧乏人はそんなに簡単に人参を求めることは出来なかった。「江戸の病」の氏家氏によれば、朝鮮人参は宝暦5年(1755)で、2匁(7、5グラム)で、金 1分と 708文で買っている。今の金に直すと 1両が10万円とすると25,000円+(1文が17円ぐらいだから)12,000円で計37,000円となる。しかし、これとて役所の処分品だったので安いという。

 (この1両10万円と言うのは数年前の換算値で、今は1両16−18両だという人がいる。この為、今は、1両はここに表示する円価の1.6−1.8倍する必要があるかも知れない。)

 しかし、いくら安くても金のない貧民層には手の届かないものだった。しかも、都会に居る人々は、何時でも望むときに薬を手に入れることが出来たが、地方の農村ではそれが出来ず、医者も居ないし薬屋もない。更に富山の売薬の行商人も金のない地域には来てくれない。こんなところでは一旦病を得ると治療に苦労するばかりでなく、収入の道も断たれ、薬も買う金もなくなり、死を待つ以外に無くなる。そんな時に都会に出ている息子や娘が居れば、金の工面をして呉れるように頼んでも、薄給のため、おいそれとは頼みに応じてくれない。

 奉公先の主人に借金を申し込んでも、よい返事がもらえず、また、見舞いの休暇も認めてくれない。こうなると、「御神酒徳利」の下女のように他人の金に手を出さざるを得なくなる。


平成21年11月
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2009年10月01日

【100】蕎麦切り(鈴木和雄)

今、私達が「美味しい」と言っている手打ち蕎麦は、昔は武士のお手打ちと言う言葉を連想させるので「蕎麦切り」と言われたという。
落語の中で蕎麦に係わる噺で私達が一番聞きなれているのが「時蕎麦」であり「蕎麦清」であろう。この他、落語事典を見ると「蕎麦の殿様」、「よいよい蕎麦」、「ヒョットコ蕎麦」があるが、余り高座に掛けられていない。

「ヒョットコ蕎麦」については一度、蔵之助さんがNHKのお好み寄席の司会の席で一寸、演じているのを見たが、後は聴いたことがない。噺の中で出てくるのは「中村仲蔵」が柳島の妙見様に願をかけて、満願の日に近くの蕎麦屋に入って雨宿りをして居る時に雨に降り込められた浪人者の姿に発想を受けるところがある。

また、「おすわどん」の噺では先妻をいじめて亡くし、後釜に入った妾が、毎晩、「おすわどん」と言う呼び声に怯え、よく、その声の元を捜してもらったら、実は「お蕎麦うどん」と言う売り声だったと言う話がある。これらの噺は江戸後期の話であり、所謂、今の手打ち蕎麦―蕎麦切りを摂る話である。

蕎麦は始めから今の様に細くきった麺として登場したわけではないと言う。 蕎麦は元々の原産地は中央アジアで、バイカル湖付近から印度北方の山岳地帯の辺りだと言われる地味の薄い荒地で栽培されたと言う。日本へは奈良時代に中国から朝鮮半島を経て渡来しており、種をまいてから75日ほどで収穫が出来るので、備荒食料、又は救荒食品として旱魃等の飢饉に備えて作ることが、既に元正天皇の養老6年(722)に命じられている。

蕎麦は寒冷地の栽培に適しているので、始め、今の滋賀県の伊吹山の山麓に植えられ、順次、気候風土の適地を求めて、信州、信濃、甲州へと広がって行ったという。
こめ、むぎはイネ科の植物であるが、蕎麦はタデ科に属している。この為、年2回収穫が出来るから米、麦の収穫が少ない時はその不足分を補う代用食として、食べられることがあった。

江戸時代になって寒冷地での植栽が進み、生産量が増えて、都市部に流入する量も多くなったと言う。  蕎麦は渡来以来、蕎麦の粒状のまま食べたり、粥にして食べたり、蕎麦掻きにしたり、蕎麦の焼餅を作って食べていたようである。 蕎麦掻きについては豊臣秀吉が大変好んで食したと言われ、蕎麦粉を熱い湯を少々入れてかき混ぜ、粘りが出てきたところで味噌だまりや醤油を添えて食べたと言う。


私達も子供の頃、第二次大戦後の食料難の時代に、父親が何処から買ってきたか、貰ってきたのか知らないが、蕎麦粉を手に入れ、これを夜食やおやつに熱い湯でかき混ぜ、餅状になったところで醤油を少々つけて食べた記憶があるが、なんせ単調な味でお腹はいっぱいになるが、直ぐ飽きて3日ぐらい続けて食べたら、後は食べられなかったと言う経験がある。秀吉が喜んで食べたというのは余程、膳部の人達が工夫して汁の作り方を秀吉の口に合うようにしたのであろうと想像される。

蕎麦切りは資料によれば天正年間(1574−92)に作られ始めたと言う説と、江戸期のはじめ慶長19年(1614)に蕎麦切りを食べたと言う記録があるという話がある。 しかし、その頃はまだ、蕎麦粉を手で煉って延ばし棒で薄く延ばした物を切ったもので、まさしく生蕎麦であり、蕎麦の香りが美味しさを更に感じさせたが、何と言っても、粘性が少ないことから簡単に折れたり、切れたりしたことから、元禄期になり、蕎麦粉につなぎの混ぜ物をすることにより蕎麦の粘性を助けようとしていろいろなものが使われたと言う。

蕎麦に小麦粉をいろいろな割合で入れて見たり、米を煮て出来た重湯や山芋、鶏卵、豆腐、ふのり等がつなぎとして試みられたと言う事である。
当時は蕎麦汁として味噌だまりや大根おろしの絞り汁、削り鰹節が使われたが、醤油が普及するようになると味噌だまりの方はなくなったと言う。

現在は蕎麦屋さんは店で手打ちで作った蕎麦を客に提供しているものや、製麺工場で作った蕎麦を仕入れて提供しているものがあるようだが、江戸時代は神社や寺院、広小路等の人がよく集まる場所によしず張りの店で蕎麦を打ち、戸板をテーブル代わりにして、黒碗に盛った蕎麦切りに汁をかけて客に出していた。雑司が谷の鬼子母神の空き地で店を開いている図が資料に出ていた。

蕎麦切りを食べるには「もり」が上品とされ、碗に蕎麦を入れ、汁をかけて出すのは下品とされたが、後になり段々、そんなことも言っていられず、上流階級の人も「かけ」を食べるようになり、螺鈿の豪華な器が出て食べられる位、流行ったという。

五代将軍の綱吉の貞享年間になると蕎麦切りを蒸して食べることも流行り、半分ほど煮た蕎麦切りを客が来てから「せいろ」にのせ、蒸し器の上で熱くして、汁と共に客に提供することも行われたと言う。

一方、うどんの方は上方で流行り、大きな店が多数あったが、一部が江戸に来て、うどんを出す傍ら、蕎麦も提供するようになって、生蕎麦の暖簾をくぐるとうどんも食べられるようになったと言う。

元禄15年の忠臣蔵の吉良邸討ち入りの時、彼らは蕎麦屋に集合して、討ち入りの時を待っているが、この時には既に大きな蕎麦屋があったと考えられる。
「蕎麦清」に出てくる噺の頃になると清さんがいつも来ている店や、中村仲蔵が立ち寄った店もしっかりした店構えになっていたのであろう。江戸の蕎麦屋も幕末のころになると3762軒もあったと言われるが、これには夜、荷物を振り分けて売り歩く蕎麦屋は含まれていないと言うから、多数の蕎麦屋があったことになろう。

「時蕎麦」に出てくる蕎麦屋はよしず張りの店ではなく、天秤で荷を振り分け、前に蕎麦屋の屋号を描いた行灯を着け、天秤の上には屋根を付け、これに風鈴などを添え、蕎麦と汁と具、それにこれ等を温める火元を運んで売り歩いた。

この、夜になると天秤を担いで街に蕎麦を売り歩く蕎麦屋は昼の内は自分で蕎麦を打ち、具などの必要なものは煮たり、揚げたりしながら夜を待ち、蕎麦を売り歩いていたのだろうか。或いは菓子屋が副業としてやっていた蕎麦打ちの蕎麦を仕入れて売っていたであろうか。

もともと麺類の製造は菓子屋の領域であり、副業として蕎麦切りを作っていたことは不思議ではないそうである。京都の古い菓子屋には未だに昔の蕎麦打ちの道具が残っており、今もって蕎麦ボ−ロ−や蕎麦饅頭、蕎麦羊羹が売られていることはその歴史を物語っているのであろう。

「時蕎麦」では「しっぽく」を注文しているが、「かけ」が盛んになると、天保の頃には
小田巻、天麩羅、あられ、花巻、しっぽく、玉子とじ等の献立が現れ、蕎麦の中に煉り込む鯛切り、海老切り、胡麻切り、茶蕎麦も変わり種として好まれたという。

献立のうち今、私達が聞いても判らないものがある。

【小田巻】・・・碗の底に蕎麦を置き、その上に具である、鶏肉、菜、蒲鉾、椎茸を載せ玉子をかけて、汁を入れて蒸したもの。
【天麩羅】・・・蕎麦のかけに海老の天麩羅を入れたものであるが、今のように大きなものでなく、小海老を揚げたものだった。
【あられ】・・・蕎麦のかけに焼き海苔を切ってのせ、その上に貝柱の煮たものを散らしたもの。
【花巻】・・・蕎麦のかけに焼き海苔を切ってのせ、薬味としておろし山葵をつけたもの。
【しっぽく】・・・関西地方では未だに蕎麦屋に行けばお目にかかれるが、東京ではメニュウにさえない。で「蕎麦の事典」新島茂編の「しっぽく」の項を見たら、安政4年(1775)の「蕎麦手引草」の中にしっぽくの具として、松茸、椎茸類、つくいも、黒くわい、麩、芹が使われていたことが記されていたと言う。しかし、幕末の頃には具として焼き玉子、蒲鉾、椎茸、くわいが使われたそうである。

寡って、NHKで「お江戸でござる」の解説をしていた杉浦日向子さんはこの幕末の具を述べていたが、一方、「落語手帳」を書かれた江国滋氏は大阪の道頓堀の中座の隣にあった今井といううどん屋で食べたしっぽくには芝海老、蒲鉾、麩、海草が具だったと述べておられる。 江国さんが会ったのは現代のしっぽくだったのであろう。
【玉子とじ】・・・蕎麦切りのかけに玉子をといたものをかけ、蒸したもの。

「時蕎麦」では竹輪や竹輪麩が出てくるが、当時の蕎麦屋が経費節減のために使った具の一部だったのであろう。

蕎麦屋には今もって藪蕎麦と更科蕎麦があるが、藪蕎麦は蕎麦の甘皮ごと挽くので黒い色が残るが、つなぎにとろろを使うので、当時は江戸っ子に好まれ、汁は少し辛めで粋な蕎麦食いには一寸、汁に蕎麦を浸しただけで食べることが流行った。一方、更科蕎麦は蕎麦の実の中心部の白い胚乳部を取り出して作るため、白い蕎麦で光沢があって淡白な風味で定評があったという。

蕎麦は世界の人々の命を救ってきた。米や小麦が少ない時や旱魃の時に豊富な蕎麦粉が米麦の補助食品として人々の口に入り、命を?いできた。今でも日本では中国やカナダの蕎麦粉を輸入して、蕎麦を楽しんで食べ、平和な日々を送っている。まさしく蕎麦様様である。

平成21年10月
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2009年09月01日

【099】小僧の生活(鈴木和雄)

江戸の落語には江戸の大店(おおだな)や中小の店で働く子供達、所謂、小僧、(上方では丁稚)の話がよく出てくる。その中には小僧が噺の主役になったり、噺を盛り上げる重要な脇役になったりして登場してくる。

「文七元結」の噺では左官の長兵衛が始めから出て来て主役となっているが、小僧の文七無しには噺は成り立たないから、準主役といえる。「悋気の独楽」は焼き餅焼きのかみさんとその亭主が噺の中で出てくるが、二人の中で動いているのが小僧の定吉で、亭主のあとをつけて、お妾さんの家に行ったり、帰って来てかみさんに報告して、旦那がどちらに泊まるかを、独楽を回して引導を渡している。

江戸落語の「四段目」、上方落語の「蔵丁稚」の小僧は全く主役を演じている。小僧の仕事である使いに出されたのが朝の内だが、帰りに芝居小屋に入りこんでしまい、午後遅く店に帰って来て、しらを切ったが、主人の計略にはまってしまい、芝居を見ていた事を白状させられてしまった。蔵に入れられて、寂しさとひもじさに耐えかねて、芝居の真似をするという立派な主役である。

小店では「火焔太鼓」の古道具屋では親類から預かった子供を小僧として雇って居るが、この子が主人の買ってきた古臭い太鼓を掃除のため、はたいたら、思わず音が出てしまい主人がおお儲けをする端緒を作ってくれた。

「人形買い」に出てくる店の小僧は客に従って、人形を背負って客の家に行く途中で、店の若旦那と女中の話を持ちかけ、小遣い銭を稼ごうとしている。
「百年目」の小僧たちも番頭に怒られながら仕事をやっているが,紙縒りを作るのにも遊び半分でなかなか完成できない。怒られれば、後ろに廻って舌を出している始末で反抗期の小僧の姿を示している。

「引越しの夢」では番頭がすこし可愛い子が女中に来たというので舞い上がってしまい、店の閉店時間さえも繰り上げており、小僧が隣の子供に早仕舞いを得意がると言う始末。
その他、噺の中で小僧の生活の姿が語られるのは江戸期から明治にかけての働く子供たちの動きを私達に示してくれているのであろう。

「江戸店(だな)犯科帳」林玲子著では主として京都に本店を持つ、近江商人の「白木屋」について書かれているのであるが、同書に依れば当時、江戸に店を持つ商人の多くは大阪、京都に本店を置き、その支店として江戸店を置いたのであり、その雇い人は殆ど、関西方面の人達で構成されていたということである。その為、小僧と言えども関西から採用し、江戸の店で教育し、手代から番頭へと出世して、店のために尽くすように仕向けられていたと言う。

小僧となり入店してくるのが、12−13歳であり、勿論、何もわからないのであるから始めは直接、店の仕事にはタッチさせない。 小僧には所謂、雑用である店内外の掃き掃除、拭き掃除,煙草盆、灰吹、火鉢の準備、来客時のお茶だし、後片付け、手代の後に付いて小さな荷物の運び、大きな荷物は男衆がやる。夜間の照明器具の掃除と準備、当時は江戸末期までは燭台の芯や油の準備、行灯、蝋燭の準備、江戸末期から明治初期はランプが入り、これの掃除と整備が大変だったという。

また店の貸し番傘、下駄、提灯の管理、店の神棚、仏壇の掃除と水,茶などの供え物の用意、江戸の道を覚えると電話や電報がない時代であったから手紙や書類の持ち運びをさせられる。 この様な場合に備えて、小僧は木綿の着物に前掛け姿で、どんな寒い日でもその前掛けの下に両手を入れて、店に坐っていなければならず、火鉢に手をかざすことは出来なかったそうである。

ある江戸の店では小僧は上に上がる事はできず、脇の下に風呂敷を挟んで土間に立っていて、用事が在る時は直ちに出かけられる様に待機させられたという。
また、奥向きの仕事で子守や、主人の子供のお稽古事の送り迎え、女将さんの用足しや水汲み(これが大変だったという、殊に冬は辛い仕事だった)がある。そして、年嵩になると子供衆(小僧達)の監督があった。

そして大切なのが金の持ち運びである。昔は金の運搬は割合気安く行なわれたようである。
「江戸府内絵本風俗往来」菊池貴一郎著に依れば売掛け金の受け取りを小僧にさせ、これを取りに行った小僧達が帰りの途中、露店や絵草紙屋を冷やかしながら歩き、九段下辺りの野原で100両―150両入った財布を地面の上に放り出して遊び呆けていたという絵が描かれている。当時の著者が生き馬の目を抜くと言われる江戸でよくこんな呑気なことが出来たものだと呆れている。

同じような話でこれは小僧ではないが、将軍家金子御用を務める家から毎日10−20人ぐらいの襤褸をまとった一群の人達が千両箱を天秤棒の前後に一個づつ担ぎ、江戸市内を運搬していたと言う絵を描いているが、そして何の事故もないのは不思議だと書いてあり、金の扱いが割りあい大様だったのだろうと思われる。

小僧達は「寝床」にあるように時々は主人の稽古事のお披露目につき合わされることもあったが、普段は夜は習字と算盤、数字の符号化したものの勉強をしなければならなかった。

手代になって行わなければならない客との取引の状況を記帳することは小僧時代はさせてはならないものとされ、絵付板(荷物に付ける目印の札)や判取帳(金銭や品物の授受の証印を受ける帳面)は扱わせてもらえなかった。帳面をつける硯箱の墨さえもすらせてもらえなかったと言う。
小僧は同じ時期に入店した者は同期であるが,ひと足先に入ったものは、既に格が上であり同年でも先輩になる。と言っても先輩でも私用に子供を使ってはならないとされ、夜具などを後片付けさせることは禁止されていた。

小僧は一回の入店に10−20人ぐらい入ってくるが、その内2年ぐらいの間に慣れない環境で病気になったり、商売に向かないと判定されて、家に送り返される子供もあり、小僧から元服して若衆になり、手代、番頭に進んで行くのであるが、手代になる前に3分の1が脱落して行ったという。台所仕事や力仕事をやる男衆は中途採用もあるが、店の中枢幹部となる雇い人は中途で入ることはなかったそうである。

現代のように携帯電話も出退勤タイマーもない時代は一旦、仕事と言って外に出てしまうと、連絡する手段はなく、割合、時間的な束縛はなかったようだ。「文七元結」の文七も顧客に請われるままに碁を打っていて、時間の過ぎるのを忘れて遊んでいて、あわてて、客宅を辞す時に、大事な受取金を忘れて行ってしまった。

「四段目」の小僧も使いの途中で好きな芝居に気を取られて、入り込んでしまい、帰る時間を忘れている。 本来なら監督者である「百年目」の番頭でも、勤務中に店を出て、客との付き合いという言い訳であるが、のんびり、芸者、幇間を伴い花見に行っている。余り時間にとらわれない大様な時代だったのであろう。

しかし時間の方は割合ルーズとしても、毎日、戴く食事の方はつましく、毎回一汁1菜の添え物とは行かず、稀に動物蛋白質の魚がつく程度でいつもは味噌汁に野菜が入ったものにご飯を戴く程度だったと言う。

食事の時間でも小僧は手代、番頭が食べた後でないと箸を付けることが出来なかった。まるで今の相撲部屋のちゃんこが上位の力士が食べた後でやっと格下の力士が取れるようなのに似ている。食事も残った範囲の中で食べなければならず、先輩の連中は料理部に自分の金で注文したものを取って食べることが出来るが、小僧は給与そのものがないから、店から与えて呉れた範囲で腹を満たさねばならなかった。

前記「犯科帳」に依ればご飯は米飯だけで、麦飯は飢饉の時に出るぐらいで、いつも白米飯であり、脚気になるものが多かったと言う。
小僧達の罹る病には脚気の他、眼病,回虫による腹痛、胃腸炎、感冒、肝炎、また栄養が悪いので腫れ物や湿疹がおきる。


今のように防虫剤などない時代であるから,蚊,蚤、虱(風呂屋でうつされる)などや外の害虫で刺されてできる腫れ物がある。  これらの病により、入店初年から病床につき、直らないままに親元に帰えさせられたり、死亡するものもあったという。

また、「双蝶々」の長吉のように、始めから手癖が悪く、悪友と共に外部で盗みを働くものがいたが、前記著書によると、店の内部の引出しから小銭を盗んで、買い食いに行ったり、家出をしたり、店の品物を盗んで売り、芝居見物の費用に当て、その小屋で鮨や、果物を豪華に摂っていた等の話もある。

手代や男衆になると、小僧にはない遊びを覚え、女郎買いや博打、遠くの料理屋での豪遊など大胆な犯罪を犯しているが、これらも店の品物や金を横領しての仕業である。
店側ではこれらの仕業が発覚した時は,家出をした時は店の小頭衆が関係筋を探して、店に戻させるが、盗みにあった時は持っていた金の範囲で弁償させ、家に帰させるが、店の雇い人から縄付きのものを出すことは信用に傷がつくという建前で、割合、穏便に解雇して損害金については余り深くは追求してはいなかったようである。

今は社内の損害でも警察に訴え、外部の力で事を解決していくが、昔は余ほどのことが無い限り、奉行所に訴えることも無く、また雇い人によって生じた損金は資本が大きい昔の経営者にとっては大した額ではなかったのか、名誉と信用の方が大切だったのか、あまり外に出したくなかったのであろう。その位、のんびりした時代だったのであろう。

平成21年9月
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2009年07月01日

【098】江戸の花火師、鍵屋と玉屋(鈴木和雄)

初夏が訪れ、大川(隅田川)の川開きが近づく頃になると落語の「たがや」が、よく演じられるようになる。三代目金馬さんがこの「たがや」をNHKで演じた時、解説の玉置さんが「ざっと265年前の第八代将軍吉宗の享保18年(1733)に前年に起きた大飢饉とそれに続くコロリの発生で多数の遺体が大川に浮かんだが、これらの慰霊のため、川開きが行なわれ始めたという記録がある」と言っていた。

しかし、その頃はまだ、現代に見られるような大規模なものでなく、夕涼みの舟に、花火を売る舟が近づいて来て、客の注文に応じて竹竿の先につけた、節を抜いた竹の筒に火薬を入れ、それの口に火をつけて、火薬が勢い良くほとばしり出る様を喜んだに過ぎなかったといわれる。

その後、段々、花火の火薬の製造について花火職人が工夫し、競い合って大きな花火を打ち揚げるようになり、夏の夜の大空に大輪を咲かせたり、仕掛け花火も作られ、現在のようになってきた。
花火はそもそもが、火薬が種である。その火薬は7世紀の頃に中国で発見されたという。その頃、中国には錬丹術師とか錬金術師とか言われる人達が、長寿の薬や金を作りだす技術を研究していたという。

彼らはいろいろな薬草や、鉱石や土、木炭を混ぜたり、割ったり、叩いたりして、自分の目的のものを作りだそうとしていたが、ある時、当時は印度と中国でしか無いと言われていた、硝石を混ぜて処理をしている内に一瞬の光と熱が発生し、研究小屋を焼いてしまった。彼らはこのことで硝石に注目し、更に研究を進め、硝石、硫黄、木炭を混ぜて、所謂、黒色火薬を作ることに成功した。

そして、この黒色火薬が後になり、シルクロードを経て、イタリヤのローマに至り、鉄の筒の中で点火することにより、鉄球や鉛球を飛び出させる威力があることがわかり、鉄砲に発展したといわれる。
イタリヤなどでも、始めの内は、当時の上流階級の連中がいろいろな筒や、ストローのような小さい筒状の物に入れ、これに点火して遊ぶというやりかたで、花のように出る火の散る様子を楽しんだという。

この花火が日本に傳わったのは、1613年に英国人が来日し、家康に各種の珍しい物を献上した時、その中にあったのが、中国製の花火だったと言われる。 この花火は手筒花火といわれているもので、筒に詰めた火薬の先に火をつけることにより、順次、火薬が破裂して、筒口から火が外にこぼれて、明るい光の花が落ちていくというものであった様だ。  しかし、伊達政宗は24年前の天正17年に唐人から献じられた花火を楽しんだという記録もあるそうだ。


日本に火薬が伝来したのは天正12年(1543)にポルトガル人が種子島に漂着し、二挺の銃を種子島の領主が買い上げて、これと共に火薬の製法について学び、また、鉄砲の製造法も学んだといわれる。これを堺の商人が買い上げ、また、河内国の城主長男が紀州に持ち帰り、研究させたという。
わが国は丁度、戦国時代で鉄砲の需要は急速に広まり、鉄砲を多数持っているものが天下を制することになっていった。

一方、平和になってくると、三代将軍家光などは花火に大変興味を持ち、江戸城内ばかりでなく、大川や品川まで出掛けて,花火を楽しんだといわれる。 この頃になると、江戸の市中にも花火を楽しむ人々が増え、花火売りが多数現れた。しかし、何と言っても、花火は火事のもとである。幕府は慶安元年になると、花火の遊びをご法度にしたのであるが、この禁令を犯してまで、花火遊びを続ける人はあとを絶たなかったという。

今の奈良県の大和の篠原村の弥兵衛という男が、万治2年(1659)に江戸に出て来て日本橋横山町に小さな店を構えて、玩具花火を作り、売り始めた。まだ、この頃は葦の管に小さな火薬を詰めたもので、それに火をつけると火の炎が出て来て、そのあでやかな光と色に人々の人気を拍し、よく売れたという。 これが現代まで15代に亘って続いている鍵屋の始めであるといわれている。(?,15代は家が変わっている。)

一方、「たがや」の噺に出てきた玉屋はもともと、鍵屋の手代で在った男が独立して、両国吉川町に店を出し、玉屋市郎兵衛を名乗り、営業を始めたものといわれる。
鍵屋、玉屋の店名は両者とも守護神として、お稲荷さんを信仰していたが、玉屋は玉を持った稲荷を、鍵屋は鍵を片手に持った稲荷を祀っていたため名付けられてという。

しかし、鍵屋と玉屋が共に競合しながら営業をしていたのは、約30年で、玉屋は天保14年(1843)に火事を出してしまい、営業が出来ないことになってしまった。この火事で玉屋は全焼したのみならず、町並みの半町ほどを類焼させてしまい、重罪の失火罪に問われると共に、この日は12代将軍の家慶が日光参拝に行く前日だったことから、幕府の重要行事に支障を与えたため、玉屋は一代限りで江戸からの追放を受け、玉屋は敢え無く江戸の花火師から姿を消すことになってしまった。

その後はただ、「玉屋」「鍵屋」の呼び声が花火大会の度に聞かれるだけになってしまったのである。
この様に、花火が盛んになった理由の一つに硝石の国産が出来るようになったということが揚げられる。前記したように硝石は印度、中国からの輸入がなければ黒色火薬は作られなかったが、当時、中国では既に硝石の原石ばかりでなく自分達の手で作る事を研究して、成功していたという。



日本では鉄砲の伝来後、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に捕まえた明軍の火薬技術者から硝石の製法を聞きだし、これを国内に持ち帰って硝石の国産に励んだのだという。
昔、古い家の床下の土には硝石が含まれており、この土を舐めると始め、甘く感じるが、後になると苦く感じるのは、硝石が含まれているという証拠だといわれたという。

古い家の台所や、馬小屋付近の床下の土には多量の硝石が含まれていることが判り、これを水に溶かし、灰汁を加え、上澄みを取って煮詰めると、硝石が得られたと言う。しかしこの方法では、一回、床下から取ってしまうと50年以上も取ることが出来ない。

そこで、フランス人が考案した硝石を作る斎養場を作るならば、2−3年で出来ることが判り、干し草に下水の溜り水や風呂の水、古池の腐り水、魚の内臓や血、鳥の死んだものをつけて腐らせた水をかけて置く、更に月に一回、牛馬の糞の腐れ水を撒いておくということで硝石採取までの時間を短くすることが出来た。

一方、加賀藩では秀吉が朝鮮から連れて来た火薬製造技術者を預かり、飛騨山中の五箇山で、この硝石の製造に当たっていた。その為、藩は硝石の製造に従事した農民には年貢の米の上納の減免までして、硝石小屋の維持に努めたという。この小屋は大変な臭いを発し、悪臭に参ったが、特別な手当てまで出していたそうである。

しかし、秘密維持のために五箇山付近は、外部との接触を禁じて、加賀藩の秘密の火薬工場として利用したという。ここでの硝石製造方法は蓬を中心とする雑草や大根の葉などの植物、人糞、蚕の糞を土の上に積み重ねる方法で作ったといわれる。

この様な先人達の異常な苦労と非常な努力の研究があって火薬の基となる硝石が作られ、それによって火薬が多量に製造されて、天下が平定されて、平和な国が出来たのであるが、
花火遊びと言うのも発達し、時には火事を生じさせ、人々の生活に支障を起こすこともあったが、夏の夜の遊びに大いなる貢献をしてくれたのも確かであろう。

いま、私達が花火大会などで夜空に咲く大輪の花火が炸裂する光景を見る時、一瞬でも昔の人達の苦労を思い出すことが出来るだろうか。 


平成21年7月

参考図書:「花火の科学」 細谷政夫、文夫共著
       「花火大会に行こう」 武藤、小野共著
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2009年06月01日

【097】「虱茶屋」から(鈴木和雄)

円生さんが旅の噺の枕で、地方に旅回りの公演に行った時、宿に泊まった所、虱に食われたので、これを掴まえ、宿の部屋の柱の割れ目に押し入れ、上から紙で出口を塞いでおいてそのまま帰って来てしまったが、一年後また同じ宿に行って、同じ部屋に泊まることになったので、虱を柱に埋めた事を思い出し、それを探し当てて、出口を埋めていた紙を取り除いてみたら、一年前の虱が、こんな恰好で死んだようになっていたと、自分の顔で口をすぼめ、頬をやせたような形にし、目と眉毛を下げた様子が、余程その虱の風体を表していたのか、会場が大笑いの渦に巻き込まれていたのを思い出す。

この話は「虫の文化誌」小西正泰著に書かれている橘 成季の「古今著聞集」(建長6年、1254)の話で「ある田舎者が京に上り、宿で大きな虱を掴まえたので、宿の柱を削って、穴をあけ、そこへ虱を閉じ込めてしまった。翌年またその宿に泊まったので、その穴を見てみると、虱が痩せてはいるが、動いているので、取り出して、自分の腕の血を吸わせてやったが、その後が痒くなり、大きな腫れ物となり、それがもとで死んでしまった」と言う話がある。

標題に掲げた「虱茶屋」は先代の円馬さんや助六さんが演じて大きな笑いを取っていた噺であるが、身振り、手振りが可笑しく、仕方噺の典型的なものだったのであろう。
「茶目気のある旦那が乞食からガラス瓶一杯に虱を求め、これを持って茶屋に行く。そこで大勢の芸者や幇間を集め、「襟占い」と称して襟元を見る振りをして、そこへ虱を二、三匹ずつ入れていく。
宴会が始まると虱が動き出し、芸者、幇間が痒がり始まる。そしていろいろな恰好をして、体を掻き始める。

この外、虱の噺では「虱の選取り」と言うのがあるが、落語事典で見るだけで、聞いたことが無い。
「ある男の首筋に虱が這っていたので、捕ってやったら、その男が、断わりもなく俺の虱を取ったという。 親切のつもりでやってやったのだが、逆に文句をつけられたので、自分の衣についていた一匹を返すと、こんな小さいのではないと、更に、ごねる。 別のものを出してやると、これも違うという。 そこで親切な男は袂から ごそっと虱を出して「どれでもいいのを持って行け」と言う。

この様に虱は庶民にとっては最も身近な虫だった。 身近な所か我々人間の血を吸って生きている害虫なので、彼らは人間に寄生することによって、世代を継ないでいたのである。
百科事典によると、虱は人間の体毛の根元に卵を産みつけ、人の体温の下で胚子発育期間の9日間を過ごし、幼虫になり、吸血が出来るようになると8−9日を経て、成虫になると10時間以内で交尾し、2日後に産卵するというから、すごい繁殖力がある。平均一ヶ月、最長2ヶ月ぐらい生きるという。しかし、寄生体から離されると直ぐ死ぬというし、別の動物の寄生では生きられないそうである。

欧州の昔は上流階級の貴婦人でさえ、虱にたかられ、痒くても人前で虱を捕る事は無礼であるので、我慢をしたが、兎に角、痒いから掻く為に、孫の手を、いつも持っており、これを使って痒みを留めたという。 殊に今のように所中、風呂やシャワーに入ることは出来ず、また衣服も自分にピッタリしたものを着ているため、そんなに簡単に着脱が出来ないため、一旦虱に捉まると苦労していたそうである。

欧州では貴婦人が孫の手を利用していたように、日本では女の人は頭の髪に簪を指していたが、この簪も元々は髪につく、あたま虱による痒み対策に用いられたそうで、それが段々装飾品になっていったということである。

日本では江戸時代は庶民は火事を恐れて、自家用の風呂を焚くことはせず、湯屋に行かざるを得なかった。当時は今のように衣類入れやその置き場を消毒するようなことは全く無かったから、湯屋に行く人々は、風呂敷に着替えの衣類を包み、湯屋に行ってこの風呂敷を拡げ、その上で着物を脱ぎ、そのまま風呂敷を包み、床の上に置いておくという事をしていたようだ。

これが虱がたかる事を防ぐ手段だったと言う。 風呂敷と言う言葉はこれから出ていると言われる。
しかし、虱などはいくら注意しても、たかってしまい、家に持ち込むことも多かったようだ。殊に大店の様に多くの手代や小僧が住む所では皆が痒がり、店のおかみさんが下女たちを指揮して虱退治をやったと言う。

虱を見つけて一つ一つ潰していくのも、虱退治の方法だが、これでは能率が悪いと、割合早くから殺虫剤や防虫剤が考えられたようだが、それ以前や薬が無い時は熱湯をかける以外に手は無い。それに寝具などは天日に干しておくのも、隠れた虱を追い出すのに効果的だったそうだ。

前記の「虫の文化誌」によると、防、殺虫剤の類は割合早くから中国などで使われており、二世紀頃に編まれた書物によると、既に水銀や雄黄(天然硫化砒素)で虱の駆除をしたという。また別の本では水銀、銀朱(硫化第二水銀)、ビヤクブ、ショウブその他を使っていたという。

日本では江戸時代にはアタマ虱には大風子の油を髪に塗ったり、銀朱を櫛に塗って髪を梳くことをやっていたそうである。その他、今は我々には判らない薬草や植物(ももの葉)を使っていたそうだ。
虱には頭の髪の毛にたかるアタマ虱、衣服について身体の血を吸うコロモ虱、これはアタマ虱から派生したものだそうだ。 上記2種とは異なる種類で属する科も違うケ虱がいる。

ケ虱は亭主の浮気の証拠になり、よからぬところで遊んできたことが判るので、夫婦喧嘩の元となり亭主にとっては戦々恐々の害虫だったようだ。 TV などで時々見るアフリカの原住民が頭に泥を塗っている姿はアタマ虱を防ぐもので、日本でも昔は油を塗ることがあったそうだが、それが現代のポマードやヘアークリームに発達し、今は香料などを入れ、おしゃれな化粧品として使われているのだという。
この虱は人間にたかって、血を吸い痒みを覚えさせるだけなら、まだ、ましだが恐ろしいのは、伝染病である発疹チブスを媒介することである。この病気は法定伝染病でコロモ虱が媒介するリケッチヤが病原体だそうだ。この病気は戦争があったり、飢饉、不潔な生活があると急に増え、人々に害を与えるものだという。

戦争中に発生すると戦争の勝敗に大いに影響したようである。ナポレオンがロシヤに侵攻した時に、最後は冬将軍にやられてフランス軍は敗退したと聞いていたが、本当はこの虱軍に攻められて軍勢が半分以下になり、退却することとなったのだという。敵襲を恐れたのと、寒さのためお互いに身体を寄せ合って寝ていたので虱の繁殖と伝染を早めたのだという。他の戦争でも発生した塹壕病なども虱のせいだという。

第二次大戦の末期のアウシビッツでも虱の発生があり、多くの人がガス室に行かされる前に虱のために亡くなっていたそうだ。それを考えると今でも内戦やイラク戦争で他所の国に避難している人々がテント生活をしているところでは虱にやられているのではないかと危惧するものである。

我々の世代の人が経験しているのは、日本の敗戦で急激に広がった虱の害は風呂に行っても、満員電車に乗っても移ることがあり、当時の占領軍であるアメリカから持ち込まれたDDTが学校や集会所で,頭や襟首に撒かれて体中、真っ白になっていた姿を思い出す。

このDDTの威力は効果適面で、このため虱は殆どなくなったが、今はこのDDTは長期に残留するという害の方面が強調され、全く使われなくなっている。しかし、この薬は一時はノーベル賞を得るくらい人類に貢献してくれたのであるが。

虱は昔は直接しらみとは言わず、隠語と言うか、別の形の言葉で優しく表現していた。それが、「観音様」とか、「ホワイト・チイチ」とかいう言い方であったようで、観音様は虱全体の姿が白く、白衣観音に似ているように思った人が名づけたのであろうか、またホワイト・チイチは白い体色の虫ということで呼ばれたのであろう。

ところで虱の体が白いというのは我々日本人だけらしく、虱も寄生する人の肌の色によって変っているのだそうだ。黒人に寄生する虱は黒色、印度のヒンズー人には暗黒色、中国人や日本人には黄褐色、アメリカ・インデアンにはオリーブ色、ヨーロッパ人には白色だそうだ。 これは彼らが寄生して吸う血によって体色が変っている事を示すものなのだろうか。

欧州の昔の場面を示す映画など見ていると男の人がかつらを被っているのを見ることがあるが、これなども虱対策の一環だったそうである。あまりに髪の毛に虱がつくので、頭を丸坊主にしてしまい、かつらを被っていた。しかし、このかつらが人毛で作られていたため、これにも虱がつき、頻繁に洗ったり、整髪をしなければならず、一苦労だったという。

いくら血を分けた虫と言えども痒みが生活の大きな障害になり、落ち着いて仕事や寛ぎが出来ない。その為、昔の人は苦労して防虫、殺虫といろいろな事を考えていたのであろう。
噺の「虱茶屋」にあるように虱を遊びの道具として使ったと言うことは今では不衛生、不健康の極みであり、考えられないことである。噺が作られた頃は、虱が発疹チブスの病原体を媒介するなんていうことは知らなかったから笑い噺のネタとしてとりいれられたのであろう。


平成21年6月
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2009年05月01日

【096】犬は友達(鈴木和雄)

街を歩いていると犬を連れた人達によく会うこの頃である。愛玩動物として犬、猫等々、色々人が飼って楽しんでいるのを目にするが、なかでも一番人間に愛され、役に立っているのが犬であろう。昔から狩猟用、牧羊用、更に橇や車を引っ張る牽引用や運搬用として人間の手助けをしてくれている。更に最近では番犬、警察犬、軍用犬、盲導犬,介助犬、麻薬探索犬として飼われており、犬の活躍する場所は各所にある。そして今、最も多いのが愛玩用として室内で飼っている小型の犬で人の目に付く存在である。

猫に比べ犬の方が人間の役にたつ分野は大きい。猫だって昔は人間の大切な穀物を食い荒らす鼠対策に大いに役立ち、殊にペスト病が流行った中世期に猫を大量に移入し、鼠を駆逐することによりペスト病をなくしたという実績があるくらいだから人間にとって有難い益動物ではあるが、昨今は鼠もそんなにいず、猫の活躍する場もなくなったのでもっぱら愛玩用として各家庭で飼っているのに過ぎなくなっているようである。

そこへ行くと犬は大昔から人間の狩猟時の手足となり、穴居生活をしている時でも一緒に住んでいたという記録があるそうである。犬のそもそもの祖先は狼だと言われている。
大昔は狼が人間を食い、人間が狼を食べていたが、段々人間が石斧や槍等の武器を持つようになり、狼が人間に近づかなくなり、逆に人間が従順な種類の狼や子供の狼を捉えて、餌を与え、育てて、身内に引き込み、他の狼や動物から人間を守るために役立てようとしたのが、段々、犬型化していったと言うことである。

そのような進化過程から人間と犬の関係は他の動物と比べて、親密度が強く、早くから愛玩だけでなく、働く動物として人間が深く関心を持ってきたものだろう。
猫の場合も割合古くから人間に愛されてきたが、一方、猫の愛嬌の無さが災いし、逆に化け物としてとらえられたり、事件を起こす元凶として遠ざけられたりしたことがあり、噺の方では好き嫌いが半ばしているようである。

そこへ行くと犬の方は擬人化どころでなく、人間そのものになってしまう「元犬」の様な噺があり、人間になっても犬の性格は失わないところが笑いを生じさせてる。
噺には犬という演題をつけないでも、噺の端々で話題として一寸出てくる犬もある。

「粗忽長屋」で赤犬を「あかー出て行け」と叫んでいるのを「かかあー出て行け」と聞いて、また夫婦喧嘩が始まったと心配する隣人が居るし、「不精床」では以前、親方が切ってしまった客の耳に味をしめた野良犬が、今日も客が入っているのを見て、またご馳走にありつけると店に入ってくる人懐こい犬もいる。「品川心中」では女郎との心中に失敗した貸本屋の金ちゃんが、品川の海を上がって親分のところに行く時に,髪は乱れ、着物も破れ姿となり、町を歩いていると町内の犬に吠えられ、町内送りをされており、夜の寂しさと金ちゃんの哀れさが伝わってくる場面を表している。

上方噺の「鹿政談」では豆腐屋の親爺さんがきらずを食べている鹿を犬と間違えて殺してしまい、お白州で奉行に犬と思って薪木を投げてしまったと正直に白状し、奉行の方も無理に犬だと周囲の者に納得させて切らずに帰している。

「胴乱の幸助」では喧嘩とあれば何でも仲裁に入ることを道楽としているが、人間ばかりか、犬の喧嘩にまで仲裁をする気で餌を与えて、騒ぎを収めている。そして犬そのものではないが、話の一つとして「青菜」ではかみさんがいつも「鰯がさめちゃうよ」と亭主を呼んでいるが、亭主の方は家の恥をさらすと文句を言って「鰯ばかりではあきる」と言うと、かみさんが鰯には滋養があり、カルシュウムが沢山あり、「犬を見てごらん,風邪ひとつひかないよ」と反論して、犬の元気の源を語っている。

「骨違い」でも嫉妬深い大工の熊五郎が、かみさんが棟梁の息子を慰めているのを聞いて、間男と勘違いして、息子を薪で打ち殺してしまい、弟分の家の床下に埋めた貰うが、後刻、訴えられ、お白州に出ることになるが、弟分が息子の死骸と犬の死骸を取り替えてくれて居たので、助かったと言う噺だが、ここにも犬が変な形で出て来ている。

「元犬」と同じような人間変身の噺であるが「犬の字」では犬殺しに捕まえられそうになった時に、店の主人に助けた貰った白犬が恩返しをしようと神様に祈り、人間になって真面目に勤めたところ、主人が嫁を取ってやろうとするが、しかし、元が犬だから正体が出ると嫁の親に済まないからと断っていたが、ある晩、男に酒を飲ませ、寝入った姿を見ると、大の字になり寝込んでおり、枕を肩の処に置き、犬の字になっていた。

犬は昔から医学的にも役にだって欲しいという願望があったのか、「犬の目」では眼病に罹っていた患者に医者が手遅れとばかりに目を繰り抜いて、洗って干しておいた所、犬が来て食べてしまった。困った先生はその犬の目を繰り抜いて男にはめ込むとよく見えるようになったが,夜目が効くようになると共に、小便時に片足を上げてするようになった。

「犬の足」の噺で、物知りが、昔は、犬は足が3本しかなかった。しかし3本では不便なので神様に4本にして欲しいと頼むと、神様は不憫に思い,五徳の足が4本あるが3本でも宜しかろうといい、1本を犬に与えてくれたと言う。その証拠には犬は小便をする時、1本は神様から貰ったものだからといって片足を上げてやっているという「薬缶」に似た無学者、論に負けずの噺。
「大店の犬」では店の前に捨てられていた3匹の子犬のうち鴻池の岩崎家に貰われて行った犬は大きくなり、仲間にも勢力があり、親分株になっていたが、ある日よその犬が苛められているのを助けてやり、身の上話を聞くと弟犬である事が判る。話の最中に家人が「こいこい」と呼ぶので行ってみると餌がもらえた。また「こいこい」と言うので行って見たら坊ちゃんが小便をさせられる処だった。小便つながりの三席。

「犬の無筆」犬が字を知らないのは当たり前だが、犬に吠えられたら虎という字を手に書いて握れば吠えられないと聞いた男が、早速やってみたが、やはり吠えられてしまった。男はこの犬は無筆だと言う。

犬を可愛がるのもいいが、けじめはちゃんとつけないと笑いものになる。「天王寺詣り」別名「犬の引導鐘」では大阪天王寺で彼岸の日に無縁仏の供養のため、引導鐘をつけると聞いた男が、寺に行き、死んだ犬の供養をしたいと申し込むと戒名を問われ、「犬の黒」と言ったはいいが、ついでに親の戒名も唱えてくれと言う人間の尊厳を無視したとんでもない噺だ。今でも人間の墓より、犬の墓の方が立派と言う話もあるそうだ。

犬が口を利くのは擬人化の一歩であるが「いつ受ける」では博打ですってんてんになり家に帰り、かみさんの懐を当てにしたが銭はないといわれ、着ているものを出させ、これをぶち殺す〈質に入れる〉と言うと、いつ受けると言われ、仕方なく親にも子供にも聞いて見るが、これもいつ受けると言うのみ。腹立ち紛れに表に飛び出すと、寝ていた犬の尾を踏んでしまう。犬がなき騒ぐと「畜生ぶち殺す」と言うと犬までもがいつ受けると言う。

「いろはかるた」にも「犬も歩けば棒にあたる」と言う言葉がある。言語学者の金田一秀穂先生によれば「何でもやってみるが良い、そうすれば幸運にあたることがある」と言う良い意味がある言葉だそうである。犬という語を借りて何か人間に幸せをもたらすと言うことを表しているそうである。

犬の持つ嗅覚は人間の100万倍以上だと言う。聴覚も猫には劣るが、人間の7倍だと言う。人間はこの感覚を活用して狩猟時に使ったり、警察が捜査の際に犯人の追跡に使ったり、麻薬探知犬は空港などで活躍して、大いに人間の役に立ってくれている。また他の動物と違い、知能が発達していることが人間に幸せをもたらして呉れており、盲人が外出のときに助けて呉れたり、身体の不自由な人のため介助をしてくれたりしている。また、番犬として夜間や家人の居ない留守時に不審者の侵入の警戒をしてくれている。

飼い主が外出から帰って来ると、歓迎の態度を全身で表してくれ、益々可愛くなり、思わず頬ずりしてしまう人もいる。老人介護施設ではこの頃、老人たちの心を癒してくれる「癒し犬」として導入しているところもあるようで、犬の働きが益々喜ばれている。
犬が噺の上で単なる笑いを起こす存在だけでなく,みんなに可愛がられるペットとしてその活動分野を拡げていくのであろう。

平成21年5月
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2009年04月01日

【095】旅籠屋(鈴木和雄)

落語には度々旅の話がとりあげられている。 そしてその旅路で泊まる旅籠屋が舞台になっていることが多い。 私達がよく聞く噺では「宿屋の富」の馬喰町の宿、「抜け雀」の宿、左甚五郎の泊まった「竹の水仙」と「鼠」に出てくる宿、「宿屋の仇討ち」の宿、「御神酒徳利」に出てくる神奈川宿の宿、「小間物屋政談」に一寸で出てくる小田原の宿、「品川心中」の飯盛旅籠等がある。

昔の江戸には旅籠屋は馬喰町に集中されており、この旅籠屋は大部分が公事宿であって、訴訟をする者や役所に用事があるものが宿泊する宿であった。幕府は初期においては江戸に滞在する旅人の統制のため馬喰町以外の宿泊は禁止していたが、その内、郡代の役所に行くものとか、寺社の参詣に行くものが増え、近隣の町の旅籠屋の宿泊も認めざるを得なかった。

地方に行くと各藩が統制していて、城下町での外部者による宿泊は隠密行動の監視のため一泊しか認められていなかったが、江戸市中は割合緩やかだった様だ。
一般の寺社参詣人や商人は自分の国のものと馴染みの定宿となっている馬喰町の周辺の宿に入ったり、 所中、江戸に来る商人は取引先や知り合いの家を訪れて泊まることが多かったと言う。

廻国修行僧や巡礼者らは馬喰町隣町の橋本町の木賃宿、門付けを行なっていた芸人(乞胸)の人達は下谷山崎町の木賃宿に泊まったと言う。木賃宿は本来、食材を持ち込み、宿から薪炭を買って、自分で煮炊きをするというのが原則だったので、宿料は安かったが、料理はお粗末で、風呂は無く、銭湯に行かねばならなかった。

旅籠屋は街道筋でいえば、東海道の五十三次の宿場があるが、ここでは伝馬の継ぎ立てを行なう負担の代償として、市立てが認められており、問屋場が設けられ、その地方の有力者が問屋として采配し、市に来る商人の人馬輸送を扱っていたが、その問屋が商人が泊まる宿(商人宿)を営み、その内、一般の旅人や寺社参詣の人も泊めるようになったという。

この問屋は土豪の有力者だったため、町の中心部に本陣を持ち、幕府の要人や大名などが宿泊できるようにしていた。そして次第に本陣、脇本陣、飛脚宿、商人宿を含む一般の旅籠屋と広がって行き、宿場町には各地に旅籠屋が設けられた。

商人宿は越中富山の商人や江州商人のように絶えず訪れてくる人達の定宿となっているものもあるが、一般の商人や寺社参詣人でも泊まれるようになっている一方、御用宿となっているものもあり、武士も泊まれた。この場合、商人や参詣人は宿泊費は180文から
200文ぐらいだったが、武士は幕府が定めた庶民が利用する時の半額の御定賃銭で泊まれたという。
飛脚宿は飛脚人のための旅籠屋で、これも御用宿であるが、一泊300文と高く、その為風呂は何時でも沸かしてあり、何時でも入れるし、宿泊環境もよかったと言う。
一方、各藩の城下町の旅籠屋は幕府の役人や大名が泊まる宿があったが、この為に徴用される人足のため、人足宿が設けられており、藩内の人が御用のために城下に滞在する時の郷宿もあり、大体、旅籠屋の多い町の外れに設けられていた。噺に出てくる一文無しの旅人はこうゆう旅籠に泊まったのかも知れない。

大阪の場合は昔から経済都市であったから、商品や物資等の貨物が激しく動くからさまざまな人が多数集まってきて、市内で泊まる事が多かったのでいろいろな形の旅籠屋が多数営まれた。一般の旅人のための宿、伊勢参り、高野山詣り、熊野詣で、等の人のための寺社宿、道者宿、勧進宿、商人宿、飛脚宿、これらに加え、京都―大阪間の三十石船や金比羅詣りに行く人の舟の待ち合わせの船宿があった。

船宿は主として船乗りや船で物資を輸送する人を泊める宿であって、普通の人は舟に乗るまでの待合せの宿であったが、宿泊はさせなかったという。
旅籠屋はお客である旅人にサービスをすることは勤めだったが、上方の大きな旅籠屋では芝居見物に案内したり、金比羅参りの客には船着場まで見送りするついでに市内案内をすることもあったという。

旅籠屋という形が出来たのは江戸中期だという。江戸時代の始め頃までは、旅人が泊まる所は全て木賃宿が主流だったそうだ。東海道のように割合早く交通が拓かれたところでは食料の確保が得易かったが、山間地では米の取得が困難で木賃制度が維持されたという。

17世紀中頃になると商人や富裕な農民が旅に出ることが増え、旅籠屋の利用が多くなったそうだ。またそのころになると旅人を泊まらせるだけでは収入が限られ、宿場の旅籠に課せられる伝馬役や御用宿の負担が宿場町の人々に掛かってくるので、所謂、飯盛女を置いて、夜の楽しみの場を設けるようになった。

その内、段々江戸の吉原の様な様相を呈してきたので、幕府は宿場維持のため、飯盛女を置く事を黙認するようになってしまい、享保三年(1718)に江戸周辺では品川、内藤新宿、板橋、千住の四宿の旅籠屋に一軒について飯盛女二人を認めるようになった。

しかし、吉原のように花魁と呼ばせず、あくまで飯盛女としてのみとなっているが、噺の「品川心中」にあるように筆頭女郎は板頭と呼ばせたことはご存知の通り。
天保期になると各街道で飯盛女が居る宿が増えてきて、一般の平旅籠屋の経営を圧迫してきた。
その為、平旅籠が飯盛女を借りて来て、客に世話することもあったようだ。噺の「三人旅」−別名「おしくら」又は「鶴屋善兵衛」では宿の亭主が客に対応する女が居ないため、外から用立てている話があるが、こんな状態だったのかも知れない。

飯盛旅籠が増えて落ち着いて宿泊できないようになると、寺社参詣のような大きな講の団体の人達は安心して泊まれない。この為、定宿を指定しておいて、宿泊する所を確保するようになった。これは旅人ばかりでなく、旅籠屋にとっても年に何回か来る講の団体客を確保できるので、双方にメリットがあった。

宿場町でも旅籠屋が栄えたのは五街道〈東海道、中山道,奥州道、甲州道、日光道〉であり、この内、東海道は旅人の通行が多く、繁昌したという。しかも品川は江戸を出て直ぐの宿駅でありながら、飯盛女が居る旅籠が多く、江戸の町内からこの飯盛女を目当てに来る男達が多く来て、大いに栄えた。「居残り左平次」、「品川心中」の噺がそれを示している。

その他、旅籠屋のもうけられる所は旅の障害となる峠や河川の近くが多かった。例えば、小田原の宿は箱根越えがあり、夜の明けぬうちに峠を越えようと松明を持って宿を出て行く旅人が居た。また大井川等の川越をする旅人は川の水量により、川留めがあったりして旅籠で待たねばならなかった。

関所もまた障害の一つで、関所を始めて通る旅人にとっては旅籠屋の世話があり安堵して通ることが出来たという。関所周辺の旅籠では有料で臨時の手形を出したり、関所周辺の裏道を案内して稼いだりしたという。

一般の旅籠屋は武士であれ、町人であれ誰でも泊まることが出来たが、身なりの良くない者、人相の悪い者に対しては旅籠屋の方で客を選び断ったが、宿泊は原則として相宿だった。この為一人旅の場合、旅籠賃以外に茶代(チップ)を渡さないと相宿(相部屋)となった。噺の「宿屋の仇討ち」でも武士が前夜は相宿をさせられ、落ち着いて寝られなかった事を訴え、何程かの茶代を出したのであろう一人部屋を確保できたが、今度は隣の部屋で若い連中が騒ぎ、何度も番頭を呼び出している。

しかし、相宿は同宿する旅人に用心しなければならない不安がある。「江戸の旅」今野信雄著にも昔の「旅行用心集」八隅芦巻著に記されている事柄がのせられているが、道中で道連れになった人が、如何に実直そうに見えても同宿したり、薬をすすめられても飲んではいけない(護摩の灰に気をつけるため)、酒乱、狂気の人には用心せよ、風呂に入る時は金を他人に預けてはならない、金は目の届く所に置けと言うようなことがのべられている。

昔の旅では道中いろいろな障害が発生する恐れがあり、旅をよくする人にとっては前記のように定宿は安心なものであった。江戸の馬喰町の公事宿は特定な宿と町村の関係が作られている宿なので、安心して泊まれるし、また泊められる。

各藩でもその国の領民が泊まれる宿があれば、その国の人が集まってくる宿となり、便利である。富山の売薬商人のように、所中同じ路線を旅する商人や旅なれた人は定宿を決めておけば、国の便りもそこに届けてもらえるので、連絡に便利であった。

富裕な商人の定宿については「御神酒徳利」の中で馬喰町の旅籠屋狩豆屋の番頭善六が鴻池のご支配人に連れられて神奈川宿の鴻池の定宿である新羽屋源兵衛の宿に泊まっている。ここでどんな事があったかはご存知の通り。

宿に着くと女中が足すすぎの湯を持って来てくれる。旅人が足をすすぎ、脚絆を洗っている間に荷物は部屋に運ばれる。部屋でお茶を飲んでいると亭主か番頭が宿帳改めに来る。しかし、これは風呂に入った後のこともあった。

茶代を前もって出すこともある。ことに一人部屋を欲しい時は前に払う。そうすると出されるお茶も菓子も違うし、蒲団も一枚多いと言われた。また、客扱いがよく、料理が格別で蒲団も良かったし、茶菓子も上等なこともあった時は旅籠代に加えて茶代をおいてくるということもあった様だ。

旅籠屋の規模は大体が3間、間口以上で、4−5間、間口の旅籠屋が多かったと言う。しかし、飯盛旅籠は平旅籠屋よりも間口が大きく、品川ではいずれも飯盛旅籠の方が大きな構えをしていたという。

旅籠屋は座敷の畳数と部屋の数で宿泊客の収容数がきまってくる。川崎の宿では20畳の宿から160畳の宿があって、平均70畳だった。中山道の山間地の旅籠屋は20畳から60畳まであり、平均は36畳で大体が規模が小さい宿だったという。

これらに比べると大阪、京都の大きな宿は部屋数102室、1室を4畳半とし、二人泊まれるとすると、200人以上が泊まれた。旅籠は二階建てが多かった。一階が家族の生活のための部屋、二階が客の宿泊室だった。

幕府は役人や大名のため、五街道の宿場町の人馬賃銭と木賃銭を定め、五街道以外は各藩
が定めた。旅籠屋は民間のため、公定金額はないが、一応夫々の身分によって、料金が定められた。「江戸の宿」深井甚三著によれば次のようである。

天保十三年の中山道の旅籠賃
武士上:180文中:156文下:132文
百姓、町人下:132文中:132文下:132文
商人2匁5分(250文〉〜3匁(300文)
品川宿の料金200文  
(安政以前)
東海道の上旅籠200文中山道148文
京都の通常の旅籠200文〜250文上旅籠3匁5分(350文)
大阪の下旅籠200文上旅籠3匁5分(350文)
客が望めば銀5匁〈500文〉金2朱(銀7−8匁)もあった
 

旅籠の食事は大体が一汁三菜であまり美味しいものではなかったという。但し茶代をあらかじめ置いた客に対しては別の采をつけたそうである。特に大きな旅籠屋を除いて料理人は置いていず、旅籠の女将さんと下女たちが料理したものだった。

食事の摂りかたは馬喰町の公事宿では宿泊者全員が台所で食事を摂っていたようであるが、一般の旅籠屋では客の居る部屋で女中さんの給仕で食事をしていたという。

風呂は江戸市内では火事の対策のため各家で風呂を焚くことは無かった。この為、町民は皆、銭湯に行かねばならなかったが、旅籠の客も同様な処置を受けざるを得なかったようだ。しかし、主要街道の旅籠屋は御用宿を兼ねている所も多く、元禄頃には風呂を設けており、風呂に入れることが売りの一つだったと言う。

ただ、風呂がたてられても、宿屋は薪代の節約と手間を惜しむため、一度沸かしたら、そのままで、追い炊きをすることはなかったので、大勢が入るとぬるい湯となり、皮膚病をうつされる恐れがあった。この為、七つ時(16時)頃までには宿に入らないといい風呂に入れないと言われ早くに宿に着いたのだそうだ。

しかし、文化文政以降になると、女中さんが入浴中の客にぬるければ沸かすと声をかけるようになりサービスが改善されたという。
もう一つ当時の旅籠屋で衛生面で問題なのは虱、のみが居たことである。充分な消毒薬品や殺虫剤がない時代は一旦客に持ち込まれると彼らは繁殖力が強く、なかなか退治が難しかった。零細な旅籠屋は頻繁な掃除や蒲団の天日干しは大変な作業だった。
この点、本陣とか上等な宿はこの心配が無かった。上宿を選ぶのは防犯ばかりでなく、虱のみのような害虫から身を守り、ゆっくり寝られると言うことでもあった。
旅籠屋は経費節減のため、夜具として蒲団の上下は提供したが、敷布は無く、浴衣も無かった。この為、旅人は寝巻は自分で持参する必要があった。

旅人へのサービスとして江戸では芝居見物や市内見物の案内があり、京都では御所の見物やご宝物の拝見の案内があったことは知られるが、その他のサービスとして身軽に旅をしたい人のために前の宿場で荷物を預かり、客の確保を確実にしたり、帰国する客に対しては国元に荷物を送る飛脚屋を紹介したりした。

旅は何といっても日常とは違う異界の地を行くことになる。常に用心をして、緊張感一杯の生活を送らねばならない。そんな時に安らげる旅籠屋に入り、心暖まる美人の女将のもてなしを受けるとほっとして異界に居る事を忘れる。昔から宿の経営は女将に左右されるといわれる。まして江戸時代は旅人の殆どが男性であるから、客が来るかどうかは女将の腕に頼るところが多かったに違いない。そしてその伝統はいまも続いているのであろう。


平成21年4月

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2009年02月01日

【094】お師匠さん(鈴木和雄)

古典落語で語られていた江戸時代から明治にかけては教育や芸能に係わる噺が割合多く作られているが、その中でこの分野の先生としての存在である「お師匠さん」は噺の中で陰に陽に出て来ている。

「寝床」の中で旦那がこれから長屋の連中に義太夫を語って聞かせようとしている時に、店の者に今朝一寸辛いものを食べてしまったので、少し調子を落として糸を弾いてくれるように師匠に伝えて欲しいと言伝を頼んでいるし、また長屋の連中が誰も来ないので、怒って、師匠をお帰し申せと言ったり、機嫌が直ってあらためてやる事になり、急いで師匠を迎えに行けとも言って、師匠がんな形でバタバタさせられているか、目の前には姿は現れないが噺を聞いている私たちがわかるような語りをしてくれている。

また「百川」では百兵衛さんが町の若い衆に言いつけられて常磐津の師匠を迎えに行くこととなるが,似たような名前の人が同じ町内に居た為、「か」と言う字が付く有名な人と言うことで、師匠の歌女文字を呼びに行ったのに、鴨池玄林という外科の医者の所に行ってしまい、町の連中に怒られている。これなども私達聞く方にとっては常磐津の師匠の姿は見えないが、噺を面白くする舞台には欠かせない人物となっている。

噺の中で師匠と呼ばれている人達は手習所(これは上方の呼び方は寺子屋と言ったそうだ)、稽古屋、それにプロの芸を教える人である。このプロの師匠では「愛宕山」の一八が師匠で重蔵が弟子、「つるつる」では一八が弟子で居候をする所が師匠の家である。あらゆる職業に師匠は居るが、ここでは手習所と稽古屋の師匠に限って述べることとしたい。

手習所には武士のためのものと町人のためのものがあった。武士の手習所は師匠が武士で通う子供達も武家の子に限られていた。一方、町人の手習所は町の中にあり師匠は町人がやっていたり、浪人がやっていたりした。

手習所で教えるのは読み書き算盤と言われているが、「風俗江戸東京物語」岡本綺堂著に拠れば「いろは」から始まり、数字の「一二三」「手紙文」「日本六十余州の国名」「江戸東西南北の町名」「紀行文」「庭訓往来」「東海道往来」「商売往来」を順次読み書きさせ、これだけで3−4年かかったと言う。(往来とはいろいろなことと言う意味だそうだ)。
武士の場合は算盤は希望者のみで別途時間を作り教えたという。

一般に手習所の入学時期は7−8歳の春に弟子入りする。しかし厳密に決められて居た訳でなく、何時でもよかったという。
この場合子供は机、筆、硯, 草紙を持ち込み、師匠に入学金である束脩として2朱を納める。また月謝は200文であるが、金のあるものはそれ以上納め、ないものは無いなりに出しても良かったという。武士の師匠は収入が目的ではなく、半ば出世が目的のボランティア的なところがあったのだという。

町の手習所は師匠が町人であったり、浪人であったりで、この人達はその生活の糧のためにやっている人達で、入学時に束脩を得たり、月謝を貰ったりすることは武士のそれと変らないが、噺に出てくるのはこの人達が多い。

「本膳」で近所の人達に本膳の所作を宴席の現場で教える浪人の師匠、「茶の湯」で隠居に招かれてその儀礼を知らないので恥をかくのが嫌だと、手習所の引越しをしようと子供達に机等を持たせて帰そうとする師匠、「井戸の茶碗」の噺で昼は素読の師匠、夜は売卜をやっている浪人の千代田卜斎先生、「鼻欲しい」で病気のため鼻を失ってしまった師匠、人前に出られないのを妻に勧められて旅に出たが、途中、馬子に和歌でからかわれて鼻欲しいと悔しがる人等がいる。

手習所では師匠は男ばかりだったが、稽古屋では男の師匠は少なく4分ほど、あとは女の師匠で6分を占めていたという。稽古屋の大きさは大体、間口が2間ほどの半分が出窓で半分が格子戸の入り口があり、そこを入って障子戸をあけると6−8畳の部屋がある。

その稽古屋で教えられるものは、夫々浄瑠璃の義太夫、長唄、清元、常磐津、一中節,河東節、新内、端唄、小唄、それに三味線、琴、尺八等があったと言う。この内、一中節や河東節は余程好きな人でない限りやらなかったそうであるが、「お若伊之助」のお若は特に望んでこれを習っている。

一般に昔は商人の娘などは礼儀見習いのために武家務めを望むものがあり、この場合に何か音曲が出来れば、就職に有利だったと言うこともあり、稽古屋は流行ったという。
これらの稽古屋の師匠のうち男の師匠は稽古指南だけで暮らしを立てるものは少なく、大体が芝居小屋や寄席の勤めをしており、夜、内職に弟子をとっていたのであるが、女師匠は弟子をとってその月謝で生活を立てていたものが多かったという。

そのため師匠が教える弟子の数は多い場合は50−60人おり、少ない場合でも12−13人ぐらいはいたそうだ。月謝はこれも綺堂氏の調べに拠れば、明治始期の話かと思われるが,1ヶ月50銭程、月さらいを月に1回開いてこの費用は別途徴収するので20−30銭、合計70−80銭が弟子一人から得られる収入だったという。

また「稽古屋」の噺に出てくる入門時の挨拶料的な「膝付き」〈上方の言い方か〉を要したと言うことも語られている。

所が女の師匠となると,教わる方も芸事は二の次、師匠が独身で見目形がよく、小奇麗なら尚更、少し年増でも仇っぽい容姿をしていたら、愛嬌があるとか、如才が無いとか言って、「我こそは」と野心を抱いて集まり、師匠の家をクラブと勘違いして毎晩入り浸たる連中も出てくる。「猫の忠信」でも炬燵の中で師匠の手に触れることに喜びを感じたり、便所に行くのに付いて行って、手洗いの後に手に水を掛けたり、手拭を渡すような些細なサービスに我先と希望する男達もいる。

であるから「汲み立て」で出てくるように小唄の師匠を町の若い衆と建具屋の半次が張り合い、師匠が半次と大川に涼みに行くと若い衆が追いかけていって騒ぎたて汲み立てを掛けられかねない始末となる。

一方、お堅い師匠も居て「派手彦」の坂東お彦は男嫌いで通っていたが、ある時ふとしたことから女嫌いの近くの酒屋の番頭に惚れられ夫婦になるのもある。「稽古屋」では色気の出し方を憶えようと甚兵衛さんから膝付きを借りて稽古屋に入門したはいいが、踊りを習う女の子の芋を食べてしまったり、習いの順番を待つ男達の嘲笑を買いながら調子外れの歌を唄い師匠に呆れられたりして、結局は習いをする目的を問われて「色は指南の外」と断られている。

また別の噺では唄を習うより三味線を習った方が師匠と1対1になるし、膝付き合わせて教えてもらえると、師匠の前に座ったが、やっているうちに師匠の膝頭が崩れ、中が見えそうになると、頭を低くして息を吹きかけ、もっと見えるようにとやっていると師匠に三味線のばちで頭を叩かれると言う不埒な弟子が出てくる。

「浮かれ三番」では娘に踊りを習わせている両親が裏の常磐津の師匠が三番叟の稽古の三味線を弾き始めたので、これに浮かれて調子を取り出す。これで家に居たものは出入りの職人も合わせて調子を取り出した。

「風の神」では風の神の弟子が義太夫の師匠の家に行き、そこの亭主の鼻の穴に入って風邪を引いたようにさせる。師匠は義太夫を語れば直ると言って三味線で「やなぎ」を弾き始める。「風に柳は逆らえぬ」

江戸時代の道徳教育では神,仏、儒を総合して易しく説明し、通俗な喩えで人に説く心学という学問があったが、その先生というか、師匠というか、噺の「天災」に出てくる紅羅坊名丸と言う長谷川町の新道に住む人や、「中沢道二」の噺の心学者の師匠は中々説得力があり、人々がよくその話を聞きに来てくれるが、中沢先生はある時、上方から江戸に出てきて講演会をやることになったが、聴衆の中に心学と田楽を間違えてきたものが居て、途中で食い物が出ないといって帰ってしまう者が居たという。

これらの他、ご存知の「欠伸指南」は有名で、ほかに「釣り指南」「道楽指南」「喧嘩指南」と言うのもあるそうだが、余り聞かれないし「落語事典」に出てないものもある。
しかし「磯の鮑」では本当はそんな事を教える師匠は居ないのに、いたずら好きな連中に担がれて与太郎が「女郎買いの師匠」だと言う人の所に行かされるが、指名された人は驚いて適当な事を言って帰す事になる。

師匠は普通、家を稽古所として弟子の来るのを待って教えるのであるが、教わる方が資産家や大店の旦那や家人となると、稽古所に通うことなく、自宅に呼んで出稽古をして貰う「寝床」の旦那のようなのもいる。このような場合は師匠にとって有り難い弟子であり、月謝も高いし、食事付きということもあり、いろいろな機会に特別な手当てもあり、この上ないお客である。

適当に褒めながら稽古をしていけば、腕そのものはそんなに揚がらなくても、まあ本職になるわけではあるまいし、発表会でそれなりの成果があればいいのだから、お世辞と芸の厳しさをない交ぜにして教えておく。そうして置く方が自分の収入の道を閉ざすことになることもあるまいしと、そこはそれ相応にあしらうのが人間の知恵と言うものだろうというのがあったのだろう。

しかし、前述の「お若伊之助」で一中節を薬屋の娘お若に教えたのも出稽古でやってもらったのだが、一中節以外のものまで教えてしまったのでお若は大変なことになってしまう。
稽古事の師匠という商売は人に教えるばかりが能でない。時には「百川」の歌女文字師匠のように町の衆に呼ばれて、三味線を弾き、端唄、小唄を唄って宴会に華を添えることも世過ごしの技である。

昔は偉い役人や軍人等が自宅で宴席を開く時にはその家の女たちでは三味線などの扱いが不便であり、さりとて芸者を呼ぶことははばかれるときには、近所の師匠を招いて一席やって貰うと言うような事があり、師匠のほうも、こうゆう場合に備えて端唄や都々逸などぐらいは心得ていたと言う。

またこうゆう事もあろうと正式に家元から認められた師匠の外に、少しばかり三味線が弾けたり,歌が唄える人は素人師匠を名乗ってこの様な宴会の出番の機会を狙らっていたという。
今は手習所の方は学制がしっかり布かれているから、教育の方は学校に任せるとして、教養、趣味として、また、将来、身のたつように準備のためピアノ、バイオリン、バレー、三味線、琴を習う人達がおり、また昔と同じく茶道,華道を習う人達も沢山いる。
皆夫々目的を持って将来に備えて勉学している姿は頼もしいものである。

平成21年2月
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2009年01月01日

【093】棟梁(鈴木和雄)

落語には街のいろいろな職業の人が登場してくる。魚屋、八百屋、豆腐屋、大家、質屋,床屋、大工,左官等が上げられようが、これらの内、割合、世間から一目置かれていたのが、大工の棟梁であろう。
 
「続・時代考証事典」稲垣史生著に依れば、その昔、律令体制になった時に、新羅、百済の良工が来て建築を伝えた以後、飛騨の国の木工が番匠といわれ、毎年都に徴用され、「木工寮」で働かされ、昔の建築物を造ったと言われる。この木工の匠のうち、頭(かしら)に当たる大匠を「都料匠」と言ったが、その後、この「トウリョウ」が棟梁と呼ばれる基になったそうである。

律令制度がなくなると大きな工事もなくなり、食べていくことが出来なくなって,街で働くことになり、荘園などで半農半工の生活を余儀なくされた。 更に武士団が夫々に割拠して、大名の形を取るようになると、城下町に大工職人をはじめ、左官や各種の職人を集めて、御用職人のようにして彼らの技能を重用し、免税の特典まで与えて、城下に留めさせた。

徳川幕府が出来ると土木建築の仕事は普請奉行が差配し、その下に各種の職種の工事の責任者が居る。大工(だいこう)頭の下に建物の造営と修理に当たる大棟梁と、専ら小工事の請負をする大工(だいこう)棟梁が居た。前者は数百人の大工を何時でも使うことが出来、後者は50人の大工を雇って仕事をしたという。

しかし、これらは御用大工と言われる人達で、落語に出てくる大工は町大工といわれる人達である。
噺の中では棟梁と呼ばれているが、一般的には親方と呼ばれていたそうだ。
現代の棟梁は施主から家を建てて欲しいと依頼があると、まず、どの様な形の家で、間取りがどのようにするか施主と相談し、概略図を画いて協議する。

材料、施行方法を図って積算し、大体の費用を施主に報告する。 これで了解が得られれば、建築設計事務所に詳細設計を依頼し、強度、耐震度を計算する。 更に町村の役場に書類を提出、建築確認の申請を行い、 設計図に基いて建築資材の準備をする。

そして、建築のための基礎工事の職人、左官、電気工事、上下水道、ガス、建具屋、ペンキ屋等の完成までに要する各種の業者に工事工程を説明しておかねばならない。 いざ、工事が始まり、基礎が出来たら、大型重機を動員して、資材により骨組みを組み立てて、棟上式となる。



以上は現代の建築基準法が定められた以後の棟梁の仕事であるが、基準法制定以前の昔の棟梁は施主の意向を受けて、自分で建築の設計を行い、工事費用の積算を行い、棟上式以後は現場の指揮、監督をして、完成までの全責任を持たなければならなかった。

棟上式で日本建築の最も象徴的な部材が棟と梁であり、親方自身が自分で墨付けしたものを上げ、工事の無事と速やかな完成を祈った式の長になったので、棟梁と呼ばれたとも言われている。

この棟梁には一人前の大工、見習いの徒弟が数人いた。棟梁は長い経験があって、客や先輩、同輩の大工からその技能が秀でていると認められ、品行方正で、信用が置ける人であることが求められていたという。

こうゆう条件があるから人の上にたって指導監督することが認められるわけで、「三井の大黒」の噺の中で左甚五郎が江戸にいる間、居候をしていた橘町の政五郎親方は噺にもあるように弟子をまとめ、作業を進めると共に、甚五郎を慕っており、息子を託すほどになって居る。

棟梁と弟子である徒弟の見習い人とは契約書でその関係を結ぶが、時には親分、子分のような盃を交わすことにより、契りを結ぶようなこともあったという。大工の徒弟見習いは大体10才から14−15才の子供の内から入門し、約十年間を見習い期間として大工の仕事を学ばなければならなかった。親方は技術の教育、指導ばかりでなく、一般的な教育にも力を尽くしたという。

丁度、小僧、丁稚が商人の大店に入ると読み書き算盤を習わされたのと同じであろう。
殊に計算は将来、一人前の大工となった時に、設計をしたり、積算をしたりと言うときに必須なものであり、力を入れたのであろう。

一方、徒弟見習いとして入門した子供達は仕事ばかりでなく、仕事場から帰って来たら
風呂を焚き、夕食がすめば、夜業をすることもある。「三井の大黒」で小遣い銭稼ぎに塵取り、踏み台を作っており、甚五郎もこれをやってはどうかと棟梁に奨められている。

そして、朝は飯を炊いたり、掃除をしたりして、仕事場に行く。棟梁の方も弟子たちに衣食住を保証してやり、夏、冬の着る物を与え、盆暮には一定の給金を与えている。
年期が明けると、大工職人となり棟梁から営業鑑札が与えられて独立することになるが、
渡り職人として、旅に出て、更に修業する者や、そのまま親方の所で雇われて働くか、他の親方の所に行って、手間取り大工として働くかの道があった。
噺の「大工調べ」では棟梁が大きな仕事をすることになって、愚かではあるが、腕のいい与太郎を働かせてやろうとして、声を掛けたが、与太郎は家賃を滞納したばかりに大家に道具箱を差し押さえられて、棟梁に「おもちゃ箱」を預けることが出来ない。

そこで棟梁は与太郎の滞納分の1両2分8百のうち、持ち金の1両2分を渡し、足りない分は後ほど持ってくるからといって、道具箱を返してくれるように大家に頼めと渡してやるが、親の心、子知らずで、うまく大家に真意の程が伝わらず、最後に御奉行様まで動員する始末になる。

こうやって見ると棟梁はいつも少し位の金は絶えず持ち歩いていることが判る。当時の大工の賃金は手間賃と飯米の二本立てで貰うことになっており、文政期で手間が4匁2分、飯米が1升5合分の1匁2分,計5匁4分だったそうだ。

こう見ると「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」と言う言葉があるが、貧乏人は兎も角、大工職人は僅かではあるが、収入は多く、ましてや棟梁ともなると、結構な身入りがあった様だ。そうでなければ、多くの徒弟を養い、一人前の大工を自分の所に置いておくことは出来なかったであろう。棟梁は裏長屋に住む手間取り大工とは違い、新道や横丁の長屋に住むことが出来たのである。

「三枚起請」に出てくる棟梁はかって品川の女郎の所に通って、起請文を交わす程の余裕があった。ところが今は唐物屋のいのさんも経師屋のせいさんも同じ女と起請文を貰って喜んでいる。女にも嘘をつかれたと同時にこんな若い衆が起請を持っていることが癪にさわる。棟梁の沽券にかかわる事をした女に怒りがおこる。

「子別れ」の大工の熊五郎も妻子と別れる以前は飲んだくれで、酒と女にだらしなく、金の有無に関係なく吉原に行ったりして、とうとう女房に愛想づかしをされて、一人身になり、年季明けの女郎と暮らしたはいいが、そのだらし無さにあきれ、我が身の愚かさを感じ、やっと目覚めて、大工の仕事に精進した。

元々、腕のいい男だったので出入りの客や先輩に認められて棟梁といわれるようになったが、この熊五郎も更に真面目に働いたため、ある程度、余裕ができ、分かれた子供にも50銭もの小遣いを渡せるようになったし、妻子との復縁も可能になった。

「寝床」で店の旦那の義太夫を聞くのが嫌さに成田さんへ揉め事の相談に行くという理由で欠席しようとしたら、大家である旦那の逆鱗に触れて、借家を追い出される恐れがあり、やめたが、この棟梁も何かの揉め事があれば、さっさと成田ぐらいならいける余裕があるのだろう。
「鮑のし」の与太郎が尾頭付きの魚ならぬ鮑を持って大家の息子の婚礼のお祝いに行ったら、縁起が悪いと言って追い返された事を聞いた棟梁が祝儀袋の「熨斗」の根本の理屈を与太郎に教えてやり、再度、大家の所に行かせている。棟梁はなかなかの知恵者である。

「火事と喧嘩は江戸の華」といわれているが、火事そのものが華の筈が無い。火事に対する火消しのため活躍する鳶の人達の姿や、火事の後の大工の活躍がその対象であろう。
「荻生徂徠」の噺に出てくる棟梁は、徂徠がまだ不遇の時に世話をした豆腐屋が、大火で焼け落ちて嘆いている時に、徂徠に頼まれて、急造ながら、大火後一月以内に豆腐屋の店を建ってやるという仕事をやっている。

江戸の商人ですばしこい人は棟梁に頼み、大火の後、三日ぐらいで焼け跡を片付け、急ごしらえの店を開けて商売をしていたという。これらは全て棟梁の采配で鳶職人、左官、部下の大工を動員して建築をしたのであろう。

現代は住宅を大量にしかも短期間に建てる為に、プレハブ建築が行なわれているが、一定の設計を基に前もって材料をプレカットして置いて、注文があれば、直ぐ使えるようになっている。 所中、火事があった江戸時代には、或いは棟梁の判断で何軒分かの標準設計の住宅の材料を備えてあり、火事があれば直ぐ対応できるようになっていたのではないだろうか。

紀伊国屋文左衛門のような蜜柑よりも火事の後の材木で大もうけをしていた商人もいたのであるから、考えられない事ではあるまい。


平成21年1月
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2008年12月01日

【092】行き倒れ人(鈴木和雄)

噺の「粗忽長屋」で八っあんが、浅草の雷門に行くと人だかりがしている。そこで人混みを分け入って、前面に出てみると、行き倒れ人が横たわっている。世話役らしきおじさんが、この死人の身元を知るべく、集まっている人達に、死人の事を知っているものはないかと、聞いているが誰も出てこない。そこへ八っあんが顔を出してきて、隣の熊公だという。

世話人はやれやれと思って死体の引取りを問うが、八っあんは本人に聞いて見なければならないと言う。世話人はこれは可笑しいと思ったが、八っあんは早速、長屋に帰って、隣の熊さんに会い、熊さんを説得して、また雷門に来るが、世話人は、これが本人だと紹介されても、全く別人だと言うことが判っているから、死体に触れてはいけないと言うが、それにも拘わらず八っあんにいわれるままに熊さんは死体を抱き上げ「抱いている死体は俺だが、抱いている俺は誰だろう」 とオチになる。

この場合、噺の主体は行き倒れ人であろう。死体は自分を語らないから、この噺は粗忽な二人の町人の口を借りて噺が盛りあがっているが、 昔からこの様な行き倒れ人はよくあった様だ。
特に江戸期になると天変地異が時々起こり、地震、旱続き、大風雨による水害、洪水、害虫発生があり、更に火事、領主による過酷な収奪などが原因で、地方から都会地に仕事と食を求めて移動してくることが多かったという。

江戸時代だけで見ても天変地異による飢饉は大きなものだけでも寛永19年(1642)江戸幕府の最初のもの、享保17年(1732)蝗害の発生、天明7年(1787)浅間山の大爆発、それに天保4−7年(1833−36)の大飢饉があり、この間の餓死者は20万―30万人に登ったそうである。

幕府としても飢饉に当たってはいろいろな救済策を講じたが、江戸市中でも大凶作による行き倒れ人が各地に発生し、この為、神田佐久間町に御救小屋を作り、市中になだれ込んできた難民たちを助け様としたが、所詮、その数が多く、更に四宿〈品川、板橋、千住、内藤新宿〉に御救小屋を設け、難民の救済を行なおうとしたが、行き倒れ人は続出したという。

また、地震では安政2年(1855)の安政の大地震がある。この時は江戸市内の被害が大きく、武家屋敷をはじめ、町家の倒壊もあり、武家と町人の死者が7千人から1万人もあり、 生き残っても住む所と食を得る所を求めて難民が溢れ、行き倒れ人も多々出たと言う。また、旱魃、山の噴火による天候の異状による凶作、大風雨による水害のため田畑の収穫が出来ないにも拘わらず、年貢を強制的に収奪する領主に抵抗して村を捨て、都会地に出てくる逃散が行なわれたが、これらの人達がなかなか食,住にありつけず、行き倒れ人になることがあった。


殊に江戸末期から明治初にかけては政治的不安もあり、農村は不況が続き、東京に貧民が流れこんできた。「粗忽長屋」の熊さん、八っあんが見間違えた行き倒れ人もこんな時期に発生して食を得ないままに倒れたのかも知れない。

行き倒れ人が見つかるとその町の町役人である五人組が立会い、事件がらみでなければ、死体片付けの専門人を呼んで片付けさせ、後は町奉行に報告することになっていた。しかし、死体を処置するには名前がわからなければならないから、行き倒れ人の関係者がいないか、身請け人がいないか、その場に集まって来た人達に問い質しをする。

また、何らかの書付を持っていて、身分が判れば役所を通じ、身元先に連絡し、その人に死体の引き受け方を頼むのであるが、逃散の場合のような時や夜逃げの時は往来手形も持っていないだろうから、身元確認が難しい。全く縁者が見付からない時は、その町で遺骨にして無縁仏として近くの寺に埋葬しなければならなかった。

行き倒れ人ではないが、噺の「武助と太助」や「佃祭」のように、事故で死人が出た時は奉行所の町方役人の同心らが持ち物等を調べ、身元先を探し、速やかに探して遺体の引き取り方を命じているが、行き倒れ人の場合は身元が判らないことが多かったと言う。

昔は住んでいる所から他国へ商用や寺社への参詣に出るときは名主や家主等の町役人又は寺社の僧侶に往来手形を書いて貰い、これを持って行けば関所を通ることが出来たり、何か疑われるような事件があった時は身分を保証してくれる書類となった。この往来手形には「行き暮れて困った際は宿を世話して欲しい。若し行き倒れた時はそちらの作法で処理していただいて結構。当方まで連絡には及ばない」と書いてあるのもあったそうだ。

一般にはこんな冷たいことはなく、難儀の場合の連絡先を書いてあるが、時により、こんなのもあったのだろうか。(「大江戸を歩く」浅草日並記研究会編) この編者は旅行者に対する手形としては本当に亡くなった時に自分の手元にある宗門人別帳の氏名が削除されずに残ってしまうのではないかと心配している。

実際、江戸の下町では色街で遊び過ぎて花柳病に罹ってしまい、相当進行してしまった男を四国八十八ヶ所巡りに送るため、長屋に住んでいる人達から寄付を募り、旅費を整えてやり、手形をつけて、何処で倒れようと連絡には及ばないと書いて送りだしたと言うが、随分冷たい厄介者払いのようなものだと思っていたが、この資料を見ると当時は結構あったものかと思う。

行き倒れ人は何処でもお構い無しに倒れてしまう。同一行政区域内で倒れれば、そこの町役人である名主や家主が面倒を見るものと定められているが、所謂,境界をまたいで倒れた時はどうするか。
これに対し幕府は割合明確に対応すべき者を定めている。即ち往きに境界で倒れたときは行き倒れ人の頭部が入っていた区域を管轄するものが処理し、還りの時は行き倒れ人の足が入っていた区域のものが処理するということになっていたという。

行き倒れ人の多くは死去の状態で発見されるのが多いが、時には病の状態で行きずりの人に発見される場合がある。 こうゆう時は一時的に発見者が介抱することになるが、長く病につくようになると「溜」と言う行き倒れ人の病人や病気の囚人、無宿者の病人を預かった療養所が浅草と品川にあり、そこへ送られて治るのを待って、旅を続けるか、死亡するかの道を辿ることになったと言う。

行き倒れ人は路上で発見されるばかりでない。旅の途中で旅籠屋に泊めてもらい、そこで体の具合が悪くなり、急変して死亡することもある。噺の「小間物屋政談」に出てくる江戸の背負いの小間物屋である小四郎が箱根の山中で助けた山賊に身ぐるみ剥がされた小間物商の大店の若狭屋甚兵衛は小田原の宿で山中での冷えとストレスのため急死している。

この場合、旅籠屋の主人が遺体から書付を見つけて、小四郎の家に連絡しているが、これは小四郎が若狭屋の帰りの旅費として金を貸してやり、その返金を受けるために自分の住所と名前を書いたものを渡したので、それが若狭屋が唯一持っていた書類だったので、誤って連絡先になってしまったからである。

こうゆう場合、死者の処理は旅籠の責任となり、遺体を処理することから、町内の寺で葬式をし、遺骨を寺に埋葬するか、身元先に渡すかしている。そしてこの費用を身元先に請求しているが、この処理代には死体取り扱いの人雇い代、葬式費用、畳、夜具が不浄になったとして取替え代も含まれていたという。

この様にいろいろな費用が掛かるから旅に出るときの往来手形に、前記のような「当方にご連絡に及ばず」の文言が入れられたのかもしれない。噺の大店の小間物屋だったから遺族が対処できたのかも知れないが、貧乏人では到底払いきれなかったであろう。

噺の「不動坊」も旅先で亡くなっているが、やはり、こんな費用が掛かり、大家さんは後家さんとなったおさきさんに同情して、早く再婚させる事を考えていたのかもしれない。

平成20年12月
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2008年11月01日

【091】大山詣り(鈴木和雄)

噺の「大山詣り」は江戸の夏の風物詩だといわれている。 亡くなった円生さんも志ん朝さんもそんな時期にこの噺をかけたのではなかったか。 大山詣りは相州雨降山(うこうざん)大山寺を開基した良弁僧都の教えを護り、通常時の参詣を許さず、毎年6月27日から7月17日までの期間に限り登山を許したからだという。

しかしこの20日間のみが一般の人の山頂登山を認められたのだが、これは中腹にある山内の本堂から山頂の阿夫利神社上社までの登山道が開放されるということであり、山内の不動本堂はじめ、諸社諸坊へ参ることは通年許されており、大山詣りはその意味では何時でも参詣が出来たという。

雨降山大山寺のご本尊は不動明王で、寺の名前の通り、雨を降らしてくれる神様が祭ってある寺で、旱照りが続いた時に近燐の農民が参詣し、雨乞いの祈願をして、そのご利益を得たので、信仰が厚く、また江戸の町人である職人や鳶職、魚河岸商人の参詣も多かったと言う。

大山詣りは江戸の中期に盛んになったといわれているが、そもそもは徳川家康が関東に転封されて江戸に来た時に、それまで北条氏の保護の下に、大山で修行をしていた修験者を山から下ろし、大山寺を聖僧の地としたことにより、修験者たちは大山を下り、大山詣りの参詣人の集客と案内に専念し、生活を支えることが出来、また、大山講の発展に寄与したのだそうだ。

昔は伊勢参りでも金比羅参りでも講を組んで毎月、費用を講内で積み立て、これを講を代表して代参する資金として、順に講員が使うこととなっていた。講の構成員が多いと代参する人数も多くなる。何年に一回廻ってくる回数も少なくなるが、講といっても噺に出てくる講のように少ない人数の時は毎月の掛け金を割合大きくして、皆が毎年行かれるようにしていたのであろうか。そうでないと大山詣りの噺の暴れん坊の熊さんのように去年も今年もという訳にはいかなかっったであろう。

いずれにしても6月から7月に掛けての20日間に各地から集中して大山を目指すことになったが、これに至るまでに参詣の希望者はしておかねばならない行事があった。それは江戸っ子の場合は円生さんが噺の始めの方で話しているが、江戸の大川の両国の本所側の垢離場で七日間の清めの水垢離をして心身ともに清めをしなければならなかったことである。これは登山が夏だからこそ、そんなに苦とも思わず清めが出来たのであろう。

そして、今でも阿夫利神社の拝殿に木製の太刀が供えられているが、これは昔、源頼朝が大山が鎌倉から近い霊山であるため、太刀を納めて、武運長久を祈願した話があり、これにならって木の太刀を持って行って山に登り、納め太刀としたという

江戸期に大山詣りが盛んになった理由としては、大山が箱根の東にあり、関所を通ることがないため、往復手形を得る必要がなく、また、伊勢参りや金比羅参りの様に長期間の旅をする必要がなく、往復できたことである。 伊勢に行くだけで往復ひと月は掛かる。

そこへ行くと江戸から大山へは18里(72km)で、当時、早足の人で1日15里、普通の人で12里ぐらい歩いたというから、片道1泊すれば楽に目的地に到達できる。行きは精進した身であるから、そんなに暴れたり、遊んだりすることは出来ないが、帰りは旅の恥はかき捨てとばかりに1泊は何処かの宿で飯盛り女相手に遊ぶとか、または酒盛りで大いに盛り上がったりしている。こうなると往復4日で帰るところが5−6日、掛かることになる。

円生さんの噺でも大山詣りを真面目な修行の旅だと嫌がっていた男が、実は帰路の藤沢で遊べると聞いて、今年は俺も行くと信心2分、遊び心8分で大山詣りに参加しようと言うことになる。

噺の「大山詣り」では演者によって先達さんがイニシャチブを取って一行をまとめ、熊さんを排除しようとしたり、講の有志の人達が熊さんを説得して、暴れたときの対策を考えて先達さんに行ってくれるように頼んだりしているが、先達さんと言うのはどうゆう人なのだろうか。

大山の修験者が山を下ろされて、御師(おし)となり、大山の参詣者を勧誘して、集めたり、案内したりして、生活をお山で続けていたが、その為には前の年の冬当りにお札を持ったり、宮げを持ったりして、自分の縄張りの檀那や檀家(これを「かすみ」といった)を廻って来年もお山に参詣に来てくれるように各地の講中に勧誘に行ったという。

伊勢神宮の御師の場合は、その活動が盛んで、御師の手代が江戸に限らず日本全国を廻って宮げを手に、参宮の勧誘に歩いたという。伊勢神宮の場合は大山詣りの場合と違い、一年中参宮できるから、御師の活躍も、その比でなかったそうである。

神職の修験者を御師といい、僧侶の場合を先達と言ったそうだが、噺に出てくる先達さんは江戸に在住している人であるから、御師的な人とは異なるのであろうが、御師と連絡し合って、勧誘的な事を積極的にやっていたのかも知れない。
御師は最盛期は250所、江戸末期で109所の宿坊を大山の門前に設けていたというが、この宿坊はかって修験者が修験道場として使っていたものを宿坊に替えて講中の登山者を宿泊させていたものだった。

この為、関東、甲信越の大きな講はどれかの御師に属していたと言う。伊勢神宮の場合は御師が参詣者が持ってきた初穂料(供物料)、神楽料、及び神馬料さえ神宮に納めることなく、独自の加持祈祷をして、全部、自分の懐にいれてしまったが、その代わり、宿泊者に十分な酒食の世話をし、帰りにはお札は始め、多数のみやげを渡して、来年もまた、講中のものが来てくれるように希望し、接待に努めたという。大山の場合もこれに劣らず対処したのであろう。

大山に講を代表して代参に行く人達は出発の当日は朝、暗い内に起きて旅に出掛けるのだが、昔の旅は必ず無事に帰って来られるという保証はない。そこで、この旅の途中で急病や事故に遭って永久の別れになるやも知れず、旅行中の無事と健やかな姿で戻る事を祈願し、出立ちの行事をやっておくことが必須であった。

旅に出る人達を親族、親類、縁者、朋友、今回の講中には居残りとなった人達が町や村はずれまで送って行き出立ちの祝宴をし、水盃を組み交わして、草鞋銭として餞別を渡したという。

これから講の一行は大山に向けて旅だって行くことになるが、江戸から大山に至る道筋は5コースほどあり、その内、一般的なものが品川から東海道を進み、戸塚宿の手前の下柏尾で東海道からはずれ、長後街道に入り、大山道に抜けて、藤沢の北を通り、今の海老名市、厚木市、伊勢原市の上糟屋から大山に至る道。下柏尾から大山まで7里(28km)あった。

しかし、このコースは一遍に歩くわけではなく、江戸から保土ヶ谷宿まで9里(36km)あるが、ここで一泊して旅の一夜を過ごしたようだ。ここでは、まだ、精進した身であるから、遊ぶことも、酒まみれになることもできず、静かな夜を過ごしたのであろう。

また、別のコースで使われたのは、現在の世田谷区の三軒茶屋を通り、二子の渡しで多摩川を渡り、溝口から厚木に抜け、大山道に出る。他の道は江戸の青山を通り、厚木街道から大山道に出るコースがあったという。
講の一行は大山の宿坊に一泊し、翌日は心浮き浮きして、精進落しをするため、円生さんの話していた藤沢宿を目指し、歩みを早めて行く。ここでは飯盛り女を相手として遊び、翌朝、東海道を進み、神奈川宿で酒を飲み、大暴れして熊さんは大失敗。
噺では帰り道に金沢八景によっているが、大山に行った旅の団体はよく江ノ島に行くことがあったそうだ。大山は男山で、本来なら女山の富士山に行くのが筋だが、富士山に行くには箱根の関所を通らねばならないので、敬遠し、同じ女の神様である江ノ島の弁天様へ参詣することが当時の旅のコースであったという。

いずれにしても藤沢でも江ノ島でも昔の旅籠の留女は強引な勧誘で旅人を掴まえ、店の奥に押し込むというから、信心心の薄い連中は、心得たとばかりに顔だけはいやいやをしながら、宿に入って行ったと言う。

出立ちの儀があれば、出迎えの儀もある。江戸の人達は品川まで迎えに出て、ここで旅の一行と会い、旅が恙無く終わり、全員無事に江戸に入ることが出来てよかったとして祝盃を挙げて、旅の話を聞いたり,往きの餞別のお礼にと分けられた土産を渡して、家に向かうことになる。

「大山詣り」の噺ではその出迎えが、熊さんの偽計に留守番のお上さん連中が引っかかり、品川に行くどころか、丸坊主にさせられて、お怪我がなくてよかったといわれてしまう始末だ。

大山は丹沢山系の東南端にあり、海抜1246mの山で、昔は相模の国の霊山といわれ、崇められており、多くの人の信仰を集めていた。
今は東京から行くとすれば、新宿から小田急の急行電車に乗って1時間ほどで伊勢原に着き、バスに乗り換えて25分、ケーブル・カーで6分で中腹に着く。

関東地区に住む人達にとっては行きやすいお山であり、今年の体育の日に行ってみたが、多くの人が参詣をしていた。 しかし、昔、落語で語られている当時のようなことは想像出来ない。阿夫利神社の下社がある中腹から上社がある山頂まではそこから歩いて90分と書かれており、下山の時は60分とあるので頂上までいくのは諦めて、下社だけ参拝して降りることにした。

帰りは ケーブル・カーに乗らず、脇にある昔の男坂の山道を歩いて降りてきたら、すごく急な傾斜で石段ではあるが岩を積んだ階段で、足は滑るし、歩幅とは違う高さの階段で、もとのケーブル・カーの出発駅近くまで戻るのに40分かかってしまった。

ケーブル・カーの駅と下社の間の参道には、昔、御師と呼ばれていた人達が、今は先導師と呼ばれ、阿夫利神社の奉賛団体となり、活動しているというが、かっての宿坊が、そのまま、宿を経営していたが、入り口に先導師の看板が下げられており、今でも存在する各地の講と連絡して参詣の案内をしているという。
山内で見た参詣人や講の人達の記念の石のプレートが石垣に付けられていたが、近年のものの中に「千葉県印旛村松虫」とか「千葉県印西町木下」の銘があり、昭和51年の日付があったが、他の千葉県や茨城県からもあり、大山に来ていた講の広がりを感じるとともに、大山を信仰する人達が多くの地方にいるのだなと感心した次第である。

平成20年11月
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2008年10月01日

【090】江戸から京、大阪と伊勢の旅(鈴木和雄)

古典落語で旅を扱った噺には「三人旅」「二人旅」「御神酒徳利」「死神」「小間物屋政談」「七度狐」があるが、これらの噺は夫々、部分的に旅の話として取り上げられているものであるが、総体的に見れば、江戸から京都、大阪に行く噺、及び伊勢詣りに行く噺の一部であったりする。

今でこそ、新幹線に乗って3時間弱、飛行機で2時間弱で着く、江戸―京都の距離は126里6町(494km)で、東海道を利用しての旅は往復30日あまり掛かり、いかほどの費用が掛かったのだろうか。
今なら、朝早く家を出て、大阪で仕事をして、夜遅く帰る積りなら、その日のうちに家に帰りつくことが出来る日帰り旅行となるが、費用は新幹線利用で往復3万円弱、飛行機でもそんなに大差はない。宿泊の必要はないからホテル代はないが、昼食代や夕方の列車や飛行機に乗るまでの一時を相手先の人と懇談をしても、精々1万―2万ぐらいか、総じて10万円以内で収まってしまうであろう。

所が昔は江戸―京都は片道15日で歩いたという。 早足の人で一日15里、普通の人で12里歩いたそうである。朝早く旅籠を出て、約10時間歩いて、夕方4時頃には行き先の旅籠に着くようにしなければならなかった。

どのくらい宿場から次の宿場まで歩いたのか、宿代はどのくらいだったのか資料を探していたら、偶々、佐倉市の国立歴史民俗博物館で行なっていた「江戸から京、伊勢の旅」の企画展示があり、
そこで、昔の人が歩いた足跡を見る事ができたので記してみたい。

 
江戸から京へ  (総距離 126里6町 〈494km〉)
日数宿 場費 用うち宿泊料移動距離km
第一日川 崎246文115文4里18町18km
第二日江ノ島214文40文10里18町42km
第三日小田原164文-8里23町35km
第四日小田原291文153文(二日分)雨で出かけられず
第五日三 嶋246文80文8里32km
第六日蒲 原161文80文7里30町31km
第七日丸 子375文71文8里19町34km
第八日日 坂330文77文8里22町24km
第九日舞 坂317文88文12里28町51km
第十日御 油313文66文8里29町35km
第十一日知鯉鮒262文77文7里22町31km
第十二日名古屋177文73文4里12町17km
第十三日桑 名369文48文10里6町41km
第十四日251文80文10里13町41km
第十五日石 部157文72文6里23町28km
第十六日大 津-51文3里12km
第十七日京 都----
3873文1171文122里+x 482km+x
(1 里=36町)

 
江戸から伊勢参り  (総距離114里〈456km〉)
日数宿 場費 用うち宿泊料移動距離km
第一日川 崎1朱692文248文4里18町18km
第二日藤 沢310文248文8里32km
第三日飯 泉504文232文7里18町30km
第四日箱 根1分66文280文4里35町18km
第五日三 嶋1貫274文248文3里28町15km
第六日由 比868文248文10里16町42km
第七日府 中348文248文6里3町24km
第八日藤 枝248文248文5里6町21km
第九日掛 川219文-6里25町27km
第十日秋葉山364文248文11里44km
第十一日山束村940文224文--
第十二日三ケ日400文216文--
第十三日赤 坂391文300文7里20町30km
第十四日知鯉鮒332文232文8里9町34km
第十五日甚目寺300文200文8里32km
第十六日桑 名523文232文7里7町29km
第十七日上 野232文232文4里16km
第十八日松 阪148文-4里18町18km
第十九日伊 勢----
9409文3884文107里+x400km+x
 

博物館の展示資料では「江戸から京」のコースでは大阪までの距離、費用が出ていないが、別の資料によると、京都から大阪までは噺に出てくる三十石船によって京から大阪に下ってくることが普通でこの乗船料が下りは川の流れに乗ってくるので72文と安いが、反対に大阪から京に上るときは流れに逆らっていかねばならず、途中、棹をさしたり、綱で引っ張ったりして上って行かねばならない所が9箇所もあり、船頭の苦労は大変だったようだ。そのため上りの料金は172文と下りの倍以上を払わねばならなかったという。

円生さんの「三十石船」では何やらのんびりした大阪―京都間の夜の船旅を想像していたが、一寸違った感じを抱いたのである。 「江戸の旅」今野信雄著では三十石船は400文と書かれているが、これは、或いは船玉様に捧げるといっている酒代が入っているのかも知れない。但し、幕末には規定の料金の数倍になったという。

上記の表では費用の内訳がないので何に使っているかよく判らないが、二つのコースとも川や海を渡らなければならない時はその費用を払っているのであろう。東海道では大体、川には橋が架かっているところがあるが、そうでない所、大井川や安倍川では幕府の戦略上、橋をかけてなかったので、どうしても、川越人足の肩に頼らなければならなかった。

これが、川の水が少ない時から、人足の肩近くまでの水嵩によって値段が大きく違い、38文から94文までの差があった。ましてや雨が降り、川が渡れないときは近くの旅籠で水の引くのを待たねばならず、その費用も大変だったという。

また、橋のないところは渡し舟を使うが、江戸からは六郷川、馬入川、富士川、天竜川、浜名湖の今切りの渡し、熱田―桑名間の七里の渡し等があり、料金とともに酒手を払わされるので費用は益々かさむ。  しかも、一寸、本街道から離れた所では橋料を取るところもあり、寄道もままならない。

当時の旅籠は上、中、下に分れ、上は250文から300文、中は150文から170文、下は100文から130文と料金が決められていたという。素泊まりは1泊50文から60文であるが、薪代は別に払う必要があった。 こう見ると上記表の江戸―京の宿賃は少ないようだ。大体が50文から80文の間にあり、そんなに安いところを見つけて泊まっていたのであろうか。 一方、江戸から伊勢のコースは大体が248文前後であり、順当なところだろう。

長い道中を歩くには草鞋が1日に1−2足要る。 1足が16文だから往復30日として 16x30=480文。 昼飯を摂る必要がある時は茶店によって10文―80文を払って何か腹の足しになるものを摂らなければならない。 しかし、旅籠を出る時は旅籠で握り飯等の弁当を持たせてくれるので茶店では茶を飲む程度(茶一杯1文)であまり大きな支出にはならない。

また、道中で馬に乗ったりすることもあったが、草臥れたから馬に乗るというのでは、馬方に足元を見られるというので、旅の指南書に朝の元気なうちに馬に乗れば安く乗れるということもあり、道中の3分の1を乗って約1貫500文ぐらいだったという。といっても1500文x17円として15500円になる。

昔は一人の人が京、大阪に行ったり、伊勢詣りに行くというのは、仕事の場合を除いて、一生に一回ぐらいだというから、京、大阪に来た人は上方を巡り歩き、寺社や観光地を訪れていたが、伊勢詣りに来た人は奈良、京と足を伸ばし、四国に渡り、金比羅さんにまで行っている連中もいたそうだ

こうなると、旅には4−5両掛かったようだが、純粋に京、大阪に来た人は、交通費と旅籠代、食事代ぐらいで1両を少し上回る程度で済んだようだ。 となると今の日帰りの費用とそんなに変らない。
ところが伊勢詣りの場合は講を代表して行く場合が多く、そうなると餞別金を貰って来たり、江戸の外れの宿場まで見送りに来てもらったり、伊勢神宮への初穂料を預かって来ているので、土産にお札や名産品を持って帰らねばならず、その費用も大変だったという。

初穂料は大きな講を代表して来た場合、大神楽をあげると30−36両、標準的な中神楽の時で15両、小神楽で10両以下の6−8両ぐらい掛かったそうだ。 これは大変な費用だ。講中の皆さんから預かって来た金だが、家内安全、商売繁盛を願うにも大きなお金が要ったのだろう。
個人で来た場合でも、伊勢神宮へのお供金3分,参詣料300文を要した。

こんなに大金を出したためか、神宮の御師(お し)の宿へ泊まると大層なご馳走が出て来て、講の連中は満足したようだが、 一般の宿場の旅籠では何処でも皆、食事に大差はなく200文ぐらいの旅籠では下記の料理だったようである。

・由比の宿では
<夕食> 飯、汁、おかずに魚のすり身、芋、人参、昆布、牛蒡の煮付け、生節
<朝食> 飯、汁、八杯豆腐、海海苔、塩ぶり、昆布、焼き物は塩さば

・三嶋では
<夕食> 飯、汁、芋、人参、昆布の煮付け、すり身,干大根、菓子碗に海老、青海苔、焼き物は小鯛
<朝食> 飯,汁、八杯豆腐、蒲鉾、板海苔、黒豆、氷豆腐、麩
 
・保土ヶ谷では
<夕食> 飯、汁、干大根、すり身、芋、人参の煮付け、焼き物ます
<朝食> 飯、汁、干大根、芋、湯豆腐、人参

旅に出れば歩き疲れと道中の気疲れから開放されるべく、晩酌が要るもので、これで熟睡をして明日の元気の基としなければならない。その為、酒の普通で一合、20文、上等で30文の酒を飲んでおくことも必要だったのだろう。

中村仲蔵が伊勢詣りに行く時にたてた計画の一日当りの費用が1朱だったそうである。1朱は約375文であるから、上記の表の費用とそんなにかけ離れていない。
一方、江戸の豪商のお上さんは同じ伊勢詣りに一ケ月で千両かけて旅をしたそうで、どんな形で旅をしたのか、何処まで足を伸ばしたのか判らないが、幕府の贅沢禁止のご法度にかかり、きつい咎めを受けたという。

この千両と言う額は噺の「富久」などで、割合安く印象付けられているが、昔は幕府の三千石取りの御家人が家族、使用人を含めて一年間暮らせた金額だそうである。幕府が目を光らせるのもわかる。

旅は人々の日常の生活から開放してくれる行事である。毎日の生活から異る世界にいざなってくれるものだ。普通では経験したことのない景色や人々の動きに、驚いたり、呆れたり、同情したり、逆に自分の生活の惨めさを感じたり、優越感を持ったりする機会も与えてくれる。

ある時、お隣の国にツアーで行った時、ご夫婦で参加した奥さんが、毎日、ご飯つくりに追われているが、旅に出ると、毎食、上げ膳、据え膳で、テーブルの前に坐れば食事が出てくるのは、とても楽しい、だから、時々は旅行に出て見たいのだと言っていたが、これはあの奥さんの本音だったのだろう。 どんなに苦労しても、男も女も時には旅に出るのは、心のリフレッシュに最高の自分へのプレゼントなのではあるまいか。


平成20年10月

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2008年08月02日

【089】噺に出て来る袴(鈴木和雄)

昔は男が外に出る時は紋付羽織に袴を着けてないと一人前と認められないところがあった。その為、「妾馬」の八五郎も「御慶」の八五郎も羽織、袴を着けることによって大威張りで外出して行った。
ましてや、武士の場合は「普段の袴」で話されているように、常に袴を着けて勤めに出なければならなかったし、公の外出は勿論、私用で町中を歩くときも袴は必要なものであった。

「雛鍔」の噺に出て来る小さな若様でも城中にあっては可愛い羽織、袴を着けていなければならなかったのである。「妾馬」では八五郎は妹のお鶴の方の男子出生で、殿様に招かれてお屋敷に上がったが、門前で門番に呼び止められ、不審者と疑われて、あっちへ行けといわれてしまうが、男の姿をよく見れば、羽織、袴をつけている。

大家さんから借りて来た羽織、袴とは言え、足袋も履き、草履姿である。これで門番も見直して、屋敷に来た用向きを訪ねると、家老の三太夫を訪れてきていると言う。門番は失礼があっては大変とあわてて案内をしている。これも羽織、袴のご利益であり、これで八五郎は安心して屋敷内に入れることが出来た。

若し、八五郎がいつもの普段着のまま来ていたら。門番はいくら八五郎が妹のお鶴の方に会いに来たたと言っても、屋敷内に入れなかったであろう。 屋敷からのお呼び出しの間に立ってくれた大家がさすが町役であり、当時の常識を知る人であったから、武家の屋敷に出入りする時はどのような服装が適切であるか、弁えていたから、八五郎一家の幸せにつながることであり、八五郎が事前に目をつけていた自分の家の箪笥にあった羽織、袴を貸してくれて送り出して呉れたのであろう。

「火焔太鼓」の骨董屋の亭主も古臭い太鼓を担いで、お屋敷に上がる時は袴を着けていかねばならなかった。当時は武家と取引をしようとする商人は必ず羽織、袴を着けなければならないという定めがあったという。

「御慶」では富籤に当たった八五郎が、諸所に新年の挨拶に行くために、羽織、袴を古着屋で買い求め、正月元旦を待ってあちこちに「御慶、御慶」と言って歩く噺で、羽織、袴はお祝い時の正装なので、そんな恰好をして喜んでいたのであろうが、着慣れないものを着て騒いでいる八五郎の姿が面白い。

「普段の袴」に出て来る武士はどんな袴を着けて町中を歩いていたのであろう。 墓参の帰りに寄った古道具屋の店先で店主と目に入る品物を見ながら、話している内に煙草の火を袴の上に落としてしまい、店主が慌てるところを普段の袴だからと鷹揚なところを見せているが、これを見ていた、八五郎が安い煙草で真似をして見るが、「鵜の真似をする烏」の例えの通り失敗する噺になっている。
これも大家さんの借り物の袴だったが、当時の大家は袴の一枚や二枚は貸せる余裕があったのであろう。
羽織や袴を着けていることが武家に立ち入る一つの要件になっていたのは何故なのだろう。

日本の昔、律令制が施された頃にお上は役所に勤める官人に、麻の白布で作られた袖のある浄衣と下は今の短ズボン風の膝下まであるはき物(これを袴と言った)を着けさせた。この頃一般の庶民は貫頭衣という今の襦袢の袖のない膝ぐらいまでの衣料を着て、日常の生活や農作業を行なっていたという。

このため、庶民がしかるべき所に赴く折は、膝下が隠れるように、腰の周りに布を巻き、あたかも今のスカートのようにして、膝下を見えないようにしていたという。 
段々律令国家が整備されていくと、袴も下に長くなって行き、踝の辺りで、紐で結んでいくような形になってきたという。

更に武士階級が天下を取るようになると大紋や素襖があらわれ、廊下を引きずるような長袴が支配階級の人々の間で使われるようになったり、裃(かみしも)と言う上〈かみ〉と言う肩衣(かたぎぬ)、下(しも)は袴という上下一体の服装が出て来て質素の内にも凛々しさが偲ばれる姿となった。

しかし、上と下が同一の柄でなければならないという決まりも、下の袴の裾が絶えず足元にあるため、汚れが激しく、下の袴だけ取りかえる必要が出て来て、別々の柄や生地でもよいことになった。
更に、肩衣の下は小袖の着物を着ることになるが、袴はその小袖の丈に合わせてつくられるが、これでは股繰りが浅くなり、乗馬に適してない。それで足の入る内股側に深いマチをつけ股繰りが深くなり、馬に乗りやすくなった。これを馬乗袴と言った。

肩衣から離れて独立した従来の袴は「平袴」と言った。当初は細い襞があるだけの袴だったが元禄期になると綱吉に召し出された仕立て同心の池上弥左衛門が弥左衛門裁ちという細かい襞を両膝の中道に寄せる「寄せ襞」方式にし、袴の両脇から手を入れて、左右に拡げて坐れるようにした。

しかし、これではまだ立ち居に不便なため、その後広島屋という神田三河町の仕立て屋が、「二の襞開き」と言う形を考案し、坐ると自然に扇のように袴が広がるので大いにもてはやされたが、これが現代にも採用されているという。

袴にはこの他「野袴」という裾に黒ビロードのふち取りがつけてあり、裾が細身になっているもので、駕篭に乗るのに適していたという。ご用達の商人が江戸城に入るときは縞の野袴をはいて、武士とは異なる恰好をした。
また、裁付袴(たっつけ袴)と言う今の大相撲で呼び出しがはいている腰の脇が大きく開いて膝から下が脚絆になっていて、さばきがよく、昔の大名などは普請場の視察の時などに皮製のたっつけ袴をはいて行ったそうだ。

そもそも、江戸期には元禄の頃までは、まだ、股引きはなかった。町の職人は室町時代にスペインから入ってきたカルサオというものを真似して作られたカルサン(伊賀袴)をはいて仕事をしていたという。 大工、料理人、髪結、掃除の下男等が木綿の生地で作られたものを着、山に入る木樵や狩人は皮のカルサンをつけていた。後になり武士も着るようになり、旅行や仕事の視察などにも着用するようになった。これがたっつけ袴の前身ではないかと言う。

今の時代は袴を着る時は殆どない。稀に袴をつけている姿を見るのは相撲界の行事の時であろう。
年に6回、東京の両国を中心に名古屋、大阪、福岡の本場所に見ることが出来る。初日や千秋楽の挨拶の時の幹部たちのそろっての羽織、袴姿や場所中の行事や呼び出しの素襖姿やたっつけ袴、検査役の平袴姿がテレビを通して見られる。その他、歌舞伎や日本舞踊を演ずる人達の袴姿、剣道の時の選手たちの姿、それに落語、浪曲、講談の口演で見せてくれる袴姿等、時々日本の昔の武士たちの様子を髣髴させてくれる。

しかし、素人の我々が袴を着けるのは結婚式の婿さんになった時とか、何とか勲章を貰うような時とか、極く一分であろう。今は普通は袴を着けるようなお祝いの時は、洋装が主体でモーニング服を着るのが一番の正装になっている。

でもこれは着る人の社会的価値を表わすものではない。大臣でも国会議員でも、役人でも、会社の社長でも社員でも其のモーニング姿に差はない。
昔は本来なら平等たるべき人間を生まれや育ちで区別し、士農工商と分けて、武士階級だけを優遇し、他は食から衣服まで制限を加え、其の自由な動きを抑え込もうとしていたが、段々時代が動き下層階級の人達が力を得るようになると、一定の要件を満たせばある程度の動きは認めるということで、衣服などでも羽織、袴を着けていれば出入りを認めるとか、商売を許すとかの不条理な面があった。
いまは羽織、袴を着けなければ駄目、モーニング服を着なければ入ってはならないということはない。勿論、時と場所により、礼儀のため、それ相当の衣裳をつけることは当然であろうが、あとは常識で判断すればよいのである。昔は物が人を動かすことがあって、噺は面白く出来ていたのだろう。であるから「妾馬」が生まれ、「御慶」があり、「八五郎出世」」が出来、形を得ただけで威張って歩く主人公が可愛く感じられたのであろう。

平成20年8月
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2008年08月01日

【088】羽織の噺と話(鈴木和雄)

昔は人が旅に出るに際し,防寒,防風,防雨、防塵のために道中用の衣服として、上っ張りの身丈が普通のものより短いものを着て、それが胴服と呼ばれた。この上っ張りの部分は帯をすることなく放り(ハウリ)着ることから「はおり」となり、当て字として羽織が生まれたという。

胴服は道服とも書かれているそうであるが、これは医者、僧侶、修行者が着る道服とは異なると言う。道服は後に「十徳」と呼ばれる衣服に変っていくが、羽織はその十徳が発展したものだといわれている。

この胴服は着脱が容易であったため、武家の上級者にも用いられ始め、段々華麗なものになって行き,戦時における鎧の上から着る陣羽織になったり、馬上で着る「ぶっさき羽織」という背中の縫い目が下のほうで割れており乗馬の時や刀を差しているときに鞘が障害にならないようになっていたという。

しかし、江戸初,中期は羽織はそもそもが胴服が少し上等になったもので,閑居時に室内で着る私服であるから,客に会ったり、公式の席に出る時は着ることは許されなかったそうである。
その当時の羽織は生地が羅紗、ビロード、革、紙子、鳥毛が使われ、割合、柄なども変化に富み、美しいものも作られたそうだが、中、後期になると、段々、色もくすんだものが選ばれるようになり、さらに必ず家紋をつけ、準礼装として使われるようになると、黒に集中していったと言う。

幕府の将軍が遠行をする際は御徒組頭は茶縮緬の羽織、部下の御徒侍は黒縮緬の羽織を着て供揃いをして行ったという。
そして江戸後期から末期になると、これまで武家の上級の武士達は公式には大紋を着たり,素襖(すおう)と言う大仰な服装から、小袖を着て裃と言う肩衣、袴を着けた衣裳になり、更に羽織,袴の恰好も認められるようになり、紋付の黒羽織は社会的にも昇格して行った。

一方、民間でも着物は小袖を着て生活していたのだが、当時でも働かずに暮らせる旦那連中は着物の上に羽織を着て帯をすることなく防寒、防風、防塵のために はおっていたという。この時代は民間でもこの羽織形式の衣服は礼装と認められては居ず、客に会う時は羽織を脱いで行くのが礼儀だった。しかし、武士の礼装化と合わせて民間でも黒紋付羽織が使用されるようになり、婚礼、葬儀,おめでたい会合には羽織を着て行くことが礼儀とされるようになった。

羽織を着ることが出来るのは、生活に余裕がある金持ちのシンボルと考えられていたから、村の寄り合いなどで羽織を着ているか、いないかで村内の立場がわかる、標みたいなところがあったようだ。

そこで「金の大黒」では羽織の所有者が長屋に一人しか居ず、大家の息子が金の大黒を掘り当てた祝いの席に招かれて、一枚の羽織を廻し使いする話が演じられていたが、実際、昔、田舎では祝い事があった時に、貧乏百姓の家に羽織などがあるはずもなく、何処からか借りてきた一枚の羽織を廻して使い、祝いの挨拶に行かざるをえなかった。

「羽織の遊び」では金のない連中が若旦那に女遊びに連れて行ってくれとねだると「羽織ぐらい着ていかねばだめだ」と言われ、羽織を持っていない熊公は大家の家に借りに行くと,おかみさんに「祝儀か不祝儀でないと貸せない」と言われ、葬儀だといって近所の人を次ぎ次ぎに死なせてしまう。 これも羽織を持ってない男が、持っているふりをして色街でもてようとする話。

ところで、当今、噺家さんが高座に上がるときに羽織を着て出てくるのも、お客に対する礼儀を失わないようにという意味から最高の衣裳をつけて出てくるのであろう。寄席や落語会では下働きをしている前座さんが「開口一番」と言う形で練習のため、高座に上がり、噺を聞かせてくれる時があるが、この様なときは前座さんは羽織を着られないそうである。まだ修業中の身であるからだろう。

噺家さんは羽織を着て手に扇子、懐に手拭を持って高座に出て来て、座布団に座り、そろりそろりと話を始めるが、先ずは今日来場のお客さんへの入場の御礼とか、お世辞とか、寄席や落語会に来るまでの町の様子、昨今の社会の状況への不満,それに一、二の小噺を枕としてやっと本題の噺に入って行こうとするが、この時にやおら羽織を脱ぎ始める。そしてこの羽織を自分の後ろの床の上に目立たぬように置いておく。

先代金馬さんの随筆のなかに「寄席ではこの時に楽屋近くまで放り投げ、次の出演者が来た時に前座さんがこの羽織を引いて現在の高座の人に知らせるようになっていた」という。そのまた引き方が難しかったとも書かれていた。

ところが演者さんが本題に入っても羽織を脱がない時が時々ある。これは後の段取りを考えて意識的に脱がないのだそうだが、先代金馬さんは「逆に意識して脱がないといけない例を言っている。「三人旅」の噺では本題に入る前に脱いでおかないと、馬に乗ってしまってからではどうにもならないから」と言っている。

この他、金馬さんが羽織を脱ぐ形でうまいと褒めている噺家さんで(橋本)円馬師がおり、「夢金」の中で船頭が蓑を脱ぐ時の恰好を羽織を脱いで擬して雪を払ったようにして自分の脇においていたと記している。また街中で友達と喧嘩した時に始める際に「この野郎」と言い掛けながら羽織を脱いで行くと言うようなこともあったそうである。

「佃祭」でも娘が吾妻橋で助けてくれた旦那と共に家で亭主の帰りを待って居る時に、表から亭主が帰って来なりに浴衣を脱いで、家の中に放りこんで行くが、これを羽織を脱いでこの情景の忙しい様を表している。
本題の導入から随分長い時間がたってやっと羽織を脱ぐときがきたのである。


先日も菊之丞さんの「元犬」を見ていたら、人間になった白犬のために桂庵の旦那が自分の羽織を脱いで、新人間に着せ掛けている形を見せていたが、これは本当の羽織と噺の羽織が全く一致してよかった。

また,市馬さんの「掛け取り」でも、相撲好きな借金取りが来た時に、これを迎え撃つ八っあんが、やおら羽織を脱いで相撲取りの真似をして借金取りを追い返している。これらは羽織が効果的な小道具として使われていることになろう。

昔は芸人の羽織は黒いものと決まっていた。黒い生地に白い紋を浮き立たせることにより何んとなく厳粛なものを感じさせるものがあるが、噺を聞いていて羽織を脱ぐタイミングをどのような時につなげているかを想像するのも楽しみのひとつであろう。

平成20年8月
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2008年07月01日

【087】若旦那と勘当(鈴木和雄)

今の世の中は核家族とか言って、子供は親から離れて,夫々一家族を持って、各々の分野で立派に働いている。親も子供達を将来、自立出来るように、また健全な社会の一員として貢献できるように教育し、努力している。であるから余り家系を継ぐとか,家名を揚げるとかということには気にしていないようである。

江戸時代は家が大切で、殊に武家の場合は幕府や藩から給される家禄は全て家に下されていたものであるから,家系が絶えれば、全てストップされ、残された者たちは路頭に迷うことになる。そのため先ず子を沢山作り、しかも家を継ぐ中心となる男の子を育て、長男が駄目なら、次男、三男と何とかして家系と家禄を絶えさせないようにしていた。

どうしても男の子が居ない場合は養子を迎えてでも家が潰されないようにして、家禄を守ろうとした。
町家の場合はそんなことは無く、皆、実力で這い上がった世界であるから、その本人が一生懸命稼いだものを蓄え、それを子や孫に残すことが家を栄えさせる基だと思っていたから兎に角、働きに働いて財産を残すように努力したのである。

しかし、噺に出てくる商家の息子達、所謂若旦那達は親のそんな意向とは関わり無く、親が稼いだ金を湯水の如く使い、下手すると家を潰してしまう輩も出てくるようになってしまった。実例を言えば、紀伊国屋文左衛門があれだけ稼いだ財産を子供の代になり廓通いに明け暮れして、全部無くして紀伊国屋はあえなく雲散霧消してしまっている。

噺の若旦那もそう成り兼ねない連中が多数出てくる。そもそも若旦那とは、商家の嫡男が15−17歳で成人し、親戚、縁者が将来その商家を継ぐことを認め、取引先にも了解を得た上で、若旦那と呼ばれるようになる。

武家のように成人式を終わり、主家に届け出て,初めて将来その家を継ぐことを認められるというほどの格式ばったことは無かった。
そんなに皆に祝福されて、次の後継者として認められて若旦那になっても一旦、茶屋の酒の味を覚え、廓に行って女と遊ぶことを知ると、元々苦労を知らないで育った人間だから、金の有り難みを知らず、使うことばかりを考えている。

こうなると親の忠告を聞くどころでなく、親戚が集まって開く親族会議の席で大見得を切ってしまう。「お天道様と米の飯は付いて廻らあ」とばかりに啖呵を切り、親の勘当を受けて、家を飛び出し、今までの甘い言葉を信じて花魁のところに行って見るが、  金の切れ目が縁の切れ目とばかりに放り出されるのは皆さんご存知の通り。ここから若旦那の苦労と滑稽話が始まる。
噺に出てくる若旦那には色々なタイプがある。私達が一番目につくのが、親から勘当されて何処にも行く所が無くなり、居候をしている若旦那である。

現代は勘当と言う法的な措置は無くなり、余り身近な言葉ではなくなったが、江戸時代は一家のうちで子供が不行跡な行為があると、親がその子を勘当することがよくあったようである。この勘当は親が自分の子をその家から追放する行為であり、親族関係も保っていられなくなる。所謂、久離の一種で追出久離といった。

この勘当は口頭又は文書で言い渡した程度では、軽い勘当で内証勘当と呼ばれたそうで、法律的効果は発生しないが、正式に一定の手続きをとり、江戸の町奉行の言上書に登録されると本勘当(重い勘当)となり、廃嫡され、人別帖からも除外され、所謂、無宿者にされてしまったと言う。

しかし、勘当された者が悔い改め、素行が直った時は、親が役所に帳消しを願い出ることにより、元の状態に復帰することが出来たそうである。
噺の若旦那はどうもこんな本勘当にいたるような人はいなかったようだ。

「お世継ぎのつくりかた」鈴木理生著によれば、商家では男の子にはあまり期待をかけず、娘を持つことで良しとしたと言う。優秀な息子であれば、勿論この子を育て、後継ぎとすることは願っても無い幸せだが、しょっとして道楽を憶えた息子にでもなったら、そんな息子は当てにせず、娘が居たらこの子に養子を迎え、後を継がせることの方が家の発展のためにはいいと考えていたそうである。

この為、店の手代や若い番頭からこれと目星しい者を密かに選び、育てていったという。
一方、息子には金を使えるだけ使わせて、最後に勘当と言う形で、家から追放してしまうという、むごいことも行われたということである。

榎本滋民氏によれば「廃嫡、無宿と言う重リスクを自覚しながら,ちやほやもてはやされるままに剣の刃渡りのような道楽を続けるくらいでなければ、筋金入りの「ばか(若)旦那」といえないのではないか」と述べておられる。

私達がよく聞く「唐茄子屋政談」「湯屋番」「船徳」「紙屑屋」「へっつい幽霊」に出てくる若旦那連中はみな、親に勘当され、家に居られず、居候をしながら、食うだけは細々
米の飯を得ることは出来るが、もう吉原通いは出来ない。「よかちょろ」の若旦那も噺の終わりの方で勘当させられている。「火事息子」の若旦那も臥煙となり家を出ている。なんせ家の仕事をやろうとしないから親から勘当同然の扱いをされている。

勘当に至らないまでも親が稼いだ金を惜しげもなく使い、酒に女にと遊び歩く若旦那は噺の上で悲喜劇を演じてくれる。
「二階ぞめき」は番頭の発案だが、二階に吉原と同じ構えの町造りをやってもらい、外の放蕩は止んだが、家の中で一騒ぎ。「干物箱」の若旦那はすきあらば、声色のうまい幇間を使って遊びにいく算段ばかりしている。

酒と女ばかりが若旦那の遊びかと思ったら「七段目」のように芝居狂いの若旦那、浄瑠璃気違いの「義太夫息子」。
「山崎屋」の若旦那の台詞に親父が亡くなったらこの財産は俺のものだから、そのときは大いにやろうと番頭に言っているが、こんな若旦那が旦那になってもちゃんと店の経営が出来ず、遊ぶことばかり考えていて、金遣いが荒いと店を維持することが危ないこととなる。

そこで家と店を守るために、番頭や手代たちが、その家の親戚、縁者と相談して、そんな旦那は追放して、次男等がいればその人に跡を継いでもらうか、居なければ養子を迎えて店を守って貰うようにしたと言う。

しかし息子が何人居ても「三人息子」「片棒」のようにそろって放蕩者ばかりだと、親もなかなか安心して死ねないだろう。

当の若旦那は金を使うわけではないが、親が色々心配をしてやらないと治まらない若旦那もいる。色恋の話で心配をかける噺に「崇徳院」、始めのうちは色恋が無くて心配をかける「明烏」の息子、その内大変なことになるがそれはまた後の話。「千両蜜柑」は蜜柑一個で大金が要り、「擬宝珠」は緑青を舐める恐れがあり心配だ。「へっつい幽霊」の元若旦那銀ちゃんの親は幽霊に呪われてはいけないと300両の金を出している。
「花筏」の素人力士、千鳥が浜も親から花筏と対戦したら勘当だと諌められている。

噺の若旦那というのは女の尻を追いかけたり、茶屋の酒を飲んでいたり, 廓に入り浸りの連中ばかりかと思っていたら、案外真面目な若旦那もいるのだ。
「火事息子」の中で風邪を引いた親に代わって火事見舞いに来る紀の国屋の若旦那、「六尺棒」の中で親父さんが真面目の見本としてあげた隣の清六さん。「宮戸川」の将棋にばかり凝っていて毎晩帰りが遅い若旦那、締め出しを食っていて慣れっこになっているが、酒と女に縁が無さそうである。
今は一寸した会社の社長の息子でも学校を出ると、余所の会社に就職し、そこで仕事の勉強をして、相当の経験を積んで経営者として一人前と認められて,始めて親父さんの会社に入り、そこの経営に携わり、社長として育てられて行くのだが、昔でも大店では同じような教育方法だったのだろう。

噺に出てくる若旦那は親が稼いだ金を惜しげもなく使い、遊び放題で、家の仕事を継ぐ気概も無く、金が無くなって始めて目が覚め、明日の飯にも困って自分のこれまでの生き方に涙するのだが、勘当前でまだ戻れれば、家業を継ぐために汗を流すことも出来るが、本勘当までされてしまうと容易に家に戻ることもままならず、若旦那の地位を捨て幇間にまで落ちぶれて「太鼓持ち揚げての末の太鼓持ち」のような形になってしまう。

今はもうこんなだらしの無い若旦那は居ないであろう。社会のシステムがしっかりしてきているから、放蕩者は容易に受け入れてもらえないようになっている。


平成20年7月
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2008年06月01日

【086】何でこう読むの(鈴木和雄)

よく無筆の人の噺の枕に話される「たなという字」という小噺がある。友人から借りた羽織を返しに行った八五郎が、友人が居なかったので、羽織を置くと共に置手紙をして帰って来てしまう。 後で友人がその手紙を読んで、怒って八五郎の所に来て、「何故大事な羽織を質に入れてしまったのだ」と問いただすと、八五郎は間違いがあるといけないから手紙を書いておいてきたのだという。その手紙をもう一度見ると「七におく」と書いてある。八五郎は「七夕」の「七」は「たな」と読むから、棚の事を指すのだと思っていたのである。友人の方は「七におく」とは質屋に質入するものだと判断して八五郎に詰問に行ったのだが、とんだ八五郎の無筆振りを表わした失敗だった。

今でも私達は「七夕」と書いてあれば「たなばた」と読み慣わしている。何故こんな読み方をするようになったのであろう。先日のNHKのラジオの言葉の読み方の解説の中で「七夕」は元々「たなばた」と読むものでなく、本来は「棚機」と書くべきもので、織姫が棚機で布を織る姿を表しているものだったが、七月七日の夕辺に天の川をはさんで織姫星と牽牛星が遭うと言うロマンチックな話が出来たところから「七夕」を「棚機」を混乱して読むようになり七夕=たなばたが定着し、私たちもそのまま読むようになったのだろうという。

同じ様に読み慣わしている言葉に「美人局」という言葉がある。落語では「姫かたり」という噺があるが、年の暮に浅草の境内で供侍とご老女を連れたお姫様がある店に寄っている最中に、急病になり倒れる。そこで医者の家に担ぎこまれるが、医者が診察をしようとして、姫様の胸に手を入れた途端に供侍や老女が騒ぎ始め、みだらな事をしようとしたとして、金を要求する。医者は大金を払うことになるが、これも一種の「つつもたせ」で、漢字で書けば「美人局」となり、今、書いているこのパソコンでも、ストレイトにそのまま出てくる。

これも私達が読み慣わされた文字であるが、どうして「美人局」と書いて「つつもたせ」と読むようになったか。インターネットの「語源由来辞典」によれば「つつ(筒)もたせ」には元々は女が男を誘惑して金銭をゆすり盗るという意味はなく、本来は博打の用語で、博打で使う「さいころ」を指して「筒」と言ったもので、いかさま博打で細工した筒を使う事を言ったそうである。一方「美人局」とは中国の元の時代に行なわれていた犯罪で、公娼が青年や少年を誘い、事に及ぼうとした時に、情夫と称する男が出て来て、青少年から金品を巻き上げる事を指したもので、日本語の「筒もたせ」と通じる所から「美人局」と書いて「つつもたせ」と読むようになったという。これも私達が読み慣わせられているものである。
この様に中国から来た文字が、そのまま日本で読み慣わされているもので、落語の題名になっているものに「木乃伊とり」という噺がある。お茶屋に入り浸りの若旦那を何とか家に戻そうと大旦那が苦心し、番頭や出入りの棟梁が頼まれて茶屋に行き、連れ戻そうとするが、いずれも若旦那にとりこまれ、まさに「木乃伊取りが木乃伊になる」状態に陥っている。この話を聞いて権助が志願し、田舎言葉丸出し、いつもの汚い恰好で茶屋に行き、説得を試みるが、若旦那は下男だと馬鹿にして応じない。しかし、強気な権助の態度に一時は若旦那も帰る気になるが、最後は権助自身が木乃伊になってしまう噺.

最近ではミイラと読みやすいようにカタカナで書く例が多いが、この言葉も中国元代の古書にこのまま書かれており、ポルトガル語とかオランダ語の漢訳の言葉でmirraとかmirreの音訳になっているそうである。英語ではmummyというそうだが、木乃伊の音に一番近そうに聞こえるのだが、皆さん、どうですか。私達日本人は中国の昔の音訳された「木乃伊」をミイラと読みなれた言葉として、今後も使っていくのだろう。

地名には古くから言い慣らされた読み方があり、どうしてこんな読み方をしているのか不思議に思うことがある。円歌さんが噺家になる前の話をする時、鉄道学校の入学試験で「駅名に振り仮名をつけよ」という問題があったが、ある駅名が、どうしても解らず、隣の生徒の答案を覘いたら試験官から「のぞくな」と言われたので「のぞき」と振り仮名をつけておいたらこれが正解だったという話をしている。

この駅、「及位駅」という山形県東置賜郡の秋田県に接する奥羽本線上にある駅で周囲は背の高い山に囲まれているという。「及位」と書いて、どうして「のぞき」というのかが、インターネットをのぞいてやっと解った。それによると及位駅の写真が紹介されており、その駅の入り口に読み方の所以が書いてあるという。いわく「山岳修業が盛んだった時代に山形県と秋田県との境に聳え立つ山に篭った修業僧たちが「のぞき」と呼ばれる「断崖から宙釣りになり、断崖にある横穴をのぞく修業を行なわなければならなかった。そして後にそのうちの一人が京に上って高い位を授かったという話から「のぞき」の修業を経て高い位に及んだということで「及位」を「のぞき」と呼ぶようになったそうである。円歌さんは駅の読み方が珍しいのであの小噺を作られたのであろう。

総じて地名にはその土地の昔からの呼び名をつけているところが多い。北海道のようにアイヌの人達がつけていた名前を明治になり、漢字化したものが多いから、長万部や然別、標茶のように読み方や書き方にもまごつくこともある。

古典落語には昔の文人が作った噺があり、その当時の言葉が使われていることが多い。
「花見の仇討ち」などでも「もうきの ふぼく うどんげの」という台詞があるが、何のことか判らないので聞き流しているが、字で表わすと「盲亀の浮木 優曇華の」と書く様であるが、辞苑で見ると「盲亀の浮木」とは出逢うことが容易でない事、又は逢い難い人に仕合せに出逢ったことであるとある。また「優曇華」とは印度の想像上の植物で三千年に一度、花を開くもので、その時は金輪明王が出現するという伝説があるそうである。要するに尋ね探していたかたきにやっと逢えたという事を表現した言葉だと言う。

「金明竹」に出てくる中橋の加賀屋佐吉の使いの人が述べている口上は、今の私達のような骨董品に何の知識もない者にとってはお経を聞いているような気がするが、難読の品があり、なかなか解りずらい。「裕乗、光乗、宗乗」という三人の目貫師の名前やら、刀の柄に使う木質の堅い銘木の「鉄刀木」(たがやさんと読むそうである。)、寸胴切り(ずんどきり)という竹製の花筒、能古(のんこう)の茶碗は江戸前期の楽焼の名人が作ったものだそうだ、等々、私達には読みにくい文字で、慣れて、読み方を憶えておくしかない。

また、町の物売りの小噺の中にところてん売りの売り声が出てくる。「ところてんや、てんや」と言って売っていると説明されているが、ところてんは漢字で「心太」または「心天」と書く。 日本語源大辞典によれば平安時代に凝海藻で作った食品をコルモハといい、俗に心太の字を当ててココロフトといっていたという。このココロフトが室町時代にココロテイと読まれるようになり、このココロテイがさらに訛りココロテン、更にトコロテンになったという。「テン」は「太」の字を「天」に誤って書いたものかとも言っている。
私は「心天」は「こころてん」で「ところてん」と音の上で似ているから使われているものかと思っていたが、こんなに昔から使われていたものとは思わなかった。

談志さんがかって「へっつい幽霊」の噺の中で「へっつい」の説明を始めたら、観客に若い人が多かったせいか、判ったような、判らないような顔をしたのであろう、師匠は途中で説明をやめ、かまどのようなものだと言って、噺を続けていたが、確かに今は電気釜があり、ガスレンジがあって短時間で飯も惣菜もできあがる。薄暗い台所で真っ黒なへっついやかまどにかじりついて食事を作る姿は想像できないであろう。地方に行けば民族館のような所に古い農家や町家の見本が見られるが、こんな施設を覗いてもらわなければ落語の話は解らないかもしれない。

「へっつい」という字も「かまど」の字も辞書を見ると「竈」という同じ字であるが今は読むことも書くことも難しくなっている。同じような字に「笊」(ざる)という字ある。
関西の松鶴さんの噺に「米揚げいかき」というのがあるが、この「いかき」の字も「笊」を書く様である。


家の中の用具や器材を表わす言葉や字はもう書けなくなって来ている。書けなくとも不便は感じないから余り勉強することもない。ワープロやパソコンがあれば辞書のソフトを使って書くことは出来ようが、書いても読み手が読めなければ無駄な漢字になってしまう。
そうゆう意味からも難読文字は段々使われなくなってしまうのだろうか。


平成20年6月
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2008年05月01日

【085】寄席の木戸銭(鈴木和雄)

悋気の噺の枕で、よく夕食を済ませて、旦那が寄席にかこつけて、おんなの所に行こうとすると、おかみさんがやきもちを焼いて快く送り出しては呉れないので、家で酒を飲みだし、いつもこれが続くと、結局は酒による病気になってしまうという例と、逆におかみさんが旦那の外出を気持よく送り出そうとするばかりか、自分を含めて、女中や小僧まで一緒に連れて行ってくれとねだり、つまるところおかみさんの機転で旦那の健康が守られるばかりか、使用人にも楽しみを施すことが出来、更に寄席も潤うという話をしている。

昔の寄席はこの様に夕食を済ませて出かけて行っても充分間に合うほど身近にあったようだ。今のように映画もなし、テレビもなく娯楽施設が不十分な時代は簡単に行ける娯楽場は寄席ぐらいしかなかったのであろう。勿論、吉原はあり、矢場(揚弓店)もあったが、これは若い人の遊び場で大人のゆっくりする場ではない。

他に歌舞伎が庶民の楽しみの一つであったが、これは寄席ほど手軽でなく、朝から晩までかかる遊び場でしかも木戸銭が寄席に比べれば格段に高い。そんなに簡単に行けるものでもなかったようだ。それに芝居小屋の数が少ない。

その点、寄席は昔の町内に1軒や2軒は必ずあった。小木新造著「東京(とうけい)時代」に拠れば明治の初期の話であるが、当時の江戸改め東京区域の中に125軒の寄席があったという。この本に出ている東京日日新聞の記事の記録に当時の東京の各区に約4−10軒の寄席があり、これは有名なものだけを書いてあると言っているから、これらの他に小規模な寄席が多々あったようである。

この新聞記事によると、私達が今、知っている有名な寄席では上野の「鈴本」や「本牧亭」が記されており、この両亭とも古くからあったのだなと感心させられる。前述の著書に拠れば、寄席は江戸の文化年間から天保年間にかけて徐々に増えていったが、一時、天保の改革により減らされたことがあったが、安政年間になると落語寄席だけで172軒、その他に講談の寄席もあったという。

幕末になると維新の大騒動で落語どころでなく、噺家も芝居の連中と共に地方周りをしていたが、維新が治まると、以後また増え始め、明治3年には120軒、明治中期には255軒にもなり、有名な噺家は1日に昼夜合わせて5軒もの寄席を人力車に乗って駆け巡っていたという。


寄席が如何に庶民に愛されていたかはその入場者が多かったことが示している。小木氏の著書には明治12年の年間入場者数が340万人であると記されている。この期の歌舞伎の入場者数は5分の1だったという。これは勿論、木戸銭の相違によるところが多いのではないかと想像される。

歌舞伎は朝の7時から始まり全部見ようとすれば約10時間から13時間かかり、寄席の昼夜各4時間と比較すれば楽しむ時間が全く違う。しかも歌舞伎の場合は桟敷席に入り、時間が来れば、弁当を取る必要があり、その為に出方にチップを出さなければならないと言うこともあり、歌舞伎見物はある程度の懐に余裕がなければならなかった。

その点、寄席の方はそんな心配もなく、夜などは夕食を摂ってから行ってもいいから食事代はいらない。それに桟敷席の4人では狭くてぎこちないが、寄席は空いていれば寝転がって聞いていても誰も文句を言うものはなく、心やすく楽しめた。

木戸銭では寄席と歌舞伎では明治期では約8倍の差があったという。
江戸時代は寄席の木戸銭は割合大きい2階建ての200人ぐらい入る寄席は元禄から文化、文政期には32文だったというが、天保期になると、色物が入って来て48文になったという。今の金にすると1文が16円ぐらいだから512円から672円ぐらいだろうか。

一方、歌舞伎の方は「蔵丁稚」に出てくるような芝居好きな小僧たちが見に行く席の土間札で1日見をすると上席で132文、下席で100文だったと言う。今の金で2112円から1600円ぐらいか。

他方、上客になると桟敷席に入ることになるが,1桝が25匁で、1両は60匁であり、1両10万円で換算すると、約42000円となり、1桝が4人入るから1人10500円となり、現代の入場料とそんなに変らなくなる。(今、歌舞伎座で桟敷席17000円/人、最低席で2500円/人)

もっとも前述のように弁当代や出方に払う費用を考えれば実際にはもっとかかったのであろう。この様な具合だから噺の「足上がり」とか「浮世床」「なめる」に出て来る芝居見物の観客たちは結構な金を使っていることになろう。

桟敷席と言えば相撲見物にも桟敷席がある。江戸の元禄期には相撲の桟敷席が43匁で一人分は11匁弱だったと言う。土間席は1人3匁だという記録がある。これを今の両国国技館の入場料と比較すると土俵の溜り席は1人14300円、桟敷A(4人席)は45200円となっており、1人11300円になる。先の江戸期の桟敷席の1人当たり18000円と比べてもそんなに高いわけでもなさそうだ。
当時の職人たちの代表である大工の手間賃は1日3匁で、少し上になると4匁2分というからまあまあだが、歌舞伎はなかなか容易には行けなかったであろう。芝居好きな小僧とても相当、小使いを貯めないと行けなかったはずである。

明治期になると寄席の木戸銭は小木氏によると明治12年1月に平均の所で東京旧市内で一人2銭6厘だったという。 同14年には3銭になったが、当時の大工の日当が50銭であったと言うから、寄席に容易に行けたが、左官の手伝いの人達は1日15銭ぐらいだったそうで、こうゆう人は寄席などに来る余裕もなく、ましてや歌舞伎などは手の届かぬところだったのだろう。

入場料だけで比べて見れば歌舞伎のそれは、ある芝居小屋の桟敷代(上等)で2円、高土間代(上等)1.7円、平土間代 一人25銭,下等、一人7銭―4銭であったそうだ。
芝居の平均入場料は年によって異なるが26銭から18銭だったそうである。
日銀の貨幣博物館に聞いたら、当時の1円は今の金に換算するには3000倍すれば目やすになると言っていたから、桟敷代の2円は約6000円、一人1500円と言うところだろうか。

寄席は木戸銭と下足代と座布団代を含めても5銭程度で済み、芝居を見に行くよりは安く上がり、しかも身近にある。自ずから観客数に相当な差が出てくる。
昔は寄席は都会地に限られており江戸だけでも200軒前後がいつもあり、庶民に娯楽を提供していたが、現在は逆に都会では東京で言えば定席では上野の鈴本、新宿の末広亭、浅草の演芸場、池袋の演芸場、それに国立演芸場となっていて、それに不定期に上野本牧亭、両国亭、日本橋亭などがあるくらいである。

数年前に円楽さんが建てた若竹があったが、敢え無くダウンしてしまった。今また笑のブームが来て,テレビなどで漫才やコミック・グループが盛んに騒いでいるが、落語の方は乗り損ねた感がある。しかし落語には地域寄席と言う地道な支えがあり、今は都会だけでなく日本中各地の集会所、店、寺等を利用し、割合定期的に落語会を開催している。
私達の大和田落語会もその一つであるがじっくりと、その内、名人となるであろう人達の噺を直にたっぷりと、江戸落語を楽しむことが出来るのは嬉しいことである。


平成20年5月
posted by ひろば at 08:21| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ